Kanon『possibilty』第十二話
「変わらぬ存在」
チュン、チュン・・・
「ん・・・」
開きっぱなしのカーテンから朝の陽光が差し込み、目に突き刺さる。
冬だからこそ余計に空は白く澄み、眠気を奪っていく。
が、
「やっぱ眠い・・・」
昨日ほとんど寝てなかった俺は、再び布団に潜り込み、
そこにあった何かに抱きつく。
・・・抱きつき枕とか持ってたっけ?
「ふぇ?何ですかぁ・・・?」
隣から寝惚けたような声が聞こえる。
構わずに「ぎゅっ」とさっきよりも少し腕に力を込める。
「え、きゃ、お、お兄ちゃんっ!?」
なんだか隣から栞の悲鳴が聞こえる。
まあ、いいか・・・
「ち、ちょっと、寝惚けてるんですかぁっ!?」
ぼふっ。
視界が暗転する。
・
・
・
・
・
・
あ、お婆ちゃん・・・
「・・・ぶはぁっ!」
ちょっと違う世界に入った俺は、慌てて飛び起きる。
目の前には、真っ赤な顔をして枕を持った栞がいた。
「朝から俺を殺す気かっ!?」
「朝からお兄ちゃんが抱きついてくるからですっ!」
「なにぃ!?」
どうやら俺が抱きついていたのは栞だったようだ。
「心臓に悪いですよぅ・・・」
栞が非難の視線で俺を見る。
「・・・悪かった」
「本当にそう思ってますか・・・?」
「ああ」
すると、栞は表情を緩ませ、
「それじゃあ、特別に許してあげます」
そう笑顔で言ってくれた。
「じゃあ、俺は部屋に戻るわ」
「はい」
ベッドからのそのそと這い出し、部屋を出る。
「あれ・・・?」
俺の部屋のドアが少し空いていた。
中を覗き込んでも誰もいなかった。
多分、昨日閉め忘れたのだろう。
さっさと着替えて、下に降りる。
「おはようございます、祐一さん」
「おはようございます」
下ではいつものように恵さんが朝食を作っていた。
椅子に座り少しすると、栞も降りてくる。
「栞も起きたの?」
「うん、おはよう、お母さん」
栞は俺の向かいに座る。
「二人とも牛乳でいいかしら?」
「うん」
「はい」
間もなく恵さんがトーストと牛乳を持ってやってくる。
きつね色に焼けて、いい具合だ。
俺はマーガリン、栞はブルーベリージャムをトーストにつけて、
一口かじってから二人同時に牛乳を飲む。
「そういえば、昨日の夜は二人で何をしたのかしら?」
「「ぶっ!!」」
二人同時に牛乳を吹き出す。
「恵さんっ!いきなりなんて事言うんですかっ!!」
「そうだよ、びっくりしたじゃないっ!」
テーブルの上は大惨事である。
「あら、だって今朝二人一緒に寝てたじゃない?」
「「ごぅん!」」
今度は二人同時にテーブルに頭をぶつける。
「「恵さん(お母さん)、何でそれを?」」
「今朝栞を起こしに行ったら祐一さんも居たから、びっくりしたわよ」
笑ってそう言う。
恵さん・・・侮れない人だ。
その後、香里を暫く待っていたのだが、
恵さんから香里が既に出て行ったことを教えられた。
よって、俺は一人で登校している。
「・・・」
寂しい。
朝の冷えた空気が体に染みるようだ。
一人登校してくると、後ろからなにやら聞こえてくる。
「・・・だから何で朝起きられないんだっ!」
「仕方ないんだよ・・・」
「どの辺が仕方ないか俺に説明してくれっ!」
この声は北川と名雪だ。
振り向くと二人は言い合いをしながら走っている。
香里から聞いた情報によると、この二人はいつも遅刻スレスレらしい。
よって、俺は走り出す。
「おお、相沢・・・って、いきなり逃げるなぁ!」
「うー、ひどいよ、祐一君」
とか言いながら、俺に追いつく。
・・・こいつら、俺より足速いな。
息を切らしながらも何とか学校にたどり着く。
それに比べ、名雪と北川はまだ平気そうである。
「どうした、相沢、もうバテたか?」
「うるさい・・・」
「まあ、毎日走りこめばこうなるさ」
北川は遠い目をしていった。
「北川君、もしかして酷い事言ってる?」
「多分気のせいだ」
「うー・・・」
キーンコーンカーンコーン・・・
「おい、予鈴だぞっ!」
「やべっ、急ごう、水瀬!」
「あ、うん」
三人が教室にたどり着いたのは担任が入ってくる一秒前だった。
香里に今朝俺を置いてきた訳を聞こうとしたが、
それは担任の出席に遮られた。
授業後も、俺を避けるようにどこか英ってしまって、結局聞かずじまいだった。
気だるい午前の授業が終わると、
いつものように名雪が学食へ行こうと持ちかけてくる。
「祐一君、今日も学食だよね?」
「ああ・・・」
確か、今月は厳しいんだよな・・・
残金を確認しようと財布を・・・
財布を・・・
「ぐは・・・」
見事に忘れた。
「何だ、財布忘れたのか?」
「北川・・・貸してくれ」
「構わないが、三倍にして返せよ」
ひとつ分かったことがある。
こいつは絶対に友達じゃない。
と、俺が悩んでいると、
「お兄ちゃんっ!」
廊下から良く知った声が聞こえる。
見てみると、
「ぐは・・・」
栞が俺のほうに手を振っていた。
恥ずかしいので放って置くと、
「聞こえないんですかっ、『祐一お兄ちゃん』っ!」
いっせいに視線が俺に集中する。
特に北川からの殺意の波動が痛い。
「だぁっ、分かったから名指しで呼ぶなっ!」
晒し者になりながら栞の所へ向かう。
「無視するなんて酷いですよぉ・・・」
「・・・状況を見てから言ってくれるか?」
「え?
あ・・・」
クラスの視線は相変わらず俺たちに注がれている。
「えっと、あはは・・・」
栞は気まずそうに笑っている。
「で、今日は何でまたここに居るんだ?
・・・しかも制服で」
栞は制服を着ていたのだ。
学校に復帰したとかそう言う話は聞いていないのだが。
「学校に入るなら、私服だと問題あるじゃないですか」
もっともな意見である。
「あ、それより、祐一さん、お財布忘れたでしょう?」
「もしかして持ってきてくれたのか?」
「そうしようとも思ったんですけど・・・」
そう言いながら栞は巨大な何かを目の前に出す。
「せっかくだからお弁当作ってきちゃいました」
「・・・これが全部?」
「はい」
「何人前?」
「祐一さんの分ですよ」
どうやら栞は俺のことをギネス級の人間だと思っているらしい。
「無理だ」
「わ、いきなりそんなこと言わないで頑張ってくださいよ〜」
「頑張っても無理だ」
「う〜」
「これはみんなで食べる。いいな?」
「はい・・・」
栞は少しがっかりした表情だ。
教室に入ると俺と栞は既に話題にされていなかった。
熱し易いが冷め易いクラスの連中に感謝する。
「相沢、その子は誰だ?」
「俺の子供だ」
「えっ、祐一君、子供いたの!?」
名雪が真面目にボケる。
「いや、本気にされても困るんだが・・・」
「従姉妹の美坂 栞です」
栞が二人に向かってそう言う。
「じゃあ、香里の妹なんだ」
名雪がそう言ったところで、
「その事なんだけど、香里には栞の事を黙ってて欲しい」
俺が二人にそう頼む。
「え、どうして?」
名雪が怪訝そうな顔をする。
「頼む」
「・・・訳は聞けないわけだな」
北川がやや憮然とした表情でそう言う。
「ああ」
「・・・まあ、いいけどな」
「助かる」
「だけど、その美坂はどこだ?」
「え?」
確かに、いつからだか分からないが、香里はそこには居なかった。
「ところで、その大きい荷物は何?」
名雪が弁当の事に触れる。
「弁当だ」
「えっ、うそっ!?」
驚いたようである。
まあ、無理もないだろうな。
弁当箱が重箱(大型三段)という時点で間違ってるからな。
「というわけで、二人も手伝ってくれ」
「う、うん・・・」
「・・・ああ」
二人とも固まっている。
「大丈夫、四人なら何とかなる」
「え、私も食べるんですか?」
栞が意外そうな顔をする。
「そりゃ作った人も食べなきゃな」
「わ、私は味見しててお腹いっぱいです」
「拒否権はない」
「えうぅ・・・」
そんなわけで四人で挑むことになった・・・
まず一段目と二段目。
一段目はおかず類で埋め尽くされている。
二段目は御飯と・・・おかずだ。
取り合えず、定番の卵焼きを頬張る。
「ん・・・」
だしが良く染みて、程よい甘味でいい味が出ている。。
「ど、どうですか?」
栞が緊張した面持ちで俺の感想を待つ。
「5点」
「5点ですか・・・」
がっかりした表情だ。
「ちなみに、5点満点だ」
「え、そうだったんですか?」
一転、ぱっと顔を輝かせる。
「えへへ、嬉しいです〜」
栞の嬉しそうな表情を見ていると、こっちも自然と表情が緩む。
「相沢・・・」
隣で北川が震えながらウィンナーを食っていた。
そのほか、鳥の唐揚げ、ハンバーグ等を一通り食べ終え、
大量の米を消化中である。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
全員が時折おかずをつまみつつ無言でとにかく食べる。
「私、もう駄目です・・・」
最初に栞が脱落。
「わたしも・・・」
続いて名雪。
「俺もアウトだ・・・」
頼みの綱の北川までもが倒れる。
「・・・つまり俺が残りを食うのか?」
三人の目がそれを物語っていた。
俺は・・・
俺は・・・!
食ったさ。
それはもう、意識がなくなりそうな位。
涙がこぼれそうだ。
「ど、どうだ・・・」
「わ、祐一君、全部食べたの?」
「お兄ちゃん、凄いです〜」
「ま、まあな・・・」
この二人の言葉はまだしも、
「相沢・・・大食い選手権出るか?」
いつか『ごめんなさい』と言うまで殴ってやる。
「それじゃあ、デザートにしましょう」
その言葉で和みかけていた雰囲気が再び凍りつく。
「マジか・・・?」
「マジですよ」
この世に神も仏もいないことを痛感させられた。
ちなみに、三段目全てがデザートだ。
結局、デザートは野郎二人を尻目に女性陣が平らげてしまった。
もっとも、アイスは栞がほとんど食べていたが。
「じゃあ、私はそろそろ帰りますね」
食後暫く雑談をしていたが、予鈴が鳴る時間になって、
栞は教室から出て行った。
「・・・」
「どうした、相沢?」
黙ったままの俺に北川が問い掛ける。
「北川、後は任せた」
「おい!どういう―――」
次の授業の教師が来る前に教室を出る。
栞には聞きたいことがある。
その答えを、今すぐに聞きたかった。
授業が始まろうとしている今、昇降口には誰もいなかった。
外へ出ると、薄い雲で空は覆われ、薄暗い光景が広がっている。
校門のところで栞の姿を見つける。
「栞っ!」
栞が反応して振り返る。
「どうしたんですかっ、お兄ちゃん?」
「そこでいいから、聞いてくれるかっ」
栞がこちらへ駆け寄ろうとするのを制止する。
「栞っ!」
「はいっ」
「栞は・・・
香里の事、どう思ってるんだっ!?」
その質問栞はに顔を強ばらせた。
そして、一瞬だけ薄く微笑むと、
すうっと息を吸い込んで、大声で言った。
「お姉ちゃんは・・・やっぱりお姉ちゃんですっ!!」
それが俺が欲しかった答えの全てだった。
たとえ何があっても、香里は栞の中ではやはり姉なのである。
「わかった、気をつけて帰れよっ!」
「はいっ!」
こうして、端から見れば奇妙な会話は終わった。
教室に戻ると、教師は俺を一瞥しただけで再び授業を始めた。
北川が上手くやってくれたのだろう。
後でグリコのおまけでもやろう。
香里は教室に戻っていた。
「香里・・・どこ行ってたんだ?」
そう俺が聞くと、
「学食よ」
それだけ答えると、黒板の内容を写し始めた。
授業が終わり、HRも終了すると、香里はさっさと出て行ってしまった。
香里に話があったのだが、行き先がわからないので、
家に帰って待つことにした。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
家に帰ると、栞が出迎えてくれた。
靴がないので、香里はまだ帰ってないようだった。
・
・
・
時計を見ると、7時を回っていた。
香里が帰ってくる様子はない。
俺は思い当たる場所を考える。
俺が知っているのは一箇所、名雪の家だった。
連絡簿から電話番号を探し出し、電話をかける。
『はい、水瀬です』
「名雪か?」
『いえ、違いますが・・・』
どうやら姉か誰かと間違えてしまったらしい。
『名雪でしたら、呼んできますので少々お待ちください』
「すいません」
『はい、お電話代わりました』
「名雪か?相沢だけど・・・」
『祐一君?どうしたの?』
「そっちに香里行ってないか?」
『ううん、来てないけど・・・』
「そうか・・・」
『帰ってきてないの?』
「ああ・・・」
『祐一君』
名雪の口調が真剣なものになる。
「何だ?」
『香里ね・・・
祐一君が来てから楽しそうだった。
でも・・・
辛そうな顔をしてたんだよ』
「・・・」
『香里、何でも自分で解決しようとするから・・・
私が聞いても何も答えてくれないんだよ』
『香里、多分苦しんでるんだよ。
それが何か私にはわからないけど・・・
香里を助けられるのは、祐一君だけだと思うよ』
「ああ・・・」
『香里がいそうな所は・・・
私、部室くらいしか思いつかないよ』
電話越しに申し訳なさそうな声が聞こえる。
「・・・行ってみる価値はあるか」
『でも、学校閉まってるかも・・・』
「その時はその時だ」
『うん・・・そうだね』
一呼吸置いてから、俺を奮い立たせる声が聞こえてきた。
『祐一君・・・ふぁいとっ、だよ』
コートを羽織り玄関へと向かう。
「お兄ちゃん・・・?」
栞に声をかけられる。
「探しに・・・行くんですか・・・?」
「ああ」
「じゃあ・・・これ、持って行って貰えますか?」
そう言って、ストールを差し出す。
「分かった」
それを受け取り、最後にひとつだけ栞に訊く。
「栞・・・また、三人で遊びたいか?」
その言葉に、栞はまっすぐな目で
「はい」
そう答えた。
玄関を開けるとそこは闇だった。
雲に覆われ、月を見ることはできない。
昼間以上の冷気が冬の夜を支配していた。
灯りは、点々と存在する街灯とその光を浴びて反射する雪だけだった。
冷たい風に震えながら、それ以上に冷たい雪を踏みしめる。
途中、一人の生徒と擦れ違った。
髪の長い、どこか神秘的な少女。
どちらが声をかけることもなく、それぞれ反対の道を行く。
やがて、学校に辿り着く。
校門は開いていた。
が、当然昇降口は閉ざされていて、途方に暮れる。
「裏口か・・・」
宿直・・・といっても、居るかどうかは怪しいものだが、
専用の入り口があるはずだ。
程なくして裏口を見つける。
扉をゆっくりと押す。
ギィィ・・・
扉は軋んだ音を立てながらも、開いた。
コツ、コツ、コツ・・・
自分の足音がリノリウムの床に響く。
床は僅かな光を受け、無気味に光っていた。
はっきり行って、あまり嬉しくない光景だ。
暫く歩くと、
『演劇部』
と書かれたプレートが目に入った。
人の気配がする。
「誰・・・?」
扉の向こうから声がした。
その声は、俺が探していた少女の声だった。
「祐一・・・?」
その声に答えるように、
俺は、
扉を開いた。