安藤 昇
━━ 我が意志で人生を歩め! 敗戦日本が産んだ、稀代のインディビジュアリスト ━━

 これから俺は、何かをやってやる。誰にも負けてたまるもんか。俺には資力も技術も、何もない。だが、丈夫なこの肉体と不屈の精神がある。
 真っ黒に日焼けした顔に、ギラギラと光っている目、飛行服に飛行靴、だれが見てもまるで野獣のような少年であっただろう。

 新宿の闇市は朝からにぎわっていた。
以下白抜きはすべて、自伝長編「やくざと抗争」(著 安藤昇)より抜粋

※写真は、処女作「激動」執筆時(撮影:文芸春秋社)……1968


十五歳でブタ箱へ、感化院から予科練。そして敗戦後の焼け跡闇市時代。地元ヤクザ集団との血みどろの抗争を経て、いつか安藤は、激烈な戦闘集団を作り出していた・・・。時代の混沌は安藤の人生流転とすっぽり重なる。

「予科練の特攻さんかい。本当にたいへんだったね。うちの子も終戦間際に兵隊に行って、戦死しちまった。どうせ、負けるんなら、もうちっと早くくれりゃ助かったのにねぇ……。さあ、これはおまけだよ」
 丼に半分おまけをよそってくれたおばさんは涙ぐんでいた。息子さんを思い出してのかもしれない。
 目の前にも、そこにもここにも”悲劇”はころがっていた。
<敗戦日本、これからは国民一人一人が、足に鎖をつけて歩いて行かなけりゃならない。目的も希望もない苦難な道。その道は果てしがないかもしれない。だが、俺は、負けやしねえぞ!>
 腹が満たされると、中学時代の不良仲間を捜し求めて歩いた。

※写真は、東映第一作となった安藤昇主演映画「懲役十八年」
「ドロボー! ドロボー!」
 大声をあげてねじりハチ巻きの肥満したおやじが、浮浪児を追いかけている。浮浪児は両手にコッペパンを握って死に物狂いで逃げまわる。(中略)ハチ巻きのおやじは、倒れた浮浪児のえりがみをつかむと、あとからむんずとつかみ上げ、ポカポカとやりだした。
「この泥棒小僧め、今日はもう勘弁しねえぞ! 警察につき出してやる」
 息をはずませながら、おやじは殴りつづける。しかし子どもは泣かなかった。歯をくいしばって必死に耐えているのだ。
 やがて人だかりがしてきた。私は、思わずとび出して行くと、おやじをつきとばしていた。
「やめろ! 相手は子どもじゃねえか」

※映画「懲役十八年・仮出獄」
 おやじは一瞬、私の剣幕にたじろいだようだった。
「冗談じゃねえヨ。子どもだって、このガキゃあ、泥棒の常習犯なんだ。放っといてくれ」 おやじは唾をとばしながら、私にいきまいた。
「おい、おやじ。てめえは俺が止めたのが気にくわねえっていうのか。よし上等だ。俺は新宿の不良の安藤ってんだ。たったいま、復員したんだが、ぐだぐだごたく並べやがると、今日から新宿で商売やらしとかねぇぞ。銭さえ払や文句ねぇんだろ。文句があるならぬかしてみろ」
(中略)
 戦争の一番の犠牲者は、こんな浮浪児ではないのか。子どもになんの罪があるもんか! 私はジーンと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「こっちへきな」
 子どもでも敵と味方の区別はできる。
「お前、おなか減ったのか」
「うん」
「ま、どうでもいいけど、鼻ぐらいかみな」
 私は海軍手拭でハナをかんでやった。

※映画「網走番外地・吹雪の斗争」で高倉健と共演

「天皇の赤子」として、天皇のため国のため死ぬと日本人の多くは信じていた。昭和20年8月15日、価値観はすべて逆転した。街娼があふれ、第三国人が跋扈。異常インフレが発生し、国じゅうが大混乱に陥った。

昭和二十一年春、二十歳の安藤は法政大学入学。若さと虚無感から、喧嘩につぐ喧嘩。(同時期に全国各都市で学生愚連隊、いわゆる「インテリヤクザ」が発生した)下北沢を拠点に、新宿、渋谷、銀座と、喧嘩相手を求めてうろつく学生生活。
 三崎もいっしょにビールを飲みながら話がはずんでいた。そこへ顔見知りのダンサーが泣きながら顔をおおってとびこんで来た。
「どうしたんだ?」
「客に殴られたの」
「どの客だ?」
「ほら、ホールの真ん中で、女の子を二人抱いている男よ」
 見るとそれは、下町のテキヤZ一家の大幹部・大橋正二だった。

※「望郷と掟」で渥美清と共演
「ま、まかしときな」
 私も若いから、いきがってホールへ降りた。フトコロのジャックナイフをたしかめると、ゆっくりと大幹部の大橋の傍へ近寄った。
 彼は、私が挨拶にでもきたと勘違いしたのかもしれない。ぴたりと目が会った。私はポケットに手を突っ込んだまま、上向きかげんにニヤニヤしながら、
「よう、おっさん」
 と、声をかけた。ホールの上のタンゴバンドが、情熱的に『夜のタンゴ』を演奏していた。
「なんだ、てめえは?」
 大橋は、ダンサーの肩に手をかけたまま、目を三角にして答えた。
 喧嘩を売るつもりの私は、
「モク(タバコ)はねえかい」
「ふざけたこと、ぬかすな。俺は専売公社じゃねえ」
「そんなことはわかってるぜ、専売公社はそんな間抜け面はしてねえ」

※「侠客道」
 まわりで踊っていたダンサーたちは、それと察して身をさける。
「おい、面貸しな」
 喧嘩となれば先輩も後輩もねえ。私は先に立って洗面所に向かった。
「おい小僧、お前は俺がだれだか知っているのか? ここの用心棒の小光に、よく聞いてからにしたほうが、いいんじゃねえのか?」
 せせら笑うように、貫禄ぶって後について来た。
「冗談じゃねえ、喧嘩するのにいちいち人にお伺いは立てちゃいられねえ」
 洗面所に入った私はふりむきざま、大橋がフトコロに手を入れるか入れない瞬間に、とび出しナイフを相手の顔面めがけてふり下ろした。大橋はフトコロに右手を入れたまま、反射的に左手でよけようとしたが、その手に「ビシュッ」という手応えがあった。
「あッ!」
 一、二秒の間があったろうか、左掌を真一文字に切り、血管から水道の蛇口を押えたように、ピューと血がとび出し、音を立てて白壁にはねた。ものすごい返り血で、私の上衣も顔も血だらけになった。私は血だらけになったまま、ナイフを握った右手で大橋の顔面に一発くらわせた。彼は左手を押さえたまま、その場にうずくまるように倒れこんだ。

※「続・組織暴力」丹波哲郎と共演

朝鮮連盟とやりあいMPに追われて銃弾が右モモを焼いたり、新宿のテキヤ系一家ともめ自動小銃で殴り込みをかけるなど、安藤はヤクザも一目おく存在となっていく。徹底してアウトローの道を歩むようになる事態が起こる。
 キラリ! その手に冷たく光るものが見えたと思う瞬間、頬に冷気を感じた。数秒して丸太でなぐられたような激痛が走った。
「やりやがったな! チクショー!」
 私は焼き煉瓦を拾うと、男の顔面目がけて投げつけた。
 男は夢中で逃げだした。
 頬を押さえると、ドッとなまぬるい血があふれるように吹き出していた。怒りがむらむらと沸き上がってきた。
<ようし! 殺してやる!>
 私はふき出す血を押さえながら、男のあとを追った。

 相手は、銀座の路地から路地を死に物狂いで逃げてゆく

※「情無用」で桜町弘子と共演
 手術台がやけにまぶしい。
「先生! なんでもいいから、傷口がきたなくならねぇようにこまかく縫ってくれ! ミシンでもなんでもいいぞ!」
「黙って! 口をきいちゃいかん!」
「先生!」
「しゃべってはいけないというのに!」
「先生、麻酔をうたねぇでやってくれ」
「どうして?」
「麻酔をかけると、傷跡がきたなくなるだろ」
「そんなことはない」
「嘘つくな!」

「嘘なんかついたって仕方がない。しかし、望みとあればそれでもいい」
「よし、いいから早くやってくれ!」

※「密告」沢たまきとのベッドシーン
 口の開いた白布が、私の顔にかぶされる。メス、ピンセットの金属音、看護婦が耳にたまった血をぬぐい、耳の穴に脱脂綿がつめられる。いきなり鳶口を頬に打ち込まれて体ごと引き上げられたような激痛が走る。
「傷口が大きいから中縫いをしよう」
 と、医者が看護婦に言っている。
<洋服屋みてえなこと言いやがる>
「うーッ」
<チキショー! ヤブ医者め! 人の面だと思いやがって……>
「痛いか?」
 医者がマスクの声できく。
「いや……血が出ていい気持ちだ!」

※「男の顔は履歴書」中原早苗とのラブシーン
<とうとうやくざのレッテルを派手に顔につけちまった。両親が見たら、どんなに嘆き悲しむことだろう!>
(中略)
 包帯を
とり、ガーゼを引きはがして傷口を見ると、血が黒く固まり、左の耳の上から口元にかけて、大きな百足(むかで)が一匹はりついているようである。
 口惜しさが腹の底からこみあげた。
<よーし! 今日こそSをふん捕まえて叩っ斬ってやる!>
(中略)
「絶対にSを捜せ! 捜し出したら叩っ斬れ! 殺せ! 耳も落とせ!
(中略)
兄貴! Sはめった斬りにしました
(中略)
 現在、昔をふり返ると若気のいたりで何もかも恥ずかしいことをしたと思うし、Sにも申し訳ないと思っている。


「懲役十八年」

昭和二十二年、法大中退。
 左頬の長く深い傷は、私をカタギの世界からいっそう遠ざからせた。
<お前のその傷じゃ、もう学校へ通うのもちょいと無理だぜ! かりに卒業したところで、とてもまともなところじゃ、やとっちゃくれめえよ!>
 鏡の中の自分が、私を嘲笑する。
<冗談じゃねえや。男一匹、面に傷の一つや二つできたところで、どうってことあるもんか。就職だと? チェッ、そんなものはくそくらえ!>

※「男の顔は履歴書」


(補足1 :昭和二十四年は今よりも就職難だったようです。それにしてもこれだけメチャクチャやっていながら、就職も考えていたというのは驚きの一言です・・・)

昭和二十七年、26歳で渋谷宇田川町に「東興業(安藤組)」を発足。
「東興業」は一応、株式会社として正式に登録した。業種は不動産売買。これは将来の土地ブームを見越したものであり、若い者に仕事を覚えさせるため、専門家を五人雇用した。
 それに興行関係の興行部を設けたが、一方で裏営業として、キャバレー、ナイトクラブその他の用心棒も引き受けた。
 しかし、まともな仕事というのは、なかなか思うように行くものではない。それに社員もまともな仕事ははじめての者ばかりであるから、たちまち資金にゆきづまった。そこで行われたのがバクチである。


※昭和二十二年、早くも左ハンドルの外車を乗りまわしていた。
━━ファッショナブル愚連隊━━

ドスを持つならハジキを持て。
ダボシャツを着るならスーツを着ろ。
指詰め、クスリ、入れ墨は厳禁とす。

安藤組は安藤昇組長のもと、さながらハリウッド映画のギャングのようなスタイルで、従来のヤクザのイメージを一新した。

オシャレ心、いっぱい。時代の最先端を突き進んだ体当たり暴力集団。
スタート時、300個つくったバッジはたちまち不足し、最盛時の組員は530名を超えた。大学在籍中の者も数多くおり、いないのは東大だけだともいわれた。いずれもボクシング、レスリング、空手など体育会系の硬派であり、その後輩が慕って参加する傾向もあったし、シンパの学生が多く集まったのも特徴といえた。人気作家の安部譲二氏も中学時代から組員だったというのは有名な話。

元安藤組幹部 須崎清氏
「だいたいだ、安藤組(東興業)というものをヤクザの組織というふうにとらえると、大間違いなんだよ。ヤクザとはまるっきり違う。たとえば安藤組は来るものは拒まず、去る者は追わずといった感じだった。そこには強制力というものがないんだ。事務所に顔をださなくなったとしても「あいつはどうした、呼んでこい」というようなことはしないし、毎日顔を出す必要もなかった。それぞれが独立した存在で、いわば非常勤の人間がほとんどなんだよ。
 安藤という人間は生まれながらにして人の上に立つという資質を持っているんだな。今でもそうだろうけど、普通は組織を大きくするために強引にでも人を連れてこようとするじゃない。しかし安藤は全くそうしたことをしない。安藤に憧れ、安藤を慕って自然に人が集まってくるんだよ。これは天分としかいいようがない。そして集まった人間は、自分の責任において、何をしてもいい。あれはするな、これはするなということがなかったんだよ。戦争、そして敗戦ということが大きく関係しているんだろうけど、戦前から敗戦直後にかけての時期は、新宿にも渋谷にも今のように本格的なヤクザ者というのは少なかった。安藤や加納はその頃ちょうど二十歳前後かな。僕らは少し下だから十六、七歳くらい。時代的にも年齢的にも、そんな時分に好きなことを思いっきりできたということかな。

 ヤクザ者はなにかにつけてものごとを引きずることが多いでしょ。だけど安藤や加納には最初からそういう部分がないんだ。どういうことかと言えば、二人とも他人の力なんてあてにしてない。信じているのは自分の力だけなんだよ。そういう決定的な違いが、テキヤを含めたヤクザとの間にあったと思うね。
 バクチ打ちというのはまだ表だって動くことはなかったし、実際腕力にものをいわせて暴れる愚連隊には誰も手がつけられなかった。終戦後、安藤のカミさんの家が渋谷にあったんですよ。食うものが本当になくなって、僕ら十六、七の食い盛りの不良たちは、いつも腹をすかせてた。カミさんの家へ押しかけちゃ、ご飯をごちそうになった。安藤に対する憧れと、飯を食わせてもらえるということで、人が自然に集まってきた。それが安藤組の原点だったのかも知れないな。終戦で腹も空っぽだったけど、みんな心も空っぽだった。安藤はその両方を満たしてくれる人間だったんだ」

元安藤組幹部 大塚稔氏
「当時の不良はみんなそのバッジを欲しがった。警察官まで欲しがったんだよ。渋谷署にHという巡査部長がいて、そいつがある日俺に「そのバッジが欲しい」って。しかし「はいどうぞ」ってあげるわけにはいかないから「じゃ、俺がいったんこれを落とすからな。拾うのはあんたの勝手だからさ」そう言って地面に落としたら、拾って持って行ったよ」

※バッジのデザインは「安藤」「東」双方の頭文字である「A」を黒字に金で浮き立たせたもの。
映画化された小説「修羅場の人間学」(著 森田雅)より抜粋。森田雅氏も元安藤組幹部、後、作家としてデビュー。
「僕の中学時代の後輩で森田君、こっちが後藤君だ」
 三崎の言葉遣いがいつもとはすっかり変わってしまっておかしかったが、二人のお嬢さんは、それくらい美人だ。銀座の洋服屋の娘が「慶応の太田洋子です」。もう一人が「友だちで木下好子です」と名乗った。
 そんなお嬢さんたちが、極めつけの不良グループに出入りするのかと不思議に思われるかもしれないが、前述のように安藤組はヤクザ・博徒ではなかった。正面の顔は、あくまで学生の集団だった。当時、大学生は社会全体の中では希少な存在で、そのうち本の虫のような堅物を除くと、ススんだ女子大生の相手はわれわれのような若者しかいないのだ。それに、家出をしていたり、グレてはいたが、安藤組の初期のメンバーは、ほとんど裕福な家の出で、育ちのよい坊ちゃんたちだった。

花田瑛一氏に捧ぐエッセイ「カポネより安藤だ!」より 元安藤組幹部 作家 森田雅氏
 アル・カポネをモデルとした映画などは、我々にとって学校で最高の授業を受けるのと同じくらい有意義なものであった。そんなわけで、ギャング映画を繰り返し何度も観た後、花田は自分の姿を街のウインドーに映し、かなり興奮することもしょっちゅうであった。そんな花田の後ろ姿を見て、皆でクスリ、クスリ笑っていると、彼は振り向きざま真顔で、
「兄弟(きみ)たち! 本気で一生を安藤の下で、グレていくんだろう?」
 と言った。皆はハッとした。
「これからの不良は兄貴みたいにナリだよ、ナリ」

安藤昇氏……ダ・カーポ誌のインタビューにて
渋カジの元祖ってのはおれたちだったよ(笑)」

『日本青年新聞』を発行したのもそのころであった。新聞発行の趣意は、それこそ生活とはうらはらに高邁なものであった。
(中略)
 しかし、これは四号発行して挫折してしまった。
<現在の自分の行為に責任の持てない者が、どうして他人を啓蒙できるか?>
 そんな矛盾もさることながら、五千部の新聞折りたたみ、発送することは大変な努力であり、事務所がすべてこれにかかりきらねばにならず、費用、労力の無駄を感じたからだ。
 とにかく、自分の頭の蠅も追えぬ”安ちゃん”が、なんで他人の頭の蠅を追えるのかということである。

(補足2 :安藤先生は当時、政治家になりたかったようです・・・)

横井英樹襲撃事件
 銀座八丁目のビル八階にある「東洋郵船」社長室で、社長の横井英樹(当時四十四歳)が来客と商談中、受付に面会を求めたグレーの背広を着た慎太郎刈りの男が、秘書の離れた隙を狙って社長室へ身をすべらした途端、「お前が社長か」と訊きざま横井社長へ向けて拳銃を一発、あとは振り向きもせず騒ぎにまぎれて逃げ去った。弾は左腕−左肺−肝臓を貫通して右腹部で止まる瀕死の重傷だった。
 当時の横井氏は「白木屋乗っ取り事件」「東洋精糖買い占め事件」「興安丸払い下げ問題」などの主役を努め、東急の五島慶太会長が「強盗慶太」と呼ばれたように、その結びつきもあって「ボロ儲けの天才」といわれ、たびたび怪文書が乱れ飛ぶ始末だったから、翌日からの報道はセンセーショナルになった。
 容疑者の名前はすぐあがった。残された名刺から安藤らの名前が浮かび、二日後の毎日新聞には事件に至る経緯まで詳報された。
 それによれば、横井氏が昭和二十五年に蜂須賀元侯爵から年二割の金利で三千万円を借りたのが発端となっている。その後、侯爵の死により債権は夫人に移り、横井氏はその間に一千万円を返却し二千万円が未払いになったところで夫人は訴訟を起こし、最高裁までかかって勝訴した。ところがそれから一年を過ぎても横井氏は一銭も払わない。

※事件直後、警視庁の手入れを受ける東興業の事務所
 横井氏の財産はすべて他人名義。困った夫人は債権の取り立てを元山高雄氏(三栄物産取締役)に依頼する。元山氏は横井氏に隠し財産があることをつきとめ、二週間かけて交渉したが断られ続け、顔のきく安藤昇氏を連れて面談、事件はその直後に起きた━━というものである。
 安藤は裁判記録に目を通し、さらに元山氏から「今日の成功があるのは三千万円があったからで、蜂須賀家が困窮のどん底にあるというのに」と聞かされ、社会正義はいうつもりはなくとも、経済暴力なら対抗するまでだと決意、事件より四時間前の三時半、元山氏らと横井氏を訪ねた。
 しかし用件を切り出した途端、横井氏の態度が一変した。
「なんなら君たちにも金を借りて返さなくていい方法を教えてやってもいい」とせせら笑われて安藤は激怒する。そして一度は元山氏が間に入ったものの、今度は「私のところじゃ借金とりにまでコーヒーを出すんだからね」といわれ「てめえんところのくされコーヒーなんか飲めるか!」安藤はカップを叩きつける。

 こうして襲撃計画はすぐさま実行にうつされるのだが、安藤は急所を外して心臓とは逆の右腕を狙えと命令したものの、重傷となったのは現場の人物配置の不運だったろう。
 この後、安藤は自首を考えていたが、警察の対応に反発、大胆な逃亡三十四日で逮捕となるが、連日のハデな報道は事件を戦後の象徴にまで高めたのである。

※朝日新聞より

(補足3 :善悪はともかく、横井氏も安藤先生も「信念の人」だったようですね)

警察の頂上作戦により、安藤組幹部は根こそぎ逮捕された。
 母よりの便りあり。
 庭の沈丁花が押花にしてあった。
 馥郁たる芳香、陶然とす。
 大いなる母の愛を感ずる。
 周囲の旧友も
「うーん、娑婆の匂いだ!」
 母の便り再読、三読。何時までも元気にいて貰いたいと願うや切。

  母そはの紅葉を獄の枝折とす

(補足4 :獄中日記より。母子の愛情が感じられて、ちょっとソウルフルな俳句です・・・)

※懲役7年の刑に服し、昭和三十九年に前橋刑務所を出所
元安藤組幹部 須崎清氏
やっぱり花形、西原と続けて殺されて、西原の母親から“親よりさきに死ぬことは、最大の親不孝です。この子で最後にしてください”なんて言われたら、安藤もいたたまれないよね。安藤が解散すると決めたんだから、そうするしかないよ。
 僕は安藤という親方についてきたんだ。安藤がやめるという以上は、僕もやめる。なんの未練もなかったよ」

※解散式で声明を読み上げる安藤組長。式場には外国人記者も詰めかけた。
元安藤組幹部 大塚稔氏
「安藤組が解散したときも、安藤さんが俺たち全員の前で話をするとか、そういう改まったことはなにもなかった。
 もちろん一抹の寂しさはあった。安藤組を作るのは何年もかかったけど、壊すのは一瞬だからね。だけど、安藤さんに男としてほれこんで今までやってきたんだ。安藤さんが自分で作ったものを自分の手で壊すんだから、われわれがどうこう言うようなことじゃないだろ? 俺もそこでいったん廃業したんだよ。
 安藤さんは深い考えがあって解散式をやったと思う。グレン隊は組織化されてるわけじゃないからね。自分で自分を救うしかない。と同時に、安藤さんについてきたのも自分の意志。だれに強制されたわけでもない。いわば全員が安藤さんに心底ほれていたんだ。だからこそあえて解散式が必要だったんじゃないかな。

 今ふりかえってみて、安藤組で生きられてよかったと思うよ。安藤組にいた人間は欠陥があったかもしれないけど、そのかわり魅力あふれる男も多かったんだよ。そういう人間たちが、安藤さんというとてつもなく大きな器量を持った人の下で、好き勝手なことをやりながらも、どこかで助け合って生きてきたんだ。俺は昔っから自由奔放にしか生きられなかった人間だけど、そういう人間でもちゃんと居場所があったからね」

※昭和39年12月、安藤組解散。暴力団の自主解散第一号として注目された。

文壇、芸能界へ
「先生、あれは撃つと気持ちがいいんです。人を撃つとかじゃなく、ぶっ放すとさっぱりするんです」

 大宅壮一氏は安藤に色紙を頼まれ、即座に「男の顔は履歴書である」と書いた。これは昭和四十年の流行語となった。


※”話題の人”というのでマスコミをしばしば賑わす。日本を代表する評論家、大宅壮一氏との対談
手記を元に映画「血と掟」が作られたが、たってのすすめで自身が出演。


※湯浅浪男監督と
小説刊行。

主演映画50数本。

作詞・作曲・唄と多才ぶりを発揮。その経歴ばかりでなく、これまで日本の芸能界には見られなかったタイプとして人気も急上昇した。
夜の花
作詞・唄 安藤昇

1.街のネオンが瞬くかげに
   今日もちるちる夜の花
  散った花なら忘れもしよう
   どうせこの世はままならぬ

2.昨日今日明日あなたを待って
   恋に身をやく夜の花
  咲いた花なら散らしもしよう
   うるむネオンの銀座裏

3.燃ゆる想いをあなたの胸に
   すがりつきたい夜の花
  遠いあの夜の想い出だけを
   忘れさりたい胸の傷

御尊父は「実直なサラリーマンだった」とあります。
 秋田のフトコロにとび込むと、左手で襟をがっちりと握り、下に引き込むようにしながら、右手にはさんだカミソリで秋田の右頬を斜めに斬り下げた。たしかに手応えはあったが、血が出ない。
「うッ!」
 軽いうめきを聞いたが、私はカミソリを握った右手で、さらに秋田の左頬にパンチをくらわした。
 二発目にスッと赤い筋が引いたかと思うと、溢れるように鮮血がふき出した。はじめて人を斬った私は、血を見てさらに興奮した。
 いま考えると馬鹿な話だが、当時は得意になって、いっぱしの不良気取りであった。
 だいたい、硬派の不良少年は、顔見知りでないかぎりかならず喧嘩する。おたがいに睨み合う。これを<ガンをとばす>という。まったく土佐犬のようなものだ。
「お前、どこの小僧だ」
「新宿だ」
「新宿のだれの舎弟だ」
「兄貴も舎弟もねえ……」
 言葉を交わしている間に、カミソリをはさんだ右手は、ポケットか上衣の裾で待機している。
「このヤロー」
 相手が殴りかかるか、匕首を抜く間には、もう私のカミソリが相手の頬をなで斬っている。深く切らず、浅く切らず、これがハスリ(斬る)のコツである。だれ彼かまわず斬りまくった。

※川崎中学一年のころ

平成の安藤昇。
映画のプロデュース、エッセイ執筆等、現在も大活躍されています。
柳葉敏郎さん(安藤昇役)と

映画「新宿の顔(ジュクのツラ)」クランクアップ記念パーティーにて……1997
 オレが出世もできず、落ちこぼれたのは、若い時分、煩悩のおもむくまま、ただひたすらムダをエンジョイしてきたからだろう。
 たとえば、プロゴルファーをめざすI君のような強烈な個性を貫くのも人生なら、ヤマっ気を起こさず、
「会社の歯車で結構」
というのも、ひとつの見識だ。
 あるいは、
「生き甲斐などというむさくるしいものは願い下げ、自由気ままに生きるさ」
 というのもまた立派な見識だ。
 要するに人生は与えられるのではなく、自分の意志で決定することが大切なのではあるまいか。
 ろくな人生を歩んでこなかったオレだが、ひとつだけ自負できるのは、よくも悪くも、すべて自分の意志で選択した人生であるということだ。
 
1993.3
「男」っていうのはほんとにかっこいいんだ……。


唯一無二のモダニスト……1994.10
 (安藤先生と同じ時代を生きてるんだな……)
一週間に三回は、そんなことを思います。いつも勇気づけられます。感謝の気持ちでいっぱいなのです。

 伊豆の修善寺に「安藤昇記念館」をつくることが、夢です。
注釈なしの文章は、エッセイを除き、すべて創雄社出版雑誌より抜粋、もしくは参考にさせていただいたものです。安藤ファンは毎月「実話時代」を買おう!!! 
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