「short LUV story:美坂栞」




「そんなこと言う人…大っ嫌いですっ!」

栞はそう言って部屋を飛び出した。
今すぐ捕まえて、心の底から謝ればそれで済んだのかもしれない。
しかし、俺のちっぽけな自尊心がそれを阻んだ。

結局、空気の冷えきった部屋に俺一人が残った。

ケンカなんかしなければ良かった、という後悔、
したとしてもすぐに謝ることができたら、と言う後悔。
先ほどまで部屋にあった温かさはすでに無い。
何もする気になれず、とりあえず床に座り込む。
と、テレビの上に放ってある煙草とライターに目が行った。
俺は全く吸わないが、北川がこないだ忘れていったものだ。

「マルボロ」と書かれた赤い箱から煙草を一本取り出し、
咥えてライターで火をつける。

そして、おもむろに吸う。



「…っ、ごほっ、ごふっ…」

思いっきり咳き込んで、
水を流し込んでなんとか落ちつく。
煙草は濡らしてゴミ箱に捨てた。



「…畜生」

生まれて初めて吸う煙草の味は、
最悪だった。



『いつまでも秋子さんに世話になるわけにはいかない』
と親を説得してなんとかアパートを借り、そして栞と同棲を始めて半年。
反対はあったが、水瀬家からも栞の実家からも近く、
目の届く範囲のアパートということでなんとか了承を貰った。
同じ街にあるアパートなので学校や水瀬家は割と近かったりする。
二人で暮らすには少し狭い部屋。
だけどずっと二人だけでいられる部屋。



今までもケンカはあった。
だけど、それは些細な理由で結局はどちらともなく仲直りしていた。
今日もそうなら良かった。
が、栞が部屋着のまま外に飛び出したのは今日が始めてだった。
栞を追わなければ、気持ちだけははやるが、体がついていかない。
この期に及んで意地を張る自分が嫌だった。
だいたい、探すと言ってもどこを探せば良いのだろう。
実家だろうか。
だとしたら、俺はどんな顔して行けばいいのか。



そんな事を考えていると、俺の携帯の着信音が鳴った。
液晶には「美坂香里」と出ていた。



「…もしもし」
「祐一?」
「…ああ」
「なんか、死にそうな声してるわよ」
「そんな事ない、
 暴走しそうなくらい元気だぞ」
「…そう。
 それはそれとして」



一瞬の間。



「さっき、栞から電話…
 というか、着信があったわ。
 ワンコールだったから電話には出られなかったけど」
「そうか」
「栞となんかあったわけ?」

香里の言葉からして少なくとも実家にいるわけではなさそうだった。

「ケンカでもやらかしたの?」
「…」
「はぁ…
 まぁ、二人の事色々突っ込むつもりはないけど」

携帯の向こうから溜息混じりの声が聞こえる。



「まぁ、ケンカしないカップルなんていないだろうし、
 それは仕方ないと思うわ。
 けど」

諭す様な口調がすこし痛かった。

「ちゃんと仲直りしなさいよ?
 栞をさらっておいて、別れちゃいましたじゃ済まないわよ」
「…ああ」
「じゃあ、さっさと迎えに行く!」
「…了解」
「よし」

怒るでもなく、
責めるでもなく、
俺に決断させてくれた香里の言葉が嬉しかった。

「なぁ」
「なに?」
「…サンキュ」
「じゃあ、今度何かおごってもらおうかしら」
「考えておく」
「ふふ、期待してるわよ」



電話が切れた後、
コートを掴む。
秋を過ぎて冬に入ろうとしてる今、
部屋着だけじゃ寒すぎる。
靴をはいて、ドアを開け…

「…っと」

る直前に思い出して、
栞のストールを持って改めて部屋を出た。



「…寒っ」

外は少し風が出ていた。
早くしないと風邪をひきかねない。

最寄りのコンビニ…には居なかった。
実家かとも思ったが、それなら香里に電話をかけたりしないはずだ。
まさか学校にいるはずもないだろうし、
あと考えられるのは…あそこだけだった。



すでに葉のない並木の歩道を走る。
風が冷たかった。
夜にこんな所に人影があるはずもなく、
無人の歩道は俺の息と足音以外いたって静かだった。

汗が滲むくらい走ると、視界が開ける。
公園だった。



落ち葉がところどころにわずかに積もっている。
踏むとざく、と音がした。

何度か落ち葉を踏むと、目の前に噴水が見えた。

淵には一人、
今にも消えてしまいそうな雰囲気でうつむきながら座っている少女がいた。

そっと近付き、
ストールをかける。

すると、少女はびくっとして顔を上げた。



「風邪…引くぞ」
「祐一さん…」

それだけ言うと俺は栞の隣に座った。

「…」
「…」

どちらも喋らない。
気まずい雰囲気。
何か喋らなければ、そう思っても口が開かなかった。



「…馬鹿ですよね、私」

先に喋ったのは栞だった。

「勝手にかーっとなって、
 好きなこと言って飛び出して…
 お姉ちゃんに電話したけど、
 『じゃあ別れちゃいなさい』
 とか言われたら…と思ったら怖くてすぐ切っちゃって、
 どこにも行けなくて、こんな所で一人座って…」



あはは、とちょっと無理した様に栞は笑う。

「結局、祐一さんが迎えに来るまで、
 ここにじっとしてる事しかできなかったんです…
 私はそんななのに、祐一さんは来てくれて…」

ぽた、ぽたと纏うストールに涙が零れ、滲む。
俺は自虐的に言葉を紡ぐ栞を見て、辛かった。

そっと肩を抱く。

「あっ…」
「そこまで。
 それ以上言ったら、この場で押し倒すぞ」
「それは…寒いから嫌です」
「じゃ帰るぞ」
「…」



俺は立ちあがる。
でも、栞は立たなかった。
うつむいたまま、拳を握っている。

「どうした?」
「…まだ、怒ってますよね?」
「そうだな…一発くらいお見舞いしなきゃ気が済まないかもな」
「…」

俺がそう言うと栞はぎゅっと目を瞑った。
覚悟でもできたのだろうか。
寒いのか、それとも怖いのか、少しだけ震えているように見えた。

俺はすーっと近付いて…





ぱちんっ

「っ痛…」

軽くデコピンをお見舞いした。



「ほら、帰るぞ」

恥ずかしさから、
そっぽを向いて手を差し出す。

「祐一さん…」




栞は呆気にとられた表情をしていたが、
やがて泣き笑いのような顔をして、
やにわに立ちあがって俺に抱きついた。
俺は形にならない言葉の代わりのように、
ぎゅっと抱き返す。



「ごめんなさいっ、祐一さん!
 ごめんなさい…」
「ああ…
 俺も悪かった、ごめん。
 もう帰ろう、俺達の家に。
 な?」
「ぅ…はいっ…」

栞が泣き止むまで頭を撫でながら、
俺は溢れそうな涙を堪えていた…






帰り道。
二人手を繋ぎながら来る時は一人だった歩道を戻る。

「なぁ、栞」
「なんですか?」
「今、何時だ?」
「えっと…もう10時過ぎですね」

栞は携帯を見てそう言った。

「10時か…なんか食って行くか?」
「あ、賛成です」
「じゃあカレー屋で決まりだな」
「祐一さん、いじわるです…」
「冗談だ」
「あー、ひどいですっ」

ぷーっと頬を膨らませる栞の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「わっ…」
「駅前に深夜までやってるファミレスあったろ?
 あそこにしような」
「あ、じゃあ私バニラスペシャルが良いです」
「…そんなのあったっけ?」
「秋からの新作です」
「ふーん…俺もそれにしてみるかな」
「絶対美味しいですよー」



バニラスペシャルが楽しみなのかにこにこと嬉しそうに話す。
それにつられて俺も少し嬉しくなってきた。



「…なぁ」
「なんですか?」
「その…家に帰ったら、
 いっぱいしような」
「もう…祐一さん、えっちです」
「ははは…」
「でも…」

きゅっ、と栞は握っている手に力をこめた。



「そういう事言う人、
 嫌いじゃないですよ」






さっきよりも風は冷たくなっていたが、
栞と繋いだ手が少しだけ温かかった―