Kanon『possibility』第十六話


「夜想曲」





朝。

穏やかな日の光とは裏腹に、俺は少し緊張していた。

「まあ、何とかなるだろ・・・」

本当に何とかなるか分からないが、
そう考えないと始まらない。



朝食を食べ終えた俺は
鞄とは別に荷物を抱えて学校へ向かう。
香里には少し不審がられたが。

「・・・何?その荷物」
「後でのお楽しみ」
「ふーん・・・
栞は知ってるの?」
「え、わ、私は知らないよ」
「・・・そう」

学校に着き。
「よう、北川」
「相沢か。頼まれてた物、持ってきたぞ」
「お、サンキュ」
「後でなんか奢れよ」
「ああ、考えておく」

これで必要なものは全て揃ったわけだ。



で。

授業がすべて終了したわけだが。
今日は舞踏会。
関心のない人達は早々に帰り支度を始め、
参加する者は持ってきた衣装やダンスの会話に花を咲かせている。

「お兄ちゃん」
「ああ、来たか」

少しすると、栞がやって来る。

「準備できましたか?」
「ああ、俺は着替えるだけだ。
 栞は?」
「私も着替えるだけですよ」

栞は今から待ちきれないような様子で、
目が輝いてるのがはっきり分かる。

「・・・二人とも、舞踏会にでも出るの?」
「ああ」
「そう・・・」

香里の反応はあまり芳しくない。

「香里もどうだ?」
「遠慮しておくわ。
 じゃあ、私は帰るわね」
「あ、ああ・・・」
「あっ、香里、待ってよっ」

そう言って、
香里は名雪を置いて立ち去ってしまった。
香里に黙って栞と事を運んでいたから、少し気分を害したのかもしれない。
名雪は慌てて後を追っていった。

「相沢も大変そうだな・・・」
「まあな・・・」
「じゃあ、俺も帰るわ」
「ん、分かった」
「後でな」
「おう」



あらかた生徒が立ち去った後。
教室には俺と栞を除けば数名だった。

「お姉ちゃん、機嫌悪かったですね・・・」
「やっぱりそう思うか?」
「はい」

少し心配そうな顔をした栞だったが、
こちらを向くと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「でも・・・お兄ちゃんも隅に置けないですね」
「へ?」
「お姉ちゃん、拗ねてるんですよ。
お兄ちゃんが誘ってくれなかったから」
「そうか・・・?」
「そうですよ」

香里が拗ねるというのは俺の思考にはなかったので、
正直栞の発言は意外だと思った。
それを見透かしたように栞は言った。



「お姉ちゃんだって、女の子なんですよ?」



煌びやかな照明。
タキシード、ドレス姿の紳士、淑女。
様々な色に彩られた会場。
誰がここが体育館だったと思うだろうか。
今は学校とはかけ離れた、舞踏会のステージだ。

「ふぇ・・・凄いですね・・・」
「・・・ああ」

ここに居るのは全員が俺達と同じ生徒なのだが、
それでも優雅さというものが感じられるような気がする。
見た目でこうも変わるのかと驚かされるばかりだ。
因みに俺は黒のタキシード、
栞はパステルブルーのドレスという格好である。
恥ずかしいというので肩は隠れているタイプだが。

「ちょっと、恥ずかしいです・・・」
「そうか?いいと思うぞ」
「えっ、そ、そうですか?」
「『馬子にも衣装』ってとこだな」
「う〜・・・酷いですっ!」

ドレスに身を包んでいる栞を見ると、
俺の知っている栞とは違うように感じられたが、
こんなやりとりをして改めて栞なんだと実感する。
それほどいつもと違って見えた。

周りを見たが、
クラスメートが数人居ただけで俺のよく知った顔は居ない様だった。

「あ、曲が・・・」

フロア全体にいかにもな曲が流れ出す。
それを聞いた人達は思い思いのペアを組み、踊り始める。
高校生とは思えないようなダンスを披露する者、
相手の足を踏んで怒られる者、様々である。

「俺達も、踊るか?」
「そうですね」

もともとその為に来たのだから。
俺は栞に手を差し出す。

「さあ、踊りましょうか」
「くすっ・・・はい」

BGMに合わせ、ステップを踏む。

前。

右。

左。

後。



途中、誤って足を踏んでしまう。
「っ・・・痛いです」
「わ、悪い」
「もう・・・気をつけてくださいよ?」

その後も二、三度同じ事をして怒られたが、
その甲斐あってか何とかまともに踊れるようになった。

「お兄ちゃん、飲み込み早いですね」
「そうか?」
「そうですよ」

俺がだいぶ馴れてきた頃、
フロアを流れる音楽が止まった。
ダンスはこれで終了だ。

「終わっちゃいましたね・・・」
「そうだな・・・」

大体は再び話に興じ始めたが、
ぽつぽつと帰り始める人達が現れた。

「俺たちも終わりにするか」
「そうですね」

そんなわけで栞は着替えに行った。
まあ、少し残念そうだったが。



「お待たせです」
「おう」

暫くして栞が戻ってくる。

「栞、サンキュな」
「いえ、いいですよ」

さっきまで居た人々もほとんど帰ってしまい、
あれだけ豪華だったものが寂しげに見えるような気がする。

「よう」
「ああ、北川か」
「俺もいるぞ」
「・・・誰?」
「さ・い・と・う・だっ!
クラスメートの名前くらい覚えとけ!」
「冗談だ」
「全く・・・」
「どうして北川さんたちが?」
「ああ、こいつの裏方だよ」

そう言って北川は俺を指差す。

「あ、そういう事ですか。
 ・・・それじゃ、私は帰りますね」
「ん?ああ」



「あ、そうだ」

栞は何歩か歩くと、振り返った。

「お兄ちゃんは、酷い人です」
「え?」
「惚れた弱みに付け込んでダンスの練習相手にするんですから」
「そうか・・・酷いか」
「はいっ、酷いです」

最後にそう言った栞は、笑顔だった。



因みにこの後北川達にどつかれたのは言うまでもない。



「ほれ、相沢」
北川がコンビニの袋を投げてよこす。

「これは?」
「腹が減っては戦はできぬ、って言うだろ?」
「・・・助かる」
「また貸しにしとくからな」
「覚えておく」
「しかし・・・相沢も羨ましい奴だな」
「何が?」
「分かんないか?
普通お前みたいな恵まれた環境なんか無いぞ」
「・・・そうか?」
「ああ」

北川と斉藤二人から野次を飛ばされる。
恵まれているかどうかなんて自分では分からないものだが。
まあ、言われるのだからきっとそうなのだろう。

「さて、じゃあ俺たちは準備するか」
「そうだな」

そう言って北川と斉藤は奥に入っていく。
俺もいったん学校を出、電話ボックスに入る。

ピッ。

プルルル、プルルル、プ・・・カチャ。

『はい、美坂ですが』
「香里か?」
『そうだけど・・・祐一?
今どこに?』
「まだ学校だ。
 香里、今から来てくれ」
『え?なんで私が・・・』
「とにかく。待ってるからな」

ガチャ。

用件を言い終えると電話を切る。
色々と詮索されない為だ。

後は・・・待つだけだ。



・・・30分は経っただろうか。
校門で待つ俺の視界に誰かが映る。

「・・・祐一?」
「香里か・・・」

香里だった。

「なんでこんな時間にわざわざ学校に呼び出すのよ・・・」
「気にするな」
「気にするわよ」

さすがに怒っているようだ。
まあ、こんな時間に呼び出すのだから無理もないが。

「いいから、こっちへ」
「何よ・・・」

不満そうな香里を真っ暗な体育館へと誘う。

「真っ暗じゃない・・・」
「まあまあ」



パチン。

俺が指を鳴らす。
すると



パァッ・・・

「あ・・・」

暗闇だった体育館に照明が点き、
再びそこは舞踏会のホールと化す。
明るくなって香里は初めて俺の服装に気付く。

「祐一、服・・・」
「ああ。ほら、香里も」
「えっ?う、うん」

香里に服を渡し、着替えるように言う。

・・・

「着替えたけど・・・」

香里の服は肩の開いた純白のドレス。
それはウエディングドレスを連想させるものだった。

「・・・」
「どうしたの、祐一」
「あ、いや・・・綺麗だと思って」
「もう・・・恥ずかしい事言わないでよ」

香里は赤くなって目を逸らしてしまった。
そこに、

パチン。

俺がもう一度指を鳴らすと、フロアにBGMが流れ出す。
まるで、夜想曲のような。



「踊ろう、香里」

俺がそう言うと、香里はきょとんとした表情になる。

「くすっ・・・あはは・・・」

いきなり笑い出した香里。
俺は少し躊躇する。

「変だったか?」
「くすっ、ううん、違うのよ・・・
 ぐすっ」

そうかと思うと、今度は泣き出してしまった。
香里の変化に、俺はただ抜けた質問しかできなかった。

「ど、どうした?」
「わたし・・・馬鹿みたいじゃない。
 一人で栞に焼きもち焼いて、
 家で拗ねて、祐一から電話が来て嬉しかったのにそっけない返事して・・・
 うっ・・・」
「ごめん、黙ってて・・・」
「謝らなくていいわよ・・・
 だって、今凄く嬉しいんだから・・・」
「香里・・・」

俺はそんな香里がいとおしくなって、
すっと香里の頬に手を添え、
香里がこちらを向くと同時に、

「二度目の」キスをした。



ありがちな表現だが、時間が止まっている気がした。
この世界二人だけしか居ない、そんな風にさえ思える。
「ん・・・」
「むぅ・・・」

俺からは香里の唇から離したくない。
いや、離れたくないんだ。
このまま、こうしていれば何もかもがどうでもいい様に感じる。

いったい、どの位そうしていただろうか。
10秒?
一分?
それとも・・・
どちらからでもなく自然に唇が離れた。

「あっ・・・」
「前は・・・香里からだったからな。
 今度は俺から、な?」
「もう・・・馬鹿・・・」

香里は目尻に残っていた涙を拭って、笑顔を見せる。
それは俺が今まで見た事の無い、
とても魅力的な、引き込まれるような笑顔だった。

「さあ、踊ろう」
「うん・・・」

互いに手を取り、
抱き合うようにしてチークダンスを踊る。
初めて一緒に踊るというのに、
まるで踊り馴れているかのように息の合ったステップ。
香里の髪が、僅かに遅れて宙を舞う。

いつからだろう、照明は既に消えていたし、BGMも止まっていた。
彼らは帰ってしまったのだろう。
気を利かせたのかもしれないし、そうではないかもしれない。
だが、BGMなど必要なかったし、
灯りならば月の光が差し込んでいた。

香里は、綺麗だった。
香里がドレスを着て現れた、その時よりもずっと。
やがてダンスは自然に止まり、二人の視線が絡むと、
また、キスをした。
さっきのよりも濃厚な、ディープキス。

「・・・」
「んっ・・・」

それが終わると、俺は香里の耳元で囁いた。

「帰ろうか・・・香里。
俺たちの家へ」
「うん・・・」