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13.『シルバーバーチの霊訓』の画期的な「救済観」

救済(救い)は、宗教にとっての重要なテーマです。宗教と救いは密接な関係にあり、救いを標榜しない宗教はありません。宗教における救いについての見解が「救済観」です。宗教史上、また思想史上、さまざまな救済観が説かれてきました。ここではシルバーバーチが明らかにした画期的な「救済観」について見ていきます。

(1)救済観のさまざまな側面

宗教における“救い”には、さまざまな側面があります。そのため「救済観」を論じる際には、いろいろな点を考慮しなければなりません。人生には“苦しみ”が付きものであるため救済が問題となるのですが、その苦しみは人それぞれです。一人一人に異なる苦しみがあり、当然“救済”の意味もそれに応じて違ってきます。そうした点から救済の問題は、とても奥が深い広範囲なテーマと言えます。

ここでは従来の「救済観」をさまざまな角度から分析し、宗教における「救いの問題」のアウトラインを見ていきます。

救済観の側面【1】――地上人生で遭遇するさまざまな苦しみと救い

地上人類は、苦しみや困難からの“救い”を宗教に求めてきました。古来、人間を苦しみから救済することが宗教の使命であり、役目であると考えられてきました。人間は、苦しみや困難に遭遇すると宗教に救いを求め、必死に神仏にすがってきました。そして願いが叶うと「宗教によって救われた」「神仏によって祈りが聞き届けられた」と感謝してきたのです。

人間は、自分の努力で簡単に解決できるようなトラブルに対しては、わざわざ宗教に救いを求めるようなことはありません。自分の努力ではいかんともしがたい苦しみや困難に遭遇したとき、あるいはもはや自力では解決できないという状況に置かれたとき、宗教に頼るようになるのです。一般の人々にとって“救い(救済)”とは、人間の力では解決不可能な苦難・不運・不幸が神仏や神秘的な力によって消滅したり減少することを意味しています。

人間を宗教に向かわせるものは、人生において発生するさまざまな苦しみや困難です。生活苦から宗教に救いを求める人もいますが、日本のような先進国では最低の生活が保障されているため、よほどのことがないかぎり生きていけないほどの苦境に立たされることはありません。なかには仕事が行き詰まり自殺にまで至ってしまう人もいますが、本当は何らかの逃げ道があるはずです。

世の中には、家庭内の不和や人間関係のあつれき・子供に関するトラブルといった問題で悩んでいる多くの人々がいます。そうした人間関係のトラブルは、本人が努力したからといってすぐに解決するものではありません。逃れられない苦しみにとらわれて精神的な地獄を味わい、宗教にすがるような人もいます。

また、肉体の病気も、本人の努力だけで解決できるというものではありません。長い闘病生活を強いられ、生活に困窮して生きる望みを失ってしまう人もいます。年老いてからの発病は特に深刻で、回復する見込みもないまま、孤独の中でただ死を待つだけの辛い状況に追い込まれます。それは死刑の執行を待つ囚人と同じで、まさに絶望しかない地獄の時間となります。病気で苦しむのは本人だけではなく、病人を看護する家族も同様です。病人を抱えた家族には、大きな犠牲がともなうことになります。看病のために家族が疲労の極限に達し心中するといった悲劇が、あちこちで起きています。家族の一人が精神病を発症した場合も、家族全員が苦しみを背負うことになります。こうした絶望状況から逃れたいと願い、新興宗教に頼る人もいます。

今述べたように人間は、地上人生においてさまざまな苦しみや困難に遭遇します。そうした中で多くの人々は、宗教に救いを求めるようになります。人間は自分の手に負えない苦しみや困難に遭遇すると、宗教に頼り、神仏に救いを求めるようになるのです。

これとは反対に、世間には宗教に否定的な人間も多くいます。そうした人々は当然、生活苦や人間関係のトラブル・病苦の解決を宗教に求めることに批判的です。神仏に頼って苦しみや不幸から逃れようとするあり方を“ご利益信仰”と言って軽蔑し、存在しない神仏にすがるのは愚かな生き方であると非難します。しかしそうした宗教に批判的な人間も、自分自身の死や愛する人との死別に直面すると、思わず神仏にすがるようになるのです。

一方、現在の地球上には、飢餓状態に追い込まれ、生命の危機にさらされている人々がいます。誰からも援助の手が差し伸べられない中で毎日、多くの人々の生命が飢餓によって失われています。また、戦渦に巻き込まれ、いつ生命を奪われるかもしれないという不安と恐怖の中で、その日その日を何とか生き延びている人々もいます。世界には、こうした極限状況の中で必死に救いを求めている人間が大勢いるのです。

救済観の側面【2】――お参り信仰と現世利益信仰

多くの人々は、苦しみや困難に遭遇すると宗教に救いを求めます。では、宗教の何が苦しみを取り除いてくれると考えているのでしょうか。救いをもたらす存在を“救済者”と言いますが、人々は何を“救済者”と信じているのでしょうか。救済者としてすぐに思い浮かぶのは、寺社の御神体や仏像などです。海外なら、聖人や天使やマリヤの像などです。また無形の神や仏、神格化された歴史上の人物や先祖の霊、あるいは新興宗教の場合には教祖が救済者とされることもあります。

“苦しいときの神頼み”といった言葉があるように、苦しみのどん底に立たされると大半の人間は、「苦しみを取り除いてくれるなら、どんな神でも仏でもかまわない、どんな神社や寺院でもかまわない」と思うようになります。日頃信仰している宗教と違っていても、あまり気にすることはありません。もし一つの所(寺社)で効果がない場合には、別の寺社を探してお参りするということになります。多くの日本人に見られる寺社参りの慣習(お参り信仰)には、こうした背景があるのです。

「何とか苦しみから逃れたい」という人間の心理は理解できますが、“お参り信仰”は人間中心の信仰・神仏を利用する信仰です。それはある意味で、ご都合主義の“エゴ的信仰”と言えます。多くの日本人に見られる信仰の実態は、まさに“ご利益信仰・現世利益信仰”なのです。

救済観の側面【3】――“死の恐怖”からの救い

人間にとって宿命であり、逃れることができない苦しみの最たるものは“死”です。古来、人々は“死の恐怖”からの救いを宗教に求めてきました。宗教は、死の恐怖や苦しみから人々を救う拠りどころとされてきました。宗教はそれに応えようと、さまざまな「死生観」や「死後世界観」を人々に示してきたのです。

多くの宗教では、死後には神(天使)や仏が他界者に手を差し伸べ、天国や極楽浄土へ連れていってくれる、という形で死の恐怖からの救いを説いてきました。死後、神仏の加護のもとで天国や極楽に導かれるという「救済観」は、最もシンプルで一般的なものです。

しかし仏教本来の教えの中には、仏が死者を極楽浄土に手引きして救ってくれるというような内容はありません。シャカが説いた仏教は、この世に生きる人間(生者)が悟りを得るための宗教でした。ところがシャカの死後、時代の流れの中で仏教の本質は根本から変化してしまいました。大乗仏教の“浄土信仰”では、人格的な唯一神と言ってもいいような絶対者に帰依する信仰が説かれました。こうして仏教は、本来の悟りの宗教から死後の人間の救いを中心とする宗教に変わってしまいました。日本の浄土信仰における“阿弥陀仏”は、キリスト教の“神”に通じるところがあります。キリスト教の神に人間性を付与したものが、阿弥陀仏と言えます。人々は阿弥陀仏にすがって、死後の救いと幸福を得ようとしてきました。

死という逃れられない宿命は、現代人にも深刻な悩みや苦しみをもたらします。死について真剣に考え始めると、居ても立ってもいられなくなります。「死とは何か?」「死後の世界は存在するのか?」「死後の世界とはどのような所なのか?」「そこで人間はどのように生きることになるのか?」「昔から言われてきた霊魂の不滅とは何か?」――こうした“死”に関するさまざまな疑問に明確な答えが示されないかぎり、人間は死の恐怖や苦しみから救われることはありません。古来、死の恐怖や苦しみに直面した人々は、その答えを宗教に求めてきました。死後の世界における救いを宗教に求めてきたのです。そして多くの現代人も、死の恐怖からの救済を宗教に求めています。

救済観の側面【4】――“罪”からの救い

従来の宗教における「救済観」の中には、罪からの救いを神仏に求めるものがあります。その代表がキリスト教の救済観――すなわち「イエス・キリストによる贖罪」です。キリスト教では、「人類の始祖の堕落によって発生した“原罪”が、人類全体に及んでいる」とします。そして「罪人となった人間は死を避けることができなくなり、さまざまな苦しみを味わうようになった。しかし罪人である人間は、自らの努力では自分自身を救うことができない」と教えています。

キリスト教では、「人間はイエスを“キリスト(救世主)”と信じることで罪が許され、それによって初めて救われることになる」と説きます。「人間は罪のない神の一人子イエスをキリスト(救世主)と信じることによってのみ救われる」とし、「イエス・キリストの贖罪によらないかぎり、誰ひとり救われることはない」と主張します。これがキリスト教における「罪からの人間救済論」です。

仏教の中にも、罪からの救いを求める信仰(滅罪信仰)が見られます。人々は、過去世に犯した罪や現世で犯した罪を消滅させようと仏に祈願します。除夜の鐘をつくのは、仏教の滅罪信仰の表れです。懺悔(ざんげ)による滅罪や水垢離(みずごり)による滅罪・霊場巡りによる滅罪など、広く見られます。また、浄土信仰においてシャカの誓願(本願)を信じて“南無阿弥陀仏”と唱え、罪を許してもらおうとする本願信仰も、これに相当します。

救済観の側面【5】――“他力救済”と“自力救済”の問題

多くの日本人が行っているお参り信仰は、神や仏などの救済者によって人間の力の及ばない不幸や不運から救ってもらおうというものです。人々は、神仏など力のある存在にすがって苦しみを取り除いてもらうことが信仰であると思っています。そうした神仏にひたすらすがって救済を願うというシンプルな信仰を「他力救済信仰」と言います。日本人の初詣や寺社巡りなどは、他力救済信仰の典型と言えます。

「他力救済信仰」は日本ばかりでなく、世界中でごく当たり前に見られる信仰形態です。一神教であるキリスト教やイスラム教といった世界宗教の中にも、他力救済信仰が見られます。キリスト教では原則的にご利益信仰に反対していますが、実際にはそうした建て前とは異なり、多くの信者が苦しみからの救いを神や聖人・天使などに祈り求めています。

宗教の中には、今述べてきた「他力救済信仰」とは正反対のものがあります。神仏に一方的にすがって救いを求めるのではなく、自分自身の努力を通してさまざまな苦しみや困難を乗り越えていこうとするものです。“自分で自分を救う”という意味で、これを他力救済に対して“自力救済”と言います。そうした「自力救済信仰」の代表が、生前のシャカが説いた教え(シャカ仏教)です。シャカは、「自分自身の努力で“法(真理)”を悟ることが真の救いである」と説きました。「自己の努力による“悟り”が救いである」としたのです。そこには神仏にすがり、その力によって苦しみを取り除いてもらおうとする他力救済の要素は全くありません。

シャカの没後に現れた大乗仏教の一つ“浄土教”では、阿弥陀仏などによって救ってもらおうとする“他力救済”が強調されました。シャカ仏教(原始仏教)と浄土教では、救済観の内容において180度違っています。白を黒と言うほどの違いがありますから、これらを“仏教”という名称で一括りにすることには無理があります。

「他力救済信仰」は、ある意味で安易な信仰と言えます。「自力救済信仰」には他力救済信仰とは比べものにならない厳しさがともなうため、当然それを実践できるのは一握りの人間に限られます。自力救済信仰を極限まで推し進めると、最後には神仏不在の宗教になってしまいます。神仏にすがらない信仰は、一般大衆にとってはあまりにもハードルが高く、なかなかついていくことができません。そのため圧倒的多数の人々は、他力救済信仰に向かうことになります。自力救済信仰における救済者は神仏ではなく、どこまでも自分自身です。他力救済信仰における救済者は、神仏や守護神・天使・歴史上の人物であったりしますが、自力救済信仰では自分以外に救済者はなく、神仏への依存は禁止されます。

以上のように“救済”の観点から信仰を見ると「他力救済信仰」と「自力救済信仰」に大別されますが、実際には多くの宗教が他力救済信仰と自力救済信仰の両方の要素を取り入れています。また、他力救済信仰と自力救済信仰の変形バージョンを説いている宗教もあります。

多くの新興宗教では「霊能力」のある教祖が神格化され、信仰的権威(カリスマ)を有することになります。そこでは教祖が信仰対象とされ、絶対的救済者と見なされます。信者は、「教祖を崇拝し、教祖にすがることによって救いがもたらされる」と教えられます。その一方で、「自分たちの教団の教え(ドグマ)を忠実に実践しなければ救いはもたらされない」とも教えられます。教祖という特別な人間にすがるだけでは救われない、救いは本人の信仰姿勢いかんで決まる、と教え込まれるのです。これは“他力救済”と“自力救済”それぞれの要素を上手に取り入れて折衷したものと言えます。

ほとんどの新興宗教では、神仏と人間(信者)の間に、両者を仲介する神格化された人間が存在します。「教団の教祖が仲介者となり、教祖を通して救いがもたらされるようになる」と説いています。教祖が存在しないかぎり救いが実現することはないとされ、教祖の死後は、教祖の権威を継ぐ後継者が新しい救済者として立てられることになります。大半の新興宗教は、「神(超越者)と人間(信者)との間に救済者(仲介者)となる人間(教祖)を立てる」という形で存在してきました。また、伝統宗教と呼ばれる宗教の中にも同じような形態をとっているものが多く見られます。

それらの中で、最大にして最も典型的な宗教がキリスト教です。神と人間との間に神格化された仲介者(救済者)を置き、その仲介者(イエス・キリスト)を信仰の中心とするのがキリスト教という一神教の世界宗教です。

次に、キリスト教の「救済観」について見ていきます。

(2)キリスト教の「救済観」――人類史上、最も大きな影響を与えた最悪の救済観

イエス・キリストによる「原罪の贖罪」

救済観という点から宗教を見るとき、最も大きな特徴を有しているのがキリスト教です。キリスト教の「救済観」は、世界の宗教の中で際立っています。それはキリスト教という名称にも、そのまま示されています。キリストとは“救世主”のことです。キリスト教では、「2千年前に登場したナザレ人イエスをキリスト(救世主)と信じることによってのみ人類は救済される」と説いています。イエスを人類共通の“唯一の救済者”とするのが、キリスト教なのです。

キリスト教では、イエスが全人類に代わって罪を背負い、十字架にかかって死んだとしています。そしてそのイエスをキリスト(救世主)と信じることによって“原罪”が許され、救われることになると教えています。ユダヤ教では、スケープゴートとして羊などを捧げることで贖罪(罪の許し)がなされるとしてきましたが、キリスト教では、「イエスが人類のためにスケープゴートになることによって罪が許される道が用意された」としているのです。

キリスト教の「救済観」の根幹をなす概念が“原罪”です。キリスト教では原罪について、次のように説いています。「人類の始祖が“サタン”の誘惑に騙され、神の戒めに背いたために“原罪”が発生した。その原罪が遺伝して人類全体に及んだことで、すべての人間は“罪人”になってしまった。人間は罪人であるがゆえに死を避けることができなくなり、さまざまな苦しみを背負うようになった。地上人類の苦しみの元凶・大元は、この“原罪”にある。人類が苦しみを味わうのは原罪があるからであり、すべての人間が罪を引き継いでいるからである。」

キリスト教は苦しみの元凶を“原罪”としますが、シャカは人間の苦しみの元凶は法(真理)を知らないこと、すなわち真理に対する“無知”であるとしました。このように人類の苦しみの起源についての解釈は、全く違っています。スピリチュアリズムでは、人類の苦難・悲劇の元凶は霊的真理に対する無知――すなわち「霊的無知」であるとします。霊的無知が「物質中心主義」と「利己主義」という2つのガンを発生させ、さまざまな悲劇を引き起こすことになっていると説いています。

キリスト教では、イエスが全人類の罪を背負って犠牲になったことで、神の許しを得る道が開かれるようになったとします。全人類の罪を背負って犠牲となったイエスを“キリスト(救世主)”と信じることによって原罪が贖われ、神の許しを得て人類は救われるようになると教えています。これがキリスト教の「原罪の贖罪」であり、キリスト教の「救済観」の骨子です。

キリスト教の「救済観」の最も重要なポイントは、イエスをキリスト(原罪からの救い主)と信じることによって罪が贖われ許されるという「贖罪思想」です。キリスト教では、罪人である人間は神に直接願い出ても救いは得られない、イエス・キリストを仲介者としなければ救われない、としているのです。「キリスト(救済者)を介してしか救いは成就しない」と主張する点に、キリスト教の「救済観」の最大の特色があります。「イエスという一人の特別な救済者を通してしか救いは得られない」と考えるところに他の宗教との根本的な違いがあり、それがキリスト教が他の宗教と妥協できない最大の理由なのです。

“キリスト再臨運動”における救済観

キリスト教における人類の救済は、終末に登場する“再臨のキリスト”によって完成することになります。キリスト教では、十字架にかけられたイエスが死後に蘇った出来事を“復活”と呼び、それこそがイエスが救世主(キリスト)であることの証拠としています。“復活”とは、現代人が関心を寄せる臨死現象や臨死体験のようなもの(いっとき死後の世界に足を踏み入れ、戻ってくる現象)ではなく、肉体とは異なる特殊な身体を携えての“蘇り”であると考えるのです。それは、もはや死ぬことのない“栄光の体”を持つことであり、死によって滅びることのない永遠不滅の身体・生命が与えられることを意味していますスピリチュアリズムでは、キリスト教が“復活”と呼んできた出来事を、エクトプラズムによる「物質化現象」であるとします。初期スピリチュアリズムにおける心霊研究では数多くの「物質化現象」が演出され、2千年前のイエスの復活がありふれた現象に他ならないことを実証しました)

イエスは死後、マグダラのマリアをはじめとする信者たちの前に姿を現しました。キリスト教徒は、その復活したイエスが終末に再びこの世にやってくると信じてきました。これが「イエス・キリストの再臨」です。その時、殉教者や敬虔なキリスト教徒は復活して“栄光の体”を手にすることになり、永遠の救いにあずかることができるとされてきたのです。

19世紀になると、アメリカにおいて「キリストの再臨と千年王国の予言が実現する時がきた」と考える人々が現れ、活発に“再臨運動”を展開するようになりました。キリストの再臨を信じる人々は“アドベンティスト”と呼ばれました。その中で最も著名な人物がウィリアム・ミラーで、彼は「1843年に終末がくる」と予言しました。しかしその予言は外れ、別の人物によって「1844年が終末である」と訂正されました。ところが、その予言もまた外れてしまいました。この一連の騒動は、再臨を待ち望んできた人々に大きなショックと絶望を与えました。しかし再臨を期待する動きはますます盛んになり、新たな再臨運動が展開されることになりました。

そうした時代的背景の中で、ラッセル(1852~1916)によってエホバの証人(ものみの塔)の運動が始められました。ラッセルは聖書の新しい解釈に基づき、「エホバに従う人々だけに終末の救済がもたらされる」と説きました。エホバの証人は現在、再臨運動を最も活発に展開している教団として知られています。

現代のクリスチャンの中には、聖書の記述どおりに空中からイエスが現れると考え、ひたすらその時を待ち望んでいる人々がいます。また、すでに再臨のキリストは地上に誕生しており、今は姿を隠して大衆の面前に出る時期を待っていると考えている人々もいます。さらには、再臨のキリストは特定の人間として地上に誕生し、すでに宗教組織を結成して救済活動を開始しているとする人々もいます。

現在、世界各地で「キリストの再臨」を唱えるさまざまな宗教団体が生まれ、自分たちがその当事者であると主張しています。それらはいずれも「イエスによる人類救済は、イエスの再臨によって完成する」と考えている点で共通しています。聖書の記述に基づき、再臨のキリストによって人類の最終的な救いが達成されることになると主張しているのです。

いずれの「再臨思想」も、キリスト教の教義の解釈のし直しにすぎない――“統一教会”の例から

「キリストの再臨」を具体的に説く教団の多くは異端とされ、従来のキリスト教会から非難や迫害を受けてきました。キリストの再臨を説くいずれの宗教団体も、自分たちの「再臨説」が最も正しいとし、自分たちの教団を通してキリストの再臨は実現することになると主張します。「再臨説」を唱える教団の中には、キリストはすでに再臨しており、自分たちの組織が再臨のキリストの受け皿になっていると主張する教団もあります。

「再臨説」を唱える教団は、自分たちの考えだけが正しくて、従来のキリスト教で説かれてきた再臨説は間違っていると批判します。しかし実際には、そうした彼らの主張も、すでにキリスト教で述べられてきた根幹教義を新たに解釈し直したものにすぎません。それぞれの再臨思想は聖書の解釈によって部分的に異なりますが、「人類の始祖の堕落・原罪の発生・罪の拡大と人間罪人説・キリスト(再臨のキリスト)による贖罪」というキリスト教の根幹教義の大枠をそのまま踏襲しています。

“統一教会”も、その例にもれません。“エホバの証人”と並んで活発な再臨運動を展開しているのが統一教会です。統一教会では、自分たちの教祖・文鮮明氏(2012年に死去)が“再臨のキリスト”であると主張します。彼らは、「キリストの再臨」とは2千年前のイエスがそのまま地上に再登場することではなく、イエスが十字架にかかることによって達成できなかった人類救済の使命を成し遂げるために、イエスとは別の人間が地上に誕生することであるとします。イエスと同じ救世主としての使命人類の原罪を贖う使命)を持ち、イエスが成し遂げられなかった人類の救済を完成する人間の誕生が「キリストの再臨」の真義であるとします。他のキリスト教会が説いてきたようなイエスと同一人物の出現ではなく、同一使命者の出現がキリストの再臨の本当の意味であると主張するのです。そして文鮮明氏こそが“再臨のキリスト”であるとし、文氏=再臨のキリスト説を緻密な理論と歴史解釈を展開することで正当化しようとします。

そうした統一教会の見解は「再臨思想」としては確かに異彩を放っていますが、それはどこまでも聖書という書物の一つの解釈にすぎません。聖書に書かれている内容自体が間違っていれば、それをどのように解釈し、もっともらしい理屈を並べても“邪説”になってしまいます。統一教会の教義は、一見すると従来のキリスト教の教義とは全く異なっているように思われます。しかしキリスト教の根幹教義である「人類の始祖の堕落・原罪の発生・キリストによる原罪からの救い」という枠組みは、そのまま踏襲しています。その点から見るかぎり、統一教会の救済観は従来のキリスト教の救済観と大差ありません。

スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理(霊的事実)」に照らしてみると、統一教会はキリスト教と同じ間違った枠組みの中で自説を展開していることは明らかです。キリスト教は統一教会を“異端”と非難し、統一教会は“従来のキリスト教会は正しいことが分かっていない”と反論します。しかし「霊的事実」の観点から言えば、どちらも間違った枠内で意見を論じているにすぎません。聖書というおよそ真実とは言えない人工的な書物を、新たに解釈し直しているだけなのです。統一教会の教義は、これまでのキリスト教の間違った教義の枠を出ているわけではありません。その意味で統一教会の救済観は、本質的には従来のキリスト教の救済観と大きな違いはないのです。

統一教会では、「イエス・キリストによる救済は、イエスが十字架にかかることで中途半端に終わってしまった霊的救済は達成されたが、肉的救いは達成されていない)」とします。そして「第2のキリストが地上に再臨して、サタンから引き継がれてきた罪の流れを断ち切ることによって肉的救いが達成され、救済が完成することになる」と説きます。これは儒教的な血統信仰を、キリスト教の原罪説と贖罪説に結びつけた救済観です。原罪の遺伝と血統の継続(肉体の遺伝)を同一次元で無理やり結びつけた考え方ですが、そもそも“原罪”自体が存在しない以上、すべてが“空論”ということになります。

こうして統一教会では、「再臨のキリストである文鮮明氏によって、人類の苦しみの元凶であり人類を地獄に陥れてきた“原罪”が償われることになる」と主張します。統一教会では、文鮮明氏による神秘儀式によって原罪が許され、サタンとの血統関係が断ち切られることになるとし、それを非常に重要な儀式として考えています。しかしそうした贖罪儀式も、従来のキリスト教が行ってきたパンやワインをイエスの“からだ”として食すことで原罪が許されるとする儀式と本質的には変わりありません。カトリックでサクラメント(秘蹟)とされる聖体儀礼や、プロテスタントで聖礼典とされる聖餐式などの贖罪儀式と同じ路線上にあるものです。キリスト教の救済観がすべて空論であるのと同じく、統一教会の救済観も空論にすぎず「真実の救済観」から大きく逸脱しています。

統一教会では、自分たちが唱える再臨思想こそ人類にとっての新しい救いの教えであり、真実の再臨運動であると主張します。しかし、文鮮明氏を再臨のキリストと認める高級霊は一人もいません。イエスをはじめとする霊界のすべての高級霊は、統一教会を本物とは認めていないのです。どれほど巧妙な宗教思想や神学を構築して自説を正当化しようとしても、「霊的事実」がその間違いを証明しています。霊的事実の前には、人工的な思想や神学は何の威力もありません。統一教会に限らずキリストの再臨思想は、「霊的無知」から発した空想にすぎないのです。

スピリチュアリズムでは、キリスト教の救済観も再臨思想も否定

スピリチュアリズムでは「霊的事実」を根拠として、従来のキリスト教や再臨思想で説かれてきた“サタン”の存在、そして人類の始祖の堕落による“原罪”の発生と人類が“罪人”であるという教えを否定します。当然、キリスト(救済者・救世主)と呼ばれる仲介者による救いの必要性や、キリストの再臨による救済の完成といった考えも認めません。また、贖罪が達成するとされてきたさまざまな神秘儀式も認めません。それらはすべて、人間が勝手につくり上げた邪悪な“人騙し”の救済観にすぎないのです。

スピリチュアリズムは、優れた霊界通信を通して得られた「霊界の事実(霊的真理)」をもとに、キリスト教の救済観・贖罪観の間違いを明らかにしました。原罪は実在しない以上、原罪から人類を救済するという「キリスト説」「贖罪説」は根本から間違っています。いずれの再臨思想も精緻な理論を展開し、さも自分たちの救済観だけが本物であるかのように主張しますが、霊的事実に照らしてみるとその間違いは一目瞭然です。

ナザレ人イエスは、人類の原罪を償うために登場したのではありません。「霊的成長」という本当の“霊的救い”を人類にもたらすために地上に誕生したのです。原罪から人類を救うためではなく、人類に霊的成長の道を示し、真の意味で人類の魂を救済するために地上に登場したのです。

スピリチュアリズムでは、「人類に霊的成長の道を示した」という点において、イエスを“人類の救済者・救世主”と見なします。イエスは、「霊的真理を説いて人類を救済する」という使命を担って地上に誕生しました。その使命はある意味では成功したと言えますが、十分なものではありませんでした。そのためイエスは死後、霊界に戻ってからも、生前に自らが取り組んだ人類救済の働きかけを継続してきました。そして時期が至り19世紀になって、イエスの救済活動は“スピリチュアリズム”という形で地上展開を始めることになりました。キリストの再臨・キリストの再登場とは、霊界のイエスを中心として進められているスピリチュアリズムという「地球人類救済計画」のことです。イエスを総指揮官として高級霊が総動員体制で推進しているスピリチュアリズム運動こそ、まさに「キリストの再臨」の実体なのです。

クリスチャンがどれほどイエスの再臨を待ち続けても、彼らが思い描くような形でイエスが再登場することは永遠にありません。彼らは死後、霊界に行って初めて「イエスの再臨」の本当の意味を知ることになります。地上でまことしやかに説かれてきた再臨説が事実ではなかったことを悟り、生涯にわたって間違った再臨説を信じ続けてきたことを後悔するようになります。

霊界ではどのような人間も、いつまでも間違った信仰を続けることはできません。死後しばらくの間は幽界下層で同じ再臨説を信じる狂信者の集まりに加わり、そこで地上時代の信仰を続けることになりますが、やがて霊性の目覚めにともない自分の信仰の間違いを自覚するようになります。そして自責の念と後悔の苦しみの中で「霊的成長の道」を歩み出すようになるのです。

(3)スピリチュアリズムの「救済観」――従来の宗教と次元を異にする画期的な救済観

スピリチュアリズムの「救済観」とは

宗教と救い(救済)には、密接な関係があります。これまで地上人は、宗教を通して救いを得ようとしてきました。人々は神仏にすがって、地上を生きるうえでの苦難から逃れようとしてきたのです。多くの地上人がそうした“ご利益信仰”にとどまっているという実情は、地上には「いまだに救い(救済)に関する明確な見解が確立されていない」ということを示しています。スピリチュアリズムは人類史上初めて、霊的観点から“救い”に関する真実を明らかにしました。霊的観点に立って「人類にとっての救いとは何か?」を解き明かしました。それがスピリチュアリズムの「救済観」です。

スピリチュアリズムの「救済観」とは、さまざまな霊界通信によって明らかにされた人類の救い(救済)に関する見解です。これまで宗教は、地上人の目線(地上的視点)から救済の問題を解決しようとしてきました。それに対してスピリチュアリズムは、「霊的事実」を基準とする徹底した霊的観点から「救済観」を示しています。スピリチュアリズムの「救済観」は、20世紀に入って登場した『シルバーバーチの霊訓』によって集大成され、完成をみることになります(*シルバーバーチの「救済観」については、この後で詳しく説明します)

何度も述べてきたように“スピリチュアリズム”とは――「霊界主導の地球人類救済計画」です。地上人の手による救済計画ではなく、イエスを中心とする霊界の高級霊が総力をあげて進めている霊界主導の救済計画です。言うまでもなく、それは人類の歴史上、初めての出来事です。地上にはこれまで数多くの宗教が存在し、人類の救いに関わってきました。しかしスピリチュアリズムは、地上のいかなる宗教の救済活動とも次元を異にしています。

地上の宗教の代表がキリスト教です。キリスト教は、その名前が示しているように“救世主(キリスト)”による人類の救いを前面に出しています。キリスト教が人類の救済を最終目的としているのと同じく、スピリチュアリズムも地球人類全体が救われることを最終目的としています。スピリチュアリズムは、歴史上のいかなる宗教にも増して人類全体の救済を明確な目的としているのです。「全人類の救済」という言葉は、まさにスピリチュアリズムを説明するためにあると言っても過言ではありません。

キリスト教とスピリチュアリズムは、ともに「人類救済」を目的に掲げていますが、その内容は全く異なります。キリスト教の「救済観」は、イエスの後継者を自認する人間が勝手につくり上げた空論にすぎません。霊的事実からかけ離れた、何の根拠もない偽りの人工的な教えです。それに対してスピリチュアリズムの「救済観」は、霊的事実を根拠としており、霊界のすべての高級霊が認める見解です。

以下では、スピリチュアリズムの「救済観」についてポイントを絞って説明していきます。ここで取り上げるスピリチュアリズムの「救済観」とは、『シルバーバーチの霊訓』が登場する以前に、さまざまな霊界通信によって示された“人類の救い”に関する内容・見解のことです。

スピリチュアリズムの「救済観」のポイント〈1〉――地上の宗教が説いてきた救済観は、霊的事実と一致しない

先にキリスト教の「救済観」について見てきました。モーゼスの『霊訓』に代表されるスピリチュアリズム初期の霊界通信は、キリスト教が永い間人々に説いてきた「イエス・キリストによる贖罪」という救済観を否定しました。「贖罪説」は人々に救いをもたらすどころか、人間の魂を貶めることになると批判しました。イエスによる贖罪を否定することは、キリスト教の根幹教義を否定することであり、キリスト教会の存在そのものを否定することになります。そのためキリスト教は、スピリチュアリズムに対して猛然と反発し、スピリチュアリズムを“サタン”呼ばわりして、徹底的に迫害の手段に出てきました。

スピリチュアリズムが欧米のキリスト教社会から出発したという事情を考えると、スピリチュアリズムとキリスト教会の対立は避けられないものでした。しかし霊界側からすれば、間違った救済観を説いているのはキリスト教だけでなく、地上のすべての宗教に当てはまることです。スピリチュアリズムが「救済観」をめぐってキリスト教と激しく対立した背景には、キリスト教という地上で最強の宗教が掲げる救済観を全否定する必要があったのです。スピリチュアリズムは、「地球人類の救済」を目的とした霊界を挙げてのプロジェクトです。その重大な目的を前にして、地上の宗教の間違った救済観は大きな障害となります。スピリチュアリズムがキリスト教と激しく衝突したのは、「地球上のすべての宗教の救済観を否定する」という意味があったからなのです。

スピリチュアリズムは、キリスト教の「救済観」を霊的事実に基づかない空想として全面的に否定しました。キリスト教に対するスピリチュアリズムの批判は、すべて「霊的事実」の観点からなされています。霊界から見れば、地上の宗教は霊的事実からかけ離れた人工的な教えをつくり出し、それを人々に強要してきました。宗教本来の役目は人間を霊的に救済することですが、霊的事実を知らないため、すなわち「霊的無知」ゆえに間違った宗教的教え(救済観)を説くことになってしまったのです。地上の宗教が説いてきた「救済観」は、ことごとく霊的事実と一致していません。そのため結果的に“救済”という宗教本来の目的から外れることになってしまったのです。

スピリチュアリズムの「救済観」のポイント〈2〉――“死”は地上的苦しみに対する救済者

スピリチュアリズムの霊界通信の多くは、地上人の誰もが味わう物質的・肉体的な苦しみは霊界には一切存在しないことを伝えています。そうした苦しみは地上世界だけのものであり、死んで霊界に入るとすべてなくなることを明らかにしています。地上人生において遭遇するさまざまな苦しみや困難は、人々の間に“ご利益信仰”を生み出すことになりました。それを考えると「地上的な苦しみ(物質苦・肉体苦)は死によって消滅する」という事実は、「死はまさに、地上人にとって救いそのものである」ということを意味しています。

肉体の病気で苦しんできた人は、死とともにそれまでの病苦から解放されることになります。そしてあまりの身体の軽さに驚き、死によって救われたことをつくづくと実感し、心から感謝するようになります。貧しさから生活苦に喘いできた人々にとっても、死んで肉体を脱ぎ捨てることは喜び以外の何ものでもありません。霊界では飲食は一切不要となり、飢えて苦しむことがなくなります。霊界は思念が実体化する所であり、もし食べたいものがあれば、どれだけでも自由につくり出すことができます。霊界では、欲しいものは思念によって簡単に手に入れることができるため、お金は全く必要ありません。地上のように、お金がなくて苦しむというようなことはなくなります。金策に追われ地獄を味わうようなこともなくなります。また、地上世界にありがちな人間関係のトラブルも霊界にはないのです。

このように“死”は、あらゆる地上的な苦しみから解放してくれる“救済者”と言えます。スピリチュアリズムが明らかにした「救済観」の一つは、死は偉大なる救済者であり、「地上時代の物質的・肉体的な苦しみは、死によってすべて消滅する」ということです。従来の宗教の中には、人間は死後、極楽浄土や楽園で安楽に生きるようになると教えているものがありますが、そこで説かれている“死後の救い”は、子供だましの寓話と変わりありません。スピリチュアリズムは、死後の世界の事実を詳細に示し、死後の希望と救いを現代人の知性で受け入れられる形で明らかにしました。従来の宗教が説いてきたような曖昧で漠然としたものではなく、「霊的事実」をもとに“死後の救済”の実態を解き明かしたのです。

スピリチュアリズムは――「地上でいかなる物質的・肉体的な苦しみを体験しても、死後には必ず救われるようになる」「今の苦しみは、地上人生という一時的な期間における出来事にすぎない」と説いています。人々が死後の世界に希望を持ち、地上での苦しみに耐えて霊的成長の道を歩むことを教えているのです。

スピリチュアリズムの「救済観」のポイント〈3〉――現世での利他的生き方が“死後の救い”をもたらす

スピリチュアリズムの霊界通信の多くは、「現世での生き方が、死後の世界での幸福と救いを決定することになる」と述べています。これは従来の宗教が、「死後は神や天使が善人を天国に導き、悪人は地獄に落とされる」と言ってきたこととは違います。スピリチュアリズムでは、人間は死後「摂理」の働きによって自動的に、霊性の高い者は高い界層へ、霊性の未熟な者は低い界層へ赴くようになるという事実を明らかにしています。「正しい生き方をした人間は死後、幸福になる」という点では同じですが、その内容においてスピリチュアリズムと従来の宗教では根本的に違っています。これまでの宗教は、自分たちの教え(教義)を忠実に守ることで死後は幸福になれると教えてきましたが、スピリチュアリズムはそれを否定します。

高級霊界通信は「地上での正しい生き方が、死後の幸福を決定することになる」と述べ、イエスが説いた「利他愛の実践」を正しい生き方として真っ先に挙げています。イエスが示した利他的な生き方こそ、人間が死後、幸福になるための生き方であると主張しています。死とともに地上的な苦しみ(物質苦・肉体苦)は消滅しますが、それによって人間はただちに幸福になれるわけではありません。霊界において幸福になるためには、別の要素が必要となります。それが、地上での正しい生き方です。地上時代の生き方によって「霊界での幸福が決まる」ということです。

スピリチュアリズムは、キリスト教が説く「イエスによる贖罪」という救済観を全否定します。しかし、イエスが説いた「愛の教え・利他愛の生き方」については、真に人類に救いをもたらす最高の教えであると主張します。霊界での幸福・真の意味での救いは、地上時代の生き方によって決定します。救いは他人によって与えられるものではなく、自分自身の努力によって得られるものなのです。この事実は、神仏に一方的に救いを求める「他力救済信仰」は間違いであり、「自力救済信仰」が正しいということを意味しています。

以上が、スピリチュアリズム初期の霊界通信によってもたらされた「救済観」の重要な内容です。

スピリチュアリズムの「救済観」のポイント〈4〉――『霊の書』が示す「再生」による救済(地上への「再生」は霊的苦しみに対する救済)

人間は死んで霊界に赴くことによって、地上的なさまざまな苦しみ(物質苦・肉体苦)から解放されることになります。しかし、それだけで完全に幸福になれるわけではありません。霊界では、地上とは異なる別の苦しみが発生するようになります。それが“霊的苦しみ”です。地上世界では物質的・肉体的な苦しみがほとんどでしたが、霊界ではそうした地上的な苦しみがなくなる代わりに、内面に潜んでいた霊的な苦しみが表面化するようになります。霊界では、地上世界で体験したことがないような“心の痛み・霊的苦しみ”を味わうようになるのです。

では、その“霊的苦しみ”とは、具体的に何を意味しているのでしょうか。結論を言えば、霊界人が味わう霊的苦しみとは、霊的成長が思うようにできないところから生じる煩悶のことです。霊界では、地上時代に犯した「罪(摂理違反の行為・カルマ)」が足かせとなって霊的成長ができないことを自覚し、苦しみを持つようになります。霊界人にとって霊的成長が妨げられることは、肉体の飢餓や病気以上の苦しみとなるのです。

その苦しみから逃れるために、多くの霊界人が“霊的救い”を求めるようになります。そのために起こされる現象が、地上への「再生」です。かつて地上で犯した「罪(カルマ)」は、地上世界での苦しみの体験を通してしか償うことができません。このように霊界人を救うために発生する救済プロセスが、地上への「再生」なのです。スピリチュアリズムの初期にもたらされた『霊の書』は、こうしたスピリチュアリズムの再生思想を初めて明確に地上人に示しました。『霊の書』は、「再生による救済」という驚くような事実を明らかにしたのです。

人間の救済を論じるうえで「再生」は、きわめて重要な意味を持っています。“救済”は地上人だけを対象とするのではなく、死後の世界にいるすべての住人(霊界人)も対象としなければなりません。死後、誰もが霊界人になるのですから、救済はその霊界人の救いをも考慮するものでなければならないのです。それは「正しい再生観がないところでは、完璧な救済観は成立しない」ということを意味しています。

スピリチュアリズムの初期には「再生」をめぐって賛否両論が対立し、“英国系スピリチュアリズム”と“フランス系スピリチュアリズム”に分裂しました。英国系スピリチュアリズムは霊的事実に基づき、死とともに地上的な苦しみ(物質苦・肉体苦)は消滅するという「救済観」を明らかにしましたが、そこには「再生」というもう一つの重要な要素が欠落していました。アラン・カルデックによる“フランス系スピリチュアリズム”は、『霊の書』によって示された「再生観」に基づいて、英国系スピリチュアリズムが説くことのなかった画期的な「救済観」をもたらすことになりました。

『霊の書』では、再生説をもとに救済論を展開しています。その内容を一言で言えば――「地上への再生は、霊にとっての重要な救済プロセスである」ということです。再生人生における苦しみの体験を通して、かつて地上で犯した「神の摂理への違反行為(カルマ)」を償うことができるのです。人間は死んで霊界に入ると、地上で犯した「罪(カルマ)」を認識するようになります。自分が地上時代につくったカルマが足かせとなって「霊的成長」を妨げていることを自覚するようになるのです。そしてそのカルマを償って霊的成長の道をリセットするために、地上への「再生」を願い出ることになります。霊界にいる霊たちは、こうした形で「再生」を通して救済されることになるのです。

『霊の書』によって示された「再生による救済観」は、その後、20世紀に入ってマイヤース霊からの霊界通信を経て『シルバーバーチの霊訓』に至り、完成をみることになります。

以上のように『霊の書』は、再生に基づく画期的な「救済観」を示しました。しかし「再生現象」についての詳しいメカニズムを明らかにすることができなかったため、当時の英国系スピリチュアリズムからは、インド思想の影響を受けてつくられた神智学と同様の間違った東洋思想と見なされ、無視されることになりました。20世紀に入って、マイヤースやシルバーバーチによって「再生現象」のメカニズムが詳細に解き明かされたことで、英国系スピリチュアリズムも徐々に「再生論」を受け入れるようになっていきました。

もし、スピリチュアリズムの初期に「再生現象」についての詳しいメカニズムが明らかにされていたなら、状況は大きく変わっていたことでしょう。しかしそれは、当時のスピリチュアリズムにあっては時期尚早でした。結局、『霊の書』による再生に基づく「救済観」は、その後の英国における新しい再生観の先駆的役割を果たすにとどまりました。

(4)シルバーバーチの「救済観」――スピリチュアリズムの救済観の集大成

さまざまな霊界通信を通して、スピリチュアリズムの「救済観」が示されました。「死は大いなる救済者である」「救済は他力ではなく自己の努力を通してなされる(自力救済)」「自らを救うことになる自己努力とは、具体的にはイエスによって示された利他愛の実践である」――これらがスピリチュアリズムによって明らかにされた「救済観」の主な内容です。また、アラン・カルデックが編集した『霊の書』では、再生こそ霊界の霊にとっての救済であるという「再生救済観」が示されました。

20世紀前半に登場した『シルバーバーチの霊訓』によって、それまでのスピリチュアリズムの救済観が集大成され完成することになりました。シルバーバーチは「神の摂理の支配」と「霊的成長至上主義」という2つの大原則を中心軸として、それまでのスピリチュアリズムの救済観をレベルアップし、より総合的な観点から救済観を完成させました。シルバーバーチの救済観の内容は、多岐にわたっています。

以下では、シルバーバーチの「救済観」の特色を重要ポイントにそって紹介していきます。

シルバーバーチの「救済観」の特色【1】――“死”は、物質次元・肉体次元の苦しみに対する救済者

地上人は、苦しみや困難からの“救い”を宗教に求めてきました。地上人生における苦しみの代表が、物質次元・肉体次元で発生する生活苦や病苦などです。多くの人々が、地上で遭遇する苦難からの救いを神仏に願ってきました。そして良い結果が生じると、「神仏が願いを聞き届けてくださった、救ってくださった」と考えてきました。そうした神仏に救済を求めるあり方は、宗教に否定的な人間から“ご利益信仰”と言われ、軽蔑されてきました。

しかし、たとえご利益信仰と非難されても苦しんでいる本人は辛いのですから、「何とかして逃れたい」と思うのは、人間として当然の感情と言えます。素直に神仏に救いを願ったとしても、非難されるようなことではないでしょう。こうしたご利益信仰に対して、明確な根拠を持って批判できる人はいないはずです。多くの人々が行っている単純で素朴なご利益信仰に対して、シルバーバーチはどのような見解を述べているのでしょうか。

結論を言えば、シルバーバーチは“ご利益信仰”に対して非常に厳しい見方をしています。シルバーバーチはご利益信仰を、地上人の「霊的無知」から生じる物質中心・自己中心の考え方の反映と見なしています。「霊的真理」に照らしてみれば、物質的・自己中心的な願いを神が聞き入れるはずはありません。願いが神仏に聞き届けられないのは、祈る人間の必死さ・真剣さが足りないからではなく、摂理の働きによってそのようになっているのです。

すでに多くの霊界通信で指摘されてきたように、地上での物質的・肉体的な苦しみは“死”によってすべて消滅することになります。その意味で“死”は、まさに地上的な苦しみに対する“救済者”と言えます。地上人が神仏にすがって取り除きたいと願う苦難の多くは、死とともに消え去ります。地上で体験する大半の苦しみは、地上人生という短い期間における一過性の出来事にすぎません。シルバーバーチは――「いかなる難問もしょせんは地上的・物質的なものにすぎないからです」(『シルバーバーチの教え上』・99)と述べています。

「この世は不公平だ。神がいるなら、どうしてこんなに不公平な世界を造ったのか」と非難する人がいますが、そうした人も死んで霊界に入ると、神の公平さを認めざるをえなくなり、神に言いがかりをつけるようなことはなくなります。地上世界ならではの苦難には深い意味があったことを悟り、地上時代のさまざまな苦難の体験に感謝するようになるのです。

地上人生において物質的・肉体的な苦しみに喘いできた人間にとって“死”は、大いなる救済者です。物質次元の苦難は死によって消滅し、誰もが苦しみから解放されることになります。シルバーバーチは、多くの人間が死後、地上時代の苦しみの意義を知って感謝するようになるという事実を繰り返し語っています。

死後の世界(霊界)は、仏教で説かれてきたような幸福そのものの世界であり、極楽浄土のような所です。霊界は空想上の極楽ではなく、現実の世界です。その意味で死は、まさに希望であり、苦しい地上人生を歩み通したことへのご褒美と言えます。死は、心から待ち望むべき素晴らしい瞬間なのです。

ただし、自らの意志によって肉体を死に追いやった場合(自殺)は、死は喜びの時とはなりません。自殺は摂理に背く行為であり、本人は死後の世界においてその罪に見合った苦しみを味わうことになります。地上人生においてどれほど苦難が多くても、それを「霊的成長のための試練」として受け止め耐えなければなりません。見栄や自己顕示欲を捨てさえすれば、地上的な苦難の多くが苦しみではなくなります。

シルバーバーチの「救済観」の特色【2】――霊的真理は、内面的・精神的苦しみに対する救済者

地上人は物質苦(生活苦・肉体苦)ばかりでなく、心の中にもさまざまな苦しみ(内面苦)を持っています。大半の人間が内面的・精神的な苦しみを抱えており、それらは時として肉体的な苦痛よりも辛いものとなります。多くの人々が、こうした精神的な苦しみからの救いを宗教に求めてきました。

生きる目的が分からず、人生に希望を見いだせず、絶望感にとらわれて生きることは“魂(心)の死”を意味します。多くの現代人は、肉体は生きていても精神(魂)は死んでいます。その結果、物質的・肉体的な快楽に浸って憂さ晴らしをすることになります。「何のために生きるのか、人生の目的が分からない」「死が怖い」「毎日が寂しくて、喜びや希望が持てない」「生きていても仕方がない、早く死にたい」――こうした悩みや苦しみにとらわれている人が大勢います。肉体が健康な人、お金に不自由することなく贅沢な生活を送っている人、また家族や人間関係に恵まれている人であっても、心には悩みや苦しみを抱えているものです。

シルバーバーチは、こうした“内面苦”はすべて「霊的無知」から生じていると断言します。死と死後の世界についての正しい霊的知識がないため、不要な苦しみを自らつくり出すことになっていると述べています。「霊的無知」が、さまざまな内面的・精神的な苦しみを生み出しているのです。

スピリチュアリズムによって霊界からもたらされた真実の霊的知識は、地上人に“死”と“霊界”と“地上人生”に関する正しい認識をもたらしました。そして「霊的視野」から地上人生の意義を理解することを可能にしました。「霊的真理」を手にした人間は、地上人生を霊的視野から眺めおろすことで、さまざまな内面苦や精神苦を小さなものとして位置づけできるようになります。霊的真理・霊的知識は、苦しみを乗り越えるためのエネルギーをもたらし、地上人を内面苦・精神苦から解放します。その意味で「霊的真理」は、地上人の精神(魂)にとっての救済者と言うことができます。

シルバーバーチの「救済観」の特色【3】――「再生」は、霊的苦しみに対する救済者

人間は死によって、地上世界ならではの苦しみ(物質苦)から完全に解放されるようになります。この意味で死後の世界(霊界)は、まさに極楽浄土のような所と言えます。ところがそうした霊界では、地上世界にはない別の苦しみが生じるようになります。それが“霊的苦しみ(霊的苦)”です。霊界人は、地上人とは異なる苦しみを持つようになるのです。それは具体的には、思うように霊的成長ができないところから生じる苦しみです。霊的成長が足止めされてしまうことによる苦しみです。

地上世界では、霊的成長ができないからといって、それが苦しみにまで至るようなことはありません。食べ物に不自由することのほうが、ずっと大きな苦しみになります。ところが肉体を脱ぎ捨て純粋な霊的存在となった霊界人は、“霊的本能”をストレートに感じるようになり、霊的欲求が前面に出てくるのです。霊界人にとって霊的本能からの欲求とは、「霊的成長」以外にはありません。霊的成長こそが人生の目的であり、人生のすべてです。したがって「霊的成長ができない」ということは、地上人が長期間、食べ物に不自由するのと同じような苦しみをもたらすことになります。霊界では誰もが霊的成長を渇望し、霊的成長を阻害する原因を何としても取り除きたいと思うようになるのです。

人間は霊界に入って一定の期間が過ぎると、自分の霊的成長を足止めしている原因が地上時代につくってしまった「カルマ(摂理違反)」にあることを実感するようになります。そしてカルマの具体的な内容までも、分かるようになるのです。地上で犯した罪は「カルマ」となって、霊界での霊的成長を阻害することになります。そのカルマを帳消しにしないかぎり、霊的成長の道をリセットすることはできません。そこで霊界の指導霊に、カルマを償うための地上への「再生」を願い出ることになります。

再生人生の目的は、かつて地上で犯した「罪(カルマ)」を償い霊的成長の道をリセットすることです。再生人生においてカルマに相当する苦しみを体験することによって、その目的は達成されることになります。そこで霊は、自ら苦しみの体験を選択し、再生人生に臨みます。自分自身で選択した試練(苦難)は、再生人生のしかるべき時に生じるようになります。その苦しみに耐え、摂理に従って乗り越えることでカルマが清算され、霊的成長の足かせが取り除かれることになります。そして、霊的成長の道をリセットすることが可能となるのです。

こうした「再生」に関わる一連のプロセスを知ってみると、地上への再生は人間(霊)にとって不可欠な救済の道であることが分かります。霊界人にとって「再生」は、まさに救済者なのです。

現在、地上人の多くが体験している苦難は、こうした霊的背景から発生しています。再生人生で遭遇する苦難(試練)は自ら選択したものですが、地上に誕生し肉体をまとってしまうと、自分が苦難を選択した事実は潜在意識の隅にしまい込まれ、思い出すことができなくなります。そして苦しみを嫌がり、何とか避けたいと願い、時には「どうして世の中はこんなに不公平なのだろうか」と愚痴や不満を口にするようになるのです。

シルバーバーチの「救済観」の特色【4】――苦難は、霊的成長を促す魂の救済者

シルバーバーチの「救済観」の最大の特色の一つは、人間が必死に取り除こうとしている苦難を霊的成長にとってきわめて重要なものとしている点にあります。シルバーバーチは――「人間が嫌がる苦しみは、実はありがたいものであり、必要なものである」と言っています。このシルバーバーチの言葉を受け入れるなら、救済に関する前提が失われ「救済観」それ自体が成立しなくなってしまいます。

シルバーバーチの「救済観」は、一般の宗教の救済観とは次元を異にするものであり、根本的に違っています。苦しみというイヤなものを取り除くことが救済であるとしているのに対して、「苦しみは人間にとって良いものであり、取り除く必要はない」と断言するのですから、「救済観」とは言えなくなってしまいます。苦難を“ありがたいもの”とする救済観など、これまでどこを探しても見当たりませんでした。実はここに、シルバーバーチの思想の深さが表れており、他の宗教との次元の違いが示されています。一般の救済観の枠に全く当てはまらないのが、シルバーバーチの「救済観」なのです。

シルバーバーチの「救済観」は、これまで宗教で説かれてきた救済観を根底から覆してしまいました。その内容はあまりにも強烈なため、多くの地上人は尻込みしますが、シルバーバーチの「救済観」は、霊界ではすべての霊たちに共有されている見解です。大半の地上人にとって苦しみは、不幸そのものであり、救済とはその苦しみを取り除いたり軽減することであるというのが常識です。しかし霊界人にとって苦しみは、不幸でもなければ悪いことでもありません。それどころか「苦難は霊的成長にとって良いものであり、必要なものである」――これが霊界人にとっての常識です。このように地上人と霊界人では、苦難についての常識が180度違っています。地上人は苦しみを“不幸”と考え、まるで打ち負かすべき敵のように見なしますが、霊界人は苦しみを“ありがたいもの”と考え、感謝するのです。

シルバーバーチの「救済観」によって示された、苦難は霊的成長にとって“ありがたいもの・甘受すべきもの”という考え方は、地上人に根本的な意識改革を迫ります。シルバーバーチは地上人に、これまでの地上世界の常識とは異なる、霊的観点に立った新たな苦しみへの対処方法を教えています。「真の救済とは何か?」という問いに対する答えは、霊的観点に立たなければ分かりません。霊的視点から見ないかぎり、地上世界の出来事に正しい判断を下すことはできません。シルバーバーチの「救済観」はまさに、霊的観点に基づく救済観なのです。

次の言葉は、シルバーバーチの「救済観」の特色をよく示しています。

「霊的に見て、あなたにとって何がいちばん望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌いなことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることもあり得るのです。ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.58〜59

人間にとって一番の不幸とは、地上的な欲望に流されて霊的成長ができなくなることです。これが霊的観点から見たときの見解です。地上人は物質世界に住み、肉体という物質の身体に包まれているため、すべての思考が“物質中心”になっています。そして物欲の満足を求め、それが満たされないと不幸だと嘆くことになります。大半の地上人にとって霊的成長など、どうでもいいことであり、霊的成長ができないことを不幸だと思うような人間はいません。地上人は、そうした霊的な盲目状態の中で人生の価値や幸福についてあれこれ論じるのですから、すべてが的外れになってしまいます。

霊的観点(霊界人の視点)から見れば、地上人がさまざまな苦難を体験することは決して不幸ではありません。それどころか苦難は“魂”にとっての肥やしであり、霊的成長を促してくれるありがたいもの・感謝すべきものです。苦しみや困難は、霊的成長にとって欠くことのできない“魂の救済者”と言えます。シルバーバーチは、地上で体験する苦難が人間の魂を鍛え、魂に救いをもたらすものであることを繰り返し強調しています。

「地上生活には、時として辛さと絶望、痛みと悲惨さがともないますが、そのすべてが魂にとって永遠の旅路に向かうための準備なのです。(中略)陰なくしては光もあり得ず、光なくしては陰もあり得ません。それと同じで、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服したとき、魂はより強くなり、より純粋になり、より深くなり、いっそう進化するようになるのです。無限の可能性を秘めた魂の潜在能力が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみも悩みも悲惨さもなしに発現すると思われますか。発現するはずはありません。」

『シルバーバーチの教え(上)』(スピリチュアリズム普及会)  p.109

シルバーバーチの教え』は、『シルバーバーチは語る』の新版として2015年11月に発行したものです。

「魂にとって、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないような体験は一つもありません。いったい、困難も試練も問題もない物質世界というものが想像できるでしょうか。そうした世界では何の進化も得られません。克服すべきものが何もないからです。あるのは堕落のみです。」

『シルバーバーチの教え(上)』(スピリチュアリズム普及会)  p.110

「苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.57

「困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥やしです。むろん困難の最中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。この世に生まれてくる霊魂がみな楽な暮しを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.57

「魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.52

「太陽が燦々と輝き、すべてが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスです。然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.63

シルバーバーチの救済観は、「霊的成長至上主義」を中心軸とした他に類のない救済観です。霊的成長至上主義によって、「苦しみは霊的成長を促す魂の救済者である」という画期的な救済観が示されることになったのです。

シルバーバーチの「救済観」の特色【5】――神の摂理は最高次元の救済者であり、救済プロセスの統轄者

シルバーバーチは「神の摂理の支配」と「霊的成長至上主義」という2つの大原則を中心軸として、救いの問題(救済観)を最も本質的な観点から、そして最も包括的・総合的な観点から明らかにしています。シルバーバーチの救済観は、神の摂理を土台として成立しています。救いのプロセスの統轄者は神の摂理であり、摂理を無視して救済を論じることはできません。シルバーバーチの救済観は、「神の摂理」こそ人間の救済のすべてを支配している“最高次元の救済者”であることを明らかにしています。

シルバーバーチは「神の摂理」について、次のように説いています。「神は万物を創造するに際して、それらを支配し維持・運行するための仕組みを設けました。それが、摂理(法則)です。それゆえ宇宙や人間をはじめとする森羅万象は、摂理の支配を受けるようになっています。宇宙は、神が造ったさまざまな摂理が複雑に関わり合う中で、絶妙なバランスを保って存在しているのです。」

人間にとって一番大切な霊的成長も幸福も、すべて「神の摂理」の支配のもとで達成されるようになっています。神は人間に“自由意志”を与え、人間が自らの意志で霊的成長の道を歩むように定めました。人間は、摂理に一致するための努力を通して「霊的成長」をなし、神が準備した“幸福”を手にすることができるようになっています。自由意志を用いて摂理に適った生き方をすることによって、人間としての価値が発揮されるようになるのです。反対に摂理から外れた生き方をするなら、自分なりにいくら努力しても霊的成長は得られず、幸福を手にすることもできません。それどころか摂理に反した“罰”として、自動的に苦しみが生じるようになります。

神の摂理から外れ、自ら苦しみを招いてしまった人間に対しては、別の摂理が働くことになります。摂理から外れてしまった人間を、摂理のレールに引き戻すための摂理です。こうしたシステムが設けられているため、どんな人間もいつかは必ず「摂理違反の罪(カルマ)」を償い、霊的成長の道をリセットし、再び高い世界に向かって歩み出すことができるようになるのです。

人間は神によって、永遠に霊的成長を求める存在として創造されました。そのため人間は、永遠に霊的成長の道を歩む宿命にあり、霊的成長が人間の幸福を決定する最大の要因となっています。肉体に覆われた地上人には霊的成長の重要性は実感できませんが、物質的要素を持たない霊界人には、霊的成長が何よりも重要なものであることがストレートに実感できるのです。霊界人にとって、霊的成長ができないことは最大の不幸であり、耐えがたい苦しみをもたらします。

人間にとって本当の意味での“不幸”とは、霊的成長が妨げられることです。そして“救済”とは、霊的成長を妨げる原因を取り除いて、再び霊的成長のレールに立ち戻ることです。「霊的成長の道のリセット」――これが摂理の観点から見たときの“真の救済”の意味なのです。

霊界人がそうであるように、地上人にとっても霊的成長ができないことは最大の不幸です。摂理に一致した生き方をしていない地上の人間は、霊的成長をなすことができません。そしてその間違った生き方が苦しみを招くことになるのです。すべての苦しみの原因は、「摂理に対する不一致」というシンプルな言葉で説明することができます。したがって苦しみからの“救い”とは、摂理からずれてしまった自分自身を、自らの努力で摂理に一致させることです。それによって、霊的成長の歩みをリセットすることなのです。自分で犯した罪(摂理違反)は、自分で償って帳消しにしなければなりません。他人が手を貸して霊的成長の道に引き戻してくれるわけではありません。誰もが自分自身の努力で、霊的成長の道に立ち戻らなければならないのです。摂理に一致した歩みができるようになるにともない、苦しみは自然と消滅していきます。以上が、シルバーバーチが説いている「神の摂理」と“救い”の概要です。

人間を救済するため、すなわち霊的成長の道をリセットするためには、摂理違反から発生した「カルマ(罪)」という足かせを取り除かなければなりません。「再生」は、そのために起こされる現象です。カルマを償い帳消しにして霊的成長の道をリセットするためには、再生人生における「苦しみの体験」が必要となるのです。再生にともなう苦しみの体験は、人間が救われるための必須条件であり、それなくして救済(霊的成長のリセット)は実現しません。

ここで大切なことは、「再生にともなう苦しみの体験」という救済プロセスは、すべて「神の摂理」によって支配されているということです。このプロセスが摂理と一致しているとき、「霊的成長のリセット」という救済に結びつくことになるのです。摂理の観点から再生について表現すると、「カルマの法則」に基づく霊的成長のリセットということになります。一方、苦しみの体験は、「償いの法則」に基づく霊的成長のリセットと言えます。このように「神の摂理」は救済プロセスのすべてを総轄しており、人間の救いにおける最高次元の救済者の位置を占めています。真の救い(霊的成長のリセット)は、常に神の摂理と一体関係にあります。摂理に一致しなければ、地上に再生して苦しみの体験をしても、真の救いは成就しません。人間の方から摂理に合わせていかなければ、再生人生での苦難の体験は霊的成長のリセットには結びつかないのです。

これまで地上人類は、必死に神仏に祈ることによって特別な恩寵や奇跡がもたらされ、救済が達成されるようになると信じてきました。しかし「神の摂理」によって支配されている世界においては、そうした祈りは聞き届けられず、すべて無意味なものになってしまいます。摂理を無視した祈り、摂理と一致しない祈りは、すべて無駄な行為になってしまいます。これまで大勢の地上人が神の名を唱え、真剣に祈りを捧げてきました。そして現代においても毎日、多くの人々が熱心に神に祈りを捧げています。しかし、そうした祈りの大半は神の摂理に一致していないため、単なる自己満足の行為に終わっています。摂理に一致しないかぎり、どんなに熱心に祈っても、すべて無駄になるだけです。そうした祈りは、むしろしないほうがいいのです。神に祈るより、自らを摂理に一致させる努力をすべきです。摂理に一致した生き方を心がけるなら、自動的に救済は達成されるようになるのです。

スピリチュアリズムによってもたらされた霊的真理は、人類に「神の摂理とは何か?」ということを教えてくれました。私たち地上人は神の摂理を知ることによって、摂理に一致した生き方を目指すことができるようになりました。その意味で「霊的真理」は、人間の救済(霊的成長のリセット)に不可欠な要素であり、救済の指針(ガイド)と言えます。

「あなた方が自ら地上世界を救うための摂理と霊力についてお教えしようとしているのですが……。」

『シルバーバーチの教え(上)』(スピリチュアリズム普及会)  p.106

「私たちは、大霊の摂理をお教えしようとしているのです。それによってあなた方は、摂理と調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。(中略)何事も摂理にのっとって行動し、それに反することがないようにしなければならないという認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事が絶えることはないでしょう。」

『シルバーバーチの教え(上)』(スピリチュアリズム普及会)  p.105

以上のように、シルバーバーチの「救済観」を摂理の観点から述べてきました。その内容を整理して図示すると、次のようになります。

神の摂理の支配

シルバーバーチの「救済観」の特色【6】――真の救いは「自己努力」によってのみ達成

救済を論じるうえで“自力救済”と“他力救済”の問題は、重要なテーマとなります。ご利益信仰と揶揄されるような現世利益を求めるあり方は、典型的な他力救済信仰です。これほどシンプルで人間味のある信仰はありませんが、ご利益信仰は「霊的無知」から発する自己満足的な行為にすぎません。一口に「他力救済信仰」と言っても、その内容はピンからキリまであります。物欲の満足だけを願う低次元の信仰から、人間関係の問題解決や精神的な安らぎを求めるもの、あるいは神仏にすがって死後の救いを得ようとするものまでさまざまです。

いずれにしても、神仏に対して「苦しみや困難を取り除いて幸福にしてほしい」と一方的に願い出るあり方は、間違っています。そうした願いを神仏が聞き届けるようなことは決してありません。また、実際に願いが聞き届けられたという客観的な事実もありません。ご利益信仰は一時的な心の支えや気休めにはなりますが、それはどこまでも自己満足にすぎないのです。苦しみからの救いを安易に神仏に求めることは「自己努力」の放棄となり、霊的成長に悪影響をもたらします。浄土信仰では、ひたすら阿弥陀仏にすがって死後の救いを得ようとしますが、現代においても神仏にすがって救いを得ようとしたり、苦しみから逃れようとする多くの人々がいます。

スピリチュアリストや心霊学徒の中にも、世の中のご利益信仰と同じような間違いを犯している人がいます。「霊的真理」と出会ったものの生半可な理解にとどまり、守護霊や背後霊に自分の願いを訴えるようなことをしています。これでは、真理を知らない世間の人々の“ご利益信仰”と大差はありません。また世の中には、御札(護符)やペンダントを身につけることで神仏の加護や導きが得られるという安易な考え方をしている人もいます。さらに新興宗教では、教祖や組織のリーダーを神格化して盲信するといった人間信仰・人間崇拝も見られます。こうしたケースはいずれも、本質的には「他力救済信仰」と同じです。

一方、キリスト教は、世間一般のご利益信仰や他力救済信仰とは大きく異なっています。キリスト教では、苦しみは人間の始祖がつくり出した“原罪”が受け継がれ、人類が“罪人”となっていることに由来すると考えます。そしてその罪は、「イエスをキリスト(救世主)と信じることによって許される」としています。言い換えれば、「罪人である人間は、神に直接“罪の許し”を願い出ても聞き届けられない」ということです。キリスト教では、ひたすらイエス・キリストを信じることが正しい信仰とされます。これはある意味で、イエス・キリストに対する「他力救済信仰」と言えます。キリスト教が説いてきたイエス・キリスト信仰は広く伝播し、世界を席巻することになりました。

しかし、そうしたキリスト教の教えは霊的事実に基づくものではなく、人間が勝手な事情からつくり上げた偽りの教義です。事実とは異なる空想的な他力救済信仰です。霊界には、人間を堕落させたとする“サタン(堕天使)”は存在しません。当然、人間の始祖の堕落という事実はなく“原罪”もありません。したがって「原罪から人間を救う」というキリスト教の教えそのもの、キリストの存在自体が無意味なものとなります。言うまでもなく、キリストの再臨者も、またその再臨者による原罪の許しも全く意味をなしません。

世間に広く見られる「他力救済信仰」やキリスト教の「贖罪信仰」は、霊的事実に基づかない間違った信仰です。こうした他力救済信仰・贖罪信仰の対極に位置するのが、シャカ仏教です。シャカ仏教の中には、最も純粋な「自力救済信仰」を見ることができます。シャカは、神や神秘力に頼るのではなく、自らの努力で法(真理)を悟ることによって自分自身を救わなければならない、と説きました。これがシャカ仏教の救済観であり、それは徹底した「自力救済信仰」です。シャカは、人間が苦しみから救われるためには神仏に願い求めるのではなく、自分の努力によって法を悟ることが不可欠であると教えています。シャカ仏教には祈願の対象となる神仏は不要であり、自己の努力を通して悟りを得た者だけが救われるということなのです。

シャカが説く「自力救済信仰」は、他力救済を説く宗教やキリスト教と比べると格段に厳しい信仰的努力を人々に要求します。人間には、神仏や神秘力や神格化された人間などにすがりたいという心理的な傾向がありますが、シャカはそれを強く否定します。シャカが説いた自力救済のあり方は、ある意味でシルバーバーチが説く救済観に通じます。

シャカは、自らの努力で“法(真理)”を悟らなければならないとしました。シャカが説く“法”とは、シルバーバーチが言う「神の摂理」を意味しています。神は万物や人間を創造する際に、それらを支配し維持・運行させるための「摂理(法則)」を設けました。神は、この「摂理(法則)」を通して人間と間接的な関係を持つようにしたのです。そのため人間は、神と直接的な関係を持つことはできません。どこまでも摂理を介しての間接的な関係です。人間は摂理に一致した生き方をすることによって神との関係を深め、真の幸福を手にすることができるようになっているのです。

神は、「摂理」を通してすべての人間を平等・公平に支配しています。そのため人間がいくら願い求めても、神が直接手を差し伸べることはありません。特別な恩恵や奇跡がもたらされることはありません。どんなに自分の苦しみを訴えても、神がそれを取り除いてくれるようなことはないのです。人間が幸福に至るためには、自らを摂理に一致させるしかありません。そうした仕組みが造られているため、神が直接手を差し伸べるようなことはあり得ないのです。人間が直接的に触れ合うのは「摂理」であって、神ではありません。したがって地上人には「摂理」だけが存在し、「神」は存在しないかのように映ります。この意味からすれば、シャカが神の存在を不問に付し、無神論的な立場から“法(摂理)”に一致する生き方を説こうとしたことは、間違ってはいませんでした。

シャカは、法(真理)を知らないところ(無知)から苦しみが生じるとし、現実を成り立たせている「法を悟ることで救われる(解脱する)」と説きました。シャカの悟りは、諸行無常・無常無我・縁起・涅槃寂静などの教えとして示されています。シャカは、これらの真理を悟ることによってこの世への執着と煩悩から発生する苦しみから逃れ、救いが得られるようになるとしました。

しかしスピリチュアリズムの立場から見れば、シャカが悟ったという真理は「神の摂理」のほんの一部分にすぎません。しかもその大半が、物質世界の現象に限定されています。神と死後の世界の存在を初めから不問に付したところで説かれたシャカの教えは、部分を持って全体を説明するというようなもので、ある種の思い込みと言えます。

シャカが悟ったという法(真理)を知ったからといって、人間の魂が救われるわけではありません。シャカが悟った真理とは、神の摂理のごく一部分でした。ところがシャカは、それをもって人間のすべての問題・あらゆる苦しみが解決すると勝手に決め付けてしまいました。シャカが説いた救済は、主観(個人の意識)の中だけに存在する観念的救いであり、とうてい真実の救済観とは言えません。シャカは、人間にとってきわめて重要なテーマである「神」と「死後の世界」の実在について考えないようにし、ただ精神的な苦しみを取り除いて心の安らぎを得ることを目的として教えを説きました。これは現代ふうに言えば、単なる“心理療法”や“精神療法”の一つということになります。

シルバーバーチは、人間は「神の摂理」を理解し、自ら摂理にそっていく努力によって自分を救うことができると断言します。このようにシルバーバーチは、徹底した“自力救済”を説いています。シルバーバーチが示す救済は、一方的に神仏にすがること(他力救済)によってなされるものではありません。キリストによる贖罪や、シャカ仏教のような悟りによって得られるものでもありません。それは、神が造った「摂理」に自らを一致させていくという形での「自力救済信仰」なのです。

世の中の人々が忌み嫌う苦しみは、自らの「摂理違反」が招いた結果であり、霊的成長の道をリセットするために摂理の働きによって発生したありがたいものです。苦しみの体験そのものが「救いのプロセス」である以上、霊的観点に立ってそれを甘受しなければなりません。

シルバーバーチの次の言葉は、スピリチュアリストも含めた地上人の他力救済的な傾向に対する戒めと言えます。シルバーバーチの「救済観」が、徹底した「自力救済信仰」であることをよく示しています。

「この交霊会に出席される方々が、もしも私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることが私どもの真の目的なのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.52

シルバーバーチが説く“救い”とは、神や守護霊に苦しみを取り除いてもらうという形での救いではありません。人間自身が「霊的知識」を武器として自らを強化し、苦しみを乗り越えていくという救いです。『シルバーバーチの霊訓』は、そのための指南書です。多くのスピリチュアリストがシルバーバーチの「救済観」の内容を深く理解しないまま、世間の人々と同じように守護霊や背後霊に救いを求めています。“自力救済”という大原則は、どこかに飛んでしまっています。

そうしたスピリチュアリストに向けてシルバーバーチは次のように述べ、霊界の霊たちが“自力救済”という摂理を遵守しつつ、地上人の守護と導きに当たっている事実を教えています。

「私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観しなければならないことです。その苦しみがあなた方の魂にとって必要な闘いであるために、私たちは手出しをすることが許されないのです。あなた方がその闘いに勝利すれば、それは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すれば私たちにとっても敗北なのです。あなた方の闘いは常に私たちの闘いであるにもかかわらず、あなた方を援助することは一切許されません。

時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。そのときの私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください。皆さんに代わって私が問題を解いてあげるわけにはいきません。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。」

『シルバーバーチの教え(上)』(スピリチュアリズム普及会)  p.101〜102

地上人の「霊的成長」に必要なものとして発生している苦しみの試練を、霊界側が取り除くことはできません。これはスピリチュアル・ヒーリングにも、そのまま当てはまります。「カルマ清算」のために病気が引き起こされているようなケースでは、カルマが清算されないかぎり、どんなに優れたスピリチュアル・ヒーリングを受けても病気が治癒することはありません。

一方、地上人が自分の利益を求めることなく、利他的精神に徹して人類の霊的成長と幸福のために努力しているときには、霊界側は全面的にその人間を援助します。人助けという「摂理」に一致した行為に専心する地上人に対して、霊界人は必要な物質的援助をすることもあります。生活苦・金銭苦によってせっかくの善行が中断することがないように守護し、援助します。

このように地上人が自らの“自由意志”によって摂理に一致した利他的姿勢に徹するなら、霊界人は全面的に応援してくれます。それとは対照的に、本人の霊的成長のために発生している「カルマ清算」の苦しみに対しては、霊界サイドから手出しをするようなことはありません。それは許されないことなのです。

以上が、シルバーバーチの「救済観」の中の“自力救済”についての内容です。従来の宗教の救済観と比べると、その次元の違いは明らかです。従来の宗教が説いてきた救済観の次元の低さが実感できます。「自らを摂理に一致させていく」という自力救済信仰こそが、真の意味での救いの道なのです。

では、自力救済のための実践(自己努力)とは、どのようなものなのでしょうか。次にその「自己努力」の具体的な内容について見ていきます。

シルバーバーチの「救済観」の特色【7】――救済のための自己努力とは、「霊優位の生き方」と「利他的な生き方」

真の救済とは、霊的成長の道をリセットすることであり、それは意識的に「神の摂理」に自らをそわせていく努力に他なりません。その自力救済の努力とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。“救済”とは今述べたように、霊的成長を阻害する要素を排除し、自らを摂理に一致させていくことです。そこで、まず「霊的成長を促す摂理」について見ていくことにします。

人間の霊的成長を促す摂理(法則)の中で重要なものが、「霊優位の法則」と「利他性の法則」です。「霊優位の法則」とは、地上という物質界にあって、あらゆるものを“霊中心”にするということです。「霊優位の法則」は、「霊中心の法則」と言い換えることができます。人間は物質界に誕生し、肉体という物質の身体をまとって生活しているため、自然と物質を中心とした考え方・生き方をするようになります。物質的・肉体的快楽を追求するようになります。

現に地上の大半の人間が、物質と肉体を中心とする生き方をしています。物質中心の生き方は、“モノ中心の生き方”と言うことができます。「霊優位の法則(霊中心の法則)」が、人間の霊的成長を促す摂理です。物質優位・肉体優位(物質中心・肉体中心)の生き方はその摂理に反しており、霊的成長を妨げることになります。したがって“救済”のための自己努力とは――「物質中心・肉体中心の考え方・生き方を改め、霊中心の考え方・生き方にする」ということになります。モノやお金や肉体的快楽を追求する生き方を、「霊的成長」を最優先して求める生き方に切りかえることです。

霊的成長よりも、モノやお金や肉体的快楽を優先する考え方・生き方を「肉主霊従」と言います。反対にモノやお金や肉体よりも、霊を優先する考え方・生き方を「霊主肉従」と言います。地球上の大半の人間が「肉主霊従」の人生を送っていますが、それを「霊主肉従」に改めることが霊的成長の道のリセットであり、一人一人の“魂”を救済することになるのです。

「霊優位の法則」は、霊に最高の価値をおく「霊的価値観」と言い換えることができます。霊に関わる最も重要な内容は「霊的成長」ですから、霊的価値観とは、霊的成長に最大の価値をおく考え方・生き方ということになります。霊的価値観の反対が「物質的価値観・肉体的価値観」で、モノやお金や肉体的快楽に価値をおく考え方・生き方です。より多くのモノやお金や肉体的快楽を手に入れることが人間の幸福につながる、という考え方です。地球上の大半の人間が、物質的価値観・肉体的価値観に支配されています。

宗教は本来「霊的価値観」を目標として掲げ、人々を真の幸福へと導くものですが、残念ながら宗教そのものが「霊的無知」ゆえに「物質的価値観」に支配されてしまっています。これまでの宗教は、とうてい人々を霊的方向に導くことはできません。価値観の観点から“救済”のための自己努力の内容について言えば――「救済とは、物質的価値観を霊的価値観に切りかえること」ということになります。

以上が「自己努力」の1つ目の内容です。それを整理すると次のようになります。

自己努力の内容①
モノ中心・お金中心・肉体中心 → 霊中心(霊優位)
肉主霊従 → 霊主肉従(霊的成長を最重視する)
物質的価値観 → 霊的価値観(霊的成長に最高の価値をおく)

「霊優位(霊中心)」と「霊主肉従」と「霊的価値観」は、実際にはどれも同じことを意味しており、一体不可分の関係にあります。これらの3つが“自力救済”のための1つ目の努力内容ということになります。

自己努力の2つ目の内容は、多くの霊界通信によって指摘されてきた「利他愛の実践」です。利他愛の反対は「利己愛・自己中心愛」です。肉体という物質の身体をまとって物質世界で生活する人間は、「物質中心主義・肉主霊従・物質的価値観」に支配されるようになり、それが「利己主義(自分中心主義)」と「利己愛」を生み出しています。利己主義と利己愛は個人だけでなく民族や国家をも支配し、地球全体を“弱肉強食”の醜い世界に陥れています。地球上の悲劇はすべて、ここから発生しています。

霊界では「利他愛」が人々の魂を支配しており、摂理に反した利己的な思い・自己中心的な思いを抱くと苦しみや痛みが発生するようになります。そのため霊界には、地上で当たり前になっている「利己愛・自己中心愛」は存在しません。霊界では「利他愛」がすべての霊たちの常識となっており、利己的・自己中心的に生きることはできないのです。こうした話を聞くと、大半の人はとても信じられないでしょうが、霊界は実際にそのようになっています。霊界では神が造った「利他性の摂理」がすべてを支配しているため、利他的な考え方・生き方をするのは当然のことなのです。

地上世界と霊界の根本的な違いは、地上は「利己性・自己中心性」が人々の心を支配しているのに対して、霊界では「利他性」が支配しているということです。霊界では、他者への奉仕が喜び・生きがいとなっています。利他愛の実践によって「霊的成長」が促されるようになっています。一方、地上では、他者のために自分を犠牲にする人間は稀にしか存在しません。

2千年前、イエスは「利他性の法則」を人々に示しました。イエスの教えの真髄は「利他愛」です。イエスは、神の愛に倣って利他愛の実践に励むことの大切さを説きました。霊界ではすでに常識となっている利他的な考え方・生き方を、地上にいながら実践するとき、人間は「霊的成長」をなすことができるようになるのです。利己愛・自己中心愛を「利他愛」に切りかえることが、自らを救済するための「自己努力」の2つ目の内容です。

自己努力の内容②
利己愛・自己中心愛 → 利他愛

物質文明が急激に発達した現代社会では「利己性」が膨張し、人々に対する支配力をいっそう強めています。個人から国家に至るまで、自分と自分たちの利益を最優先して求め、そのためには他者や他国を犠牲にしてもかまわないといった風潮が地球上を覆っています。さらには、そうした利己性・自己中心性は一般市民ばかりでなく、宗教をも巻き込んでいます。

イエスは「利他愛」の重要性を説き、他人のために喜んで犠牲を受け入れる生き方を教えました。しかしキリスト教をはじめとする地球上の組織宗教は、何よりも自分たちの利益を優先して求めています。互いに競い合い、時にはそれが殺し合いにまで発展することもあります。「利他性の摂理」を実践できないところに現在の宗教の限界があり、それは宗教にはもはや人類を救済する力がないことを証明しています。利他愛の純粋性は“無私無欲”と“自己犠牲”によって示されますが、宗教にはそれらが決定的に欠如しており、そのために利他愛を実践できなくなっているのです。

シルバーバーチの「救済観」は、人間が自らを救うためには「霊優位の生き方」と「利他愛の実践」が必要であることを説いています。真の救済は個人の自己努力から出発するものであり、それは具体的には「霊優位の生き方」と「利他愛の実践」の2つにまとめられます。このように自己努力の内容は言葉ではシンプルに表現できますが、いざそれを実行に移そうとすると、たいへんな困難がともなうことになります。

シルバーバーチは――「真に価値あるものは努力なくして手に入れることはできない」と繰り返し述べています。霊的成長は、人間にとって最も価値ある“永遠の宝”です。それを手に入れるためには、大きな犠牲と苦労を覚悟しなければなりません。「自己を救済する」――すなわち「霊的成長の道のリセット」という最も価値ある宝は、並大抵の努力では獲得することはできないということなのです。

「価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.71

「霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。(中略)もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものだとしたら、これは永遠の叡智を嘲笑うことになります。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.83

シルバーバーチは――「真の救いとは、自らの実践を通して手にするものである」と主張します。救いは、世間で広く見られるような神仏への崇拝と信心によって得られるものではありません。シルバーバーチの「救済観」は徹底した“自力救済”であり、どこまでも行為をともなう実践的な信仰を説きます。神仏への崇拝や信心だけでは何の意味もなく、救いはもたらされません。シルバーバーチは、単なる信心ではない行為のともなった信仰・実践中心の信仰を強調しているのです。

「宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考え方が人間を永いあいだ迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。(中略)祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、“選ばれし者”の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.171

「日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを「スピリチュアリスト」と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。」

『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』(ハート出版)  p.25

シルバーバーチの「救済観」の特色【8】――イエスを中心とする大霊団とスピリチュアリズム運動が「地球人類救済」の真の主役

スピリチュアリズムは、イエスを中心とする高級霊が大軍団を組織して、地球人類を救済するために進めている大プロジェクトです。したがって地球人類全体の真の救済者は、「霊界のイエスを中心とする大霊団」ということになります。別の言い方をすれば、イエスを中心として進められてきた“スピリチュアリズム”こそが、地球人類全体にとっての真の救済勢力であり“真の主役”ということになります。

「(スピリチュアリズムは)地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済の手段でもあります。それを総合したものがスピリチュアリズムなのです。」

『霊訓(完訳・上)』(スピリチュアリズム普及会)  p.203〜204

「私たちは、そうしたとらわれの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的を持って、一大軍団を組織しました。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.189

「地上世界は、たった一つの重大な原因(スピリチュアリズム)によって、着実に改善されております。その原因とは、“霊の力”が働きかけているということです。(中略)今からほぼ一世紀前(1848年のハイズビル事件)に始まった、大々的な組織体制のもとでの霊力の降下がなかったならば、地上世界はもっともっと深刻な事態に陥っていたはずです。潜在的な更生力(スピリチュアリズム)が全世界に働きかけてきたからこそ、この程度で終わっているのです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.174

スピリチュアリズムはまさに、地球人類全体を救済する目的で始められた霊界主導のプロジェクトです。その意味からすれば――「スピリチュアリズムこそ、地球人類にとっての真の救済者」「イエスを中心とする霊界の大軍団こそ、地球人類全体に対する救済運動の主役」ということになります。

現在の地上には、“自分たちこそ人類の救済者である”と公言している宗教が数多く存在します。彼らは、自分たちの宗教だけが人類を救済する最終使命を持っていると主張します。しかし、それらはいずれも事実ではありません。また、自分たちの教団の教祖こそキリストの再臨者であるとか、仏陀の再誕者であると主張している教団もあり、自分たちだけが人類救済の使命を持っているかのように大言壮語していますが、それも独断的な空想にすぎません。“自分たちだけが人類の救済者である”と主張する教団は、どれも本物ではありません。地球人類の真の救済者は、霊界のイエスを中心とする大霊団であり、高級霊たちが推進するスピリチュアリズム以外にはないのです。

スピリチュアリズムは「霊界主導の地球人類救済プロジェクト」であり、地上に「霊的真理」をもたらすことを目的としています。イエスを中心とする大霊団が地球人類を救済するためにとった手段は、地上に「霊的真理」をもたらすことです。それによって地上の“悲劇”の元凶である「霊的無知」を解消し、そこから派生した「物質中心主義」と「エゴイズム(利己主義)」という2つのガンを駆逐しようとしているのです。

「私たち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は、無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊には、見るに耐えないものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれが、ひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。(中略)こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで、私のような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事に携わってきたわけです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.188〜189

幸運なことに私たちは、地上人生という限られた時間の中で「霊的真理」を手にすることができました。ここで忘れてはならないことは、私たちを霊的真理に出会わせるために、霊界サイドでは長年にわたって大変な苦労をして準備を進めてきたという事実です。霊界の人々の苦労と犠牲がなければ、私たちが霊的真理を手にすることは不可能でした。

霊界から地上世界に「霊的真理」を降ろすについては、私たちの想像を絶するような準備が必要であり、そのために多大な犠牲が払われました。私たち地上人が霊的真理を手にするまでのプロセスを大局的に見ると――「大部分の準備が霊界サイドによってなされてきた」と言えます。もちろん地上人サイドでも何らかの努力はしましたが、それは霊界人による努力とは比べものになりません。「98%以上の準備が霊界サイドによってなされ、地上人の努力はわずか2%程度にすぎない」と言っても過言ではありません。霊界の人々の多大な苦労と犠牲のお蔭で、私たちは『シルバーバーチの霊訓』に代表される高級霊界通信を手にすることができたのです。この意味からすれば――「地球人類救済の大部分は、霊界サイドによってなされてきた」ということになります。

霊界側は、「地球人類はもはや、自分たちの力では自らを救うことができない」との判断のもとで、霊界主導の救済計画を立てました。この事実からも明らかなように、地球人類の救済は、イエスを中心とする高級霊たちによってなされてきたということです。イエスを中心とする霊界の大霊団こそが、地球人類にとっての“真の救済者”なのです。

霊界の人々の周到な準備によって地上に「霊的真理」が降ろされましたが、人類の救済はそれで完成するものではありません。“真の救い”は、地上人が霊的真理を正しく理解し、忠実に実践するかどうかにかかっています。地上人が、手にした真理を正しく理解し実践に移したとき、初めて「霊的成長」という本当の救済が実現することになるのです。真理との出会いから霊的成長に至るプロセスは、地上人サイドの責任領域です。地上人の責任範囲は、救済の全体からすればわずか2%にも及びませんが、その2%が達成されなければ救済は実現せず、すべてが水泡に帰してしまいます。地上人が霊的真理を正しく理解し忠実に実践しなければ、霊界の人々が進めてきた地球人類救済計画は、すべて無駄になってしまうのです。これは地上人の努力いかんで救いが成就するかどうかが決定する、ということを意味しています。「地上人の努力によって救済が決定する」という事実は、「救済は自己努力によってなされる(自力救済)」とするシルバーバーチの「救済観」を、別の角度から説明したものと言えます。

(問い)――この地上世界を救うには、我々がこの教えをすべての人に広めないといけないのでしょうか。

「“地上世界を救う”ですか。救うのは我々(霊界の霊たち)ではありません。地上の人間の一人一人が自らの努力で救わねばなりません。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.197

残念なことに多くのスピリチュアリストは、霊界の人々の苦労と犠牲によってもたらされた「霊的真理」を正しく理解せず、勝手な解釈のままで良しとしています。スピリチュアリズムを霊的真理の学習と間違え、自分なりに真理を理解することだけで満足し、実践に移そうとしません。その結果、霊界サイドが98%準備してくれた“救い”を無駄にしています。地上人は、わずか2%の責任さえ果たすことができず、せっかくの“救い”をドブに捨てるようなことをしています。霊界サイドの苦労と犠牲を無にし、同時に自分自身の一番の宝を捨て去るようなことをしているのです。