Kanon『possibility』第十三話



「possibility」














夜の帳に包まれた演劇部室。



向かい合う二つの人影。



そのひとつは自分。
そして、もうひとつ。



従姉妹の少女、美坂香里が雲から漏れた微かな月明かりを受け、
そこに立っていた。



「祐一・・・どうしてここに?」

表情ははっきりと読み取れないが、
香里は意外そうな声を発した。

「決まってるだろ。
 お前を・・・迎えに来たんだ」



俺の言葉に、香里はふふっと笑った・・・
気がした。

「別に・・・そんな事しなくてもいいわよ」

「・・・」



と、香里が照明を点ける。
光を得た部室の全てが目に入る。
書き殴ったような字がかかれた黒板。
赤いしるしのついたカレンダー。
一見ガラクタの詰まったような小道具箱。

それらを見回していた俺に、一冊の本を投げてよこす。

「丁度よかったわ。
 それ、今度の舞台の台本なんだけど、
 練習手伝ってくれない?
 もちろん、台本は読みながらで構わないわ」



渡された台本。
それをざっと読む。
簡単にまとめるなら、



仲の良かった姉妹の妹が不治の病にかかる。
姉は悲嘆に暮れ、そして、妹を否定する。

が、その妹に奇跡が起き、妹は助かる。

そしてハッピーエンド。

安っぽい感動のストーリーだ。

俺の役は、その姉妹の幼馴染。
そして、姉に吐く台詞。

「奇跡は、絶対に起きる。
 だから、信じて頑張ろう」

そんなストーリ−以上に安っぽい言葉に、
無言で目を通す。



「馬鹿馬鹿しい話でしょ?
でもね、それはうちの部の恒例なのよ。
・・・たとえ演じるのが嫌でも」



物語のチープさ以上に目についたもの。
それは、この話が似ている事だった。

仲の良かった姉妹。
香里と、栞。
癒える事無い病。
妹を避ける事。



ただ、違う事。
それは、栞には奇跡が起きていないことだった。



「祐一、準備はいい?」

「ああ・・・」



演じるシーンは山場。
姉に例の台詞を吐く場面だ。

台本に目を落としながら棒読み気味で喋る。



「・・・どうして、妹を避けるんだ?」



それに答えるのは、よどみない声。

「妹・・・?知らないわ。
 私に・・・妹なんていないもの」



自嘲気味な表情の香里。
それは、演技なのだろうか。
それとも・・・



「絶対に、助からないのか?」



「奇跡でも起きれば助かるわ。
 でもね・・・」



一瞬遠い目をした香里。
俺を見たときには、その目には感情が映っていなかった。



「起きないから、奇跡って言うのよ」



栞からも聞いた言葉。
その言葉には、台詞以上の重さがあった。
演技だけではない、本音の混じった言葉だったのだろう。



「そうじゃない」



根拠のない否定。



「奇跡は・・・絶対に起きる。
 だから・・・信じて頑張ろう」



そして、駆け寄ってきた姉を抱きしめ、
話は進む。



・・・はずだった。



「そんなのは・・・
 現実を直視することのできない人達の言葉よ。
 そんなもので、説得できるとでも?」



台本には無い台詞。
それは、もはや演技ではなく、香里の言葉だった。



台本は、
もう意味が無い。

そう確信した俺は、電気を消し、
再び雲から透ける月明かりだけの世界になる。



「確かにこんな台詞じゃあ無理だな」



それを聞いた香里はつかつかと歩いて、
小道具箱から何かを取り出し、顔に当てる。
それが何かは良く見えない。



その時、雲の裂け目から月が顔を出した。

俺が見たのは、
デスマスクのような仮面を被った香里だった。



「私は耐えられなかった。
 弱かったのよ。
 事実を受け止めるには」



仮面をずらし、半分だけ顔を覗かせる。



「だから、私は仮面を被ったわ。
 妹なんていない『もう一人の私』。
 その仮面があれば、私は傷つかなくて済むのよ」



香里は自嘲気味に笑う。
そして、再び仮面を被る。



「もともと演劇部だったから、
 仮面を作るのは楽だったわ。
そして・・・今に至ったっていう訳よ」



「香里・・・さっき、
奇跡なんて現実を直視することのできない人達の言葉だって言ったよな?」

「ええ」

「俺はそうは思わない。
 奇跡を否定する人の方が、現実を直視できてないんじゃないのか?」



「そうかしら?」

「ああ」



俺は香里の方に一歩近づき、
言葉を綴る。

「どうして、奇跡が起きないって言い切れる?」

「起きたのなんて、見たこと無いからよ」



香里は、既に仮面を外していた。



「だったら・・・」



俺はポケットを漁り、両方の拳を握ってから香里の前に突き出す。

「どこに十円玉があると思う?」



「馬鹿馬鹿しい・・・そんなのになんの意味があるのよ」

呆れたように言う。

「いいから、答えてみろ」



香里は面倒臭そうに、
「右」
そうぶっきらぼうに答えた。



俺は右手を開く。

空っぽだった。



そして、左手を開くと・・・

そこにも何も無かった。



「・・・騙したの?」

俺に厳しい視線を向ける。



「よく見てみろ」
俺が自分の頭を指さす。
そこには、十円玉が乗っていた。

俺はそれを取って、ポケットに戻す。



「つまり、こういうことだ」

「・・・なにが?」
香里の視線はさっきよりも厳しいものだった。
俺は、もう一歩香里に近づく。


「お前は、俺の両手しか見てなかった。
 だけど、他の場所にある可能性だってあるだろ?」



「それは、祐一が『どっちにあるか』って言ったから・・・」



「俺はそんなこと言ってない」



「・・・え?」

香里は呆気に取られたような表情になる。
更に一歩近づく。


「『どこにあるか』って言ったんだ。
 だけど、お前は勝手に思い込んで、
 俺の手しか見てなかった」

「そんなの屁理屈・・・」

「見たこと無いからありえないってのと同レベルだと思うけどな」



そう言われて香里は言葉に詰まる。




「奇跡だって、お前が『無い』って思い込んでるだけだ。
 本当は、どこかに転がってる『可能性』だってあるんだよ。
その『可能性』を否定する事はすべきじゃないと思う」



「・・・」



香里は俺の言葉を黙って聞いていた。

もう一歩。



俺は、香里の目の前まで来ていた。

香里は、俺の目をキッと見て言った。

「だって、耐えられなかったのよ!
 『可能性』があったって、起きるとも分からない奇跡を待つには、
 私一人じゃ辛すぎたのよ!」



「だったらさ・・・二人だったらどうだ?」



「・・・え?」

香里は、その言葉が理解できないようだった。



「どういう・・・意味?」

「言葉どおりだ」



一呼吸置いてから、言葉の続きを話す。

「一人で耐えられないなら、二人で耐えればいい。
 お前が全部背負い込むことなんて無いんだよ。
 俺は、お前の苦しみの全部は理解できない。
 だけど、いくらかなら理解できる。
 だから、少しくらい俺に頼ってさ、
 それで栞に笑いかける事できないか・・・?」

「無理よ・・・」

「どうして?」

香里の手から仮面が落ちる。
そして、落下した仮面は・・・



カツンッ



二つに、割れた。

「だって、栞になんて言ったらいいの?
 どんな顔したらいいの?
 どう懺悔したらいいのよっ!」

「懺悔なんか・・・しなくていいんだ」

「どうして・・・?」



「栞は、そんなこと望んじゃいない。
 お前に謝って欲しくなんか無いんだよ。
 それより、少しでも、お前と一緒に笑いたいんだ」



「・・・」



「あと・・・お前に言わなきゃならないことがあった。
7年前の・・・答えを」



はっとした顔で俺を見る。

「俺は、
 お前が一人で意地を張ってるのを見たくない
一人で傷付いてるのを見たくない。
一人で悲しんでるのを・・・見たくないんだ」 


「あっ・・・」
ゆっくり、しかし力強く香里を抱きしめる。



「俺は・・・お前の事が、好きなんだと思う」



「祐一・・・」



香里が俺に抱かれたまま、弱弱しく声を出す。

「私・・・一人で耐えられなくなっちゃう。
 祐一に頼らないと、何もできなくなっちゃうよ・・・
祐一を縛っちゃうかもしれないよ・・・?」

「構わないさ。
 言ったろ?
 お前が・・・好きだって」



「祐一ぃ・・・」

俺の背中に手を回し、
声を殺して泣きじゃくる香里をもう一度しっかり抱きしめる。



「もう、一人で無理しなくていいんだ・・・」

「ぐすっ、うん・・・ひくっ」



俺の胸に顔をうずめ、



肩を震わせる香里を、



俺は、



決して、



放さない。