冬と夜の道














 目の前を、市営バスが通り過ぎていった。周り暗く、赤く灯ったバスのテールも、ゆっくりと闇に消える。
 排気音も遠くなり、2人の間には再び静寂が訪れる。
 冷たい風が、宵闇を通り過ぎる。寒いな、と、祐一は呟いた。
 バスで30分の道のりを歩いて帰ろうと言ったのは佐祐理だった。
「どうして疲れる選択を選ぶかなぁ?佐祐理さんは…」
 祐一が訊くと、別に意味はないんですけどね、と佐祐理は、舞の顔を思い浮かべて、もう眠っているだろうから、
と心の中でつけたす。
 祐一はグレーのブルゾンを、佐祐理はオフホワイトのハーフコートをそれぞれ着込んで、郊外の夜道を歩いていた。乾いた寒さを気持ちが良いと佐祐理は思った。
「今年もあと一ヶ月ですね」
 赤信号の横断歩道を渡りながら言った祐一の横顔が、妙に清々しいのに、佐祐理は戸惑った。夜のせいか、
はっきりと見えない祐一の姿に、髪の毛でも切ったのだろうか、と、そんな疑問が浮かんだ。
 いつも見ているけれど、わからないこともある。知っているつもりでなにも知らないのかもしれない。思わずそんな苦笑をもらしながら、佐祐理が訊いた。
「祐一さん、髪の毛、切ったんですか?」
 祐一は振り向いて、切らないよ、と言う。
「切らないよ」
 あんまりまっすぐに目をみつめられたので、なにか別のことを言われたような錯覚を持った。今日の祐一は、少し、違うと、佐祐理は感じた。
「昼間、ここで舞と一緒にお茶を飲んだんですよ…」
 ガラス越しに浮かぶ、明るい店内を見ながら佐祐理は言った。
 普段は滅多に立ち寄ることのないファミリーレストランに、昼間、舞と訪れた。理由なんて、特にないけれど、偶には女の子らしい雰囲気でも味わいたかったのかもしれない。
 そうなんだ。祐一が返す。視線をやるとウェイトレスが忙しそうに歩きまわっている。昼間、佐祐理と舞の二人で座った窓際のテーブルには別のカップルが座っていた。
「で、どっちから話すの?」
 祐一が言い、どこか彼らしくない、唐突で強引すぎる調子に、佐祐理はつい驚いた表情になる。
「……どうしたんですか?なんだかおかしいですよ」
 立ち止まって言うと、祐一も立ち止まり、振り向いて微笑むと、べつに、と答える。
「べつに、どうもしないよ」
 それならいいんですけど。佐祐理が言い、なんとか体勢を立て直すべく、足を早めて祐一の少し前にでる。それからしばらくの時間、どちらも何も言わないままで歩いていた。
 祐一は、どこか時間を噛み締めるように。それに対して、佐祐理は擦れ違う人たちが気楽そうに見えて仕方がなかった。
「最近、舞、どんどんと綺麗になってますよ。祐一さんのこと、本当に好きみたいだから…」
 佐祐理が、きっかけに思いついた言葉は、唐突のように思えるが、祐一には不思議な説得力があったように思える。
 へえ、と、嬉しそうに返す。
「良かったね、佐祐理さん」
 佐祐理は、ほんの僅か―ほとんど、自分でもわからないほど―心臓がざわめくのを感じた。今日、初めて祐一の肉声を聞いたような気がした。
 そうですね、と答えて、再び黙って初冬の道を歩く。月も、星も、何も見えない夜。風がざわめく。自分の心のように。
 昼間、ファミリーレストランでの舞は、少しだけ、佐祐理に対して、罪悪感を表情に出していた、と思う。幸せそうに親友に対して、想い人―恐らくは彼女は知らずの内に、嫉妬しながら―のことで盛り上がることに対してのうしろめたさだ。
 そんな舞を見るのは、佐祐理に痛みを与えるが、それでも、祐一は舞を大切に思っているのがわかる。昼間の舞は、確かにとても可愛かった。
「あーっ、もう駄目!!」
 祐一が後ろで突然大きな声をだした。振り向くと、立ち止まって天を仰いでいる。首にぐるぐると捲かれた紺色のマフラー。あれは青いバックパックと会わせてコーディネートしてあるのだろうか、と佐祐理は考える。
「ど、どうしたんですか?急に…」
 だめだぁ、と、ひとり言にしては大きな声で祐一が言った。
「クールに話そうと思ったんだけど、全然だめ」
 プールから上がって、いままでずっと息を止めていましたと言わんばかりの口調。祐一が何を言っているのか、
佐祐理にはわからなかったが、困惑した祐一の表情、それだけで佐祐理は安堵とする。反面、どうして安堵できたのかは、わからないけれど、どこかわかっているような気がする。



       不安でいることで、自分は感情を誤魔化す術を知りつくしているのだから



 きっと、彼は焦っている。それは佐祐理にとっても手に取るようにわかる。
 自分達には時間がない。残りの砂が流れる時間は、きっと指で数えるくらいだろう。
「くじける前に言っちゃうよ」
 半ば、自分に言い聞かせるように言って、祐一は佐祐理の横にならぶ。
「家に帰ってからにしましょう」
 佐祐理は、つとめてのんびりと言う。時間を延ばそうという理由をつけて。けれど、本当は、祐一が"言うであろう"これからに不安を感じていた。だが、祐一はそれを訊き入れず、淡々と続ける。
「これ以上、曖昧なのって、良くないと思う。俺にしろ、舞にしろ、佐祐理さんにしたって」
 仕方なく佐祐理は黙る。それから10メートルほど歩くと、祐一はぽつんと言った。
「舞のこと、頼むよ…」
 え、と小さく訊き返した佐祐理に向かって、祐一はさっぱりと笑ってみせる。恐ろしく好感度の高い、それでいて
瞳だけは意志的に殺して。
 悲しい笑顔だった。
 祐一は続ける。
「俺、仕事が始まる前に家から出るよ。荷物は、後で適当にとりにでも行くからさ。ま、処分してくれちゃっても良いけどね。対したものなんてないから…」
「…」
 佐祐理は言葉を探しあぐねて、祐一の横をただついて歩いた。
「俺の話って、それだけだよ」
 祐一は、続ける。穏やかで、落ち着いた声をもって。
「今度は佐祐理さんの番かな?」
「…あの、ええと…」
 とりあえず考えるふりをする。ええと、あの、ともう一度繰り返すと、吐く息が白いのに気がつく。佐祐理は自分の鼻の頭が今、赤くなっている、そんな気がした。
「…なんてね、嘘だよ」
 祐一が笑いながら言った。
「ちょっと言ってみただけ。佐祐理さんもおなじでしょう?」
 自分が否定しそうになったことに、佐祐理は気がつくと、どうしようもない気持ちになってしまう。祐一はコートのブルゾンのポケットを探って、佐祐理にあるものを手渡す。それは3人が共に暮らしている部屋の鍵だった。はい、と言って、佐祐理に差しだす。さわやかとしか形容できない仕草と表情で。
「…祐一さんって、やっぱり気が利かないんですね」
 鍵を受け取ると、佐祐理はめずらしいことに減らず口を叩く。いや、それすらもかろうじてだったのかもしれない。
「歩いて帰っているんですから、せめて、玄関先とかで渡してくれた方が良かったのに」
 これから先の道のりをどうしてくれるんですか、と言いたくなるほどに、佐祐理は、孤独に放り出されたような気分になった。
 鍵は、手のひらにとても冷たい。自分が先にやろうと思っていたことが、果たしてそれだったのだろうか、と、佐祐理は弱々しく思考を巡らせる。
 バスで30分の道のりは、うんざりするほど遠かった。まるで苦行のように思う。何度か歩いて帰ったこともあったが、その時は1人だった。今夜、祐一と2人で歩くのは、まったくもって苦行としか言いようがなかった。
「少し、疲れました。コーヒーでも飲みませんか?」
 再び、ファミリーレストランの灯りが見えたので、佐祐理は提案してみせたが、祐一はきっぱりと首をふり、真っ直ぐ帰ろう、と言う。けれど、佐祐理は引き下がらなかった。
「でも、寒いですし、本当に疲れたんですよ」
 冗談じゃないと思う。私はどうしてこれ以上に辛くなる選択を強いられねばならないのだ、とも。
 祐一は困った顔をして、それから、わかった、という。
「わかった。じゃあ、俺は先に帰ってるよ。悪いけど、佐祐理さんは1人で休んでいってよ。なんならタクシーでも呼べば良いことだしさ…」
 佐祐理は、途方に暮れてしまった。祐一はこんなヒトではなかった、とも。
「…どうして、そんなに意地悪なんですか?」
 祐一に顔を真っ直ぐに、見て、佐祐理は訊いた。
「祐一さん、いつだって優しいじゃないですか。どうして、今日に限ってそんなことを言うんですか?」
 いつもの自分じゃないみたいだ。佐祐理はどこか冷静に、自分をそう、判断した。
「ごめん」
 祐一は言った。
「本当に、ごめん。今は、今だけは俺、佐祐理さんと一緒にコーヒーなんて飲めないよ…」
 寂しそうな祐一の言葉に、佐祐理は悲しくなってしまった。
 それは決して悲しいことではない。当たり前のことなのに。どうして悲しいのか、佐祐理わからない。
 どうして自分が、悲しいのか、佐祐理には、わからなかった。
 結局、ファミレスには寄らなかった。気がつけば、バス停から続く、3人の住処までの長い坂道が待っている。
 祐一と佐祐理。2人ならんで、ほとんど喋らず、ただ、黙々と1時間はかけて歩き通した。そして、そのあいだ中、佐祐理は苦悶していた。
 そんなことはないはずなのに。
 そんなはずはない、まだ、きっとなんとかなる、と。
 佐祐理は、祐一を所有した覚えなどなかった。あくまで、舞を通して触れ合っている。ただそれだけの関係である。ならば、どうしてこんなに焦るのか。もう、自分がわからなくなっている。ひょっとしたら、これは笑うところなのかもしれない、とも思う。
 ふと、佐祐理は思い返す。いったん所有してしまったものは、いつかは必ず失うことを。
 佐祐理はそれを身をもって学んでいた。
 なのに、所有していないものを失うはずはないのに。
 だからこそ、一切所有しないで暮らしてきたはずなのに。
 ともかく、自分が今、祐一を失うことなどない、と、それは無茶な理屈を、頭の中で佐祐理は繰り返していた。
 それこそ、自分から、言い出すはずだったのに、どうして祐一が言わなければならなかったのか。
 なんでも良いから、佐祐理は理由を欲していた。















       けれど、わからない

          なにも

             なにも















 いつもの、長い坂を登るだけのところまでくると、前を向いたままで祐一に呼びかけた。
「祐一さん、どうしてなんですか?」
 佐祐理の言葉に祐一は苦笑する。はじめて見る、あんなに慌てた佐祐理を見て。アドバンテージを握ったつもりなどなかった。ただ、それが自分になっただけだった。むしろ、佐祐理が握ってくれている方が幾分かマシのような気もする。
「言わなきゃいけない?」
 いいえ、すいません。佐祐理はあっさりこたえたが、足取りが重たいのは疲れたせいだけではないのがわかっていた。もう直ぐ着いてしまう。どこかに、後戻りのできなくなる、どこかに着いてしまう。
 そう思うと、気が急いた。
 佐祐理は坂の中腹で立ち止まる。祐一は2、3歩歩きかけて振り返り、どうしたの、と訊ねる。佐祐理は祐一を改めて見つめる。あきらかに訴えかける表情で、どうもしませんよ、と答えた。
 佐祐理はもう一度立ち止まる。本当は泣きたくなっていた。自分がなにに焦っているのか。なにに脅えているのか。どうして、悲しいのか。どうして、疲れているのか。
 祐一は再び振り返ったが、今度は何も訊ねなかった。
「わかっているんですよね?」
 かわりに、佐祐理が質問する。
「佐祐理が今、祐一さんにどうして欲しいか、本当は、ちゃんとわかっているんですよね?」
 どちらも目を離すことはなかった。
「わからないよ…」
 と、祐一。
「ちゃんと言ってくれないと、俺には、もう、わからないよ…」
 更に、2人は1分近くにらみ合ってから、馬鹿馬鹿しいほど小さな声で佐祐理が言った。
 もう少しだけ、待ってくれませんか、と。
「まだ、時間が必要なんです、私も、舞も、多分、あなたも…」





























 既に舞は眠っていた。
 テーブルについた2人。
 祐一は手渡したはずの鍵をもてあそびながら。
 佐祐理は、コーヒーを淹れながら、ぼんやりと、ヒーターの音を聞いていた。