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(3)1850〜1950年の100年の歴史……年代史と登場人物

1848年のフォックス家事件以来、スピリチュアリズムはどのような歩みをしていったのでしょうか。ここでは1850年から1950年までの100年の歴史を振り返ってみます。まず初めに100年の推移を年代史から見ていきます。次に同じ時期の日本のスピリチュアリズムの歴史を概観します。その後でスピリチュアリズムの黄金期を、リーダー・霊能者・研究者に分類して紹介します。

<1>年代史

1850〜1950年の100年のスピリチュアリズム年代史1
出来事
1848年
  • フォックス家事件が起る。近代スピリチュアリズムの出発
1851年
  • ニューヨークのエドマンズ判事が心霊現象の調査に乗り出す。1853年、新聞紙上にスピリチュアリズムの正当性を発表
1852年
  • ヘイデン夫人がイギリスにスピリチュアリズムを伝える
  • アメリカに最初のスピリチュアリズム協会が設立される
1854年
  • 社会主義の祖ロバート・オーエンが交霊会に出席してスピリチュアリズムを認める
1855年
  • 19世紀最大の霊媒D・Dホームが、アメリカからイギリスに帰国。その驚異的な心霊現象が、英国スピリチュアリズムの基礎をつくる
1856年
  • エンマ・ハーディング・ブリテン夫人が、アメリカでスピリチュアリストになる
1857年
  • アラン・カルデック(仏人)による『霊の書』がフランスで出版
1858年
  • フランスでアラン・カルデックによりスピリティズム運動が出発
    ※カルデックはスピリチュアリズムではなく“スピリティズム”と呼称
1862年
  • ホワイトハウスで、リンカーン大統領の交霊会が開かれる
1868年
  • D・Dホームがロンドンの街路上を空中浮揚し、多くの目撃者がそれを証言
1871年
  • ウィリアム・クルックス卿が、D・Dホームの実験研究を報告。その後、1874年にフローレンス・クック(霊媒)の物質化霊現象の調査結果を発表
1873〜83年
  • ステイントン・モーゼスの自動書記による『霊訓』の受信。1883年に出版
1874年
  • 進化論開拓者アルフレッド・ウォーレス博士による『奇跡と近代スピリチュアリズム』出版
1875年
  • ブラヴァッキー夫人が神智学協会を設立
1881年
  • ステイントン・モーゼスによる心霊誌『ライト』創刊
1882年
  • ウィリアム・バレット卿がSPR(イギリス心霊研究協会)を設立
1884年
  • ブラヴァッキー夫人の詐欺が、SPR代表のリチャード・ホジソンにより暴露される
  • 元イギリス首相グラッドストーンが交霊会に参加
1885年
  • ウィリアム・ジェームズ教授が、霊媒パイパー夫人を調査
  • ウィリアム・バレット卿が、アメリカ心霊研究協会を設立
1887年
  • エンマ・ハーディング・ブリテン夫人が心霊誌『ツーワールズ』を創刊
1889年
  • SPRによるパイパー夫人の調査
1890年
  • エンマ・ハーディング・ブリテン夫人がNFS(英国スピリチュアリスト連合)を設立
    ※NFSは1901年にSNU(英国スピリチュアリスト同盟)に発展
1892年
  • フランス人科学者シャルル・リシェなどによるユーサピア・パラディーノ(霊媒)の心霊現象調査(ミラノ調査)
1893年
  • ウィリアム・ステッドによる心霊誌『ボーダーランド』創刊
1894年
  • ウィリアム・ジェームズがSPRの会長に就任
1896年
  • ウイリアム・クルックス卿がSPRの会長に就任
1899年
  • エンマ・ハーディング・ブリテン夫人他界
1850〜1950年の100年のスピリチュアリズム年代史2
出来事
1900年
  • フレデリック・マイヤースがSPRの会長に就任。翌年に客死
1901年
  • SNU(英国スピリチュアリスト同盟)設立
  • オリバー・ロッジ卿がSPRの会長に就任
    ※ロッジは1908年にスピリチュアリズム信奉を表明
1906年
  • 米国人医師カール・ウィックランドが心霊現象の研究を開始。その成果を『死者と交わる30年』として出版初版1924年・本版1968年)
1914年
  • ドイツ人科学者ノッチング男爵が『物質化現象』を出版
1914〜18年
  • 第一次世界大戦
1915年
  • SPRが、オズボーン・レナード夫人(霊媒)の心霊現象を調査
1916年
  • E・W・オースチンコナン・ドイルの右腕)がスピリチュアリズム公認のための議会運動を開始
1918〜30年
  • アーサー・コナン・ドイル卿の世界講演旅行。“スピリチュアリズムの聖パウロ”と呼ばれる
1920年
  • ジョージ・ヴェイル・オーエン師の『ベールの彼方の生活』が、ノースクリッフ卿の勧めで週刊誌に連載される
1921年
  • 第1回ICPR(国際心霊研究学会)がコペンハーゲンで開催される
1923年
  • 第1回ISF(国際スピリチュアリスト連盟)がベルギーで開催される
  • ジェラルディン・カミンズによる自動書記通信が開始
1924年
  • ハンネン・スワッファーが、デニズ・ブラッドレーの交霊会に参加し、スピリチュアリストになる
    ※スワッファーは1931〜48年にかけてSNUの会長を務める
1925年
  • コナン・ドイルによって心霊博物館が設立される(ロンドン)
  • 第2回ISF(国際スピリチュアリスト連盟)のパリ会議が開催される。
  • コナン・ドイルが名誉会長に就任
1926年
  • マージャリー(霊媒)による物質化現象霊の指紋がとられる)
1927年
  • W・T・パリッシュが心霊治療を開始スピリチュアリズムにおける心霊治療の開始)
1930年
  • コナン・ドイルがSPR退会研究方法に反対して)
  • ドイル他界
1931年
  • GWCSA(世界クリスチャン・スピリチュアリスト協会)の結成
1931〜35年
  • アーサー・フィンドレーの著書出版。スピリチュアリズム三部作『幽界のふちに』『真理の基盤』『開かれゆく宇宙』
1932年
  • アーサー・フィンドレーが心霊誌『サイキック・ニューズ』創刊。編集はモーリス・バーバネル
1934年
  • BBCを通じてスピリチュアリズムについて最初のラジオ放送
1940年
  • オリバー・ロッジ他界
1946年
  • ハリー・エドワーズが心霊治療のために英国巡回
1948年
  • 近代スピリチュアリズム百年祭がロンドンで開かれる。SNUが中心となって)

<2>同時期の日本のスピリチュアリズムの歴史

以上、1850年〜1950年の欧米のスピリチュアリズムの100年を、年代史によって見てきました。欧米のスピリチュアリズムの大流行は明治後期に日本に伝えられ、新たに心霊学的な動きを生み出すことになりました。日本の心霊学(スピリチュアリズム)を語るとき、2人の偉大な先人の名前を挙げなければなりません。福来友吉(1871〜1952年)と浅野和三郎(1874〜1937年)です。日本では、明治後期から大正期にかけて心霊関係の書物が活発に出版されました。そうした動きを背景に、福来と浅野は日本スピリチュアリズムの開拓者として苦難の人生を送ることになりました。

ここでは偉大な2人のスピリチュアリストの歩みを振り返って見ます。それによって日本のスピリチュアリズムの、おおよその動向が理解されるものと思います。

日本のスピリチュアリズム年代史
出来事
明治40年代
  • 日本に欧米のスピリチュアリズムが伝わる。心霊関連書の出版
1910年(明治43年)
  • 福来友吉らによって、御船千鶴子・長尾郁子(霊能者)の透視実験が行われる。福来によって念写現象が発見される
1913年(大正2年)
  • 福来が『透視と念写』出版。福来、帝大助教授の職を失う
1923年(大正12年)
  • 浅野和三郎の心霊科学研究会を発足
1928年(昭和3年)
  • 第3回国際スピリチュアリスト会議(ロンドン)に、浅野と福来参加。この会議で、福来は透視と念写について発表
1929年(昭和4年)
  • 浅野、東京心霊科学協会を設立。以後これを拠点に活発な活動を開始(翻訳・心霊実験・霊界通信・啓蒙運動)
1937年(昭和12年)
  • 浅野他界
1941〜45年
  • 太平洋戦争
1946年(昭和21年)
  • 日本心霊科学協会(財団法人)の設立
1952年(昭和27年)
  • 福来他界

欧米のスピリチュアリズムの全盛期に、日本にスピリチュアリズムが伝わり、福来と浅野という2人の開拓者の貢献によって、スピリチュアリズムは日本に根を下ろすことになりました。終戦直後に日本心霊科学協会が設立され、その後はこの協会を中心として心霊学・スピリチュアリズムの啓蒙活動が展開されていくことになります。

<3>スピリチュアリズム黄金期のリーダー・霊媒・科学研究者たち

スピリチュアリズムは1860〜1930年の期間に大発展をし、黄金期を築き上げました。ここではその黄金期(全盛期)を、「前期全盛時代」(1860〜1900年頃)と「後期全盛時代」(1900年頃〜1930年頃)に便宜上区分します。そしてそれぞれの時代を、「リーダー」「霊媒(霊能者)と心霊現象」「研究者・科学者」という3つの点から整理します。

スピリチュアリズムの黄金期には、優秀なリーダーが現れてスピリチュアリズム運動を先導し、同時に雨後の筍のように卓越した霊媒・霊能者が現れました。そしてそれを検証する優れた科学者が輩出しました。こうしてすべての条件が整ったところに、スピリチュアリズムの大発展がなされたのです。

1)黄金期前期のリーダーたち

エンマ・ハーディング・ブリテン(1823〜1899)

1856年、ブリテン夫人は、アメリカにおいてスピリチュアリストになりました。翌年、英国に帰国した後、彼女はスピリチュアリズム発展のための人生を歩み出します。

英国スピリチュアリズムの初期には、国内の至るところにスピリチュアリスト教会が次々とつくられていきました。それらをブリテン夫人は1つの連合体としてまとめ上げ、1890年に「英国スピリチュアリスト連合(NFS)」を設立しました。また彼女はそれに先立つ1887年に、心霊誌『ツーワールズ』を創刊しています。このツーワールズは現在も発行され、スピリチュアリズム界における最も権威ある心霊誌の1つになっています。ツーワールズは当時のスピリチュアリズム運動に重要な役割を果たし、彼女はその編集長を5年間務めています。

またブリテン夫人は、霊能者としても優れた才能を発揮し、すでに他界していた社会改革者ロバート・オーエンからの通信を受け取り、これをスピリチュアリズムの七大綱領としてまとめて、スピリチュアリズムの思想的支柱をつくり上げました。この七大綱領は後にSNUによって採択されています。

ステイントン・モーゼス(1839〜1892)

モーゼスといえば、スピリチュアリズムのバイブルと言われる『霊訓』の自動書記で有名な霊能者です。『霊訓』の受信は、1873〜1883年に行われました。通信側の49人の霊団の指導霊はインペレーターで、そのインペレーターの背後にはプリセプターと呼ばれるさらなる高級霊が控えていました。キリスト教を信じるモーゼスは、霊界から送られてくる霊的真理との間で激しく葛藤しますが、やがてスピリチュアリズムの真理を受け入れるようになります。その後、彼はスピリチュアリズムの発展のために余生を捧げることになりました。

モーゼスは、1884年から他界する1892年まで、ロンドン・スピリチュアリスト連合の指導者としてスピリチュアリズムのために貢献しました。彼はまた機関紙『ライト』を創刊したり、SPRの創設にも尽力しています。一時はSPRの副会長も務めましたが、SPRの批判主義的な方針に反発して脱会しています。

ウィリアム・ステッド(1849〜1912)

ステッドは、イギリスの著名なジャーナリストでした。その彼が1892年、自分に自動書記の能力があることに気がつきました。その後、彼はスピリチュアリストとしての人生を歩むようになります。霊媒としての彼の傑作は、『ジュリアからの音信』としてよく知られています。1893年、彼は自分がスピリチュアリズムを信奉していることを公の場で告白しました。

それに先立つ1883年、彼は自身で創刊した『レビュー・オブ・レビュー』誌の中で、大西洋の氷山に大型定期船が衝突して沈没するという作品を書いています。その29年後、その記事がまさに予言となったようなタイタニック号の沈没事故が起きました。ステッドはニューヨークのカーネギーホールへ招かれて講演するためにタイタニック号に乗船していました。そしてタイタニック号とともに大西洋に没することになりました。

その後、ステッドは霊界から、ウッドマンという霊能者を通じて娘のエステルに通信(自動書記)を送ってきました。彼自身の他界直後の状況や幽界の様子がリアルに伝えられています。それが『ブルーアイランド』として出版され大反響を巻き起こしました。『ブルーアイランド』は日本語に翻訳出版されています。)

アラン・カルデック(1804〜1869)

フランスの心霊運動(スピリティズム)は、アラン・カルデック(本名イポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユ)によって基礎がつくられました。彼はスピリチュアリズムという呼び方が精神主義と解釈されるの避け、霊の働きであることを示す意味で“スピリティズム”という用語を用いるべきであると主張します。

彼は霊界からの通信を編集して、それを1857年に『霊の書』として出版し、大反響を巻き起こしました。『霊の書』によって示されたスピリティズム思想の最大の特徴は、再生を霊的事実として認めていることです。当時の英語圏諸国のスピリチュアリズムが再生論否定の立場にあった中で、カルデックの思想(スピリティズム)はそれと激しく対立することになりました。

このスピリティズムはフランスからラテン系諸国に広まったために、これを「ラテン系スピリチュアリズム」と呼ぶ人々もいます。フランスでは、スピリティズムは英国のように大きく発展することはありませんでしたが、南米諸国、特にブラジルで大発展し、現在2千万人の信奉者がいると言われています。またカルデックは交霊会の指導書として、1861年に『霊媒の書』を出版しています。

長い間、英米のスピリチュアリズム界の主流は「再生論否定」の立場にあったために、カルデックの『霊の書』と『霊媒の書』は、その価値を正当に評価されることがありませんでした。しかし20世紀中頃に至って、再生を肯定するシルバーバーチやホワイト・イーグルなどの高級霊からの通信が現れるにともない『霊の書』は、モーゼスの『霊訓』や『シルバーバーチの霊訓』と並ぶ“世界三大霊訓”と見なされるようになってきました。

カルデックが自らの心霊主義をどのように呼んだとしても、英語圏のスピリチュアリズムが霊界の高級霊によって計画的に導かれてきたように、それもまた高級霊の導きの中にあったことは間違いありません。その意味でスピリチュアリズムもスピリティズムも、本質的には全く同一のものと言えます。

2)黄金期前期の優れた霊媒・霊能者たち

D・Dホーム(1833〜1886)

ホームは、スピリチュアリズム史上最大の霊媒の1人です。物品引き寄せ(アポーツ)と直接談話現象以外の、あらゆる心霊能力を持っていたと言われます。彼の霊能力は、アメリカ在住中に発見され、ヘアー教授やエドマンズ判事による検証を受けました。1855年、英国に渡り、その卓越した霊能によって英国中に大反響を巻き起こしました。ホームは優れた人格の持ち主で、生涯にわたって一度も霊能による報酬を受け取りませんでした。

ウィリアム・クルックスは、ホームの霊現象を徹底して観察実験し、それが本物であることを認めました。1868年には、ホームは何度も空中浮揚を行いました。それを多数の目撃者が証言しています。

フローレンス・クック(1856〜1904)

スピリチュアリズム史上、フローレンス・クックを霊媒とするケーティ・キング霊の物質化現象は、最もセンセーションなものの1つです。ケーティ霊の物質化レベルはほぼ完璧で、肉体に近い状態であったと言われます。脈拍を計ることもでき、霊媒のクックが90であったのに対し、物質化したケーティ霊の脈拍は75でした。

この物質化現象を慎重に徹底して調査したのが、ウィリアム・クルックスでした。クルックスは3年以上に及ぶ実験結果を、著書『スピリチュアリズムの研究』で公表しました。その中には、ケーティ霊が2時間にわたって部屋を歩き回り、人々と親しく話をしたことが述べられています。クルックスは44枚のケーティ霊の写真を撮っています。

レオノア・E・パイパー夫人(1859〜1950)

パイパー夫人は、心霊研究史上、最高の霊媒と言われています。彼女は、実に多くの科学者たちの調査実験の対象となって、近代心霊研究成立のために大きな貢献をしました。夫人は1885年に、有名な心理学者W・ジェームズ博士の調査を受け、多大な成功を収めました。それ以来45年間に数百回にも及ぶ調査実験を受けています。

1889〜1890年には、オリバー・ロッジやマイヤースの監視の中、きわめて厳格な条件下で88回の実験を受けています。この実験の結果が、オリバー・ロッジをスピリチュアリストに転向させるきっかけとなりました。

ユーサピア・パラディーノ(1854〜1918)

イタリヤ人パラディーノは、物理的心霊現象の霊媒として最も有名な人物の1人です。彼女は20年以上にわたって欧米において科学者の検証を受け、多くの論争を巻き起こしました。1892年、パラディーノを研究する会がミラノで結成されました(ミラノ委員会)。そこで17回にわたる交霊実験会が行われ、卓越した物理現象を披露しました。

リシェは、この実験がきっかけとなって、やがてスピリチュアリストに転向することになりました。

エリザベス・デスペランス夫人(1855〜1919)

大霊媒デスペランス夫人(リード夫人)は、素晴らしい物品移動現象を行ったことで有名です。さまざまな花や植物を、いとも簡単に人々の前に取り出して見せました。これらの現象は、アラビヤ人の支配霊によって行われました。

また彼女は、物質化現象を行った霊媒としてもよく知られています。キャビネットの前に物質化した霊が姿を現します。その後ろに霊媒であるデスペランス夫人も姿を見せて、霊媒と物質化霊が別人格の存在であることを示し続けました。彼女をイカサマと決め付けた者が、その現場を押さえようとしたためにひどい被害を受け、3回も生命の危険にさらされています。

3)黄金期前期の優れた研究者・科学者たち

スピリチュアリズム黄金期(1860〜1930年)には優れた霊媒が数多く現れましたが、それを調査研究する優れた研究者・科学者も同時に数多く輩出することになりました。こうした科学者の大半が、研究に着手する前にはスピリチュアリズムに対して懐疑論者あるいは否定論者でした。それが実験を進め、生々しい霊の実在の証拠を突きつけられたことで、否応なく霊の存在を認めるようになり、最後にはスピリチュアリストに転向しています。

ここではそうした科学者の中から、中心的な人物を取り上げ紹介します。

A・ラッセル・ウォーレス博士(1823〜1913)

ウォーレスは、ダーウィンの進化論の同時発見者としてその名が知られています。彼は英国人科学者として初めてスピリチュアリズムを研究調査し、スピリチュアリズムに有利な報告書を提出しました。

ウォーレスは、主にテーブル浮遊現象と物品引き寄せ現象(アポーツ)を調査しました。彼の著した『奇跡と近代スピリチュアリズム』は、スピリチュアリズムの古典的名著の1つとなっています。

ウィリアム・クルックス卿(1832〜1919)

クルックスは、19世紀最大の物理学者の1人で、タリウム元素の発見や放電管の発明など歴史的な科学的業績を残しています。それによって王立学士院の院長に選ばれています。彼は、1907年にノーベル化学賞を受賞しています。こうした物理学研究の一方で、D・Dホームやフローレンス・クックなどによる心霊現象の研究にも打ち込みました。

そのクルックスは、初めは徹底した懐疑論者でしたが、優れた霊媒による驚異的な心霊現象に直接触れることによって、やがて霊の存在を確信するようになっていきました。彼は1896〜1899年の3年間、SPRの会長を務めました。

W・F・バレット卿(1845〜1929)

クルックスの研究発表が、英国中に大波紋を巻き起こしている最中、同じ王立協会の会員であったバレットも、心霊現象の研究に乗り出しました。そして心霊現象を科学的に研究調査する機関として、1882年にSPR(英国心霊研究協会)を、1885年にアメリカを訪問してASPR(米国心霊研究協会)を設立しました。

フレデリック・マイヤース(1843〜1901)

マイヤースは、スピリチュアリズム初期の心霊研究に多大な足跡を残しました。彼は優れた心理学者として、人間の潜在意識が持つ可能性を究明し、超常現象の多くが死者の霊によるものではなく、存命中の人間のテレパシーや潜在意識の働きによるものであることを明らかにしました。それまで霊媒現象はすべて霊魂によるものとされてきましたが、ここにおいて心霊現象研究に一定の秩序がもたらされることになりました。そして心霊研究は、より科学性の高いレベルに飛躍することになりました。

彼は、霊界通信の信憑性を証明する手段として“十字通信”という画期的な方法を考案しました。1900年には、科学者以外の人物として初めてSPRの会長に就任しましたが、翌年客死しています。

エドマンド・ガーニー(1847〜1888)

英国を代表する心霊研究家で、特に催眠術を心理学的方面から探求しました。また彼は“幻像”についても研究し、『生者の幻像』の中で、テレパシーによる幻像の生起について言及しています。ガーニーは死後、パイパー夫人を通じてオリバー・ロッジに通信を送ってきました。

リチャード・ホジソン博士(1855〜1905)

ホジソンは、SPR設立当初からの会員で、その指導的立場にありました。1884年、彼はSPRを代表して神智学協会のブラヴァッキー夫人を調査検証し、その詐欺を見破り暴露しました。

ホジソンは、パイパー夫人に対して徹底して厳格な検証をしたことでも知られています。彼は最初、心霊現象に懐疑的な姿勢をとっていましたが、パイパー夫人の疑いようもない驚異的な心霊能力を目の前にして、ついにその真実性を認めるようになりました。そしてスピリチュアリストに転向しました。

シャルル・リシェ博士(1850〜1935)

フランス人科学者リシェは、パリ大学医学部の生理学教授で、1913年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。彼は代表的な心霊研究家の1人で、人生をそのためにかけました。リシェは、有名な霊媒エグリントンとデスペランス夫人を調査しています。また別の霊能者を対象にして、透視実験も行っています。1892年にはミラノ委員会に参加して、ユーサピア・パラディーノを調査しています。その時、驚異的な心霊現象を目の当たりにして圧倒され、「神よ、私が間違っていました」と叫び、これまでの懐疑的な態度を一変させることになりました。

1895年、リシェはSPRの会長に就任しました。晩年は執筆活動にも精力的に取り組み、彼の生涯にわたるスピリチュアリズム研究を『心霊研究30年』(1923年出版)と『大いなる希望』(1933年出版)として書き記しています。

シュレンク・ノッチング博士(1862〜1929)

ドイツの心霊研究者ノッチングは、エクトプラズムと物理的心霊現象の研究に優れた業績を挙げました。彼はエバ・C(霊媒)によって出現した物質化現象の鮮明な写真を残しています。ノッチングによる綿密な実験研究によって、物質化現象の真実性が実証されることになりました。

4)黄金期後期の優れたリーダーたち

アーサー・コナン・ドイル卿(1858〜1930)

エンマ・ハーディング・ブリテン夫人の次に、英国スピリチュアリズム界の指導者になったのが、シャーロック・ホームズの作者でもあったコナン・ドイルでした。彼は1902年にSPRに加入しました。彼はまた20年に及ぶスピリチュアリズム研究の成果を、2冊の本として出版しています。それによってスピリチュアリズムを広く世に知らせることになりました。

ドイルは1918〜1928年の間、英国内ばかりでなく、オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ・ヨーロッパ大陸・南アフリカを講演旅行し、それによって“スピリチュアリズムの聖パウロ”と呼ばれるようになりました。

彼は後年、1902年以来入会していたSPRの研究方法に異論を唱えて対立し、SPRを脱会しました。彼に従って84名もの会員が去ったため、スピリチュアリズムとSPRとの間に溝をつくることになりました。ドイルは1925年、国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の名誉会長に就任しました。またSNUの名誉会長も務めましたがSPRを脱会した年(1930年)に他界しました。

アーネスト・オースチン

オースチンはコナン・ドイルの右腕として、ドイルの講演旅行の準備をしたり、SNU設立とその強化のために奔走しました。そしてドイルの死後、英国スピリチュアリズムの後継指導者の立場に立つことになりました。彼は1915〜1921年の間、SNUの会長に就任しました。また1916年、スピリチュアリズムの合法化のために議会闘争を先導し、1934年、BBCを通じて初めてスピリチュアリズムについての放送を行いました。彼は1919〜1945年の長きにわたり(26年間)、心霊誌『ツーワールズ』の編集長としてスピリチュアリズム発展のために貢献しました。

ハンネン・スワッファー(1879〜1962)

スワッファーは、大著述家として、著名なジャーナリストとして、出版業者として、さらには英国社会運動のリーダーとして世界的に有名な人物でした。彼は“フリート街の法王”と呼ばれ、英国きっての大物としてジャーナリズム界に君臨していました。フリート街は、当時の英国ジャーナリズムの中心地です。)

そのスワッファーは、1924年、霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出席して、死後の魂の生存を確信しました。彼は交霊会をもとに『ノースクリッフの帰還』を出版し、自分がスピリチュアリストになったことを公開して、英国内に大センセーションを巻き起こしました。彼はコナン・ドイルの死後、SNUの名誉会長になりました。

このようにスワッファーの業績はあまりにも大きいのですが、その中で最大のスピリチュアリズムへの貢献は、何といっても「シルバーバーチの交霊会(ハンネン・スワッファー・ホームサークル)」を主催し、人類史上最高と言われる霊訓を世に送り出したことです。シルバーバーチの交霊会はスワッファーの自宅で週1回のペースで開かれ、彼はその通信内容を速記させて後にテープレコーダーを使用)心霊誌『サイキックニュ−ズ』に連載しました。彼は、シルバーバーチの霊媒でありサイキックニューズの編集長でもあったモーリス・バーバネルとともに英国内を講演して回っています。

5)黄金期後期の優れた霊媒・霊能者たち

オズボーン・レナード夫人(1882〜1963)

第一次世界大戦の前年、レナード夫人の支配霊フィーダ(インド人少女)は、彼女を通じて恐ろしい事件勃発の予言をしています。そして1年後、その予言どおりに第一次世界大戦が起きました。

1915年、オリバー・ロッジ夫妻を招いた交霊会で、レナード夫人を通じて戦死した息子のレイモンドが出現し、ロッジに死後の生存の証明をしました。その後、ロッジは数年の間、毎週レナード夫人の交霊会を開くようになりました。そして死後の生命の存続を確信し、スピリチュアリストになりました。

またドレイトン・トマス師も、レナード夫人を通じて数年にわたって心霊現象を実験しています。その実験は“書籍実験”と言われるもので、霊がある本に書いてある内容とその箇所(頁)を指摘するものです。誰も知らないはずの書籍の内容と確かに一致することで、霊媒現象が潜在意識やテレパシーではなく、霊魂によるものであることが証明されました。

ウィリアム・ホープ

ホープは、心霊写真によって霊能力の存在を証明しました。その真実性は、クルックスやバレットの実験によって証明されています。

ジェラルディン・カミンズ(1890〜1969)

カミンズは、英国の女流作家で20世紀最大の自動書記霊媒です。普段は遅筆な彼女が、いったん通信霊によって支配されると驚異的なスピードで書き始めます。

最初の通信である『クレオパの書』は、イエスの死の直後から聖パウロのアテネ出発までの教会の歴史と使徒たちの足跡を示しています。この通信内容は、『使徒行伝』と『パウロのロマ書(ローマ人への手紙)』を補足するものと言われています。その後、他界していたマイヤースからの通信を受け取ります。これが『永遠の大道』『個人的存在の彼方』として発表されました。

マージャリー(クランドン夫人)(189?〜1931)

米国人クランドン夫人マージャリーは霊媒としての呼び名)は、卓越した直接談話現象を行いました。また物質化現象の能力にも優れていました。その中で彼女の名前を世に広めることになったのが、支配霊ウォルターの協力のもとで、霊の指紋を蝋に押印するという現象でした。蝋に押された霊の指紋を生前に残していた指紋と検証すると、見事に一致しました。

W・T・パリッシュ( ? 〜1946)

近代スピリチュアル・ヒーリングを始めたのが、パリッシュです。彼は霊界から、生まれながらのヒーラーであることを教えられ、妻のガンを治すことができると知らされました。実際に治療を試してみると、妻は治癒しました。その噂が広まると、人々から治療の依頼が寄せられるようになりました。こうして1927年から、パリッシュによって近代スピリチュアル・ヒーリングが始まりました。

その後、彼は17年間にわたってスピリチュアル・ヒーラーとして歩むことになります。やがて彼の名前は世界中に知られることになり、大勢の患者から治療依頼が殺到するようになりました。彼は、遠隔治療によっても多くの人々の病気を癒しました。

エドガー・ケイシー(1877〜1945)

20世紀のアメリカ人霊能者の中で、“眠れる予言者”としてその名前が知れわたったのがエドガー・ケイシーでした。ケイシーは1945年に他界するまで、英国スピリチュアリズムの黄金期と時期を同じくしてアメリカで活躍しました。彼はトランス状態で患者を透視して健康アドバイスを与えたり、アーカシックレコードにアクセスして相談者の前世を指摘したりしたと言われています。これがケイシーのリーディングです。

ケイシー・リーディングの特徴は、輪廻転生とカルマの法則です。こうした内容は従来のキリスト教の教義と真っ向から対立することになります。ケイシーは、アメリカ版スピリチュアリズムである“ニューエイジ”の先駆者としてたびたび位置づけされます。しかしケイシーの信奉者が彼をどのように呼んだとしても、霊界あげてのスピリチュアリズムのプロジェクトの一環として、多くの霊たちがケイシーに働きかけていたことは間違いのない事実です。

ジョージ・ベイル・オーエン

オーエンはキリスト教の牧師でしたが、ある時に自動書記能力を発揮するようになります。その通信内容に興味を抱いたノースクリッフ卿の勧めによって、それが1920年から週刊誌上に公開され大きな反響を巻き起こしました。この記事はスピリチュアリズムを広く英国社会に普及させ、オーエンはスピリチュアリズムの発展に貢献をすることになります。しかし彼は、それによって教会の長老の怒りを買い、迫害を受け、教会を辞職することになりました。

その霊界通信は『ベールの彼方の生活』として出版され、スピリチュアリズムの古典の1つに数えられています。

6)黄金期後期の優れた研究者・科学者たち

オリバー・ロッジ卿(1851〜1940)

オリバー・ロッジは20世紀最大の物理学者の1人で、宇宙の天体間に存在する広大なエーテル空間について研究しました。ロッジは、パラディーノやパイパー夫人といった霊媒を調査しました。マイヤースの死去後、1901年にSPRの会長に就任しています。ロッジは心霊研究を始めて25年後の1908年に、死後生存についての自らの確信を公表し、スピリチュアリズムへの信奉を表明しています。

彼は、第一次大戦で戦死した息子レイモンドからの霊界通信を『レイモンド』の書名で出版しました。ロッジはスピリチュアリズムの強力な擁護者であると同時にリーダーとして、スピリチュアリズム発展のために大きな足跡を残しました。

W・J・クロフォード博士(188?〜1920)

クロフォードは、物理的心霊現象の研究に大きな業績を残しました。その中でゴライアー家に関する心霊現象の調査研究は、心霊研究史上特筆されるものとなりました。彼の研究によって、ラップやアポーツなどの物理的心霊現象に、霊媒の身体から流出するエクトプラズムが関わっていることが突き止められました。

アーサー・フィンドレー(1883〜1964)

フィンドレーは、心霊研究のリーダー格として活躍し、多くの優れたスピリチュアリズム関連の著書を残しています。また彼はSNUの副会長の職も務めています。フィンドレーは、1932年にサイキックニューズを創刊しました(モーリス・バーバネルが編集)。彼はスピリチュアリズムの著名な講演者として、スピリチュアリズム発展のために大きな貢献をしました。

ドレイトン・トーマス

心霊研究家であったトーマスは、書籍実験に関心を持ち、亡くなった父親の霊と何度も実験を行っています。書籍実験とは、霊がある本の所在場所とそのページ、さらにはその箇所の内容を指摘するというものです。それを確認すると、確かにその通りの本があり内容も通信と一致します。こうしてその通信が、単なる地上人のテレパシーによるものではないことが証明されることになりました。

カール・ウィックランド

アメリカ人の精神科医ウィックランドは、早くからスピリチュアリズムへの理解があり、交霊会を持っていました。あるとき霊界から提案を受けました。それは彼が扱っている精神病患者の多くが低級霊による憑依が原因となっているので、その霊を患者から引き離し、霊媒者である妻アンナに乗り移らせるので、霊と対応して目覚めさせ救ってほしいというものでした。そうして始めた除霊治療は30年間にわたり、おびただしい数の憑依霊と精神病患者が救われました。

この除霊治療についてまとめた著書『死者と交わる30年』が1968年に出版されました初版は1924年)。これはスピリチュアリズムの心霊研究上、きわめて貴重な資料と言えます。