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8.『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「善悪観」

「善悪観」と宗教

人生を論じるうえで重要なテーマとなるのが、善と悪の問題です。何を“善”とし、何を“悪”とするかという善悪についての考え方や見解が「善悪観」です。シルバーバーチは人類に、画期的な「善悪観」をもたらしました。「正しい生き方とは何か?」「間違った生き方とは何か?」を知ることは、人生観の重要な内容です。善と悪についての見解が明らかでなければ、「正しく生きよ、間違った人生を送るな」と言ってもかけ声だけに終わってしまいます。このように「善悪観」と「人生観」は、表裏一体の関係にあります。

宗教にとっても、思想・哲学にとっても、道徳にとっても「善悪観」は中核をなす重要なテーマであるにもかかわらず、現在に至っても明確な結論は出ていません。人類共通の善悪観は、いまだに確立されていません。それぞれが、思い思いの見解を示すにとどまっています。

多くの宗教では“善”の根拠を「神」においています。そして「神=善」「神の教えに忠実な生き方=善なる行為」と説きます。それと同時に、神への反対勢力・悪の勢力としてサタン(悪魔)や魔王や悪霊などを設定し、それによって善と悪との間に明瞭な線引きをします。こうして「神=善」←→「サタン(悪魔)=悪」という対立の構図ができ上がることになります。その代表がキリスト教やイスラム教などの一神教の宗教です。これらの宗教では、善と悪の問題を「神とサタン(悪魔)の対立」という構図のもとで考えてきました。シルバーバーチに代表されるスピリチュアリズムでは、霊的事実に基づいて、神とサタンに関連づけた従来の宗教の善悪観を完全に否定します。「神とサタンの対立」などというものは、霊界にも地上界にも存在しないからです。

“善”の絶対基準を「神」におく考え方には、合理性と正当性があります。ところが実際には、多くの宗教では神を“宗教組織”とすり替え、自分たちの宗教の教義が善なる教えであり、それを実践することが正しい生き方・正しい人生であると説きます。自分たちの教団の教えだけを正しいものとし、その教えに忠実に従うことが神の意思に適った善なる生き方であると主張します。組織拡大のために貢献することが神に貢献することであるとし、勝手に善の基準を“宗教組織(教団)”に置き換えてしまうのです。そして「神=自分たちの宗教=善」という構図のもとで教団の教えを強制し、人々を洗脳します。このようにして地上の宗教によって人工的な善悪観が形成され、人々の“魂”は束縛されることになりました。

善と悪の基準は、宗教によって、また宗派によって異なります。この善悪観の違いが、しばしば醜い争いを引き起こしてきました。善悪観は、宗教や宗派によって異なるばかりでなく、時代によっても変化します。親子の間においても善悪の基準が異なり、世代間での断絶が引き起こされています。かつては“善”とされていたものが、時代が変わると“悪”となることもよくあります。また一つの社会での“善”が、他の社会では“悪”となることもあるのです。このように善悪の基準は、人間の都合によって次々と変化してきました。

シルバーバーチの「善悪観」の基本――「神の摂理」に善悪の基準をおく

理屈のうえでは善悪の基準は神におくのが最も合理的ですが、残念ながら神を奉じる宗教間においても共通の善悪観はいまだに確立されていません。それどころか、人間が勝手につくり上げた善悪観が無用の争いや戦争まで引き起こしてきました。「神は正義なり!」と叫びながら他の宗教者を殺害するという矛盾を発生させてきたのです。そうした悲劇の最大の原因は、従来の宗教が説いてきた善悪観の間違いにあることは言うまでもありません。

シルバーバーチに代表されるスピリチュアリズムでは、善悪の基準を「神の摂理」におきます。「神ではなく、神の摂理に善悪の絶対基準をおく」――これがシルバーバーチの「善悪観」の基本であり特色です。

一般の宗教では、神と人間の間には直接的な関係が成立し得ると考えます。そして神に祈りを捧げれば、その祈りは直接、神によって聞き届けられ願いが叶うようになると説いてきました。このように従来の宗教は、神と人間は直接的な関係で結ばれていると信じてきたのですが、それは真実ではありません。

シルバーバーチは、神と人間は「神→摂理→人間」という摂理を介した間接的な関係にあると主張します。神は「摂理」を造り、それを通じて宇宙や人間を支配しています。そのため人間は常に、神が造った摂理には触れることになりますが、神と直接的に接触することはできません。神は摂理によってすべての人間を機械的に支配し、完全平等・完全公平に扱います。そこには、えこひいきや特別な配慮は一切ありません。宇宙から万物・人間に至るまで、すべてが「神の摂理」によって厳格に支配されているのです。摂理は、人間が誕生する以前から存在しており、今後も変わることなく存在し続けます。シルバーバーチは、この永遠不変で絶対的な「神の摂理」に善悪の基準をおいています。

シルバーバーチは、絶対不動の摂理を基準として「善悪観」を説きます。そして「善とは神の摂理に一致したもの、悪とは神の摂理に反したもの」という善悪観の大前提を明らかにしています。「正しい生き方とは、神の摂理に一致した行為をすることであり、間違った生き方とは、神の摂理に反した行為をすることである」と定義しています。

「神の摂理」は、人間の事情や時代や環境の違いを超えて常に不変です。人間がどれほど自分は正しい(善)と主張しても、摂理に一致していないかぎり、それは間違い(悪)です。自分では正しい(善)と信じていても、また周りの人々がこぞって正しいと言ってくれたとしても、摂理に一致していなければ間違い(悪)なのです。反対に地上人の多くが間違い(悪)としていることも、摂理に適っているなら正しい(善)と言えるのです。このように神の摂理を基準とする「善悪観」は、地上人の考えとは一致しません。

「霊的成長至上主義」を中心とするシルバーバーチの「善悪観」

シルバーバーチは、「神の摂理」を善悪の基準とする善悪観を徹底して強調します。そして善悪の問題を「霊的成長」の観点から、さらに深めていきます。神は人間を、永遠に霊的成長の道をたどる存在として創造しました。そのため人間は、常に霊的成長を求めるようになっているのです。人間の霊的成長は摂理に一致した行為によって促され、摂理に反した行為によって妨げられます。この事実を踏まえてシルバーバーチは――「摂理に一致して霊的成長をなすことが“善”であり、正しい生き方である。反対に、摂理に反して自ら霊的成長を妨げることが“悪”であり、間違った生き方である」と定義しています。

被造世界は「神の摂理」によって支配されています。そのため霊界であれ地上界であれ、すべての事柄は人間の好き嫌いの感情や自己流の判断とは無関係に、神が定めたレール(摂理)の上で展開するようになっています。人間の霊的成長も、神の摂理の支配のもとでなされていきます。人間は神によって、永遠に霊的成長の道をたどる存在として造られました。したがって「霊的成長」は、人間にとっての宿命であり、霊的成長それ自体が「神の摂理」の一つとなっているのです。

人間はさまざまな摂理の支配を受けながら、「霊的成長」というレール(摂理)の上を一歩ずつ上昇していくことになります。もちろん霊的成長のスピードは、一人一人異なります。なかには霊的成長の歩みを一時休止するような者もいますが、そうした人間も摂理によって霊的成長を目指すことが宿命となっているため、やがて何らかのきっかけで再び霊的成長の道を歩み始めるようになります。

肉体を持った地上人が霊的成長の重要性を実感するのは難しいことですが、霊界人にとって霊的成長は、人生のすべてです。地上人がお金に関心を持つ以上に、霊界人は霊的成長にすべての意識と関心を向けています。霊界人にとって霊的成長は本能的願望であり、霊的成長が阻害されると霊的な飢えや渇きを感じるようになります。地上人は何週間も食事を摂れないと飢えによって大変な苦痛を味わうことになりますが、霊界人は霊的成長ができないと、それ以上の強烈な苦しみを持つようになるのです。霊的成長が霊界人の“霊的本能”となっているのは、人間が「霊的存在」として造られ、どこまでも霊的成長の道を歩むことが宿命となっているからです。

シルバーバーチは、こうした「永遠の霊的成長」という神の摂理を善悪の絶対基準として、シンプルでありながら本質的で包括的な「善悪観」を展開しています。シルバーバーチは、人間の霊的成長にプラスとなるものを“善”とし、霊的成長にマイナスとなったり、霊的成長を阻害するものを“悪”とします。

このようにルバーバーチは、神の摂理である「霊的成長至上主義」に基づいて、これまでにない画期的な善悪観を地上人類にもたらしました。シルバーバーチの「善悪観」は、「正しい生き方とは何か?」「正しい人生とは何か?」という問いに明瞭な答えを示しました。それは、霊的成長を促すような生き方が正しい人生であり、霊的成長を妨げるような生き方が間違った人生であるということです。

シルバーバーチは、霊的成長を促すものを“善(の内容)”とし、霊的成長を阻害するものを“悪(の内容)”とするシンプルで包括的な「善悪観」を説きました。こうした形で善悪観を示したのは、シルバーバーチが初めてです。それ以前のスピリチュアリズムのさまざまな霊界通信は、従来の宗教の善悪観の間違いを厳しく非難してきましたが、本当の善悪観とは何かを積極的に明らかにすることはありませんでした。シルバーバーチは「霊的成長至上主義」を基準として、地球人類に画期的な「善悪観」をもたらすことになったのです。

“善”からかけ離れていた従来の宗教

「霊的成長至上主義」の観点から見ると、従来の宗教は、その存在自体が間違っていた、すなわち“善”ではなかったということになります。これまでの宗教は、地上人の霊的成長を促すどころか、妨害してきたからです。特にキリスト教は、実際には存在しない“サタン”を前提とした善悪観を説き、人々の霊的成長を妨げてきました。ほとんどの宗教は、間違った教えを人々に植え付け、間違った生き方を強制してきたのです。

純朴な人々は宗教の教えをそのまま信じ込み、忠実に実践してきました。そのため霊的成長の道に逆行し、自ら霊的成長を阻害することになってしまいました。シルバーバーチは「地上の宗教はことごとく失格である」と述べていますが、その理由はこうしたところにあります。

従来の宗教は、間違った教えを説いて人々の魂を束縛し、“霊的牢獄”に閉じ込めてきました。多くの宗教は神の名を唱えるものの、神が造った「摂理」から外れていたため、その信仰も祈りも間違った行為になってしまったのです。

“善”の行為の具体的な内容とは

では、シルバーバーチは、人間に霊的成長をもたらす“善”の行為について具体的にどのような説明をしているのでしょうか。従来の宗教が行ってきたような、一方的に神にすがり祈りを捧げるといった行為は、決して善(霊的成長を促す生き方)とは言えません。それどころか悪(霊的成長を阻害する生き方)にさえなりかねません。厳しい肉体行も同じです。低俗な自己満足を引き出すだけで、魂を貶めることにもなってしまいます。

シルバーバーチは“善”の内容、すなわち霊的成長を促す「正しい生き方」について明確に述べています。シルバーバーチが教える霊的成長のための実践項目とは――「霊優位の生き方(物欲にとらわれない霊主肉従の生き方)」「利他愛の実践」「苦しみの甘受」の3つです。この3つの実践こそが、霊的成長を促す“善(正しい生き方)”の具体的な内容と言えます。

それに対して“悪(間違った生き方)”の内容とは、この3つの実践に反する行為のことです。すなわち「物欲・肉欲を追求する肉主霊従の生き方」「利己的・自己中心的な生き方」「苦しみを避ける生き方」です。

従来の宗教がしばしば用いてきた“罪”という言葉の真意は、霊的成長に反する行為・霊的成長を阻害する生き方のことに他なりません。“罪”はサタンの誘惑によって生じるものではなく、また“原罪”があるために発生するものでもありません。これまで当たり前のように用いられてきた“罪”という言葉の概念自体が空想であり、人々の心を洗脳するための悪しき思想だったのです。

“善”と“悪”は、霊的成長のプロセスにおける相対的な状態

シルバーバーチの「善悪観」には、さらに画期的な内容が含まれています。それは善と悪を対立した横の関係としてではなく、「霊的成長」という縦の流れの中で現れる状態として考えるということです。従来の善悪観は、善と悪を“対立”という概念で捉えてきました。善と悪を対立する状態と見なし、敵対関係にあるとしてきたのです。その代表が、キリスト教における“神とサタンの対立”“キリスト教会と反キリスト教会の対立”です。キリスト教では、これらを敵対する善悪の問題として考えてきました。

しかしシルバーバーチは――「善と悪は、霊的成長のプロセスにおいて現れる相対的な状態にすぎない」と説いています。そして「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」としています。したがって、今は“悪”として現れているものも、霊的成長にともなって“善”に変化していくことになります。

一般的に、利己的で暴力的な人間は“悪人”と呼ばれますが、“悪人”とは霊的未熟さ(霊的成長度の低さ)ゆえに摂理に反したマイナス面を表面化させている人間のことなのです。そうした悪人も、霊的成長とともに“善人”に変わっていくようになります。霊的成長にともなって “悪”が“善”に変化していくようになるのです。今は神の摂理に反した生き方によって自ら霊的成長を妨げている人間(悪人)も、霊的成長につれて神の摂理に一致した生き方をすることができるようになっていきます。

一方、現在“善人”と呼ばれている人間も、実際には悪の要素を内在させています。地上人は誰もが、善と悪の両方の要素を併せ持っています。善の行為をしたかと思えば、反対に悪の行為に走るようなこともあります。完全に善一色という人間は、地上世界には存在しません。完璧な善だけの生活を送っている地上人は、一人もいないのです。この事実は――「善人・悪人と言っても、その基準は相対的である」ということを意味しています。霊的成長のレールの上でトータル的に善性が悪性を上回ったとき、善人になるということです。「神の摂理」に一致した面をより多く発揮している人間を、一応“善人”と呼んでいるまでのことです。反対に、今は霊的未熟さから悪の要素をより多く発現している人間を“悪人”と呼んでいるということです。そうした悪人も善性を内在させており、それを発揮できるようになれば“善人”に変化していくことになります。

このように善人・悪人という区別は、霊的観点から見れば常に相対的なものなのです。しかしこれまでは、善と悪を決定的に対立するものと考えてきました。特に宗教にはその傾向が強く見られますが、それは間違った認識です。善と悪は、「霊的成長」という縦の流れの中で発生する相対的な上下関係にすぎません。善と悪は対立する横の関係ではなく、霊的成長のプロセスにおいて現れる相対的な状態のことを意味しているのです。

「生命の旅路は進化です。進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が善だとか悪だとか言っているのは、その旅路における途中の段階の高い低いの善にすぎません。終着点ではありません。あなた方の判断はその中途の不完全な理解力によって行われているのであって、善だと言ってもその段階での善であり、悪だと言ってもその段階の悪にすぎません。その段階での判断にすぎません。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.122

「(※何が善で何が悪かは)その時点での概念です。進化の過程で到達したその段階での顕現にすぎません。さらに進化すれば捨て去られます。完全なる摂理が、正道から外れた媒体を通して顕現しようとしている、その不完全な表現にすぎません。(中略)内部には完全な霊(※ミニチュアの神・神の分霊)を宿していても、媒体を通してそれを完全な形で表現できないだけのことです。人間が“悪”と呼んでいるのは“不完全”のことです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.128〜129

“善”と“悪”は、相対的な状態を表現する言葉にすぎない――「両極性の法則」

シルバーバーチは、善と悪が相対的な関係にあることを次のようにも説明しています――「善人と悪人の違いは、霊的成長のためのエネルギーを摂理に一致する方向に用いるのか、摂理に反する方向に用いるのかということだけです」。悪人とは、霊的成長のプロセスにおける未熟な人間・霊的に幼稚な人間のことです。今は悪人として摂理に反した生き方をしている人間も、霊的成長の方向にエネルギーを向けることができるようになれば善人になれるのです。

霊的成長を促す摂理の一つが「利他性の法則」です。人間は利他的行為という善の実践をすれば霊的成長が促されますが、反対に利己的行為をするなら霊的成長は阻害され、悪人のまま留まることになります。摂理の観点から言えば、悪人とは霊的未熟さゆえに自ら霊的成長に反する利己的な生き方をしている人間のことなのです。善も悪も霊的成長のプロセスにおける段階の一つにすぎません。善も悪も霊的成長の一面であり、霊的成長にともなって変化していく相対的な上下関係を表現しているのです。

利他性は、霊的成長を促す「神の摂理」です。その摂理に一致した利他的行為は“善”となり、摂理に反した利己的行為は“悪”となります。地上世界では、さまざまな次元において利他性と利己性、善と悪が混在しています。国家間、民族間、宗教間、そして人と人との間においても善(利他性)と悪(利己性)が混在しています。また、一人の人間の内にも善と悪が同居しています。地上は、あらゆる点で善(利他性)と悪(利己性)が入り混じっている世界なのです。

シルバーバーチは「霊的成長」にプラスとなるものを“善”とし、マイナスとなるものを“悪”と定義しました。このように考えると、善人と悪人との間には相対的な違いがあるだけで、善人も悪人も霊的成長のプロセスにおいて別の段階に立っているにすぎないということが分かります。善と悪は、すべて相対的な関係の中で決まるものであり、“悪”と言われているものは“善”の裏側にすぎないのです。

シルバーバーチは善悪の相対性について、次のように説明しています。

「生命には両極があるということをまず認識してください。作用があれば反作用があります。光があれば闇があり、日の当たる場所があれば日陰があります。戦争があれば平和があり、善があれば悪があるといった具合です。硬貨の表と裏といってもよいでしょう。物理学でも作用と反作用は同じであり、かつ正反対であるとしています。悪は善の倒錯であり、憎しみは愛の倒錯です。本来は善に変えられる同じエネルギーだということです。日向ばかりにいては光の何たるかは分かりません。死があるから生を意識できるのです。悲しみがあるから喜びが味わえるのです。病気になってはじめて健康のありがたさが分かります。これを“両極性の法則”と言います。」

『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版)  p.181〜182

「生命の進化は永遠の過程である以上、発達した者と未熟な者とが常に存在することになります。それはこちらの世界でも同じことです。ピンからキリまで、無数の階梯の存在がおります。“ヤコブのはしご”は地上界のどん底から天界の最上界まで伸びているのです。要は相対性の問題です。」

『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版)  p.182〜183

現段階で“善人”とされている人間も“悪人”とされている人間(霊的未熟者)も、内面には善性と悪性の両方を持っています。霊的成長度の上下関係は、善性と悪性の相対的な比率によって決まるものです。上にはさらに上があって別の上下関係が成立し、下にはさらに下があって別の上下関係ができ上がっています。霊的視点に立てば、これまで人間が抱いてきた善と悪の概念は間違っていることが分かります。

シルバーバーチは、“善悪”や“罪”といった言葉を霊的成長の段階として捉えています。霊的成長度(霊的未熟さの度合い)という点で説明しています。シルバーバーチは、これまで地上世界で常識的に用いられてきた“善悪”や“罪”という言葉が意味するものを明らかにし、新しく定義し直しました。“善悪”という言葉を「利他性」「利己性(霊的未熟性)」という言葉に置きかえて人類に提示したのです。

地上人は、“善”と“悪”の両方を体験する中で霊的成長をなしていく

シルバーバーチの「善悪観」には、さらに画期的な内容があります。それは「地上人は善(利他性)と悪(利己性)の両方の体験をする中で、より善(利他性)への志向を強めるという形で霊的成長をなすようになっている」ということです。地上で生活する人間は、相対的な世界・善と悪が同居する世界に身を置き、自ら善(利他性)を志向することによって霊的成長をなしていきます。地上世界は“光と影”の両方を体験し、そこからより明るい世界を目指して歩み出すための訓練場なのです。

こうした意味からすると、地上では“悪”も霊的成長にとって大切な役割を担っているということになります。霊的未熟性(利己性)から生じた悪も、霊的成長には欠くことができない体験になっているということです。人間はプラスの体験だけでなく、プラスとマイナスの両方の体験をすることによって、よりプラスの要素が強化されるようになるのです。これは霊界にはない、地上世界独特の霊的成長の方法です。シルバーバーチは、この仕組みを「光と影の法則」と呼んでいます。

こうした「霊的成長」に関わる重大な事実を、シルバーバーチは初めて明らかにしました。それまでの善悪観ではとうてい考えられなかった画期的な見解をもたらしたのです。

人間には善悪を指し示すモニターが備わっている――“良心の声”

シルバーバーチの「善悪観」には、もう一つの画期的な内容があります。それは「いかなる霊的成長レベルにある人間にも、霊的成長の方向を示すモニターが備わっている」ということです。人間は「神の摂理」によって、永遠に霊的成長の道をたどる宿命にあります。そのため霊的成長(霊性)のレベルに関係なく、すべての人間に霊的成長の方向が示されるようになっています。それが一人一人の内面から生じる“良心の声”です。良心の声とは、各自の「分霊」に備わっている“霊的本能”から発するものです。「分霊」は、永遠に存在し続ける人間の本体であり、霊的成長をなすための方向を察知する本能を持っています。それは、きわめて高次元の霊的本能です。

人間は肉体(脳機能)に異常がないかぎり、霊的成長の方向を示す“良心の声”を認識できるようになっています。良心の声は、私たちがさまざまな問題や困難に直面したとき、進むべき道を指し示してくれます。自分の判断が正しいか間違っているか、霊的成長をなす方向(善の方向)か霊的成長に反する方向(悪の方向)か――その答えが自動的・直感的に示されるようになっているのです。

しかし霊性の未熟な地上人にとって“良心の声”は、自分の考えに反することが多いため、何かと理屈をつけてそれをもみ消そうとします。良心の声は、人間の本体である「分霊」が摂理に反応して示す答えであり、本当は自分の“心”はそれが正しいことをよく知っています。

自分が正しいと思うこと、すなわち“良心の声”が指示する内容に忠実であれば、霊的成長が促されることになります。どんなに大きな困難が予想されても良心の声に勇気を持って従うなら、間違いなく最も良い結果が得られます。良心の声に従うということは――「純粋な動機・利他的な動機から行為をなす」ということです。

こうした内容については他の高級霊による霊界通信でも取り上げられていますが、良心の声を「霊的成長」と「善悪観」とに関連づけて論じ、その意義を強調したのはシルバーバーチが初めてです。