Kanon『possibility』第六話
             
「雪に佇む少女」





「・・・起きろって言ってんじゃ、コラアッ!」

「ぬをっ!?」
「さっさと起きろォ!」
「は、はいっ!」
俺は寝ぼけたまま飛び起きる。
そして枕もとを見ると・・・
「ぐは・・・」
そこには、昨日香里に返したはずの

『乙女の目覚まし』

が再び置いてあった。
俺は灰色の脳細胞をフル回転させてひとつの仮説を導き出した。
それは・・・
香里が再び持ってきた、という説だ。
「っていうかそれしかないだろ・・・」
どうやら俺はここにいる間『乙女』の怒声を聞かねばならないようだ。
「いっそ殺して・・・」
思わずそう呟いた。


「・・・七瀬なのよ、あたし」


朝食の席。
「香里・・・」
「なに?」
「お前、俺に恨みがあるのか?」
「さあ」
「・・・」
楽しそうだった。


空には雲ひとつない。
頭上の突き抜けるような青と足元の光を反射する雪の白が幻想的である。
が、
冬の青空は冷え込む。
よって・・・
「・・・寒すぎ」
どうやらこの街は俺を凍死させたいらしい。
「まだ慣れないの?」
「まだ一週間もたってないんだ。そんなすぐ慣れる訳ないだろ・・・」
「まあ、そうかもね」
そんなことを話しながら、俺達は学校へ向かった。



校門前。
予鈴まであと五分ほどある。
「よう、おふたりさん」
俺たちに声をかけてきたのは脇役の北川だ。
「誰が脇役だ」
「細かいことは気にするな」
「全く、いい性格してるよ」
「ありがとう」
「ほめてない」
「・・・あなたたち、漫才しに学校へ来てるの?」
「・・・いや、そういうわけではないんだが」


キーンコーンカーンコーン・・・


予鈴がなる。
「ほら、行くわよ」
「ああ・・・」
俺たちが行こうとすると、北川が何かに気付いた。
「なあ・・・あれ、水瀬じゃないか?」
校門のさらに向こう。
長い髪をなびかせる、綺麗なフォルムで走る少女がいた。
「みたいね」
俺は走ってくる名雪の姿を見て、彼女が陸上部だということを初めて納得した。
「名雪っ」
香里が呼ぶと、名雪はそれに気付いてこちらへ走ってくる。
「香里ー」

タッタッタッタッタ・・・

「相変わらずギリギリにくるのね」
「・・・うー」
どうやら名雪はいつも遅刻寸前らしい。
「ほら、急ぐわよ」
「わかったよ」
今度は四人が走り出す。


「セーフ・・・」
教室へ着いたのとほぼ同時に担任が入ってきた。
「あー、出席をとるぞ」


四時間目。
「・・・眠い」
俺はお世辞にも勉強ができるとはいえない。
しかも、高校によってカリキュラムが違うので、なおの事分からない。
よって、眠いというわけだ。
そこに北川が話し掛けてきた。
「・・・人がいる」
「そりゃ学校なんだから人くらいいるだろ・・・」
「いや、あそこにいるんだが」
そう言って窓の下を指さす。
言われた通り、窓越しに下のほうを見てみる。
窓の向こう側。
そこは、ちょうど校舎の裏にあたる場所だった。
一面を真新しい雪に覆われた、どこかもの悲しい場所。
人が足を踏み入れたあとさえ、その場所には残っていなかった・・・

一組の、小さな足跡を除いて・・・

「・・・」
その足跡の辿り着く先には、女の子がひとり、ただぽつんと立っていた。
手を胸元で揃えて、ほとんど身動きひとつせずじっと雪を見つめている。
少女がふと上を見上げる。

「あ・・・」

美坂栞。
そこに立っていたのはいとこの少女だった。
まるで、何かを待っているような、そんなたたずまいだった。
「あの子、さっきからずっとあの場所にいるんだ」
遠くてはっきりとは分からないが、制服ではないようだった。
この学校ではない?
誰かを待っている?
誰か・・・
俺・・・ということはないだろう。
だったら、香里・・・?
だが、香里は栞を避けてる。会うとは考えにくい。

キーンコーンカーンコーン・・・

ちょうど授業が終了した。
「・・・あの子、まだいるな」
「ああ・・・」
上の空で返事をする。
さらに四時間目。
今日は土曜日だからこれで終わりだ。
外にはまだ栞がいる。
さっきから二時間くらい経っただろうか?
まだ栞はあの場所にいる。
「・・・」

キーンコーンカーンコーン・・・

今日の授業が全部終わった。
「まだいるみたいだな」
北川も栞を見ていたようだ。
「・・・俺、ちょっと出てくる」
そう言って席をたつ。
「おい、すぐにHR始まるぞ!」
「すぐ戻る!」
その時、隣の香里を盗み見る。

香里は、栞のいる方角を見ていた。
だが、その瞳には何も映っていない感じがした。
・・・何も。



何か叫んでいる北川を無視して廊下に出る。
人通りの少ない廊下をパタパタと走り抜け、そして階段を一気に駆け下りる。

窓から覗く外の風景は、白くて、寂しいたたずまいを見せていた。
廊下を走ると、鉄の扉が現れた。
あの外が、おそらく校舎の裏側だ。
「方角的にはここだな・・・」
昇降口とは違う扉を押し開けると、外からの冷たい空気が吹き込んでくる。
冷たく重い扉を開けて、そのまま外に飛び出す。
途端、学校の中とは比べ物にならないくらいの冷たい空気が、剥き出しの肌に突き刺さる。

「・・・寒いって」
照り返しの眩しい日差しに目を細めながら、周りを見渡す。
(2年のクラスが入っている棟があっちだから・・・)
むやみに広い校内の敷地。
もちろん中庭なんて行ったことがない。
それ以前に、あの窓の下が中庭なのかどうかも分からない。
それでも適当に辺りをつけて、その方向に歩き出す。
「・・・しかし、何やってんだろうな、俺」
白いため息を吐きながら自問して、もう一度深くため息。
昨日がまだ暖かいほうだということを、身をもって体験させられながら、雪を踏みしめるように歩を進める。
やがて、校舎裏の風景が視界を覆った。

「・・・ここだな」
一面の白。
積もったままの雪が、この場所に人の出入りがほとんどないことを証明していた。
ひっそりとその場所に存在する空間。
雪の絨毯の中心に、栞が立っていた。

「・・・」
昨日と同じように、頭に雪を積もらせたまま。
「・・・あ」
雪にも決して引けをとらないくらい白い肌の小柄な女の子。
小さな体を庇うようにストールを羽織って、穏やかに微笑みながら小さく声を上げる。
「どうしたんですか?祐一さん」
「中庭に生徒以外の人間が入り込んでるから、見に来たんだ」
「そうなんですか?ご苦労様です」
ぺこっとお辞儀すると同時に、服と頭に積もった雪が舞い落ちる。
俺は気付かなかったが、少し雪が降っていたらしい。
ずっと同じ場所に立っていたのか、足元の雪はほとんど乱れていなかった。

「でも、ちょっとだけ違いますよ」
積もった雪を手で払い落としてから、栞が口元に指を当てる。
「何がだ?」
「生徒以外、じゃないです」
たおやかに表情をほころばせ、言葉を続ける。
昨日は見ることのできなかった笑顔。
それは、可愛いという言葉以上に、儚げな笑顔だった。
「だって、私はこの学校の生徒ですから」
「だったらなんで私服で授業中にこんなところに立っているんだ?」
「私、今日は学校を欠席したんです」
「そういうのを、さぼりって言うんじゃないのか?」
「さぼりじゃないですよ」
俺の問いかけに、笑顔で答える。
その笑顔は、おぼろげな7年前の記憶に一致するようなものだった。
「だったら何なんだ?」
「最近は、体調を崩してしまっていて・・・
 それで、ずっと学校をお休みしていたんです」
そう呟いて、少し悲しそうにうつむいた。
「そういえば、昔からあんまり丈夫な方じゃなかったな・・・」
「はい、そうなんですけど・・・最近、特に体調が優れなくて・・・」
言われてみれば、確かにどこか辛そうな表情に見えないこともない。
さっき感じた儚げな雰囲気も、もしかすると気のせいではなかったのかもしれない・・・

「こういうことを訊いていいのか分からないけど・・・」
「はい、何ですか?」
「・・・何の病気なんだ?」
不意に、栞の顔が曇る。
「・・・たいした病気じゃないですよ」
小さな声で、伏し目がちにゆっくりと言葉を続ける。

「・・・実は」

「風邪です」

「・・・」
「・・・」
「・・・かぜ?」
「はい、風邪です」
「・・・」
「どうしたんですか?疲れたような表情ですけど?」
「・・・もっと難しい病名が出てくるのかと思った」
なんとなく、そういう雰囲気だった。
「すみません、何かがっかりさせてしまったみたいです」
本当に申し訳なさそうに、声を落とす。
「あ、だったら流行性感冒でもいいですよ」
確かに難しい病名だが、つまりは風邪の事だ。
「・・・いや、たいしたことないのなら、それに越したことはないけど」
「えっと、それで最近は学校をお休みしていたんですけれど・・・」
「今日は人に会うために、こっそり出てきたんです」
「こっそり来なくても、堂々と来たらいいじゃないか」
「病気には変わりないですから、外出が見つかったら怒られます」
「まぁ、少なくとも家族は心配するよな・・・」
「・・・はい、ですから、こっそりと、です」
口元に指をあてて、内緒話をするように声を小さくする。
「人に会いに・・・って、誰に会いに来たんだ?」
少なくともこんな場所で待っていないと会えないような人に、思い当たる節はなかった・・・

・・・いや、一人だけいた。

「・・・香里・・・か?」
「・・・」
「だけど、行ったところで香里は・・・」
「・・・分かってます」
栞は辛そうに俯く。

「・・・」

「・・・」

数秒間の沈黙。
それを破ったのは栞の方だった。
「・・・でも、それは理由の半分だけです」
「じゃあ、あと半分は?」
「それは・・・」
栞が顔を上げて悪戯っぽく笑う。

「祐一さんに会いに、です」
「俺に?」
「はい」

「あー・・・」
さすがに目の前で言われると恥ずかしい。
「ところで、家にいなくていいのか?」
誤魔化すついでに話を振る。
「はい、風邪はもう大体治りましたから。
 今は念のためにお休みしているんです」
「ふーん・・・」
「でも、病気で長期にわたって休んでいる女の子って、
 ちょっとドラマみたいでかっこいいいですよね」
「自分で言うなって」
「もちろん、冗談です」
にこっと楽しそうに微笑む。
病気がち・・・にはあんまり見えなかった。
「だいたい、長期って言ってるけどついこの前まで冬休みだったんだろ?」
昨日と今日休んでいたら、誰だって長期だ。
「それもそうですね」
表情をほころばせながら、うんうんと頷く。
昨日のどこか怯えた雰囲気とも違う。
今日、雪の上で校舎を見上げていた寂しそうな表情とも異なる、明るく元気な仕草。
今の顔が、俺の知っている栞に最も近い。

「祐一さん」
「何だ?」
「今日はこれで帰ります」
「もういいのか?」
「はい」
「もともと、会ってくれるとは思っていませんから」
「・・・そうか」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、俺が勝手に来ただけだから」
「えっと、それでは帰ります」
くるっと振り返って、雪の道を歩いていく。

「俺も授業が終わったから一緒に帰るか?」
俺は帰ろうとする栞を呼び止める。
栞は再び振り返って、
「それじゃ外出がばれちゃいますから」
「・・・そうだな」
そして、また歩き出す。

「・・・あ」
「はい?」
不思議そうな顔をしてこちらを見る。
「・・・いや、何でもない」
「よく分からないですけど・・・分かりました」
自分でも、今何を言いたかったのか分からなかった。
ただ呼び止めたかっただけなのかもしれない・・・

「それでは、これで」
すれ違うとき、もう一度お辞儀をする。
「・・・なんか他人行儀だな」
「・・・それもそうですね」
2人とも苦笑する。
「風邪、お大事にな」
「はい」

「・・・俺も帰るか」
栞の残した足跡を辿るように直接昇降口の方に戻る。
校門の方からは下校する生徒たちの喧騒が、冬の澄んだ空気に運ばれて中庭にまで届いていた。



昇降口の人影は、すでにまばらになっていた。
栞と話をしているうちに、随分と時間が過ぎていたようだ。
「あ・・・祐一っ」
ちょうど帰るところなのか、香里が靴を履き替えていた。
「今から帰るのか?」
「今から帰るのか、じゃないわよっ!」
「ど、どうしたんだ?」
「あのねえ、HRの前にいなくなって、石橋が怒ってたわよ。
一応誤魔化しといたけど、どうして私が言い訳しなくちゃならないのよ」
「あー・・・悪い」
「まあ、いいけどね・・・」
香里はやれやれと言った風にため息をつく。
「その代わり、ちょっとつきあってもらうわよ」
「じゃ、俺帰るから」
「待ちなさい」
がしっと肩をつかまれる。
香里の表情を見た俺は、
「断ったら殺される」
そう確信した。
「・・・お供いたします」
「よろしい」
俺が観念したのを確信した香里は、満足げに頷いて俺を引きずっていった・・・



商店街の一角にある洋服店。
そこに俺は連れて行かれた。
要するに、俺は荷物持ちというわけだ。
「じゃあ、入るわよ」
「・・・勘弁してくれ」
そこは女性物専門だった。
「下着の店の方が良かった?」
「・・・要するに、俺に拒否権はないんだな」
「そういうこと」
とても楽しそうだった。


店の中に入ると、店員の視線が俺に送られる。
「・・・やっぱり外で待ってる」
「駄目よ」
俺の提案は即却下される。
「祐一にも意見を言ってもらいたいから」
「だったら、名雪でもいいだろ」
「あの子、私が服を選んでる間に寝ちゃうのよ」
「・・・なるほど」
なんとなく納得できる。
「じゃあ、私は服を見るから、適当にしてて」
「了解」
とは言ったものの、当然することは何もない。
(栞に何か買っていこうかな・・・)
そう思い立って、適当に物を見て回る。

少し回ると、アクセサリーのコーナーがあった。
在庫処分らしく、値段も手の出せる範囲だ。
「この辺かな・・・」
いくらなんでも服を買う金はないので、この辺りで手を打つことにした。
並んでるものを順番に見る。
「うーん・・・」
売れ残りにふさわしく、微妙なデザインをしていた。
「悪趣味・・・」
なぜか髑髏や太い金のネックレスも置いてあった。

「お」
その中に、ひとつだけまともなデザインがあった。
細いシルバーのチェーンのネックレスに、
やはりシルバーの十字架がついている。
派手すぎない、控えめな自己主張をしているあたりがいい。
「これだな・・・」
香里に見つかると面倒なので、こっそりレジに持っていく。
「プレゼントですか?」
「ええ、まあ・・・」
「ではラッピングしましょうか?」
「あ、はい」
香里を警戒しつつ、店員の言葉に答える。

その時、
「祐一っ」
試着室の方から声がかかる。
「はいはい・・・」
代金を支払ってから、急いで向かう。
「何だ?」

カシャッ。
試着室のカーテンが開く。
「ほお・・・」
香里が選んだのはコートだった。
落ち着いた色でシックな雰囲気だ。
それが大人びた感じの香里とマッチして・・・
「・・・よく似合ってる」
「そう?」
香里は嬉しそうな顔をした。
「でも、コートだったら試着室に入る必要はないんじゃないか?」
「だって、いきなり見せた方がおもしろいじゃない」
「まあ、そうだけど・・・」
「じゃあ、これに決まりね」
「もう決めるのか?」
「いろいろ見ても迷うだけよ」
「そうだな・・・」
その通りかもしれない。
結局、香里はそのコートだけ買って店を出た。



家に帰ってから。
香里は俺が持っていたコートを受け取って、自分の部屋に入っていった。
リビングへ向かうと、テレビを見ている栞がいた。
「病人がテレビ見てていいのか?」
「・・・そんなこと言う人、嫌いです」
栞は怒ったような顔をした。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだけどな・・・ほら」
栞の頭に上に包みを置く。
「わ、何ですか?」
驚きながらそれを手にとる。
「いいから開けてみ」
包装紙を丁寧に取り、細長い箱を開ける。

「わあ・・・」
ぱっと栞の表情が明るくなった。
「これ、いいんですか?」
「ああ」
「でも、高かったんじゃ・・・」
「俺が、高級品を買ってくるように奴に見えるか?」
「・・・見えないです」
ちょっと切ない。
「・・・でも、ありがとうございます」
そう言って早速つけてみる。
「どうですか?」
「合格」
「何にですか?」
「秘密」
「わ、気になるじゃないですかー」
そんなやりとりを、キッチンで恵さんが楽しそうに見ていた。