消えた羽根布団

          
 ヤクザ風の男

の男が野島さんに連れられて受付に現われたのは、晩秋の夕刻も遅い頃であった。すでに早い秋の日は西の山の端に沈み、茜色に輝く厚い雲は、やがて訪れる深いとばりを暗示していた。

肉質の痩躯に骨の突き出た、苦みばしったその顔は、しかし、黄色く汚染され、つい先日まで精悍であったろうその目は、早 生気を失い、やがて下される自己の運命に怯え、心なしか全身を震わせていた。
“肝、胆道系の悪性疾患による閉塞性黄疸” 少し経験のある医師であれば即座に確診する程の黄疸である。
「昨日から何も食べられなくなってしまって」 野島さんは喘ぎながら話しだした。「今日はもう吐くばかり」 「医者嫌いなんだけどね、やっと連れて来たのよ」野島さんの顔も引きつっていた。

島さんはここ数年来、胃潰瘍で治療中の、近くの神社のあたりに住んでいる人である。
聞けば、二人は既に三十数年来の内縁関係であるという。当時、男には妻がいて、男の子も一人もうけていた。その幸せな家庭を踏みにじり、妻を悲嘆の淵に沈め、子供を放浪の身にさせたのが、他ならぬ若き日の野島さんであった。

性疾患によるこのような患者は予後が悪く、恨まれるのが関の山で、到底一開業医が扱う患者ではない。そこで言葉を選びながら、他院の受診を勧めてみたものの応じる気配はない。おまけに先程まで明るかった前の道路もいつのまにか真っ暗である。
野島さんの「せめて点滴だけでもしてあげて」という声に押し切られて 仕方なく一夜の入院ということになってしまった。

            
二 肝性脳症

室で点滴を始めたものの一刻も早く一人息子に連絡しなくてはならない。男に聞いてみても息子の所在は不明とのこと。しかたなく野島さんの古い記憶を頼りに三原在住の息子をやっと電話で捜し当てることができたのは翌日の朝であった。しかし、息子の応対はつれないもので明らかに迷惑そうであった。
それを説き伏せて来院させ、さしせまった病状を説明しても投げやりな態度で、「すべてお任せします」と言うと、父親の顔を見ることもなく去って行ってしまった。

は軽い意識障害があり、右上腹部に大きな膵頭癌を認めた。肝臓は両葉とも腫瘍に置換され、肝門部に僅かに枯れ木の枝のような細い胆管があり、胆嚢が繋がっている。幸か不幸か,時期不明ながら胃は切除され、胃空腸吻合がなされていて通過障害は無さそうである。
そうこうする内に転院の時期を失ってしまい、仕方なく緊急避難的に胆嚢を利用して“外胆汁瘻”を造設せざるを得なくなってしまった。

             
三 正月

嚢を介して胆汁が排泄されるようになると男は見る間に黄疸が引き、食欲が出、元気を取り戻した。
いくら上腹部の大きな腫瘤について説明しても、男も野島さんも「よく解りました」というばかり。
直にやってきた大晦日からの正月の外泊のため嬉々として帰宅する様子はとても幸せそうであった。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
春になる頃、男は明らかに自分の体の変調に気付いていた。

んな或る日のこと、突然男は朝から病室を抜け出し、行方不明となってしまった。
夕方、何か気の落ちたような晴れ晴れとした顔で帰ってきた男は、終日駅前で大好きなパチンコに興じてすごしたという。
しかし、その日を境に男の状態は着実に悪化し、傍目にも苦しそうになっていった。

             
四  最後の外泊

の花も開き、人皆浮かれる頃、男は遂に大好きなパチンコにも出かけることも出来ず、終日臥床するようになってしまった。
そんな或る日のこと、野島さんは男の外泊を申し出てきた。

島さんがどのような気持ちであったのか他人が窺い知ることは出来ないが、彼女は部屋をきれいに掃除すると、デパートで真っ白な羽根布団を買ってきた。恐らくは、まともな食事の出来ない男のためにそれなりに心のこもった食事も用意したのであろう。

の夜、軟らかい白い羽根布団に包まれて 女と男はどのような会話をしたのであろうか。他人には決して漏らしたこともない二人の出会いの頃の思い出話であろうか、それとも今生でははからずも一時的に割かれるとも来世における再会の堅い約束であったろうか、はたまた言葉を交わすこともなく、ただ寄り添い、互いの存在を確かめ合ううちに短い春の夜は明けてしまったのであろうか。

後を迎えた男の顔は安らかで、野島さんも取り乱すような事はなかった。
男の体は思い出の部屋に運ばれ、羽根布団の上に横たえられ、女はその体をいとおしんだ。

             
五 羽根布団の怪

十九日の法要が終わると、野島さんは 名残惜しそうに男の残した品物を処分した。
街角の廃品置場に置かれたそれらの品物は ひどくみすぼらしくガラクタとも言えないような物ばかりであった。
最後に夜遅く野島さんは人目をはばかりながら 一夜の思い出のこもった白い羽根布団をそれらのガラクタの傍に置いた。そして流れ出る泪を拭うと愛し合った男と過ごした忘れ得ぬ過去に後ろ髪を引かれる思いで訣別した。

れがねえ、先生も看護婦さんもちょっと聞いて!」 翌朝早く、野島さんは転がるようにやって来ると大きな声でそう叫んだ。
聞くと夜が明けて野島さんが 最後の別れをしようとそっと廃品置場へ見に行ったところ“確かに置いたはずの白い羽根布団だけが忽然として消えていた”というのである。
野島さんの口は驚きのあまり大きく開かれ、奥歯の金冠が丸見えであった。

ったいどんな事が起きたのであろうか。
“白い羽根布団が溶けるように消えていった”と言う人もあれば、“まだほの暗い朝焼けの空を音もなく西に向かって飛んで行く羽根布団を見た”という話も聞いたが、真偽の程は定かではない。
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