#3 「あさ」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんってば」
「うん」
「…」
朝。
いや、覚醒していないからはっきりと分からないが多分朝。
まどろみの中、俺を呼ぶ声が聞こえる。
だが、目が覚めそうで覚めないこの時間帯は譲れない。
改めて深い眠りの中へ…
つねり。
「いたたたたたた!」
太腿に激痛が走って俺はまどろみから一気に現実に戻らされた。
目の前にはむくれた沙弥。
「いきなり何をするかな…」
「だって、わたしが呼んでも生返事ばっかだし」
「ほう、じゃあアレか?
起きないからって、俺の太腿をつねったのは君かね?」
「え、だって、お兄ちゃんいつまでも寝てるから…」
朝のまどろみを邪魔した罪は重い。
俺は沙弥ににじり寄っていく。
「…あっ!
わ、わたし、お鍋火にかけっぱなしだったから!」
言うが早いか沙弥は走り去っていく。
「…逃げられたか」
ともかく再び布団に包まる。
毎日、この僅かな時間が最大の贅沢だと確信している。
ぬくぬくと包まっているこの瞬間を至福と言わずしてなんと言おうか。
誰かに力説したい気持ちになりながらも、
つねられた所がまだ少し痛かったりするのでまどろむまで至らず、
結局目が覚めてしまったのでダイニングに向かう事にした。
「あ、やっと起きた」
「起きたと言うか起こされたと言うか…」
「もう10時だよ。
朝ご飯できてるからね」
「ああ」
ご飯に味噌汁に納豆に玉子焼き。
まさに朝の和食の基本だ。
「うむ、まさに和食ぢゃな」
「そうだな」
「この玉子焼きもさりげにだし巻き玉子な所がポイント高いの」
「確かに…って」
隣を見るとさも当然の様に木違が座っていた。
「なんでいるんだ、なんで!」
「細かい事は気にせんと、
味噌汁が冷めてしまうぞ」
「話を逸らすな!」
「アレぢゃ、妹さんだけネコミミでも寂しかろう、
お前さんにもほれ」
そういって目の前に出てきたのはいかにも怪しいドリンク。
「…俺も猫になれと?」
「いや、これを飲むとナマケモ」
ばきっ
「なんで殴るんぢゃ!」
「ナマケモノになってどうしろっつうんだ!
帰れ!さぁ帰れ!すぐ帰れ!」
「いや、せめてエプロン姿の沙弥ちゃんを拝むまでは…」
首根っこを掴んで外に出る。
「あれ?お兄ちゃん出かけるの?」
「ああ、すぐ帰ってくる」
「ご飯冷めちゃうから早くね」
家の近くには川が流れている。
とりあえず橋の真中まで来て、
放り投げた。
「うわっぷ…何するんぢゃ!」
「いっぺん海まで流れてこい!」
「わしゃ泳げ…」
途中で沈んでいったが多分気のせいだろう。
さあ、帰ろう。
沙弥が待っている。
[続]
#4 「おかいもの」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「…」
「…」
良く分からないが沙弥はじーっと俺のほうを見ている。
とりあえず見つめ返してみる。
「…」
「…」
ふいっ。
沙弥が先に目を逸らした。
「勝ったな」
「負けたぁ…
って、そうじゃなくって」
「なんだ?」
「…忘れちゃったの?」
「…なにを?」
俺の記憶には、それらしい事は全く記憶になかった。
沙弥は『やれやれ』といわんばかりの表情で、はぁ、と軽く溜息をついた。
「昨日帽子とか買いに行こうって言ったでしょ?」
「あー…」
そういえば言われたような気がする。
さすがに耳が生えたり尻尾が生えたりした状態で外を歩くのは嫌だ、
というのでじゃあ隠すものでも買おう、という事になったのを思い出す。
「でもなぁ…そのままでもいいだろ?」
「え〜…」
「大丈夫だって」
「そうかなぁ…」
「ちょっと『春でもないのに変なのがあるなぁ』って思われるくらいで全然―」
「ぜんっぜんダメじゃない!」
「…そうか?」
「もぅ、他人事だと思って…」
実際他人事だけど、
とか言ったりしたら何か飛んできそうなので言葉を飲み込んだ。
「まぁ、耳は帽子で隠すとして。
尻尾は無理だろう…」
「うーん…さすがに都合の良さそうなものなんてないよね」
「ズボンはいて隠すとか」
「やったけど、すっごい違和感があって…」
「上にコートを…」
「今は夏だよ」
「むぅ…」
尻尾は難題だった。
いっそ切って…はまずいだろうな、多分。
「仕方ない、尻尾はそのままにしとけ」
「え〜〜〜〜〜?」
「じゃあ切るか?」
「うっ…
それはパス」
「まぁ、それなりに似合ってるしいいんじゃないのか?」
「そ、そうかな?」
似合ってると言われ、
まんざらでもないという表情の沙弥。
「お子様っぽくて良いと思うぞ」
「お、お子様…」
どこかで『がーん』という擬音が聞こえた気がする。
見ると、沙弥が沈んでいた。
「どうせお子様だもん…」
[続]
#5 「続・おかいもの」
お子様発言に落ち込んだ沙弥を励まして、
俺達はとりあえず帽子だけ買いにきた。
今から向かおうとしている店は、
帽子や手袋、アクセサリーなんかを専門に扱っている、
ちょっと変わった店だ。
「…なぁ」
「なに?お兄ちゃん」
「着いたから離れろ、暑い…」
「う〜…」
店に着くまで沙弥はぴたっと俺の後ろに貼りついていた。
見られないように、と言う事なのだろうが、
はっきり言って、暑いし余計目立ったような気もしなくはなかった。
「いらっしゃいま…」
言いかけた店員が沙弥を見て一瞬止まる。
「お兄ちゃん、やっぱり帰ろ―」
どう言う耳なのか、沙弥が俺にぽそっと言った言葉を聞きつけ、
店員が反応した。
「いらっしゃいませ、何になさいましょうか?」
なんというか、
商売人だ、と思った。
「どういう帽子が良いかなぁ?」
「これなんかどうだ?」
俺が見せたのは―
シルクハット。
「やだ」
「早っ!」
「こんなのかぶったら余計変だよ…」
「仕方ないな、じゃあこれは?」
次に沙弥の前に出したのは―
コック帽。
「…」
「…いや、ジョークだ」
無言の方が何か言われるより怖かった。
「野球帽なんか…」
「女の子はあんまりかぶらないよ」
「赤白帽」
「それ、小学校の体育の…」
「サンバイザー」
「耳が隠れないよ…」
色々見てみるが、
なかなかいいのは見つからない。
と、ふとあるものが目に入った。
「これ、どうだ?」
俺が沙弥に差し出したのは麦わら帽子。
「あ、なんか懐かしい〜」
「かぶってみれば?」
「うん」
すぽっ、っと沙弥が麦わら帽子をかぶる。
「どうかな?」
「うん、良く似合ってるぞ」
「そ、そうかな?」
「小学校高学年か中学生くらいに見えるけどな」
「う、また同じ展開…」
「どうせだからランドセルでもしょってくか?」
「いじわる…」
ちょっとからかいすぎたか、
沙弥はすっかり拗ねてしまったようだ。
俺から離れて店の奥の方まで行ってしまった。
「…参ったな」
からかうのはやめにして、真面目に似合いそうな帽子を探す事にした。
とはいっても、ニット帽かベレー帽くらいしか見当たらない。
ニット帽をつけた沙弥…
は、少しイメージが浮かんでこなかった。
ざっと見渡してパステルブルーのベレー帽が目に入る。
それを手にとって沙弥を探す。
沙弥は少し離れた所に居た。
気付いてない。
そーっと後ろから近付いて、
いきなりベレー帽をかぶせた。
すぽっ
「きゃうっ」
良くわからない声を上げる。
「わ、これ…」
自分がかぶっているものを確認して、
沙弥は驚いた様な表情を見せた。
「それならなんとか隠れるんじゃないのか?」
「んっ…と、そだね」
沙弥は耳をちょっと弄ってベレー帽の中に収めた。
ほぼ完全に隠れているので、
端から見れば全く分からないだろう。
「ついでだから麦わら帽子も買っていくか?
夏だし」
「うーん…子供っぽいとか言わない?」
「言わない」
「うん、だったら―」
「お子様とは言うけどな」
「はぅ…」
「冗談だって。
じゃ、とりあえず両方買ってくるから待ってろ」
「え?」
「なーに意外そうな顔してるんだよ。
このくらいプレゼントしてやるよ」
「ほんと…?」
「嘘言ってどうする」
「そうだね、
ありがとう、お兄ちゃん♪」
笑顔でお礼を言われてちょっと照れくさくなり、
俺はぶっきらぼうに『外で待ってろ』と言ってレジへ向かった。
清算を済ませ、
店の外で待っていた沙弥に早速ベレー帽をかぶらせる。
「似合うかな?」
「道行く人にインタビューしてみれば分かる」
「そんな事しないよ…」
耳は隠したが結局尻尾はそのままだ。
まぁ、時々弄ると面白いしそれはそれで構わないだろう。
「っ…お兄ちゃん、しっぽ引っ張らないでってばぁ…」
[続]
#6 「処方箋」
「できた、できたぞおっ!」
我が家でけたたましく叫んでいるのは木違。
何処から入ってきたのかは全くの謎だ。
「…で、何ができたんだ」
「聞いて驚くな、
これを飲めばたちまち魔女っ娘」
「帰れ」
「年寄りはもっと大事に扱うもんぢゃぞ…」
急にヨボヨボとしだす木違。
いっそこのまま逝ってくれたら、と思わずにはいられない。
「それは冗談として、
ほれ、これを飲めばOKぢゃ」
言って取り出したのは錠剤。
ちょっと見た感じ、はてしなく怪しい。
ただ、木違が沙弥をあんなにした以上、
治せるのもきっと木違だけなのだろう。
「沙弥、どうする?」
「うーん…
ダメもとで」
「リスク高いダメもとだな…」
こくん。
沙弥は喉を鳴らし、水と一緒に薬を流し込んだ。
「…で、どれくらいで効果が?」
「多分30分くらいぢゃな」
「そんなもんか…
じゃ、改めて帰ってくれ」
「し、失敬な!」
「失敬でも尊敬でも構わんから帰った帰った」
「せめて礼くらい言っても…」
「そもそも原因がお前だろうがっ!」
何を言い出すか分からないのでさっさと帰して、
とりあえず30分待つ。
「ほんとに元に戻るのかな…」
「戻ると思うか?」
「うっ…あんまり思わない…」
「…だろうな」
「「…はぁ」」
二人同時に溜息が漏れる。
そして、
30分後。
「…で、戻らなかったわけだな」
「うん…」
沙弥の頭には相変わらず猫耳がくっついていたし、
尻尾もまだあった。
「治ってないな」
「治ってないね…」
まぁ予測してはいたが、
やはりちょっと残念だった。
「まぁ、状況が悪くなってるわけじゃないしな…」
「うん、そうだね…」
治らなかったものは仕方ない、
というか最初から期待していなかったが。
薬ならきっとそのうち効果が切れるんじゃないか、
そう楽観的に考えることにした。
みゃ〜
どこからか猫の鳴き声が聞こえた。
まさか…
「…」
沙弥を見るとぶんぶんと首を振っていた。
とりあえずさっきの薬の副作用で猫みたいな鳴き声になると言う事はないようだ。
みゃ〜
また聞こえた。
声のした方を見ると…
微妙に可愛くない猫が微妙に可愛くない顔でこっちを見ていた。
「微妙に可愛くない…」
「えー?可愛いよっ」
みゃーみゃーみゃー
沙弥が近付いていくと何か鳴きだした。
「うんうん、最近来たばっかりでナワバリがないんだね…
たいへんなんだね」
「みゃ」
「え、なんか食べるもの?
うーん、ミルクくらいしか…」
ここで、俺はある事に気付いた。
「沙弥…」
「ん、なに?お兄ちゃん」
俺は平静を保ち、
この尋常ならざる状況に落ちついて質問した。
「…なんで猫の言葉わかってるんだ?」
「…え?」
沙弥は意外そうな顔をして、
その表情のまま、
すーっと血の気が引いて、
ぱたっ
倒れた。
「お、おいっ、沙弥!?」
どうやら薬の作用は更に猫っぽくなる事だったようだ。
[続]
#7 「ねことおはなし」
ヒトの適応能力と言うものは凄いもので、
ずっと昔から自らの置かれたあらゆる環境に対応してきた。
それは現代でも変わりはない。
と、いうことで。
「にゃ」
「うんうん、
キミはアメリカンショートヘアより三毛のほうが好みなんだね」
沙弥はすっかり適応していた。
というか普通に猫と会話していた。
「しっかしなぁ…」
「どしたの、お兄ちゃん?」
沙弥も馴れたのか、
音がするたびに動く耳と、
気分によって揺れ方が変わる尻尾もすっかり馴染んでいる。
「人間馴れたらなんとかなるもんか?」
「うーん…
なんとかなるかなぁ、って」
「楽観的だな…」
「だって、悲観的になったらキリがないからね」
「そりゃそうだけど、な」
確かに悲観的になったら世を儚んでなんかしそうな事態だ。
普通はまずもって有り得ない出来事だし。
「にゃぅ」
そんな事を考えているとまた猫が何か言った、
というか鳴いた。
「うん、お兄ちゃんの部屋に入った事があって、それで?」
「…は?」
俺の部屋に猫が入って何かしたとでも言うのだろうか。
とりあえず、なんとなくだが嫌な予感がする。
「お兄ちゃんの机の上に…」
ぼっ
そういう音が聞こえそうな勢いで、
沙弥の顔が一気に赤くなった。
へにゃんとたれた耳と尻尾を見ると、
良く分からないが何かに照れてるようだ。
嫌な予感がしつつも、恐る恐る沙弥に聞いてみた。
「その猫、なんて言ったんだ?」
「あ、えっと、その…」
沙弥はしどろもどろではっきりしない。
やがて微妙に俺から目線を逸らせて、
ぽつり、と言った。
「机の上にあったお兄ちゃんの定期入れに、
その…
わたしの写真が入ってたって」
「…沙弥、今夜は猫鍋だぞ」
「に゛ゃっ!?」
俺の体から殺意の波動を放出している察知したのか、
猫はさっさと逃げてしまった。
「ちっ…
逃したか」
生のまま鍋に突っ込んでやろうと思ったのだが。
「猫鍋は駄目だよぉ…」
「じゃあ猫汁だな」
「だからぁ…」
理菜に見られた時はさんざんシスコンとからかわれ、
しまいには猫にまで見られるオチもどうかと思う。
さらに本人に知られたと言うのが非常に恥ずかしい。
「でも…」
「でも?」
沙弥はちょっと言いづらそうにしていたが、
やがて聞き取るのがやっと位の声で言った。
「わたしも、
お兄ちゃんの写真定期入れに入ってるよ…」
「…今凄く恥ずかしい事言ったって自覚してるか?」
「わ、お兄ちゃんいじわるだよっ!」
「そんなの入れてたらブラコンの謗りからは逃れられないぞ!」
「もう学校の友達とか理菜さんとかから言われてるよ…」
「うあ…」
なんだか理菜にシスコンの兄貴とブラコンの妹として認識されているようだ。
よく考えると激しく問題のある兄妹に聞こえる響きな気がする。
「今すぐ理菜んところ行って訂正してくる!」
「わ、いいよ、わざわざ訂正しなくても」
「このままだと生涯シスコン・ブラコン兄妹言われそうだぞ?」
「別にいいよ、それでも」
「なんでだ?」
沙弥はもぢもぢとして、
やや上目遣いで俺に言った。
「だって、わたしお兄ちゃんのこと好きだもん」
それを聞いて、俺は思わず口元を押さえた。
「…恥ずっ!」
「わっ、せっかく勇気出して言ったんだからそんなリアクションなしだよっ」
「だってお前そりゃ言う方も聞く方も激しく恥ずかしいぞ」
「ぅ〜、お兄ちゃんの馬鹿ぁっ!」
沙弥はどだどたと自分の部屋に走り去っていった。
『俺も好きだ』と言うのは恥ずかしい、と言う事もあったが、
それ以上になんとなく憚られたから誤魔化しついでにちょっと言いすぎたかもしれない。
それに、俺が『好きだ』と言うと
兄妹以上の何かが含まれてしまいそうな気がした。
俺達は義理ではあるが、やはり兄妹だ。
なんとなくそう自分に言う。
さしあたっては、
妹の機嫌を直すために何か奢る時の財布の心配をしよう。
[続]