安藤 昇 |
━━ 我が意志で人生を歩め! 敗戦日本が産んだ、稀代のインディビジュアリスト
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※写真は、処女作「激動」執筆時(撮影:文芸春秋社)……1968 |
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※写真は、東映第一作となった安藤昇主演映画「懲役十八年」 |
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※映画「懲役十八年・仮出獄」 |
※映画「網走番外地・吹雪の斗争」で高倉健と共演 |
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「天皇の赤子」として、天皇のため国のため死ぬと日本人の多くは信じていた。昭和20年8月15日、価値観はすべて逆転した。街娼があふれ、第三国人が跋扈。異常インフレが発生し、国じゅうが大混乱に陥った。 昭和二十一年春、二十歳の安藤は法政大学入学。若さと虚無感から、喧嘩につぐ喧嘩。(同時期に全国各都市で学生愚連隊、いわゆる「インテリヤクザ」が発生した)下北沢を拠点に、新宿、渋谷、銀座と、喧嘩相手を求めてうろつく学生生活。 |
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※「望郷と掟」で渥美清と共演 |
※「侠客道」 |
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※「続・組織暴力」丹波哲郎と共演 |
朝鮮連盟とやりあいMPに追われて銃弾が右モモを焼いたり、新宿のテキヤ系一家ともめ自動小銃で殴り込みをかけるなど、安藤はヤクザも一目おく存在となっていく。徹底してアウトローの道を歩むようになる事態が起こる。 |
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※「情無用」で桜町弘子と共演 |
※「密告」沢たまきとのベッドシーン |
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※「男の顔は履歴書」中原早苗とのラブシーン |
※「懲役十八年」 |
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昭和二十二年、法大中退。 |
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※「男の顔は履歴書」 (補足1 :昭和二十四年は今よりも就職難だったようです。それにしてもこれだけメチャクチャやっていながら、就職も考えていたというのは驚きの一言です・・・) |
昭和二十七年、26歳で渋谷宇田川町に「東興業(安藤組)」を発足。 |
※昭和二十二年、早くも左ハンドルの外車を乗りまわしていた。 |
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━━ファッショナブル愚連隊━━ ドスを持つならハジキを持て。 ダボシャツを着るならスーツを着ろ。 指詰め、クスリ、入れ墨は厳禁とす。 安藤組は安藤昇組長のもと、さながらハリウッド映画のギャングのようなスタイルで、従来のヤクザのイメージを一新した。 オシャレ心、いっぱい。時代の最先端を突き進んだ体当たり暴力集団。 |
スタート時、300個つくったバッジはたちまち不足し、最盛時の組員は530名を超えた。大学在籍中の者も数多くおり、いないのは東大だけだともいわれた。いずれもボクシング、レスリング、空手など体育会系の硬派であり、その後輩が慕って参加する傾向もあったし、シンパの学生が多く集まったのも特徴といえた。人気作家の安部譲二氏も中学時代から組員だったというのは有名な話。 元安藤組幹部 須崎清氏
元安藤組幹部 大塚稔氏
※バッジのデザインは「安藤」「東」双方の頭文字である「A」を黒字に金で浮き立たせたもの。 |
映画化された小説「修羅場の人間学」(著 森田雅)より抜粋。森田雅氏も元安藤組幹部、後、作家としてデビュー。
花田瑛一氏に捧ぐエッセイ「カポネより安藤だ!」より 元安藤組幹部 作家 森田雅氏
安藤昇氏……ダ・カーポ誌のインタビューにて
(補足2 :安藤先生は当時、政治家になりたかったようです・・・) |
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横井英樹襲撃事件 |
銀座八丁目のビル八階にある「東洋郵船」社長室で、社長の横井英樹(当時四十四歳)が来客と商談中、受付に面会を求めたグレーの背広を着た慎太郎刈りの男が、秘書の離れた隙を狙って社長室へ身をすべらした途端、「お前が社長か」と訊きざま横井社長へ向けて拳銃を一発、あとは振り向きもせず騒ぎにまぎれて逃げ去った。弾は左腕−左肺−肝臓を貫通して右腹部で止まる瀕死の重傷だった。 当時の横井氏は「白木屋乗っ取り事件」「東洋精糖買い占め事件」「興安丸払い下げ問題」などの主役を努め、東急の五島慶太会長が「強盗慶太」と呼ばれたように、その結びつきもあって「ボロ儲けの天才」といわれ、たびたび怪文書が乱れ飛ぶ始末だったから、翌日からの報道はセンセーショナルになった。 容疑者の名前はすぐあがった。残された名刺から安藤らの名前が浮かび、二日後の毎日新聞には事件に至る経緯まで詳報された。 それによれば、横井氏が昭和二十五年に蜂須賀元侯爵から年二割の金利で三千万円を借りたのが発端となっている。その後、侯爵の死により債権は夫人に移り、横井氏はその間に一千万円を返却し二千万円が未払いになったところで夫人は訴訟を起こし、最高裁までかかって勝訴した。ところがそれから一年を過ぎても横井氏は一銭も払わない。 ※事件直後、警視庁の手入れを受ける東興業の事務所 |
横井氏の財産はすべて他人名義。困った夫人は債権の取り立てを元山高雄氏(三栄物産取締役)に依頼する。元山氏は横井氏に隠し財産があることをつきとめ、二週間かけて交渉したが断られ続け、顔のきく安藤昇氏を連れて面談、事件はその直後に起きた━━というものである。 安藤は裁判記録に目を通し、さらに元山氏から「今日の成功があるのは三千万円があったからで、蜂須賀家が困窮のどん底にあるというのに」と聞かされ、社会正義はいうつもりはなくとも、経済暴力なら対抗するまでだと決意、事件より四時間前の三時半、元山氏らと横井氏を訪ねた。 しかし用件を切り出した途端、横井氏の態度が一変した。 「なんなら君たちにも金を借りて返さなくていい方法を教えてやってもいい」とせせら笑われて安藤は激怒する。そして一度は元山氏が間に入ったものの、今度は「私のところじゃ借金とりにまでコーヒーを出すんだからね」といわれ「てめえんところのくされコーヒーなんか飲めるか!」安藤はカップを叩きつける。 こうして襲撃計画はすぐさま実行にうつされるのだが、安藤は急所を外して心臓とは逆の右腕を狙えと命令したものの、重傷となったのは現場の人物配置の不運だったろう。 この後、安藤は自首を考えていたが、警察の対応に反発、大胆な逃亡三十四日で逮捕となるが、連日のハデな報道は事件を戦後の象徴にまで高めたのである。 ※朝日新聞より (補足3 :善悪はともかく、横井氏も安藤先生も「信念の人」だったようですね) |
警察の頂上作戦により、安藤組幹部は根こそぎ逮捕された。 |
(補足4 :獄中日記より。母子の愛情が感じられて、ちょっとソウルフルな俳句です・・・) ※懲役7年の刑に服し、昭和三十九年に前橋刑務所を出所 |
元安藤組幹部 須崎清氏
※解散式で声明を読み上げる安藤組長。式場には外国人記者も詰めかけた。 |
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元安藤組幹部 大塚稔氏
※昭和39年12月、安藤組解散。暴力団の自主解散第一号として注目された。 |
文壇、芸能界へ |
「先生、あれは撃つと気持ちがいいんです。人を撃つとかじゃなく、ぶっ放すとさっぱりするんです」 大宅壮一氏は安藤に色紙を頼まれ、即座に「男の顔は履歴書である」と書いた。これは昭和四十年の流行語となった。 ※”話題の人”というのでマスコミをしばしば賑わす。日本を代表する評論家、大宅壮一氏との対談 |
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手記を元に映画「血と掟」が作られたが、たってのすすめで自身が出演。 ※湯浅浪男監督と |
小説刊行。 主演映画50数本。 作詞・作曲・唄と多才ぶりを発揮。その経歴ばかりでなく、これまで日本の芸能界には見られなかったタイプとして人気も急上昇した。
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御尊父は「実直なサラリーマンだった」とあります。 |
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柳葉敏郎さん(安藤昇役)と 映画「新宿の顔(ジュクのツラ)」クランクアップ記念パーティーにて……1997 |
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1993.3 |
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「男」っていうのはほんとにかっこいいんだ……。 唯一無二のモダニスト……1994.10 |
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(安藤先生と同じ時代を生きてるんだな……) 一週間に三回は、そんなことを思います。いつも勇気づけられます。感謝の気持ちでいっぱいなのです。 伊豆の修善寺に「安藤昇記念館」をつくることが、夢です。 |
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注釈なしの文章は、エッセイを除き、すべて創雄社出版雑誌より抜粋、もしくは参考にさせていただいたものです。安藤ファンは毎月「実話時代」を買おう!!! | |||
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