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フェイ・ウォンの本業は女優ではなく歌手。香港でいちばん人気のある歌手のようだ。

無断侵入した男の部屋でひとり遊びに没頭するフェイ。ほんとにキュート。

金城の発音はなにかモゴモゴしてる。
フェイは写真写りが悪いなぁ。動くと魅力が出るタイプなんだよ。

トニーレオン(右)は色男の目だ。やさしくて、あたたかい。寝てる時はショボイんだけど。
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−映画− 「恋する惑星」 監督 脚本 ウォン・カーウァイ
これは、本当に本当の「ヌーヴェルバーグ」なんだ。香港ヌーヴェルバーグだよ。もちろん香港もヌーヴェルバーグもどうでもいいんだけど、そんな枠を超えて「恋する惑星」、これは90年代映画界の達成、じゃないかとおもうんだ(大げさな表現に聞こえるかもしれないけど)。好き、というより心の底から愛してるなー。この作品、カーウァイの詩的イメージがみごとに結実した。
95年に上映されて、(中国を除く)世界各都市で大ヒットした。
「その時彼女との距離は0.1ミリ。57時間後、僕は彼女に恋をした」
冒頭のシーンはこんな字幕で始まるのですが、印象的じゃないか、前衛の匂いがして難解の予感、ヌーヴェルバーグ調、つまりは退屈。と、僕は早くも退屈を感じはじめていた(もっともキライな映画は芸術然としたヌーヴェルバーグだ。僕はハリウッドのわかりやすいエンターテイメントを好む)。だから、そのとき、僕のとった具体的な行動は、ベルトをゆるめ、ジーパンのジッパーを下げ、股間に空気を循環させたことだった。後ろに観客がいないことをいいことにシートに腰を沈みこませ、前の座席に両足をのっけた。
いつか強い緊張を覚えていた。ナメきった姿勢をすべて撤回した。この作品は、そんな映画じゃない。僕は背筋を伸ばして、ただみいった。
映画終了後、もし僕に勇気があったら、2時間ずっとスクリーンにむかって拍手していたな。
カーウァイ作品の魅力を書くのはむずかしい。ただカーウァイは、井伏、梶井、ロメール、安岡と、この系譜であることはまちがいない。カーウァイもまた天性のユーモア作家だ。イタズラ心いっぱいの、その発想は、とても清らかで、足のウラをくすぐられているような、郷愁に似た情感を呼びおこさせられる。
この作品の白眉は、フェイ・ウォンが想いを寄せる警官トニーレオンの部屋に「無断」で忍び込み「勝手に」部屋を掃除するシーンだ。フェイはベッドにトニーの恋人の髪の毛があるのを発見して、足をバタンバタンさせワンワン泣きマネしてみせる。そして(指紋が残らないよう)ゴミ手袋をはめた手で髪の毛をつかみ虫眼鏡でのぞきこむ。彼女の変態行為は、なんと可憐でなんてアヴァンギャルドだったろう。フェイのボウイッシュな短髪とゴミ手袋のピンク色が利いていた。カーウァイの「恋する惑星」は、安岡の「ガラスの靴」に匹敵する(僕がおもいつく最大級の賛辞だ)。カーウァイも普通の女性をここまでうつくしく描いた。カーウァイは女性の強がりを実に魅力的に描く。変態行為中のフェイ、そのときの彼女のキュートさは、ジェラートをなめるオードリー、尻を触られてキャッと声をあげるシャーリーにヒケをとらない。これは映画史に残るシーンだ。100年残るシーンだ、とおもう。
<作品概要>
謎の金髪女と刑事。軽食屋で働くウエイトレスと警官。二つの恋がテイクアウトの軽食屋で交差する。彼女にふられた二人の男の恋物語。
フェイ・ウオン、トニー・レオン、金城武が好演。
前作「欲望の翼」と比べて、格段に洗練された。タランティーノが絶賛し、自らが配給権をとったことから世界的な注目を集めた。カーウァイのウイットあふれる脚本、ドイルのスタイリッシュな映像がさえわたった。ママス&パパスの音楽も調和した。今のところカーウァイの代表作。

クエンティン・タランティーノ(左)とカーウァイ(右)
以下はタランティーノのコメント。1995年6月2日ロサンゼルス
メルニッツ・シアター『アジアン・パシフィック映画祭』で
「数年前、ブラジルのサンパウロ映画祭で『欲望の翼』を見て、ぶっ飛んだ。そして去年、ストックフォルム映画祭で(タランティーノは審査員として参加)『恋する惑星』を観た。正直に言って、ここ2年というもの、こんなに熱くなった映画はなかった。映画が始まるやいなや、最初のワンカットでこの映画にイカレてしまった。完全に一目惚れだった!
そして数日前、ビデオでもう一度見た。個人的分析によると、僕はこの映画を愛している。僕は自分が泣いているのに気づいた。別に人を感動させようとして作られた映画じゃない。泣かせるようなシーンがあったわけでもない。ジョークに引っ繰り返るほど笑わされたわけでもない。じゃあなぜかって?
それは……ちょっと自分がゲイになったような気がしたけど……それは、こんなにも僕がこの映画を愛してるってことが嬉しすぎて、泣いたんだ。(場内爆笑&拍手)」
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金城は雰囲気があって、ほんとにいい俳優だ。今後、オタンコナスな役はすべて彼にふってほしい。
レオン・ライは写真でみるとかっこいい。でもそれは錯覚で、金城同様、オタンコナスな味が彼の魅力なんだよ。
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−映画− 「天使の涙」 監督 脚本 ウォン・カーウァイ
「恋する惑星」の次の作品。前作はフェイのみずみずしさとトニー・レオンのトンチンカンぶりがたいへんよかったのだけれど、本作は金城武の魅力でいっぱい。ナンセンスでアナーキーな演技を披露した。ケチャップを腹につけ、死ぬマネをするシーンが光った。

原題は「堕落天使」というらしい。
<作品概要>
殺し屋とエージェント、謎の金髪女、口の聞けない元刑事。四人が繰り広げる恋愛物語。前作同様、ストーリー自体に意味はない。本来は「恋する惑星」の第3話として予定されていた。「恋する惑星外伝」といった感じ。一発ヒットさせてカーウァイには猛烈なプレッシャーがかかっていたのだろうか、ちょっと質が落ちた(それでもおもしろいですが)。クリストファー・ドイルのカメラは相変わらずさえをみせた。ママス&パパスに代わって、フライング・ピケッツの「オンリー・ユー」が流れる。

ウォン・カーウァイ
王家衛。と、こんな漢字を書くんだねー。
カーウァイ作品は説明しがたい。カーウァイの資質もそうだ。ユーモアという点でいえば、ハリウッドにもカーウァイクラスはゴマンといるだろう。が、(こうした逸材をひとくくりにみるのはたいへん失礼な事だが)カーウァイと比べるとおしなべて重い印象だ。ハリウッド映画界はユダヤ系作家が中心を占めているのだが、端的に言って1000年も母国がなく、世界各国を漂白し、ナチス弾圧に代表される迫害を受け続けてきたユダヤ系の、弱者ならではのユーモアへの転化は、力強い分だけ、思想的な重さを伴いがちだ(悪い意味で言ってる。僕の場合、むずかしい映画は寝てしまうのだ)。おもうにカーウァイのそれは、ユーモアではなくもっと軽い何かだ。攻撃性のないエスプリ。バカバカしいウイット。このあたりが近いのではないか。弱者も強者もなく、バックボーンもなにもない。ただ詩的なキラメキ、イタズラ心があるばかりだ。全シーン、軽みにみなぎっている。
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−イベント− 「モッドお花見@下北沢遊歩道」 企画 タツキ
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タツキ君(中央)
(2000.4.8)
カーウァイ作品と同質のものをかんじるよ。
今年で十年目とのこと。でも来年でおしまいだそうだ。
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ワイラーのシンボルは階段だ。「女相続人」、「ローマの休日」、「コレクター」など、ワイラーの映画には必ずといっていいほど、階段が効果的に使われる。これが本当にうまい。ワイラーの本領は演出にあるとおもわれる。

気品あふれる寝間着です。
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−映画− 「ローマの休日」 監督 ウィリアム・ワイラー
オードリーの可憐さ。完璧なエンターテイメントムービー。

<作品概要>
アン王女の場末探検記。
ウィリアム・ワイラー
最もハリウッドらしかった職人監督。巨匠の名がピッタリする。様々なジャンルの作品で手腕を発揮し、緻密かつ整理整頓された演出で、数多くの名作を残す。あらゆるジャンルで金字塔をうちたてた。
たいていの監督は、得意なジャンルの作品しか演出しないが、ワイラーの場合は、得意も何も関係なしで、映画ならとにかく緻密に計算して演出、作品化した。西部劇(「大いなる西部」)、ロマンスもの(「ローマの休日」)、スペクタクル(「ベン・ハー」)、サスペンス(「必死の逃亡者」)など、何でもできた。たしかワイラーはアカデミー賞最優秀監督賞にノミネートされた回数が歴代第1位ではなかったか。
カーウァイがドイルとがっちりタッグを組んでいるように、ワイラーもグレッグ・トーランドというカメラ屋に恵まれた。トーランドは映画史上紛れもなく最高のカメラマン、「市民ケーン」でパン・フォーカス(遠景と近景の両方にピントが合う)を確立させた男だ。運がいいのも実力なんだ。
彼とワイラーは終生、親友同士だったみたい(ほんとに感謝)。

オードリー・ヘップバーン
不思議に聞こえるかもしれないが、オードリーで抜いたことがない。それだけは絶対やってはいけないことだ。言うまでもなく、彼女に失礼だ。妄想の中にオードリーを参加させること自体、その発想自体が、彼女に対する冒涜のようにおもわれる。どうも彼女の気品がそうさせるようだ。彼女は気品を創ることに生涯をささげた感すらある。だから、オードリーにすりこまれた気品には実にヒヤヒヤさせられる。
10才のとき、オランダに移住するが、第2時世界大戦にまきこまれ、ドイツ軍に叔父を殺された。老年期のボランティアは少女期の飢えがあるのだろう。インチキだとはおもわない。
思春期以降、彼女が今後の人生を送るにあたって何らかのトラブル、つまりひどい目にあいはしないだろうか、僕はふとそんなことをかんがえている時がある。
(どうぞ彼女がハッピーでありつづけますように。)
もう死んだのだから、そんな心配は必要ないのだが……。おれより年上なのだ。

ハンフリー・ボガード(左)、オードリー、ウィリアム・ホールデン
おもしろい写真みつけた。完全に脱線なんだが、ボギーは顔がでかい。写真の通りだ。下手をするとオードリーの二倍長に届かんばかりの勢いであり、これがアメリカの安藤昇と呼ばれるゆえんだ。いったいどっちがでかいんだ? いつも疑問がよぎる。安藤もバリンバリンの六等身で、みごとな巨顔男だ。ある日、安藤が銀座を歩いていると「おい、おまえでけぇ面してるじゃねぇか」さっそく土地のヤクザにインネンをつけられ、「それがどうしたってんだ」タンカをきったところやっぱり事務所にひっぱられ殴る蹴るの暴行を受けたのだが「親にもらった面だ。これ以上小さくならねぇ」よせばいいのに余計な一言を追加したため(バカだねぇ)、半死半生の目にあわされたとの由。とにかくボギー、昇、エド・サリバンはでかい。よく似てる。
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−小説− 「夜の支度」 著 三島由紀夫
ユーモアが、ウイット、エスプリの最高進化形だとすると、悪口、冷笑はもう一方の極だろう。スピリチュアルという言葉がある。これは、ユーモアと反対側に位置されるようだ。当意即妙の意、冷たい感じだ。三島のためにあるような言葉だ。三島も純文学系だが、太宰、安岡とちがって、想像力に恵まれた。三島は「僕」だと伸びない。かわりに「彼」だと猛烈に伸びる。
この短編小説には、ほとほと感心した。
若干、二十代前半で書いたようだ。大げさでなく仰天した。
<作品概要>
「男が仕度すべき夜の仕度を、一二度接吻を受けたばかりの純潔な少女が見事に整えてしまったとは何事であろう」
彼の驚愕。
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クールで知的な目。時折みせるこの表情が彼女の本領だ。ジャック・レモンも最高。
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−映画− 「アパートの鍵貸します」 監督 脚本 ビリー・ワイルダー
この作品も心から愛してる。監督も女優も俳優もみんな大好きだ。これがハリウッドの極致だ。
アカデミー脚本賞作品のおもしろさは絶対まちがいないが、「アパートの鍵貸します」は歴代の受賞作品の中でも群を抜いてる。ハリウッドは世界各国から集まったライターたちがチームを組んで書いているようだが、ワイルダーは自作にこのシステムを持ち込ませなかったという。といって一人で書いていたわけではなく、I・A・L・ダイアモンド(よく知らない)という人と共作し続けた。ハリウッド系はすべてのプロットが絡みあい意味をなしているので、一人では負担が大きすぎたのだろう。英語はわからないので見落としている部分も多いとおもうが、この作品の脚本は奇跡のようにおもわれる。
<作品概要>
アパートを上役の情事の場所に提供することで、出世をもくろむしがないサラリーマンが、恋することで自分の人生を見つめ直す。ほろ苦い涙と笑いの物語。数あるワイルダー作品の中でも『サンセット大通り』と並ぶ代表作。

ビリー・ワイルダー
1906年オーストリア生まれ。しゃれたスマートな喜劇を得意とするハリウッド映画の達人。
ペーソスあふれる世界を描かせたら絶妙。主な作品『サンセット大通り』('50)『麗しのサブリナ』('54)『七年目の浮気』('55)『翼よ!あれが巴里の灯だ』('56)『昼下がりの情事』('57)『お熱いのがお好き』('59)『あなただけ今晩は』('63)『悲愁』('76)。
「ローマの休日」のウィリアム・ワイラーと好対照だ。どっちも巨匠で職人肌だが、ワイラーは演出家出身、ワイルダーは脚本家出身だ。良識派のワイラーとちがって悪童のイメージが強い。ある資料には「妥協を知らぬ演出と傲岸不遜の毒舌でハリウッドに君臨」とあった。
ワイルダーのウイットは、怒りとペーソス(哀しみ)が土台となっているようだ。生い立ち、キャリアが少なからず関係しているようにおもわれる。第二次大戦に巻き込まれた時、幸いにも中年、自己を確立させている年であったが、ナチスの台頭でオードリーと同様(この年代の欧州系映画人はだいたいそうみたいだが)、他国への移住を余儀なくされた。
ワイルダー作品には安岡作品と同様の反骨をかんじるのだ。反骨というのはむずかしくて、北向きの反骨(安岡だ)はまず勝てない(まぁ安岡は敗北に一生を賭けているのだろうが)。反骨を開花させるには、人を豊かにする方向でもっていかなければいけない。と、これを実践しているのがワイルダー作品で、全作品、日の当たる方向を向いている。(僕得意の勘違いをおそれずに言えば、だ)。
ワイルダーの型としては、ギャンブラーそのものではないか(実際、少年時代、ハスラーとして食っていた)。彼の生き様をみると勝負に対する執着が絶えずうかがえる。職人はまずてめえの仕事しかかんがえていないだろうが、ワイルダーは仕事をやりやすくする環境を整えることに注力した(そのやり口たるや、まるで全盛期矢沢永吉のイケイケぶりなのだ)。ポジションを確立させたうえで、やりたい放題やった(実のところ、たいへん怜悧な頭脳の持ち主で、彼の行動は常に大人だったといえる)。
三島が社会不適格者としての償いを衝動に人間の欠点、弱点に目を向け、犠牲者と傍観者の作品を創りあげたとすると、ワイルダーは発見を動機に人間観察という方法で同情と共感の芸術を産み出したといえそうだ。いや、これがトンチンカンな見方だったとしてもワイルダーの武器が人間観察だったというのはまちがいない。
以下は幼少時をふりかえった語録とエピソード。(インターネットから無断抜粋)
<ワイルダーの父親は、オーストリアのクラクフで四階建てのホテル・レストランを開業していた。そこには、ビリヤード室にカード用テーブルなどもあった。ビリー少年がいっぱしの大人のようにふるまうようになったのは、この遊戯室であった。ビリヤード台の常連達を観察していたビリー少年は、三、四歳にしてキューの扱いに熟達、スリー・クッションで天才的な腕を見せるようになった。
(略)
ビリー少年は金銭感覚にも秀でていた。客がテーブルに小銭を置いていく。それはチップなのだが、ウェイターがのろのろしていると、ビリー少年はこっそり小銭をかっさらった。ある時、盗みがバレて捕まり、ウェイターにこっぴどく叩かれたことがあった。父親は息子が叩かれたことを知って怒り、理由を問い詰めた。話を聞いた父親からビリー少年はまた殴られた。正直であることの大切さを説き聞かされたワイルダーは、ほとんどの人間は金こそ全てだと信じているようであるが、そうではないということを学んだ。
「いろんな人間が出入りするホテルの遊戯室は、成長の途上にある少年にとってはいい学校だった。人間の本性について様々なことを学んだよ。おぞましいことばかりだったがね。」>
シャーリー・マクレーン
これは失礼な話だが、僕はシャーリー・マクレーンでたまに抜く。はっきり言って彼女にはオードリーの気品がない。オードリーの高貴さはないが、器量がある。成熟した女性の寛大さがあるのだ(逆にオードリーにはかんじられない部分だ)。そう、たとえば━━。とんでもない事をしてしまった後、彼女の胸に顔をうずめ謝罪しながら、僕は大声で泣いてみたい。
と、マクレーンにはこんな事態も許してくれそうな、大きな包容力があるんだよ。
(会ったこともない女つかまえて、こんな説明するのは実に気がひけるが……)
母性が強いのかと言うと彼女の自伝を読むかぎり、そうはおもえない。逆に骨っぽさと知性をかんじる。少女期より闘いの連続なのだが、興奮することなく大局的な視点でさばいていく。僕はマクレーンの中に男をみる(安藤、安岡、マックイーンのように)。
彼女の顔をみると勇気がわいてくる。
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