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(1)死と霊の問題は、人類共通の普遍的テーマ

そもそもなぜ“心霊ブーム”が起きるのでしょうか。それは人々が、死後の世界や前世・守護霊・未来予知・あの世からのメッセージといった「霊」に関する事柄に興味を持っているからです。もしこうしたものに関心や興味がなければ、メディアがいかに上手な仕掛けをしても、ブームは起きなかったでしょう。霊や霊界への強い好奇心が、ブームを燃え立たせる燃料となっているのです。心霊ブームの底辺には、人々の死や霊魂に対する強い関心があります。

少し難しい言い方をすれば、人間の心には、死生観(死とは何?)・死後観(死後の世界とは何?)・霊魂観(霊魂とは何?)という根源的な問いかけが存在しているということです。そうした普遍的なテーマが、常に人間の心に内在しているのです。死や霊についての関心は、心霊ブームにはまった一部の人だけのものではなく、人間である以上、誰もが共通に所有しているものなのです。知性のレベルが低いからとか、理性や科学的精神が欠如しているからといったことではありません。

死や霊に関心を持つのは、それが人間存在の本質そのものに関わっていることだからです。人間が霊的存在であるために、その本性からごく当たり前に滲み出てくるものなのです。死や霊について意識的に考えないようにしたり無視することは、自然な霊性の芽を自ら摘み取ることになってしまいます。死を恐れ、死を悲しみ、死後の世界に思いをめぐらす――これは動物にはない人間だけの特性です。まさにそれこそが、人間が「霊的存在」であることの証明と言えるのです。

(2)人類普遍のテーマを担当してきた宗教

こうした死生観・死後観・霊魂観といった人類共通の根源的な問題の答えを、人間はこれまで宗教に求めてきました。死への恐れを、宗教にすがって乗り越えようとしてきました。死後の世界に対する疑問を、宗教によって解決しようとしてきました。

したがって地球上の宗教の中で、死の問題を取り上げていないものはありません。死の問題を語らない宗教は存在しません。もし宗教から死の問題を取り上げたなら、後に残るのは単なる倫理・道徳の類だけになってしまいます。人間は宗教に、倫理道徳といった生ぬるいものを期待してきたのではありません。決して避けることができない“死”という宿命、どうしても乗り越えることができない死の壁への対処法を求めてきたのです。宗教とは“死”という人間の最大のテーマに立ち向かうための手段であり、最高の拠りどころだったのです。したがって原始宗教から伝統的な教理宗教、そして現代の新宗教・新新宗教に至るまで、そのいずれもが死を教義の中心テーマとしています。

キリスト教では、終末における再臨のイエスによって永遠の生命が与えられるという形で死の問題に対処してきました。仏教では輪廻再生と解脱(げだつ)という形で、他の多くの宗教では霊魂の不滅という形で死の問題に対処してきました。明確な死生観のない神道では、一部の神道家によって、生命の連続といった形で死の問題が論じられています。自分が死んだ後も血縁のつながりを通して生命は子孫に伝えられていくが、そうした生命の連続は、ちょうど遺伝子が子孫に受け継がれるように子孫の生命の中に、自分の生きていた証(生命)が伝えられ生き続けていくと言うのです。神道では、こうしたある種の観念論によって死の問題に対処しようとしています。

死という乗り越えることのできない壁、どのようにしても避けられない宿命に、人々は宗教を通して立ち向かってきました。死という物質次元の有限性を打ち破ろうとしてきました。人間が生命を受け地球上に存在する以上、死という宿命は避けられません。人類の誕生とともに常に宗教は存在してきましたが、それは人類の心の中に、永遠に対する切々たる願望があったからです。人類は“死”という有限の壁・宿命を乗り越え、無限の領域に参入する方法を宗教に求めてきたのです。その結果、宗教は人類の歴史を通じて、死と霊の問題を一手に引き受けることになったのです。

(3)もし死によって、すべてが消滅するなら?――“唯物主義”のもたらすもの

宗教は、人間は死によって消滅してしまうものではないと主張してきました。宗教は、死の彼方にも、自分という自我は存在し続けるとします。そうした考え方を前提にして、宗教は死の問題の解決を図ってきました。その意味で宗教は、“唯物論”と正反対の立場にあります。

ここで、もし死によってすべてがなくなってしまうとするなら、すなわち唯物論者の言うことが正しいとするなら、現実の世界はどのようになってしまうのかを考えてみることにしましょう。

あと半年しか生命がないとするなら……

癌(がん)の宣告を受け、余命あと半年ということがはっきりしたとき、普通の人はどのように考え、心の準備をするでしょうか。あるいは半年後に地球に隕石(いんせき)が衝突して、全人類が確実に滅んでしまうようになるとするなら、人々はどのような行動に出るでしょうか。

死によってすべてのものが消滅してしまうと考える人ならば、おそらくは真っ先に「できるだけ楽しいことをしよう。少しでも心地いいこと・嬉しいことをして過ごさなければ損だ」と思うようになるでしょう。そして血眼(ちまなこ)になって、そうしたものを求めるようになるに違いありません。お金を持っている人ならば、今までに食べたこともないような豪華な食事やとびきり贅沢な海外旅行・最高のブランド品、そしてありとあらゆる娯楽……というように手当たりしだいにお金を使うようになるでしょう。なかには法律を犯しても、やりたい放題に快楽を追い求める人間も現れるはずです。他人に迷惑がかかろうが、そんなことはお構いなしに自分自身の喜び・快楽を求めるようになります。

その結果、“自分さえよければそれでいい”という「利己主義(エゴイズム)」の嵐が社会全体を覆うことになるでしょう。

金権主義の蔓延と、物質中心主義・利己主義の支配

以上は極端なシュミレーションですが、死によってすべてが無に帰すと考える人々の中には、同様の傾向が見られます。物質的喜び・本能的喜びだけを最優先して求める傾向が見られます。こうした人々が大勢(たいせい)を占めるようになると、本能的快楽主義・刹那的快楽主義が社会全体を覆うようになり、“金権主義”が蔓延するようになります。“金こそすべて、万事金しだい”という考え方が大手を振るうようになります。

多くの現代人にとって価値のあるものとは、自分に本能的快楽と喜びを与えてくれる物と金に他なりません。力のある者とは、お金を持っている人間のことです。人々は自分の快楽を自由に求めることのできる金持を、心の中では軽蔑しながらも、その一方では羨ましがっています。

そうした“金権主義”は、必然的に「物質中心主義」と「利己主義」を生み出すようになります。そして社会全体・国家全体が、他人のことなどお構いなしに自分の物質欲を満たし、肉体的快楽を求めることが当たり前といった風潮で覆い尽くされることになります。死によってすべてが消滅するという“唯物主義”が事実であるとするなら、人間社会は間違いなく本能的快楽主義・金権主義・物質中心主義、そして利己主義という弱肉強食の世界をつくり出すことになります。現在の地球は、「物質主義」と「利己主義」に厚く覆われています。宇宙から地球を見ると、地球は青く美しい宝石のような惑星に映りますが、霊界から見ると、地球はまさにどす黒い暗黒の世界なのです。

“自殺願望”を、どのように押しとどめるのか?

もし死によってすべてが無に帰してしまうとするなら、自殺はそれほど悪い行為とは言えないのかもしれません。遺族に迷惑をかけ、心に傷を負わせるといったこと以外は、それほど大きな罪ではないようにも思えます。病気によって耐えがたいほどの肉体の苦しみを抱えていたり、生活苦や金銭苦のどん底で将来に対して何の希望も持てないようなときには、フッと“自殺”が脳裏をよぎるかもしれません。人はあまりの苦しみの中で、次のように思うかもしれません――「人間は皆、いずれ死んでいく。あと30年もすれば自分も友人も皆、死んでいるはずである。ひょっとしたら10年先には、自分はもう死んでいるかもしれない。遅かれ早かれ死ぬことになるのなら、今死んでも少しばかり後で死んでも大差はない。苦しいだけの人生なら、いっそのこと早く死んだ方がましだ……」と。

もし自分の身内が、こうした考えにとらわれるようになったとき、あなたはその人を、どのようにして思いとどまらせることができるでしょうか。死によってすべてがなくなるとするなら、自殺はそれほど間違ったことではないのかもしれません。人間は早晩、死ぬことは避けられません。そうした現実の前で、少々早く死ぬことを自分で選んだとしても、どのような理由でそれが“悪”とされるのでしょうか。誰がこのような考えを、押しとどめることができるのでしょうか。

忙しさの中で“死”を忘れようとしている現代人

現代人の多くが、意識的かどうか定かではありませんが、“死”という避けられない宿命を正面きって考えないようにしているようです。幸か不幸か、日常生活の忙しさの中で、死について考える暇(いとま)さえ持てないということかもしれません。そしてつかの間の物質的快楽・本能的快楽に身を任せて、毎日を過ごしています。しかしそうした人々も、いったん病気になると、たちまち死の深刻さが目の前に迫ってくるようになります。

現代ほど物質文明が進歩していなかった時代には、人々は今よりずっとゆったりとした生活を送り、静かな時間を持っていました。当時の人々は、死について否応なく考えざるをえない環境に置かれていましたが、それによって自分自身の心を深く見つめることができました。現代人は、もっともっと一人だけの静かな時間を持たなければなりません。人間性を取り戻すためには、そうした時間が不可欠なのです。死についてじっくりと考えることが必要なのです。

(4)説得力を失った伝統宗教

説得力を失った従来の宗教

宗教は本来、“唯物論”とは全く反対の立場にあります。宗教は、死によってすべてが終わるのではないと主張してきました。その主張を人々が納得して受け入れるとするなら、本能的快楽主義への歯止めがかけられることになります。物質だけに価値を置くようなことはなくなり、“自分だけよければ、それでいい”といった露骨な「利己主義」を、社会から駆逐することができるようになります。

現代人が死や死後の世界について考えるとき、真っ先に問題とするのは、これまで宗教で言われてきたような内容が本当であるのかどうか、事実であるのかどうかということです。話の内容が真実であると感じられるならば説得力を持つことになりますが、従来の宗教の教えでは、現代人の知性に十分な満足を与えることが難しくなっています。死後の世界の存在を事実であると信じさせることはできなくなっています。

従来の宗教の教え(死生観・死後観・霊魂観)では、科学時代に生きる人間の心をとらえることはできません。これまで宗教で教えてきたような死後の世界を、現代人はもはや受け入れることはできません。その結果、急速に伝統宗教離れが進むようになっています。

時代遅れの宗教から、新しい宗教へ

従来の宗教は、死の問題を現代人の知性に合った形で説明することができなくなっています。今のように科学が発達していなかった時代には、人々は宗教の教えをそのまま信じてきました。そのため宗教は、権威を維持することができたのです。しかし現代は、すでにそうした状況にはありません。人々は時代遅れとなった教えを唱え続けている宗教に見切りをつけ、自分の知性が納得できる道を探し求めるようになっています。

キリスト教は、観念的な死生観・死後観を説くだけです。さらには心霊現象のすべてを“サタンの仕業”と決めつけて、心霊現象についてまともに論じる力さえ持ち合わせていません。その結果、多くの人々がキリスト教から、新しい死生観・霊魂観を唱える“ニューエイジ”へと移っていくことになりました。

不可知論・唯物論の発生

死の問題・霊の問題に対する説得力を失った伝統宗教は、現代人の心をとらえることができず信頼を失いました。それが信者離れを引き起こし、新新宗教などの新しい宗教の力を大きくすることになりました。

一方、伝統宗教の衰退は、多くの不可知論者を生み出すことにもなりました。現代人はよく、「死んで生き返った人間などいないのだから、死後の世界のことなど本当は誰も分からない」と言います。「臨死体験といっても、実際に死んだわけではないのだから、それは本当の死後の世界とは言えない」と言う人もいます。こうした考え方は、いかにももっともなように思われます。宗教者の中からも同様な意見が述べられることがあります。

さらに伝統宗教の衰退は、より大きな問題を引き起こすことになりました。それがこれまで何度も述べてきた“唯物主義”の拡大です。

(5)スピリチュアリズムの登場

1848年、スピリチュアリズム運動が始まりました。そしてその後、スピリチュアリズムは瞬く間に、欧米諸国を巻き込んだ一大運動に発展していきました。そのスピリチュアリズムについては、このサイト全般を通して、さまざまな角度から説明していますので、正しく理解していただけるようになるものと思います。

ここでは、「スピリチュアリズムとは何か?」についての答えを簡単に述べることにします。スピリチュアリズムは、人類の共通テーマであり宗教が使命としてきた「死と霊に関する問題(死生観・死後観・霊魂観)」を現代において正面から取り上げ、それを現代人の知性が満足できるような形で示そうとする運動です。しかも、それを従来の宗教のような形式をとらずに人々に伝えようとする啓蒙運動なのです。以上をまとめると“スピリチュアリズム”とは――「宗教の形式をとらない新しい心霊啓蒙運動」ということになります。

スピリチュアリズムでは、従来の宗教が説得性を失った死生観・死後観・霊魂観を明確に解き明かし、宗教の衰退とともに現代人が失いかけている健全な宗教性を取り戻すことを1つの目的としています。

スピリチュアリズムとは

  • 宗教の形式をとらない新しい心霊啓蒙運動