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シドニー旅行記 (2010.06.19-2010.07.05)


1.シドニー旅行の動機

 シドニーへは今回(2010.6.19〜7.5)で4度目(15日間)である。最初にシドニー旅行を思い立ったのは結婚40周年(2006.5.2)を海外で祝いたいと考えていたとき、丁度、長女が会社の長期出張でシドニーに6ヶ月間行くことになり、これに便乗することにした。往復旅費さえ工面できれば、何とかなるさと長女の出発後、数日して家内と成田空港からシドニーに向かった。

 1度目は、2006.4.21から2006.5.10の20日間、40周年記念も無事にホテル隣のスクエア・タワー48階レストランで祝杯を挙げた。また、オーストラリアにはなかなか、来られないと思いメルボルン、エアーズロックまで休日を利用して観光旅行に出掛けた。

 2度目は、1度目の帰国後、直ぐに格安航空券が入手できたことと、運良くまだ、長女が出張期間中であったことから、再度、2006.6.21から2006.7.7までの17日間、シドニーへと向かった。平成18年(2006年)は、37日間もシドニーでロングステイすることができたのである。

 1度目途中での帰国は、私の仕事の関係で帰国しなければならなかったことと往復航空券が28日FIXのためであった。1年以内のオーストラリア再訪問は、ETASの有効期間中なので再取得の必要がなく助かった。

 3度目は、2007.9.15から2007.10.12までの28日間の滞在であった。3度目もやはり、長女が2度目の出張中であったことと、貯まっていた長女のマイレージを利用しての旅行であった。主な観光は、首都キャンベラまでフラワーフェスティバルを見学した以外は、市内の博物館を隈無く見て廻った。


2.入国管理

 オーストラリアの入国管理は、厳しいと聞いていたが、幸いなことにいつもすんなりと通関できた。歳のせいかな〜?流暢な?●●のおかげか?入国管理官は、最後に、いつも「グード、ウェルカム・オーストラリア、ハブ・ア・ナイスホリデー!」と言ってにっこり。

 嬉しいじゃありませんか(笑)ただし、入国カードには正確な申告が必要なことは当然ですよ。

 ETAS取得について今回は、J-SUPPORT AUに依頼した。ここの会員になるとインターネットが無料になり滞在中は、重宝しました。ピットストリート325にあるシドニー支社に勤務しているT・Kさん(トラベルコンサルタント)は、若くて非常に親切な日本調美人です。シドニーに行って観光依頼をするときは是非相談して見て下さい。きっと満足できる計画を提示していただけると思いますよ。私も滞在中、平日の午前中は、メールチェックや株価確認のためと称して、楽しみに日参した次第。再度、シドニーに行くことがあれば、また、是非立ち寄りたい所です。

 インターネットといえば、QVB近くのアップル社でiPadの宣伝を大々的に行っており、店内に50〜60数台展示して自由に使用させていたのを活用させて貰ったが、ここもアジア系の人で賑やかなことは同じでした。


3.シドニー観光の日本人の近況

 シドニーの今回の第一印象として、数年前に比べ、日本人が少なく感じられたこと。

 それに引き替え中国・韓国・インドの人が多いのには驚かされた。世界の経済情勢のせいなのかは分からないが、東京の銀座以上に見掛けた。免税品店では、10年前は日本人がブランドを購入していたが今は駄目!今は中国人!と売店販売員が語っていたのが印象に残った。何と言えばよいか?

 日本人といえば、丁度この時期、ライオンズクラブの世界総会がシドニーで開催されていた。このときだけは集団で歩くライオンクラブの日本人の数組を見掛けた。

 今回、我が家族は、長女のマイレージを利用して航空券を手配していたが帰路は、7月5日まで取れませんということであった。その理由がライオンズクラブの総会が関係していたことが、現地に来て始めて分かった次第。お話できたライオンズクラブの方が、毎年総会は海外で実施され来年の総会は、カナダだと言っていた。羨ましい限りですな〜。

 シドニー滞在間、バス停や電車の昇降口の割り込みは当たり前、辺り構わず大声で話す賑やかな国の人達に間違われたくないので日の丸とオーストラリアの国旗のバッジを付けた帽子を被っていた。

 バッジを見て顔が合うとにこにこして「こんにちは」と日本語で話しかける現地の人も多くいた。

 オーストラリア人は、捕鯨反対のシー・シェパードなどの反日感情も見当たらず、スリや強盗などもなく夜間も安心しておれる都市です。道を尋ねると近くまで連れて行ってくれるほど優しい国民性をもっています。


4.宿泊ホテルと周辺観光

 ホテルは、ジョージストリートとボンドストリートのコーナーにあるアパート形式のホテル、ここには4回とも逗留した。

 調度品付きキッチンあり、洗濯機も乾燥機付き、コーヒー、牛乳も毎日無料サービスで日本から持参する日常品も少なくて済んだ。

ホテルの名称は、以前には、SAVILLE 2BONND STREET HOTELと称していたが、今回はMANTRA 2BONND STREET HOTELと経営者が替わって名称が変わっていた。

 ホテル内は、2LDKの広さでいつも清掃が行き届いており、3人が宿泊しても快適、さすが4.5星のホテルであって、応対も日本人スタッフはいないが親切且つ、オーダーには迅速に対応してくれたので助かった。

 いつも通訳は、長女がしてくれるのであるが、いないときは元パイロットの端くれの自分の殿様英語(キングズイングリシュではない和製英語)が結構通じるから不思議、相手は本当に理解できたのかどうか分からないときは、字引片手に身振り手振りで四苦八苦すれば大丈夫。それでも旅の恥は恥を掻き捨てての度胸一筋結構通ずるものでした。



 ホテルは、北に行けば、ロックスやオペラハウス、ハーバーブリッジにも5分程度で行けるウインヤード駅とサーキュラーキー駅の中間にあり、サーキュラーキー駅前には、いつも3組くらいの大道芸人が多くの人を集めて熱演していた。以前には日本人の大道芸人がいたが、今年は見掛けなかった。

ロックスには移住当初囚人が送り込まれて開拓したアーガイルカットなど鑿の跡が残っている。
また、休日にはフリーマーケットが盛大に行われることでも有名。





以前は、船でしか行かなかったノース・シドニーへ今回は、ハーバーブリッジを徒歩で渡ることにした。












 橋の途中にあるパイロンにも上ったが、頂上まではエレベーターがなく階段を歩いて上らなければならず、些か疲れたが頂上からの眺めはまた格別であった。手の届くところを遊覧ヘリが飛んでおり、ローズベイでの水上飛行機による遊覧飛行を考えていたが、その必要もなくなり取り止めた程の景観であった。
右の写真は、ハーバーブリッジから撮った一番好きなオペラハウスの姿







帰りは流石に疲労困憊状態、当然ながら一駅だがミルソンズ・ポイント駅から電車でウインヤード駅まで帰路についた。










オペラハウスからロイヤルボタニックガーデンを湾岸沿いに歩いてミセスマッコーリーズチェアに行くことができるが、かなり時間がかかった。
 いつもは観光客でいっぱいです。ちゃっかりと石の椅子に腰掛けて写真撮影する若いカップルが大はしゃぎですが、運良く誰もいない写真が撮れました。










更に道路沿いに歩いているとNSW州立美術館が見えて来た。見学料は無料、さっそく中へ入って見たが前回とは展示品が相当換わっていた。
 換わらないのはオーストラリアに移住した先人達の様子を描いた素晴らしい歴史的な作品です。
常時展示されているのであろうかまた会えた。










休憩後、道沿いに歩いてセントメアリーズ大聖堂前に出て、ハイドパークからシドニー病院(入り口に猪の像があり、鼻を撫ぜると幸せになるらしい?私も以前撫ぜたがご利益は?)、州議事堂,造幣局、ハイドパーク・バラックスを横目で見て、シドニータワーに来た。
 








シドニータワーには、前に1度登ったが、大勢の人でゆっくり見れなかった。今回も混雑しておりピット通りを散策した。
 QVBは直ぐ傍のジョージストリートにあることは言うまでもない。










シドニータワー入り口で不思議な模様をしたコンクリート壁面を見て早速写真撮ったのが右の写真。
これがコンクリートに皆さんは見えますか?
 どっかの党のスローガン「コンクリートから人へ」も形なしだ。
人形と踊る大道芸人



ロックス



アーガイルカット



ノース・シドニーから見たハーバーブリッジ



橋上から見たオペラハウス



パイロン上から見たシドニー市街



ミセスマッコーリーズチェア



NSW州立美術館



セントメアリーズ大聖堂



シドニータワー



不思議なコンクリート壁面


 ホテルを南に行けばQVBやダーリンハーバーが徒歩で10分圏内にある。


QVBは、建築後100年以上は経過しており、一時は解体されることになったそうですが、リニュウアルすることになり、今はシドニーを代表する建物となっている。内装品やステンドグラスには、往時の豪華さが偲ばれる。








ダーリンハーバーは、シドニーオリンッピクのときにヨット競技の拠点となったところで知られる。

QVB(クイーン・ビクトリア・ビルディング)



ダーリンハーバーのヨット


 中華街にも20分程度で行け、観光するには最適の場所にあるホテルでした。
中華街を抜けて進むとペイモント・ブリッジに出る。

中華街


カジノ(スターシティー・ホテル)に行くにはピアモント・ブリッジを渡り、交差点を右に行くと間もなく左側に見えてくる。

 右に行かずに真っ直ぐ進み、数分坂を登って、左に道なりに進めばフィッシュマーケットが見えて来る。 
 
 暇で時間が余る時にはフィッシュマーケットで早めの夕食を摂り、ゆっくりと時間をつぶしスターシティー・ホテルに入ることにしていた。
 

ピアモント・ブリッジ


 フィッシュマーケットで食事をする時は、野外のテーブルを利用した。
カモメが餌を求めて、近くまで近寄って来るのを見るためである。
 本当にシドニーにはカモメが多く、海辺ではどこでも見られるが可愛いものである。

フィッシュマーケットの野外風景


フィッシュマーケットは、築地の次に世界で2番目に大きいと言われているが、意外と小さい感じがする。

 店の中は、ほとんど中国からの観光客で占められていたのは言うまでもない。

フィッシュマーケットの外景


マグロや牡蛎の味は新鮮で美味しいが、ウニがチリ産と表示されていたのには、少し驚いた。
飲んだビールは、日本産のASAHIであった。

食べた海鮮物の一部




5.オーストラリア国内旅行

 平成18年の初回は、まだ若かったのでメルボルンとエアーズロックまで足を伸ばして3日掛けてオーストラリアの世界遺産である大自然を堪能した。メルボルンでは南太平洋のグレート・オーシャン道路を時速140キロ(その後判明したが、停車中速度計は40キロを指していた。)で疾走する女性日本人ドライバーの観光バスに乗っての8時間コースの日帰り観光、半分はスピード恐怖感に襲われていたのは間違いないが、途中停車して木上で寝ているコアラを眺めたときは、恐怖心も何処かへ吹っ飛んでいた。
アイランド・アーチウエイ



12人の使徒


 エアーズロックは、一泊して現地案内英語ツアーに申し込み参加、夕日の落ちる褐色から暗闇へと変化する雄大な大自然に魅せられたが、小蝿の多さには参った。しかし、ワインを飲みながら日本にはない地球の偉大さをしみじみと噛みしめたものでした。
エアーズ・ロック


 後日シドニーに戻り、ブルー・マウンテン国立公園のスリーシスターズへ、市内観光日本語ツアーに申し込みをして参加した。
スリー・シスターズ




6.市外観光のスポット

今回の観光スポットは、普段日本人が行かない所をと思い船でローズベイ経由ワトソンベイに行ったとき撮ったのがこの写真で日本の東尋坊の様なところである。戦前は要塞で入れなかったらしい。
ギャップブラフ


 帰りガーデンアイランドに寄航した折りに展望台(昔は無線室?)から見たハーバーブリッジ方向の写真です。
ガーデンアイランドからシドニー市街


 マンレイにも以前に足を伸ばしたが、雨が降り出し、船着き場周辺のマーケット観光だけに留まったのは残念であった。


7.カジノ

 カジノは、スターシティ・ホテル内にある。初回には少し遊んだ程度でトントンであった。2度目の旅行の時からカジノが面白くなり、帰りには空港の両替で日本円に換えるのが楽しみに成る程稼いだ。3度目はホテル代の半分以上は稼がせて貰った。

 しかし、今回は散々、丁度スターシティ・ホテルが改装中であり、規模も縮小されていて、改装資金の提供に寄与したことは間違いない。

 カジノの客は、以前いろんな国の人も現地の人もいたが、最近は大陸の人が殆どで、やはり地球規模での資産分配が歪なのが分かった次第。

 2度目と3度目のときにはマレーシアから来ていた中年姉妹と友達になった。毎晩楽しみながらキャッシュマンという台で夢中になっているのを見掛けが、今年は2回くらい出会って話をしたが、「全く駄目」と言って、それから来なくなってしまった。


8.軍人を大切にする国民性

 オーストラリアは、日本と違い軍人を大切にする国です。毎年4月25日はアンザックデイと言って戦没者を国民が慰霊の日である。この日は退役軍人も軍服を着用していれば電車・バスは無料と聞いています。また、国民挙って軍人を尊敬し、軍隊を誇りにする日なのです。

 シドニーのアンザック慰霊碑前でも行進は行われるそうです。

アンザック慰霊碑

 その他、また、シドニー市内には戦没者慰霊碑も沢山あります。










 碑文には「我々のために名誉の戦死を遂げられた方々のことは永遠に忘れません」と書かれています。戦没者追悼式で不名誉な言葉を宣う政治家のいるどっかの国と大違い!英霊が靖国神社で泣いています。

 魂を抜かれた日本人の国家への忠誠心の無さとこの日見たオーストラリア人の国家防衛の意気込みの落差の原因を早く除去しなければ永遠に日本の名誉ある国際的地位は、得られないものと感じた次第。

マーチンプレイスにある慰霊碑



上の慰霊碑の裏側

 今回は、初めてハイドパークからキングクロスを経てウー・ル・ム・ルーまで足を伸ばし軍港を一周してきた。綺麗に整備された施設である。写真を掲載すると軍の機密に触れるといけないので一枚だけに留めた。


軍港
 オーストラリアでは軍人を尊敬することは前述したとおりですが、3度目のとき首都キャンベラの戦争記念館に行った。内部には日本に関する零戦や日章旗も丁重に展示されており、軍国少年時代が思い出され思わず涙が溢れそうになった。何処で捕獲されたのかは分からないが、60数年前に命をかけて戦った先人がいたことの証が、南半球の地で見られるとは私は、なんと幸せなことか、しみじみと感じた次第。

シドニーを旅行して心残りだったのは日本人戦没者霊園のあるカウラの町(第2次世界大戦末期に日本人捕虜約1000人余りが、「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すことなかれ」と大脱走を企て、警備兵の銃撃により200人を超える犠牲者を出した戦争捕虜キャンプのあったところ)に行かれなかったことである。3度目のとき丁度、シドニーの日本人クラブの方々が9月にカウラの町まで慰霊で行かれるときにチャンスがあったのですが、バスツアーの余席がなく行けなくて残念でした。
 なお、日本人戦没者霊園は、オーストラリアから日本へ割譲された正式の日本領土です。オーストラリアは、他所の国の小さな島を不法に実効支配して我が領土だと主張することのない友好国です。

戦争記念館


日章旗


零戦


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