安岡 章太郎

━━神の文章。魂の芸術家━━

 食堂の扉をひらくと、悦子は、テーブルの上に馬鹿に大きなジェロ・パイを置いて、その前にしょんぼり座っている。
「あら、めっかっちゃったわ。」
 彼女は僕の姿をみると頓驚な声をあげた。そして急に活気づいてハシャギながら、これはマダムに教わった秘伝の菓子で大変ウマいのだが、絶対に僕には食べさせない、と云った。
「あなたは意地悪よ。だから、あたしもこれから意地悪にするの。……けさから作っといたんだけどなぁ。」
 僕は、そんなことを云わずに、どうか食べさせてくれとたのんだ。彼女とそんなやりとりをしているうちに、だんだん眠気のさめて来た僕は、本当に空腹になった。
「ダメよ。あたしがひとりで食べちゃうの。」
「たのむ、ひと口でいいんだ。」……僕がそう云いいおわらないうちに、もう彼女は直径八インチのパイを両手で口へもって行くと、舌をチョロッと出してパイの皮からこぼれそうになっているジェロを舐めた。
「あ、……」
 僕は、半分本気でガッカリした。彼女は唇のはじにクリームの泡をつけてイタズラッぽく、僕を見て笑うと、
「あなた、こっち側から食べる?」と、口にくわえたパイを僕の前にさし出した。
 僕は、ものを考えている暇はなかった。顔じゅうジェロだらけになって、僕らは接吻した。
 クレイゴー中佐が出発してから、ちょうど四週間目の日にあたっていた。


デビュー作「ガラスの靴」(著 安岡章太郎)より抜粋

※昭和57年頃インタビューされて。

━━墓地通いの小学生。世界に誇るエスプリ・ヌーヴォー(新精神)━━

背後に重苦しい音響が迫ってきたかと思うと、草色の幌をつけた大きな米軍のトラックが、コンクリートの橋桁をゆさぶりながら、つむじ風のように通り過ぎて行った。畜生、私は舌打ちしながらつぶやいたが、見ると、まだ軽い砂埃の舞っている道傍に、トラックの窓から投げ棄てたのか、火の点いた白いタバコの吸いがらが転がっている。とたんに私は駆けよって、その吸いがらを拾い上げ、おく面もなしにひとくち吸うと、丁寧に火を消してポケットにおさめた。この意地きたなさは、何も敗戦の結果ではないかも知れない。しかし、私にとって戦後の自由は、要するにアメリカ兵の棄てた吸いがらを拾うまいかの選択をまかされることではなかったか。そして私が、何の顧慮もなしにそれを拾い上げていたのは、つまり敵に亡ぼされる前に、すでに自分自身で敗北していたからではないか。そして、その敗北感は自分が何とかして、ものを書こうとするたびに、私の中でますます大きく膨らみ上がって行くことになった。
━━ああ、おれは敗けた。まだまだいくらだって敗けてみせるぞ。

 このおかしな自己主張は、要するに自分の中には、まだ失われずに残っているなにかがあるという暗黙の自信からきていたのだろうか? そうだとすれば、これは何とも鼻持ちならぬ愚劣な自己過信に違いない。

「私説聊斉志異」(著 安岡章太郎)より抜粋


※昭和58年11月、アランドロンとテレビ対談


「文学と生きること」
岩波文化講演会@鹿児島……昭和52年6月10日


以下は死ぬほどソウルフルなスピーチです。

 安岡であります。鹿児島へまいりましたのはこれで三べん目であります……(中略)
 マーク・トエーンという『トム・ソーヤーの冒険』なんて書いた人、ご存知ですね。マーク・トエーンは、南北戦争━━ちょうど南北戦争は西南の役の十年前ですが━━では南軍に参加しまして、南部魂というのか、そういうものを非常に発揮するわけですけれども、南北戦争に敗けちゃったあとで、こんどは北軍のほうへノコノコ出かけていって、自分が敗けいくさの軍隊でどんなふうに戦ったか、また自分がどんな兵隊であったかという話をするんですね。ぼくはこういうところに作家の作家たるゆえんというのかな、作家のつらだましいが、あるんじゃないかって思うんです。
 まぁ、ぼく自身は敗戦というものがなかったら、絶対に作家にならなかったと思うんです。これは敗戦後の日本の状況が非常に乱れたというのかなぁ、平和な時代の社会には見られない、いろんな断面を見せて、そのあいだから各々が人生の切り口をのぞいて見たというようなことがあって、ぼくなんかもものを書きだすようになったといえます。ぼく自身はやっぱり勝利の軍隊というのかな、戦勝国になったときの社会ではうまく自分の資質をいかせないような人間でもあるような気もするのです。

※昭和58年春自宅で中上健次氏と踊る
<幼少のころ
 ぼくが生まれたのは最初にいったように高知県ですけれども、親父は軍人で、生まれるとすぐに東京の東のはずれへ持ってかれまして、千葉県の市川ですとか、四国の普通寺ですとか、さらにまた千葉県に帰ってきて、それから朝鮮・京城へ連れてかれて、それから青森県の弘前までもって行かれる、というふうに転々、転々としたんですね。
(中略)
 東京へきてみると何がなんだかさっぱりわからない。
 いちばんわかんなかったのは、宿題というものが出るんですね。弘前の小学校には宿題なんてものはぜんぜんなかった。ぼくは夏休みのことをよく覚えているんですが、八月の三十一日になってぼくはおふくろに、宿題帳というものが出てるんだ、そういって自分の机の上においておいたやつを見せたんです。すると、おふくろが非常にびっくりしまして、おまえはいままでどうして黙っておったのか、こんなことではとても先行き望みがない、わたしも死ぬからおまえも死になさいという。それでぼくは、そのころガス自殺というのが非常に流行ってましたので、台所へいってガスコンロをもってきましたら、おふくろはまたそれを見て青い顔をしてバカッていうんですね。わたしが手伝ってあげるからこれをともかくやろうという気を見せなけりゃいけない。というわけで、ぼくは母親と二人でその宿題帳を見たんですが、山のようにあるわけですから、まともなことやってたんじゃとてもひと晩やふた晩ではできないということはよくわかった。それで算数なんかもうどんどん答えを書いていくことにしまして、ツルカメ算だったら、ツル百匹、カメ五十匹とパッと書いちゃうんですよ。どうせやってまちがえるぐらいなら、最初からまちがえた答えを書くほうがいいって。それで母親のほうも━━いまは「社会」というですか━━、地理とかああいう問題なんか、「北海道の産物は」とかいったら「マグロ」とかね、どんどん書いて二人でやっておりますと、全部やり終わったころに、気がつくと部屋の外がもう明るくなっているんですね。ぼくはそのとき非常に不思議だったのは、夢中になってでたらめを書いて、義務のために宿題をやる。やってると夜が明けて、きのうはきょうになり、そのあいだには何の境目もなく、いつのまにか朝がきてるということ。それから母親がぼんやりした顔で朝日を浴びて、狭い庭なんですがね、猫のヒタイほどの庭を眺めていたのを覚えてます。

※生後150日。大正9年9月3日

短編小説「宿題」は日本文学史上に残る傑作です。

 ぼくは宿題を努力してやって、やったあげくにまちがえて立つよりは、最初からやらないでいって立つほうが楽だと考えてぜんぜんやってかなかった。立つために学校はあるもんだと考えてたわけですね。
(中略)
 近所の子どもがお母さんに家から送り出されて、真っ白い日覆いのついた帽子、夏になるとそういう日覆いをつけたもんですけれども、とくにその子がピカピカの白い日覆いのついた帽子をかぶって「いってまいりまーす」って、元気よく駆け出していくのを見たら、ぼくは自分が、なんていうかなぁ、非常に情けない、ただ立つために学校へいくってことが非常にいやな、これではいけないという気がしました。わたしのうちから学校まで歩いてわずか10分ぐらいの距離なんですけども、道が途中から二股に分かれてまして、右へいくと墓地があるんですけれども、その分かれ道のところまできたときに、ぼくの頭のなかにお祖父さんの顔が浮かびました。高知のおじいさんですね。それで、そのお祖父さんにぼくは「おじいさん、ぼくは学校へいきましょうか、それとも墓地へいきましょうか」と聞きましたら、「墓地へ行けっ」というわけですよ。それでぼくはまっすぐ歩いて墓地へいってしまった。
 墓地へいって何をしたかといいますと、わたしはランドセルを下して宿題をやろうとしたんですね。これは非常に不思議なんだけども、それぐらいならなぜうちでやらないのか。それはね、簡単にいってぼくは母親が見てる前で宿題をやりたくなかったんです。なぜかっていえば、ぼくは情けないほどできないから。

(中略)
 ぼくをパッと見て「安岡、いままで何しとった」こういうわけです。ぼくはあらかじめそういうときにはこう言おうと思って考えていたから、「朝からおなかが痛くて家で寝ておりましたが、ようやく痛みもとれたので出てきました」といったら、とたんに先生は「ウソつけ」というんですよ。今朝は雨が降っていた、それだからおまえは長靴をはいてカッパを着てるだろう。しかるにいまはお天気だっていうわけですね。おまえはいったいどこをボサボサ歩いてたか、泥のハネが耳の裏まであがっているじゃないか。そう言われたらぼくは非常に恐ろしくなりましてね、この人はなんていう観察の鋭い人だろう。それでぼくは逃げ出したんです。そうしたらクラスが、普通は五十人なんですけども、その学校は受験の名門ですから、一組七十人ぐらいいまして、その七十人の連中がみんなぼくを追いかけてきた。そのときもぼくがいちばんつらかったのは━━恐くはなかったですよ、七十人に追いかけられても━━、こうやってクラス中のやつに追いかけられているのを母親に見られるのはいやだなと思ったな。まぁ、それで、もうしようがないですから、家へ帰ったわけですよ。家へ帰ったらありがたいことに母親はいませんでした。ぼくは門をしっかり閉めて二階へ上がって窓からソッとのぞいてたら、家の前は組中のものが大勢たかって「安岡、出てこいっ、安岡、出てこいっ」と騒いでました。しかし、黙って隠れてましたら、帰っちゃったんですが。

※小学4年生(左)。昭和5年、東京・池尻
墓地通い半年間。子どものころからモッドだったようです。

<劣等生時代>
僕はまた、あの不良少年というものでさえなかった……。挫折につぐ挫折。映画と、小説と、ソープ通いの日々。
 浪人一年は予定の行動でしたけれども、浪人してもどこも受からないし、二年しても全部だめね。ぼくは浪人二年目のときに某大学の理工科を受けてたんですよ。これは例によっておふくろが心配してくれまして、その学校の先生にコネをつけて、それで、まぁ、頼んどいたわけね。そうしたら第一次の学科試験に受かればあなた入れてあげますということなんで、その試験にぼくは受かりました。それでまったく安心して、その晩ぼくは浪人時代の仲間といっしょに新宿の御苑の裏にある特殊喫茶というところへいってね、そこで十二時ぐらいまでドンチャン騒ぎ━━ドンチャン騒ぎでもなかったけども━━、生まれて初めてお酒飲んで、これで「浪人と別れるの会」をやったつもりでおりました。そしてあくる日試験を受けにいったらね、まぁ、ぐあいの悪いことが起こっちゃってね。
(中略)
 コネがあるし、第一次試験は通ってるし、絶対に合格したと思って学生服なんか注文しましてね。それで三日か四日たってみたら、学校から通知がきまして裏をひっくり返してみたら、受験番号何番、安岡章太郎と書いてあって、「不合格」というハンコが押してあるんです。これは非常にショックでした。
(中略)
 なんで自分が落第したかといえば、結局はぼく自身その学校にいきたくなかったんですね。だから口頭試問とか体格検査の前の晩にお酒を飲みにいってしまうし、答えるときの態度も必ずしもまじめでないのね。何とかしてはいりたいという気持のあるときだったら、そういうふうにならないわけです。ところが、逆なんだなぁ。安易な気持でコネに頼って受けたというよりはねぇ、もっと自分の気に染まないことを何とかやろうとしていただけなんだなぁ、ツジツマ合わせるために。それで、そういうことをやってると結局、自分はちゃんとした生き方ができないんだ、じつはその大学を受けたのは自分のためではなくて、たんに母親が先生に頼みにいったから、母親につき合って受けたんだなぁ。そういう生き方を今後するのはよそうというふうに思いました。
(中略)
 そして自分はそのころからボツボツ小説ってふうなものを書いていたので、それをやることにしたわけです。

※浪人中の昭和15年の春、父母と世田谷代田にて
中学一年の三学期から、成績、素行不良により、担任の先生の禅寺へあずけられて生活していたそうです。中三の二学期、肋膜炎まがいの病気にかかってようやく解放されたとのことです。書き下ろし長編「花祭り」はこのころがモチーフになっています。性にめざめてゆく思春期の少年の不安やとまどい、焦りや憧れが独特のユーモアで描かれています。

「なんで落第したのかといえば」、勉強しなかったからでもなく、試験に失敗したからでもない。「結局、学校に行きたくなかったから」。安岡先生独特の聡明さです。安岡先生の眼は常に大局的に物事をとらえるようです


<初めて書いた小説は夏休みの宿題。「平気平太郎の冒険」>
どんなことがあっても平気である、たとえば人に迷惑をかけても平気である、他人に怒られても平気である、きわめてエゴイスティックな人間を想像して・・・。
なんてステキなタイトルなんでしょう。一中学生の憤りがマキシマムにつたわってきます。
 最初に小説というものを書いたのは、中学校二年生のときでした。国語の先生が、なにを思ったのか、四百字詰の原稿用紙二十枚の小説もしくは戯曲を書けというのを夏休みの宿題にしまして、それで非常にマゴついたんです。それまでぼくは小説というものは、まったく読まなかったわけではないけれども、自分がなにか小説らしきものを書くとか書かなければならないということは、ぜんぜん考えてもいなかった。
(中略)
 ちょうどコミック・ブックというふうなものですかね━━、ちり紙みたいな悪い紙に印刷した小型の講談本があったんですが、それをぼくは十冊ぐらい買ってきて、片端から読んで、それからスティブンソンの『宝島』という小説をひねり合わせまして、「平気平太郎の冒険」というものを書きました。これは、どんなことがあっても平気である、たとえば人に迷惑をかけても平気である、他人に怒られても平気である、きわめてエゴイスティックな人間を想像して、その男が桃太郎のごとくあるいは『宝島』の少年のごとく、探検をしていっぱい宝物を発見し、もらって帰るというストーリーでした。そうしたら学校の先生が、おまえの「平気平太郎の冒険」というのはいったいなんだ、職員室中の笑いものになっておるというわけです。

※昭和31年、左から吉行淳之介、遠藤周作、近藤啓太郎、庄野潤三、安岡章太郎(彼らは第三の新人と呼ばれた)
「平気平太郎の冒険」はもちろん出版されておりません。世界でいちばん読みたい小説です。

<同人雑誌を作って、内閣情報局から呼び出される>
自分が自由に生きられる場所をもちたい。
 当時、シナ事変が泥沼にはまっていたころの日本は、いろんな意味でちょうど現在の韓国に似ているのかもしれませんね。思想の自由が制限されておりました。それで個人としてはたいへん生きにくい世の中でありまして、ぼくらは思想の弾圧のために苦しんだというふうなことはいえないんですけれども、たいへん息苦しい時代にぶつかったということは事実です。自分が自由に生きられる場所は、自分の空想した世界だけなんだなぁ、簡単にいうと。それで自分で空想した小さな自由の王国、そういうものを自分のなかに持ちたいという気持がありました。それで、下手でもいいから、そういう現実からまったく遊離した私自身の世界をつくろうと思って小説を書きはじめたわけです。
(中略)
 六十四ページの同人雑誌ともいえないような小さなものですが、それで自分が、内閣情報局から呼ばれた。これは必ずやぼくのネコのしっぽのはえるというシューレアリスムの小説が、当局の忌諱に触れたに違いない、と。それでぼくは断固としてなにか言って、それが学校へ通報されて、学校を退学になる、そうすればぼくは無事に、自分の意志ではなくて当局の弾圧によって学校をやめるなんて、じつにいいと思っていたんですね。そんなわけで張り切って情報局へ行きました。
 検閲官がおられまして、しかし、鬼のような顔をした官憲というものじゃないんですね。 
(中略)
 その人が訊いたのは「あなた、この紙をこから手に入れたの」とそれだけです。
(中略)
 ぼくは、少しでも自分の小説についてなにか文句をいってくれればと思っていろいろ考えていたのに、そのような希望と危惧は全部水の泡と消えてしまいました。それでも私は、いくらあなたがとめられても、われわれは雑誌は出し続けるのであるというようなことを、精一杯述べ立てて帰ってきましたが、ほんとうにこれは、私にとってはショックだったですね。ぼくのネコのしっぽのはえる話は、まったくなんらのショックを検閲官に与えることはできなかったわけです。それでぼくは非常に気落ちがしまして、その頃、つまり昭和十七年の夏からずうっと麻雀ばかりにふけりました。昭和十七年といいますと、もう日本の敗色濃厚でして、そしてそういうときに自分の残された生命がわずかしかない、そうなるとやはりぼくら立ちすくんだようになっちゃて、なにひとつできなくなったな。

※元DJの奥様と愛犬と。昭和53年自宅にて

<戦後焼け跡闇市時代>
 初めてきく天皇の声は、雑音だらけで聴き取り難かった。それが終戦を告げていることだけはわかったが、まわりの連中はイラ立っていた。突然、僕の背中の方で赤ん坊の泣き声がきこえ、頭の真上から照りつける真夏の太陽が堪らなく暑くなってきた。重大放送はまだ続いていたが、母親は赤ん坊を抱えて電車に乗った。僕も、それにならった。母親は、白いブラウスの胸をひらいて赤ん坊に乳房をふくませたが、乳の出が悪いのか、赤ん坊は泣きつづけた。その声は、ガランとした電車の内部に反響して先刻よりもっと大きく聞えた。
━━もっと泣け、うんと泣け。
 僕は、明け放った車窓から吹きこんでくる風に、汗に濡れた首筋や両頬を撫でられるを感じながら、心の中でさけんでいた。

「僕の昭和史T」(著 安岡章太郎)より抜粋

万年二等兵時代(中央)

総毛だちます。すさまじいまでの文章です。

<脊椎カリエス発病>

自分の命が純綿の古浴衣二反分に当るとはとうてい……。完全に安岡節です。

 結核が背骨にきちゃいまして、脊髄カリエスというやつになったんです。脊髄カリエスは、ちょうど背骨が虫歯になるようなものでして、まあァ、痛いんだな、ものすごく。
 教授がいうには、君の病気を治すためにはギブスをつくらなければいけない、ギブスをつくるためには包帯がいる。しかし包帯はわが病院にはぜんぜんない、それで包帯のかわりに代用になるものは純綿の古浴衣である、純綿といっても諸君はわかるかどうかね。その純綿の古浴衣を二着分持ってきなさいと、そうすればそれを使ってギブスつくってやろうというんです。ギブスをつくらなければこの病気は絶対に治らないと。だけど私の家は空襲で焼け出されているし、もちろん純綿の古浴衣などはありません。もしあったとすれば、それは米と交換に百姓のところへ持っていったでありましょう。非常にいやだったな、それは。だいたい自分の価値が、私自身の価値が純綿の古浴衣二反分に当るとはとうてい思えないんですね。
(中略)
 そのときのぼくの唯一の希望といったら、自分は生きるか死ぬかを、自分で選択する自由があるということぐらいだろうと思った。つまりそれ以外になんにもないんですね。

※卒業式(手前中央)


<自由ということ>

生きるか死ぬかってことは自分が決定するんじゃなくって……。安岡哲学ってのは、ほんとに健全なんだな。

━━なんでもストリキニーネというのは飲むと三十秒ぐらいかの間に筋肉が収縮して、パッと息がとまって死んでしまう、これは非常に楽に死ねるというんです━━。だからストリキニーネでネコを全部殺しちゃいたいんで下さいといったら、ああ、じゃあこの次来るとき持ってきてあげましょうというわけです。
 その獣医の卵がにこにこ笑いながら、片手に紙袋を持っているんです。その紙袋を上に掲げまして「ありましたよ」と来るわけね。ぼくはそのとき、このばかと思ったな。その紙袋のなかにはストリキニーネが入っている。そして私はそれを飲んで死のうとしているわけです。ところが、それを持って来る人はにこにこ笑って「ありましたよ」と……。それでぼくは自分が欲したにもかかわらず、もうその獣医さんの顔を二度と見るのがいやになったな。もちろんぼくはストリキニーネは受け取らないで、もうネコはこなくなりましたと言って返しました。ぼくは自分が生きるか死ぬかということを自分で決定できる、それだけが唯一の自分の残された自由であると思ったけれども、そんなことは絶対ないんだな。生きるか死ぬかってことは自分が決定するんじゃなくて、自分以外の何者かが決定するんですね。だからどんなに絶望的な状況になっていたって、自分の体が生きようと欲しているかぎり、親切な人が毒薬を持ってきてくれたって顔を見るのもムカムカするぐらい腹が立つわけですよ、気持がわるくなるのね。ぼくは結局、人間は死ぬまでは生きていかなければならないんだということがよくわかった。そしてそのあいだ何かしていなきゃならないんですね。お金もなく、体力もなく、もちろん才能もなく何もなかったんだけども、はじめて真剣にものを書いてみようって気持になりました。つまり死ぬまでは生きていかなければならんということね。その状況のなかで自分が何を考えるにしても、まぁ、考えたことを紙に書いて、そしてそれをなんていうかなぁ、生きがいともいわないけども、残そうと思ったんだなぁ。

(中略)
 ぼくがどういうものを書いてきたということをこれからお話しますとえんえんと何時間もかかるんで、うまくお話できないんですが、とにかく書いたというのは実にくだらないことでした。自分が丈夫なときに体が丈夫なものとして、好きでもない女の子と恋愛ごっこをしたとか、デートをしようという気もないのに約束をしたとか、そしてその約束をした場所へ時間を二時間も遅れて自分がいってみたら女の子は果たしていなかったとか、まぁ、そういうことを思い出しながら書いたんですよ。書いているうちにいろいろのことがわかったなぁ。

※左から、大江健三郎、大岡昇平、開高健、安岡章太郎、坂本忠雄

闘うこと。文学とは生きている実感>
 マイナスの形で自分を表現するっていうのかな、自己主張するってのかな。最初にマーク・トエーンが南北戦争に敗けて、敗けたあとで北軍にノコノコ出かけていって、そこで自分の敗北談を話して聞かせて、これはたぶん金もうけのためにやったことでしょうけれどもね。だけどぼくはもうけのためばかりじゃないと思うんだな。やっぱりそこにマーク・トエーンの自己主張があったと思うんですよ。ぼく自身の心境はややそれに近いもんだったかと思います。もちろん、ぼくの場合はなんか書く事で金がもうかるわけはぜんぜんありえないですね。ただ、要するに書いていなければ時間のつぶしようがなかったからですね。
(中略)
 実は最初カリエスになったときに診てもらったときは、少なくとも八年間は病臥していなければならないというふうに言われたんですね、それも栄養をうんととって。ところが、ぼくは栄養も何もとらないで二年ぐらい寝てたのかな。それでこう治った、治ったとはいわないまでも峠を越したといわれたんで、ぼくは毎日ふとんの上に腹這いになって小説を書いているんですけれども、それで病気がよくなるもんでしょうかといったら、先生がそれはいいかもしれない、というんですよ。腹這いの姿勢はカリエスのためにはとてもいいのだ、そして何時間も動かずに背をそらした格好でもうジッとしているんだから、きっとそれがよかったんだろうといいました。 
(中略)
 ぼくはそのころ口ぐせでおれはいったい何のために生きてるんだとかね、そういうことを口ぐせにいうことになっていたんだな、独り言を。で、実際、生きていたって意味ないのになぁとか、何をやって生きてるんだ、そうフッといってね、なんとなくまわりを見まわす。と、枕許に、毎日毎日書いている原稿があるでしょう、ぼくは一日に二行か三行ぐらいしか書けないこともあったですよね。場合によれば、一枚も書けないこともあるし、そうして書き上げたものが何らかの価値をもっているかといったらもたない。だけど、おれは何で生きているんだ、とこういったとたん、その書きためた原稿用紙が少しずつ厚みを増しているんですね。それを見たらぼくはこの原稿のために生きてるとは思わないまでも、そこに、なんか、自分の生きてるってことが出てるんだなぁ。それで何のために生きてるんだ、コレだっていうふうな感じが非常にしたもんです。ま、そのために体が治ったといったら新興宗教みたいですからやめますけどね。でも、精神と肉体とは決して別々のものじゃない。両者はつながっているんですよね。離れがたいものではあります。
 これで話は終わります。

※昭和57年、自宅応接間にて

「悪い仲間」と「陰気な愉しみ」で芥川賞を受賞
「悪い仲間」より抜粋
 僕が高麗彦からうけた驚きを、こんどは倉田が受けとる番であった。僕は半ば無意識で、半ば意識して、夏休に藤井がやったコースをたどってみた。食い逃げ、盗み、のぞき見……。ただ、僕のやることは、どこか仕返しじみたところ、倉田の心を無理矢理動揺させなでれば気のすまないところがあった。たとえば食い逃げするにしても、僕は彼に相談ぬきでダマシ打ちで、いきなり駆け出させるやり方だった。僕が完全な成功を収めたことがあるとすれば、銀座の表通りにある食堂からスプーンを盗み出したのが唯一の例だ。この時は倉田の方から進んで感心した。
 その店のティー・スプーンは直線と球型とを組合せた独特のデザインで僕は気に入った。それで帰りがけにポケットの中へ入れた。ところが出ようとするとボーイが後から追いかけてきた。「もしもし、スプーンをお持ちのようですが……。」
 僕は、ゆっくりと振り向いた。そして、「いけませんか、これ、もらっては。」と匙をとり出して見せた。……ボーイは狼狽した。彼は顔を赤らめて手をふりながら、「いいえ、どうぞ。」と言って、さながら客に忘れ物でもとどけたようにニコニコしながら引きあげた。……気が付くと、肩をならべていたはずの倉田が、いつの間に飛びのいたのか、七メートル程も離れたところから眼を丸くして僕を見ていた。店を出ると、彼は告白でもする人のようなタメ息をついて、「すげえなア、君は。」と僕の沈着ぶりをほめた。僕ははじめて倉田を計略なしで驚かすことが出来たわけだ。倉田がどんなに感服したかは、次の日早速学校の近所の食堂で同じことを彼がやったことによって知られる。そのとき彼は力演すぎて、女の給仕から包丁位大きいカツレツ用のナイフまでもあたえられた。この無闇に大きな好意のしるしはポケットにも入らず、道ばたに棄てることもできなかった。
 どっちにしても倉田もまた、こうした冒険にわけの分からない魅力を感じだしたにちがいなかった。
※藤井高麗彦のモデルは、後年、芥川賞をとる古山高麗雄のことのようです。

※昭和28年、受賞直後銀座で
芥川賞というのは、新人作家がとれる最高の賞です。ジャンルは純文学です。音楽でいえば、インディーズバンドが「FUJI ROCKフェスティバル」に出られる資格を得た、くらいでしょうか。
「陰気な愉しみ」より抜粋
 私はまた大廻りして、別のもっと幅の広い通りも歩く。そこは外国人相手のみやげ物屋やレストランばかり並んでいるので、私は買い物や食事をしている外国人をながめる。……写真機をいじくっているアメリカ兵の後に立って、お尻でつきとばされるのは、ちょっと好いものである。しかし、もっと好いのは、日本人のボーイに送られてレストランから出てくる家族づれを見ることだ。チップをそれで補う心算もあって、愛嬌をふりまきながら夫人が先ず出てくる。その次がやや神妙そうな顔をした主人で、最後に子供だ。……私は幸福な彼等にみとれる。実際、彼等はたしかにわれわれとは人種がちがう。そばにいるボーイは彼等にくらべるとまるで猿だ。そして私はそのボーイよりまた一段下なのだが……。ところで私のたのしみは、これからだ。行き先きでも相談するのか大人たちは子供に背を向けて話しあっている。その隙に、私は怖い顔をつくって子供の顔を睨みつけてやるのだ。子供は、さッと顔色をかえる。……その筈だ。ギブスのために両肩に大きな瘤の出来たオジサンの、豚と悪魔とをつきまぜた顔に睨まれるのだから、たまったものではない。幼な児は、みるみる金色のマツ毛の間から眼球をぶよぶよとうるませるのである。(ああ、なんという快感!)何も知らない親たちは、あまりの怖さに信じかねる悪夢をもう一度たしかめようと振り向きたがっている子を、無理矢理空色のスチュードベーカーに押しこんで立ち去る。
 こうして私は、たまの運動で背中が洗濯板のように疲れるころ、麻痺するほどの自己嫌悪を感じながら、浮浪人の多くあつまるナミダ橋という辺の、屋台の店で一ぱい十円の出がらしのコーヒーをのんで帰途につく。

※昭和30年愛用のダンヒルでくつろぐ


第二十九回芥川賞選評(昭和二十八年上半期)
文藝春秋 昭和28年9月号

以下は、選考委員9人の選評を抜粋したものです。全員、意見がバラバラで、なんともステキです。


賛成派(「陰気な愉しみ」のすばらしさ)
丹羽 文雄(作家)
 安岡章太郎の「悪い仲間」より「陰気な愉しみ」の方を、私はとる。このひとの受賞は妥当であった、戦後にあらわれた作家のなかで、私はこのひとほど才能ゆたかな、ユニークな作家を知らない。こういう作風はえてして借りものが多いのだが、このひとのは素質だ。この傾向の小説家はあんがいに多いのだが、このひとが出たことによって消えてしまう作家も多いのではないか。
(中略)
 欲をいえば、この中に太宰治のもっていたような一本のしん棒がぐっととおるようになれば、鬼に金棒とおもうが、どうだろうか。

※ボリショイサーカスの人々と
大反対派(ただし、自省中)
石川 達三(作家)
 安岡君の二つの作品は特に問題にはなるまいと思っていた。それが当選ときまったのは意外であった。反対した私は責任上、翌日になって、も一度読んで見たが、やはり納得できない気がした。
(中略)
 読者の心に訴える感銘はうすい。それが最大の欠点だと思う。この種の作品を推奨することは、純文学を面白くないものにしてしまう危険がありはしないだろうか。私の所感は間違っているかも知れない。他の選者が理解し感銘する(新しさ)を理解する能力を欠いでいるのかも知れない。もしそうであるならば、これは私自身の問題であって、安岡君の問題ではない。しばらく考えて見ようと思う。

※奥様と
否定派(信じられるのは自分の作品だけだ)
宇野 浩二(作家)
 そうして、最後に残された『悪い仲間』と『陰気な愉しみ』は……私はこの二つの作品にも首をひねるのである、簡単にいうと『陰気な愉しみ』は、ずっと読めるが、たよりなさ過ぎ、『悪い仲間』は『愛玩』よりずっと落ちる上に、趣向は面白いけれど、荷が勝ち過ぎているように思われるのが気になるからである。
(中略)
 こんども(『こんども』である、)芥川賞に該当する作品が、皆無であった、

※長女治子さんとロンドン街頭で
絶賛派(とにかく「悪い仲間」だ)
佐藤 春夫(作家)
 「陰気な愉しみ」はあまりに断片的な小品ではないか、これに比べて「悪い仲間」の方にはたくましく大きな、というよりは太々しく投げ出したような面白さのうちに一種立体派的のスタイルもあり、短篇ながらよく圧搾されて膨張率の多いもので「陰気な愉しみ」とは到底同日の談ではない。
 「悪い仲間」の結びなど新進にはちと過ぎた風格である。

※開高健氏とシャンソンを高唱
物足りない派(安岡の才能だけは認めよう)
岸田 国士(作家)
 候補作品として私の手許に送り届けられた十一篇のうち、特に一篇だけ傑出したというものはなかった。安岡章太郎の「悪い仲間」と「陰気な愉しみ」は、いずれも希に見るすぐれた才能を示した短篇小説だが、これだけとしては出来栄えにやや物足りないところがある。

※大岡昇平氏と
賛成派(イキイキしてる)
瀧井 孝作(作家)
 安岡章太郎氏の短篇はいくつか佳いのを読んだ。こんどの二つも悪くない。それで、こんどこの人が当選することには、賛成した。この人の作は、『宿題』『愛玩』『悪い仲間』『陰気な愉しみ』『剣舞』こう並べてみると、大体観点が同じで、テーマも似たものだが、それだけに身についたもののようで、信用がおけると思った。確かりして活きいきした所があり、何か噛付いて行くような強い所があった。

※井伏鱒二氏と
他選考委員批判派(どうでもいいけど、えこひいきはよくない)
舟橋 聖一(作家)
 「悪い仲間」という作品は、一応、面白く読んだ。倉田真悟なる人物は、平板だが、藤井高麗彦はよく描けているし、無銭飲食の場面も手に入っている。これに反して「陰気な愉しみ」のほうは、未熟なもので、安岡の欠点ばかりのようなものだ。前者を授賞作品にすることは、前々から度々候補になった彼の経歴によって、納得出来るが、後者まで一緒に採用したのは、安岡のみ、点が甘いようで、公平とはいえない。

※タイコに興ずる
断固、賛成派(ほとんど激怒)
坂口 安吾(作家)
 安岡章太郎氏は処女作以来すでに一家をなしていた人で、独特の作風は安定しており、いつ芥川賞をもらってもフシギのない作家であった。 独特の観察とチミツな文章でもっている作風であるから、流行作家には不適格かも知れないが、それだけに熱心な愛読者には本がすりきれるほど読まれるような人だ。その点で井伏鱒二や太宰治に似ているが、リリスムやトボケ振りは前者よりも表面には出ておらないし、ニヒリズムも自意識も自虐性もタシナミよく抑えられており、沈潜、老成のオモムキがある。
(中略)
 この作家はいかにも芥川賞の作品でございというような物々しい大作には縁遠い人なのだから、このような独特な作家の場合は一作について云々すべきではない。一冊の本にまとまり、ある人々に熱烈に愛読されれば足りるので、それが芸術の本当の在り方ではないか。月評氏の批評の在り方と相容れなくとも、芸術とはある人々に本当に愛さるるに足れば充分だ。実に淋しい小説だ。せつない小説である。しかし、可憐な、愛すべき小説である。
(中略)
 メルヘンといえば安岡文学もメルヘンだ。そして、たぶん、全ての文字が。

※執筆の中休み
ノミネート外作品推薦派(つねに冷徹な眼)
川端 康成(作家)
 安岡章太郎氏の授賞には賛成である。しかし、今回の「悪い仲間」「陰気な愉しみ」よりは、前回の「愛玩」の方が、作品としてよほどすぐれていたと、私は考える。また、更に前の「ガラスの靴」がおもしろかったと感じる。前回の「愛玩」より悪いと考える作品に賛成するのは幾分ためらうが、安岡氏という特異な作家を推すのにはためらわなかった。

※愛犬コンタと


神の作品、「ガラスの靴

これが50年も前に書かれたものかと思うとおどろかずにはいられません。
あらすじ
 猟銃店の夜警のアルバイト学生である「僕」と、米軍軍医の家のメイドとして働く少女のような娘、悦子との恋愛。独特の童話的雰囲気と清潔さ、郷愁を感じさせる衝撃の処女作。

解説
 安岡文学の原点です。世界を驚愕させた「安岡先生のソウル」が凝縮されています。原稿用紙40枚程度の短編小説です。

※いろんなところから出版されていますが、講談社文芸文庫の「ガラスの靴 悪い仲間」がみやすくてオススメです。「悪い仲間」「陰気な愉しみ」「宿題」等も収録されています。

※私見ですが、この小説にあう音楽を挙げると、キャロル・キングを筆頭にリンダ・ルイス、ローラ・ニーロくらいがいいかと思われます。
イタズラ心いっぱい。そして、なんとうつくしい作品なんでしょう。女性というものはここまで魅力的に描けるんですね。
坂口 安吾(作家)
エッセイ「戦後文章論 <『ガラスの靴』の文章について>」より
 言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章が生きてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当たり前。話をするように書いただけですむ筈はありません。
「ギョッ」という流行語のモトはフクチャン漫画だろう。横山隆一の発明品である。彼は漫画の中へギョッだの、モジモジだの、ソワソワだのという言葉を絵と同格にとりいれる珍方を編みだした。
(中略)
 サザエさんも絵はあまりお上手ではないが、文章は相当うまいし、とくに思いつきが卓抜だ。
(中略)
 本職の文士の文章のダラシのないのはヒドすぎますね。つまり匿名批評の文士には職人の根性が欠けているのですよ。商品でなければならん、という大事な根性がなければ、すでに職人ではないし、したがって本職ではない。本職というものは、もっと仕事に忠実で、打ちこむものだし、手をぬくことを何よりもイサギヨシとせぬもので、あなた方のような雑な仕事をしながら、本職の文章をアレコレ言うのはまちがっていますよ。
(中略)
 大岡昇平と三島由紀夫は戦後に文章の新風をもたらしましたが、その表現が適切に、マギレのないようにと心がけて、まさしく、今までの日本の文章に不足なものを補っております。明快ということは大切です。
(中略)
 文章の新風としては、今度の芥川賞の候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なものでありました。私は芥川賞に推して、通りませんでしたが、この人は御両所につづく戦後の新風ですね。この人の文章は、山際さんや左文さんのような戦後風景に即しておって、文章としてはたくまずして(実はたくんでいるのでしょうが)おもしろい。作中の人間と、文章がピッタリして本当に生き物のような文章です。そして風の中の羽のように軽い。
(中略)
 けれども、この妖しい生き物のような文章は、文章の限りにおいて面白いが、おそらく文章が全然内容を限定してしまう性質のものです。まァ、人間は銘々が自分の領分だけでタクサンだ。といえば、それもそうですが、いくら妖しい生き物のような文章でも、内容があんまり限定されるということは、結局作品を骨董的なものに仕立ててしまって、いつまでたっても、それだけのものだ。
(中略)
 だから、文章としては風の中の羽のように軽くて、作中人物は生き生きと浮き上り、結局文章は姿を没るような爽快なオモムキがありますけれども、大岡三島御両所のように後世おそるべしというところがない。
(中略)
 内容を限定する危険のある文章はなるべく避けなければいけますまい。どんな人間同士の複雑な関係や物語にも、間に合う幅が必要ですよ。


※旧漢字はブラウザの関係上、すべて常用漢字に直しました。
安吾はつねにストレート一本。体育会系独特の明るさがあります。安岡先生の否定、否定で構成される、曲線的な表現方法とは、対照的です。しかし、この斬れんばかりのシャープな文章。そしてこの、おそろしいまでに的を射た内容。ああ、「本職」なんだな。うまく書けなかったことが150%書かれていて(安吾もほんとに愛してるんだろう)、うれしかった。

北原 武夫(作家)
エッセイ「『ガラスの靴』の思い出」より
 あの作品のもとの題はたしか『ひぐらし』というのだったと思うが、あの原稿が僕のところに廻ってきたのは昭和二十何年であったか、今僕には正確な記憶がない。
(中略)
 僕はその時、机に向かって急ぎの仕事をしていたので、はじめの間、その原稿を横になって寝ころびながら読んでいた。が、八枚目あたりまで読み進んだ時、思わずハッとなって起き上った。この安岡君という人の原稿は、寝ころびながら読んだりする作家ではないという、衝撃と言ってもいいほどの強い感銘に、不意に僕ははげしく捉えられたからだ。それから机の前に正座して、改めて僕は原稿を読みつづけた。読み終わった時、その直感通り、清冽な水がいっぱい胸に沁み通ったような、何とも言えず爽やかな感動に、僕は全身が揺り動かされていた。
(中略)
 『ひぐらし』という何の変哲もない題では、安岡君のこのすぐれた第一作を紹介するのに、あまりに曲がないような気がしたからだ。作者に不満がなければ、もう少し人の目につく華やかな題名にしたいと思った。そこで僕なりに一応『ガラスの靴』という題名を思いつき、その間の事情とこの作品に対する僕の感想を認めて、作者の諒解を得るために、当時鵜沼の方に住んでいた安岡君に手紙を送った。
 その手紙の返事には、安岡君自身が、当時木挽町にあった僕の家に直接やって来た。僕はそこで、はじめてこの作者に会ったのだが、作品を読んで僕の直感した通り、ピリピリするような繊細な神経を裡に秘めたナイーブな青年だった。その時僕と安岡君は、一時間あまり話し合ったと憶えている。
(中略)
 偶然にも、安岡章太郎という得難い作家を日本の文壇に紹介する栄誉を担ったわけだが、まだ誰も知らない輝かしい才能を秘めていたあの原稿を、はじめて自分の眼で読んだ時の爽やかな感動を、僕は今だに忘れることができない。
 話は、慌しくも荒んだ戦後の世の中で、貧しい一人の青年が妙な勤めをしているだけの、何の変哲もない話だ。こんな話を、並みの才能の作家が書いたら、恐らく読むに堪えなかっただろう。
※北原は、プレイガール全盛時代の宇野千代をフッた男です。作品は読んだことがない。でも宇野の小説はあります。最高です(特に「色ざんげ」)。北原作品もきっとすごいんでしょうね。

村上春樹をはじめいろんな人が「ガラスの靴」を絶賛しています。ガラスの靴。まだ読まれていない方は、読まれてみても、いいかもしれない。



安岡先生への寄稿文
菅原 文太(映画俳優)
エッセイ「押しかけファン」より
 銀座のある酒場で、十年程前だったと思います。安岡先生とお会いしたのは。
 私は大分酩酊しておりました。(何時も酩酊しているのですが。)図々しく私の方から、先生の御席に押しかけて、先生のファンであるなどとごたくを並べて、先生のボトルを無断で傾けるのに寸時もかかりませんでした。
 その時、先生はいやな顔一つせずあの細い目をますます細められて、にこにこと生意気な映画俳優の相手をしてくれました。当時私は「仁義なき戦い」を当て、「夜桜銀次」「県警対組織暴力」などで、乞食が一晩で王様になったような気分でおりましたから、さぞかし鼻もちならない酔っ払いだったと思います。
(中略)
 その夜の様子をこと細かには思い出せないのですが、先生が酒場のピアノに合わせて(まだカラオケのない頃です。)君はやさし、野辺の花よ……と古い歌曲を(この歌だったかどうかも記憶が薄れているのですが。)かなり美声で歌われました。大喝采のあと、私もうながされてディック・ミネさんの「夜霧のブルース」や、なぜか小さい頃から好きだった「赤い靴」などを思い入れよろしく歌ったのを覚えています。
(中略)
 三十年近く俳優をやってきて、近頃何が究極なのだろうかと考えるのですが、一つの答えは「単純、シンプル」ということです。無駄なものを一つ一つ剥ぎとっていたあとに残るもの、小さな黒い石のようなもの、動かない彫刻のようなもの、安岡先生の作品はそういうものに思えます。涼しい風の吹き通るようなお人柄も、詩に近いまでに凝縮された文章も、若い時の闘病生活で得られたものなのでしょうか。
「おい先生! いい酒飲んでんじゃねぇか」
くらいでしょうか。菅原さんの前歴は、映画俳優の前がモデル、その前が小説家だったようですから、なるほど文もうまいわけです。安岡先生にみてもらえるわけですから徹夜徹夜の連続、渾身の力をふりしぼって書いたのでしょう、「無断で先生の酒を飲む」くだりには気迫が感じられます。話は変わりますが、
情けないチンピラ役をやらせたら菅原さんの右に出る俳優はいないでしょう。

淀川 長治(映画評論家)
エッセイ「映画 対談のとき」より
 対談の座がはずむという言葉がありますが、安岡章太郎さんの場合は“対決”とでも申したい殺気がございました。殺気とは競馬の馬がスタートに立ったとでも申しますか、押さえてもおさまらぬ勢いをお受けいたしました。
(中略)
 かくてその対談で、安岡さんの、すごい、フランス映画愛が、私をあぜんとさせたのでありました。
(中略)
 しかし、私も、まがりなりに映画が本職ゆえに、それならばと今度はクレールの「自由を我等に」の軽快なメロディを口にいたし、さてこれはご存知かどうか……と思ったのでありました。ところが、これがまたフランス語の歌詞つき……なのでありました。おそらく日本じゅうで「自由を我等に」のあのメロディをフランス語で歌われる“おしろぅとさん”はまったくあるまいと思います。
(中略)
 時へて、いつの日でありましたか、またもやこの安岡怪人との対談の申込みがありまして、私は、こおどりしてお断りしたのでありました。もう、またもやいさぎよく負けると思ったからでありました。
(中略)
 このあと、いつだか、帝国ホテルのエスカレータで互いに上下そのちらと目と目が合ってお逢いしたときの安岡さんのお顔には“この野郎逃げやがったな”という一瞬のひらめきを私は見てとりましたがこれは私のひが目かも。
安岡先生の対談はすごくって、ああ言われたらこう。必ず言い返します。ソフトな口調ですが、まるで容赦しません。「純文学の鬼」です。でも淀川さんも(お亡くなりになってしまいましたが)本物の「映画バカ一代」で、まぁどっちもどっち、すごい男同士のすさまじい対談だったんでしょうね。



長生きされますように!
「宿題」(著 安岡章太郎)より抜粋
 扉をあけたとたんから僕は後悔した。先生は僕の机のフタをあけて、皆にその中のありさまを説明しているところだった。僕の何十日も前にハナをかんでクシャクシャにつっこんであったハンケチを、先生はワザときたならしそうに指先でブラ下げてみせた。組じゅうが合図されたように笑った。先生は、紙クズや、エンピツの削りカスや、また僕には憶えのないパンの食いかけや、そんなものを一つ一つ引っぱり出しては見せびらかす。そのくせ僕には叱らない。僕はもう先生には用のない子だ。僕が他の子の見せしめになりさえすれば、それでいいのだ。組中の子が笑いやめると、先生は入口で立っている僕をふりかえって云った。
「お前、いまごろ何しに来た?」
「……学校へ来たくなったので、来ました。お腹がいたくて寝ていたのですが。」
 全部正直に云うつもりが、前の半分だけでおわった。
「そうじゃない。お前は何処かでフラついていたんだ。」
 何でも知っていそうに云う先生がシャクにさわって僕は云った。
「家で寝ていました。」
 先生は笑った。れいの四角い函みたいなアゴがゆるんで前歯が出た。
「うしろを向いてみろ。……尻から背中までハネだらけじゃないか。耳タブまで泥がついているぞ。」
 組中の七十何人の子の嘲笑を背中にうけて、僕は学校をとび出した。……二度と行ってやるものか、あんな所。
モダンで、オシャレな作品です。完璧な戦争小説です。安岡先生の神技に近いテクニックが満載。一語の無駄もありません。クライマックスのくだりは胸がえぐりとられるようでした。
もう許さんぞ! もう許さんぞ!) 
行間という行間から、追いつめられた登校拒否児の泣き声、鬼気せまる狂わんばかりの唄がきこえてくる。「弱者、吼える! 声にならない悲鳴」。エレカシ流なら「涙も出ない。声もきこえない」。「芸術は爆発だ」岡本太郎ならこうだろう。ジャニスよりブルージー。ソウル。これはね、ソウルだよ。ソウルフルというよりは、これはもうソウルそのものじゃないか。フルは、はっきり余分だろ。
フルつきじゃ、あまりにも失礼だ。

つづく
謝辞: 注釈なき文および写真は、「安岡章太郎の世界」(かのう書房)から抜粋しました。ありがとうございました。
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