Kanon『possibility』十七話(前編)



「ねがい」







「……」

暗闇の中、
ふと目覚める。

カーテンの隙間から光が差さないことを考えると、
夜は明けていないようだ。
時計を見るとまだ起きるには早かった。

「寝るか…」

布団に包まり、寝直すことにする。
何か多少の違和感を感じたが気のせいだろう。



『祐一…朝よ』
「ん…え?」

空の色が変わった頃、
突然耳元から声が聞こえた。
慌てて飛び起き、あたりを見回す。

『早く起きないと遅刻するわよ?』

どこから聞こえてくるのか。
それは枕元からだった。
見ると、見慣れない目覚しが。
さっき感じた違和感の原因はこれだろう。
声が入っているということは録音式なのだろう。

『祐一…朝よ。
 早く起きないと遅刻するわよ?』

香里の声だった。
子供を起こすような口調で流れてくる声は、
嬉しい反面、少し恥ずかしかった。
苦笑いしつつ目覚ましを止め、
着替えを済ませ階下へ降りる。



「おはよ。起きたわね」
「ああ…」

なんだか高校生らしくないが、
一応朝の挨拶である。
香里はキッチンで朝食の支度をしていた。
俺はコップに牛乳を注ぎ、椅子に座る。

「なあ、あの目覚し何だ?」
「何だって?」
「いや、なんで俺の部屋に…」
「う〜ん…
 あの方が普通の目覚しよりいいでしょ?」
「まあ、そりゃ…」

確かに寝起きを悪くさせるような電子音より、
あの方が断然いい。
しかし……

「…聞いてるとなんだか恥ずかしいんだが」
「い、いいじゃない…」

香里はなんとも言えない表情でむこうを向いてしまった。

「…私だって恥ずかしかったんだから」



数分後。
食卓には家族全員が揃っていた。



本来なら家主が座るであろう席には俺がいた。
それは俺がここに来てからずっとそうなのだが、今になってなんとなくそう思った。

俺と香里のいつものやりとり。
それに加わる栞。
そして、三人楽しげに眺める恵さん。

そんな日常が当たり前になったのはいつだろうか。
僅か数日前まではそんなことはなかったのに、
あたかもずっと続いているような錯覚を覚える。



「あまりゆっくりしてると時間なくなるわよ?」

恵さんはやんわりと俺たちを促した。

「そう、ですね…そろそろ行くか」
「そうね」

俺と香里が同時に立ち上がると、

「あ、ち、ちょっと待って!」

まだ果物を食べていた栞が慌てて立ち上がり、台所に駆け込む。
戻ってくると、三個の包みを持っていた。

「それは?」
俺が聞くと栞はにっこり笑って答えた。

「私たちのお弁当です。
 みんな違うのが入ってるから、いろいろとりかえっこしましょう」

そうすれば色んな種類のおかずが無難に詰め込めるだろう。
まあ、結果的にあの重箱を避けられたのだから助かる。

「じゃ、改めて行くか」
「ええ」
「はいっ」
「気をつけてね」

恵さんに見送られ、相変わらず肌を刺す寒空の下に出る。
昨日の夜に雪が降ったらしく、
真新しい雪が昨日の足跡を消していた。
さくさくと新雪の感触を楽しみながら、
変わらない道を三人で歩く。
このまま行くと間もなく北川・名雪の二人に出会うだろう。
それは予想通りだった。
…まあ、いつもとは違ったが。



「相沢っ!水瀬さんを止めてくれっ!」

遠くから北川の声が聞こえる。
俺だけでなく、香里に栞、道を行く学生その他までもが一斉に振り向く。
その視線の先には…

「うな〜」

微妙に可愛げのない猫と、

「ねこーねこー」

それを追う名雪。
…しかも速い。

「理由は後で言うから任せたぞっ!」

名雪を追ってきた北川だが、
追いつけないらしく俺と名雪の距離の倍の地点あたりでそう言って立ち止まる。



「ねこー」

謎の言葉を呟きながら俺の前を走り去ろうとする名雪。
…目が違ったのは気のせいだろう。

「名雪、待てっ!」

俺は疾走する名雪の腕を掴む。

「祐一君…?
 放して」
「よくわからないが、
 そういう訳にもいかないみたいなんでな」

恨めしそうな目で俺を見る。
少し離れたところではさっきの猫がにゃあ、一声鳴いてどこかへ去った。

「うー…ねこー…」
「なんでそこまで執着するんだ?」
「だって、猫かわいいよ」
「いや、それはそうだが…」

気のせいかもしれないが、さっきの猫は追いかけるほど可愛くなかったように思えた。
さっきまで名雪に追いつこうとしたらしい北川を思い出してふと後ろを見ると、
やっとここまで来たのだろう、すぐ後ろで北川が息を切らしていた。

「はぁ、はぁ、はぁ…助かったよ、相沢」
「とりあえず何がどうなってるか説明してくれ」
「ああ、分かったよ…
 水瀬さん、無類の猫好きなんだけど猫アレルギーなんだ。
 涙でぐしゃぐしゃになったまま登校させる訳にはいかないだろ?」
「まぁ、そうだな」
「あ、そういえばわたし猫アレルギーだったよ」

当の本人は今思い出したようだ。

「北川君、覚えてたんだね。
 ありがとう」
「いや、俺は…」

名雪がにっこり笑って礼を言うと、北川は照れくさそうに鼻の頭を掻いていた。



横から香里が俺の脇を小突き、耳元で囁く。

「名雪も隅に置けないわね」
「みたいだな」
「まぁ、当の名雪は鈍感で気付いてないみたいだけどね…
 どこかの誰かさんみたいに」
「誰かさんって誰だよ」
「ふふっ、さぁね」

悪戯っぽく笑ってから、香里はいったん腕時計に視線を落とし、
全員に向かって言った。

「とりあえず…時間ないわよ?」






「はぁっ、セーフみたいだな」
「なんで私達までギリギリなのかしらね…」
「うー」
「…水…」

一人汗だくの奴を除いて、多少息があがっているもののHRには間に合ったようだ。

「あっ」

香里が思い出したように声をあげる。

「今度は何だ?」
「栞…」
「…あ」



数分後、へろへろになりながら校門にたどり着いた栞がいた。

「えぅ…みんな酷いですっ」



HRも過ぎ、1時間目の終わりのチャイムが鳴り響く。
ふと北川を見ると机に突っ伏していた。

「北川…惜しい奴を亡くしたな」
「そうね…」

それに同調する香里。

「人を死んだように言うな…」

のっそりと起き上がって北川が搾り出すように言った。
香里はくすりと笑って冗談よ、と言う。

「美坂、なんか相沢に似てきたような気がする…」
「気のせいよ」
「まぁいいけど…
 俺は寝る…なんだか一気に疲れた…」
「ところでお前どこから名雪を追いかけたんだ?」
「水瀬さんの家を出て2・3分くらいの所から…」
「…マジか?」
「そうみたいね…」

以前香里に聞いた話だと、走っても15分はかかる距離らしい。
そこから学校まで全力で走ったのか…

「当然名雪も走ったんだよな…」
「ええ…」

名雪は陸上部らしいが、それでも凄い持久力だ。
そう思って名雪の方を見ると、



「…くー」



寝ていた。



結局、北川は昼休みになるまで授業は全て寝ているか上の空だった。
名雪は…いつも通りだったが。

昼休み、いつも通り栞が来るのを待っていた。
いつも通りと言っても栞が来るようになってまだ数えるほどでしかないのだが、
それでも何となくそれが日常の様に感じられた。
程なくして、栞が弁当箱を持って現れた。



「今日は普通のお弁当箱です」

そう言って栞は三つの弁当箱を出した。

「これが私の分で、これが名雪さんの、
 そしてこれが北川さんの分です」
「ありがとう、栞ちゃん」
「…」

北川は無言だったが、
物凄く嬉しそうなのが滲み出ていた。

「俺のは?」

俺が栞に言うと、栞は視線を香里の方に遣った。

「わかってるわよ…
 はい、これが祐一の分」

そう言って香里は二つの弁当箱の片方を俺に渡した。

「お姉ちゃん、お弁当を作る時凄く楽しそうでしたよ。
 鼻歌まで出てたし」

栞がそう言うと香里は真っ赤になって栞を睨んだ。

「し、栞、余計なこと言わなくて良いのっ!」
「鼻歌ねぇ…」
「…悪いかしら?」
「…いいえ」
「ほら、お昼休み終わっちゃうから早く食べるわよっ」

香里に急かされて食べ始める事になった。



弁当箱を開けると、全員がそれぞれちょっとずつ違う内容だった。
俺と香里のは香里が作った様で他の三つとはまた違ったが。

「コロッケ…いや、カレーコロッケか」

口の中に放り込んでから気付く。

「ちょっと手間がかかるんだけど。
 美味しくないなんて言ったら怒るわよ?」
「じゃあ大丈夫だな」
「何が?」
「美味いから起こられる心配はない」
「もぅ…」

呆れたような表情をしながらも、
香里はちょっと嬉しそうだった。

「…暖房効き過ぎか?」
「う〜ん、そうだね…」
「私達はちょっと離れましょうか…」

気がついたら栞達は離れた場所で食べていた。