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(1)スピリチュアリズムは徹底した実践主義・努力主義――スピリチュアリズムとは、霊的真理を日常生活で実践すること

霊的真理は実践の指針

どのような思想も、「理論」と「実践」の部分から成り立っています。スピリチュアリズムも同じで、霊的真理という純粋な理論と、それを日常生活に展開する実践内容から成り立っています。スピリチュアリズムの特徴の一つは、実践を徹底して重要視していることです。すなわちスピリチュアリズムは、徹底した「実践主義」であるということです。

スピリチュアリズムの霊的真理は、すべて実践のための指針として高級霊から与えられたものです。霊的真理は、実行に移されることを前提としています。したがって「実行のともなわないスピリチュアリズムは本物ではない」ということになります。実行のともなわない霊的真理は宝の持ち腐れと同じで、何の価値も持たないことになります。

残念なことに、現在すでにスピリチュアリズムに導かれている人々の中には、霊的真理を単なる霊的知識収集の対象・知的好奇心の対象としてのみ見ている人がいますが、それは間違っています。スピリチュアリズムは、単なる思想や哲学ではありません。また従来のキリスト教のような“ただ信じれば救われる”といった宗教でもありません。儀式や祈りだけで善しとされる宗教ではないのです。

“スピリチュアリズム”は、具体的な実践であり行為です。「霊的真理」にそった日常生活そのものであり、それをなすための奮闘努力の歩みなのです。実践のともなわないスピリチュアリズムは本物ではありません。

知識には責任がともなう

高級霊の霊訓では、「知識には責任がともなう」ことが繰り返し述べられています。霊的真理という一般の人々が知らない知識を手にしたことで、その人には他人にはない責任と義務が生じることになります。霊的真理にいち早く出会ったということは、それを真っ先に実行する義務が発生したということです。これが霊的真理を知ったことの意味なのです。

せっかく素晴らしい真理を知りながら、それを忠実に実践しなかったり、勝手な理由をこじつけて無視することは背任行為となります。高級霊が苦労して地上にもたらしてくれた霊的真理は、人間の身勝手な考えによって色づけせず、忠実に実行しようとしなければなりません。

霊的真理を他人に先駆けて知ったということは、地上人として最高の恩恵に浴したということです。しかし同時に、それは与えられた恩恵に見合った大きな責任と義務が背負わされたということなのです。

霊的真理の実践を通じて、霊的成長がなされる

スピリチュアリズムが実践の重要性を強調するのは、霊的真理の実践を通じて「霊的成長」がなされるようになっているからです。真理に対する学問的研究や心霊現象の研究によって人間が霊的に成長することができるなら、スピリチュアリズムがこれほどまでに実践の重要性を強調することはなかったでしょう。しかし「魂の成長」は、日常生活での真理の実践を通じてのみ達成されるようになっています。そのためスピリチュアリズムでは、実際の行為の大切さを繰り返し主張しているのです。

霊界にいる霊が、わざわざ地獄のような地上世界に再生するのは、物質世界で現実に物事を体験し、霊的真理にそった実践の努力によって自らの霊的成長をなすためです。霊界ではできない地上世界ならではの体験と実践を求めて、敢えて再生という困難な道を選ぶのです。

具体的な実践内容とは?

では、その霊的真理の実践とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。日常生活における実践内容とは、何なのでしょうか。霊的真理の実践内容は、以下に述べる4つの行為にまとめることができます。

1つ目の実践内容(行為)とは――「霊主肉従の努力」です。生活のすべてを霊優位の状態にするということです。すなわち日々の生活の中で霊的コントロールをして、霊的存在としての最低ラインである物欲や本能に流されないような生き方をするということです。肉体を持った地上人は、無意識のうちに物欲に動かされ本能的快楽を求めるようになるため、高い世界を目指すには内面の厳しい闘いが必要となります。ある種のストイックな闘いが要求されるのです。霊的真理を手にした者は、まず自分自身の存在と生活のすべてを霊中心にするための内面的闘いが避けられなくなります。これが第一番目の実践内容です。

2つ目の実践内容とは――「利他的行為、すなわち無償のサービス」です。他人のために自分自身を役立てるということです。魂は、そうした利他的行為によって成長するように造られているのです。スピリチュアリズムでは、宗教とは利他愛の実践のことに他ならないと説いています。日常生活における利他的行為・利他愛の実践こそが、人間がなし得る最も価値ある生き方であり、宗教そのものであるとしています。

利他愛の実践(無償のサービス)の素晴らしさは、「神の子供(隣人)に尽くすことによって、神を愛することになる」というところにあります。他人への利他的奉仕は、自動的に神を愛する行為になるのです。したがって“宗教”とは、「人間を利他愛で愛し、同時に霊的な親である神を愛する生き方」と定義することができます。利他的行為が、二番目の実践内容となります。

3つ目の実践内容とは――「霊的真理の伝道」です。霊的真理を一人でも多くの人に伝えるということです。霊的宝を自分だけのものにとどめずに、できるだけ多くの人々に分け与えることです。それは今述べた“利他愛”の中でも最も純粋な行為と言えます。霊的真理を伝えるということは、真の救いの道、霊界にまで通じる永遠的な救いの道を人々に示すことになるからです。他人への奉仕という点で、何よりも価値ある行為となります。

霊的真理の伝道は、先にスピリチュアリズムと出会った者でなければできない最高の奉仕活動です。霊界の人々は純粋な利他愛から、地上人に霊的真理をもたらそうと働きかけてきました。その結果、私達は真っ先に大きな恩恵を手にすることができました。こうした意味でスピリチュアリストは、最も幸運な地上人と言えます。霊界の人々の純粋で献身的な愛に報いるために、今度は私達が、それを他人に伝えていかなければなりません。高級霊の願いは、地上人が一刻も早く真理を知って、霊的救いを得てほしいということです。霊的真理の伝道は、その願いに応えることであり、最高の利他愛の実践になるのです。

4つ目の実践内容とは――「地上人生の中で遭遇する苦しみ・困難に対して、それをカルマが消滅して霊的成長の道が促される、ありがたいチャンスとして受け入れる」ということです。地上の苦難の多くは、自らがつくったカルマによって引き起こされています。「因果の法則」によって、カルマを清算する道が“苦しみ”となってもたらされるのです。そうした苦しみは霊的成長にプラスとなる、ありがたいものと言えます。

したがって苦しみに遭遇したときには、ただただ苦しみから逃れようとするのではなく、それを自分にとって必要なものとして堂々と受け止めることが大切です。こうした姿勢は、霊的真理を知った者でなければとることはできません。霊的成長のためには、真理を拠りどころに苦しみに正しく対処することが不可欠なのです。

スピリチュアリズムの霊的真理を手にした者に要求される基本的な実践内容とは、以上のような4点に整理されます。「霊主肉従の努力(霊的自己コントロール)」「利他愛の実践」「霊的真理の伝道」「苦しみ・困難への正しい対処」――これが日常生活・地上人生における実践内容です。

生半可な心がまえではできない霊的真理の実践

こうした4つの内容を実行していくことによって、私達は「霊的成長」の道を歩むことができるようになります。“スピリチュアリズム”は、地上人にとって最高の実践哲学であり、最高の救いの道なのです。

さて問題は、霊的真理を日常生活で実行に移すことですが、それが非常に難しいということなのです。いかにも簡単に思える内容が、いざ実践に踏み出してみると、実はとても高い目標であることに気がつくようになります。

霊的真理の実践が難しいのは、私達が肉体を持っているからです。肉体という分厚い壁が、私達を物質の中に閉じ込め、実践を妨げることになるのです。4つの内容を本気で実行しようとすると、その厳しさにすぐに直面するようになります。簡単に思えた内容が、あまりにも高い理想であることを実感するようになります。そして、なかなか実行できない自分に自信を失ったり、絶望したり、疲れ果ててしまうことになるかもしれません。やがて自分ひとりの力では、とても実行できそうにないと思うようになります。実はこうした葛藤が、これまでの修道者・宗教家が体験してきた内面の苦しみの実態だったのです。

“奮闘努力”が不可欠

何事においても高い目標を達成しようとするならば、たいへんな努力が要求されます。それと同じでスピリチュアリズムでも――「努力なくしては本物の霊的宝(霊的成長)は得られない」と繰り返し教えています。安易で気ままな生活、自己満足に浸って奮闘努力の必要もないような怠惰な生活からは、霊的進歩は望めません。真に価値あるものを手にすることはできません。

地上人にとって最も嫌なこと、できるならば避けたいことを、スピリチュアリズムは私達に要求します。高い目標に向けての努力こそが、魂を成長させることになるからです。そして、それが神の摂理・神の法則に合った生き方であるからです。スピリチュアリズムは結果よりも、高い目標に向けて努力する姿勢を問題にします。すなわち「動機の純粋さ」を重視します。地上の人間は一人の例外もなく“奮闘努力”の中で、自分の性格と精神と霊性(心)を鍛えるために地上界に誕生したのです。

真っ先に「霊的真理」を手にした人間に要求されることは、高い理想に向けて最善の努力をすることです。あまりの厳しい現実を前にして、ついつい人間レベルの言い訳をしたり、自分なりの理屈をつけて逃れようとしがちですが、そこが自分自身に厳しくするところです。霊的真理を忠実に実行するとは、そういうことなのです。できないと分かっていても理想に向かってチャレンジするところに価値があるのです。そして、その分だけ「霊的成長」がもたらされるようになります。

霊的真理に対する、さまざまな姿勢

スピリチュアリズムは、シンプルであるけれども「高い目標」と、そこに至るための「厳しい実践内容」を私達に要求します。それに対し地上の人間は、さまざまな反応を示すようになります。ある人は、高い目標に至るためにはどれほど厳しくとも挑戦し続けようと決意します。どのような苦労や失敗を繰り返しても、大きな喜び・幸せを手にするために頑張ろうと思います。

一方、スピリチュアリズムが示すあまりの理想の高さに尻込みし、自分が簡単にできる程度のことでよしにしようとする人もいます。挑戦を諦め、初めから妥協点を求める人です。また高い目標・理想に向けての努力など、とても自分にはできるはずがないと決めつけ、さりとてスピリチュアリズムを捨て去ることもできず、真理を都合よく解釈して自分の態度を正当化しようとする人もいます。

さらには自分が実行できそうなところだけを取り上げ、できそうもないところ、耳に痛い部分には蓋をして無視するような人もいます。なかにはスピリチュアリズムとは出会わなかったことにして、別の手頃な道を探そうとしたり、これまで通りのことをするだけでよしにしようとする人もいます。気楽な他の宗教やニューエイジに行くことで、自分の弱さを正当化しようとするかもしれません。

また真理を実践できない自分に負い目を感じたり、スピリチュアリズムを逆恨みして、スピリチュアリズムそのものを否定しようとする人もいます。スピリチュアリズムの真理の一部を都合よく取り入れ、適当に自分流にアレンジして、この世の名声と富を得ようと画策する人間もいます。スピリチュアリズムを単なる学問・知識としてのみとらえ、それを実行に移すことなど全く考えない人もいます。

このように同じ「霊的真理」に出会いながらも、それに対する反応・態度は千差万別となります。

地上は失敗から学び成長する所

霊的真理の実践についてのもう一つの重要な点は――「地上世界は失敗から学び成長する所である」ということです。地上世界は霊界へ行く準備をする所であり、訓練場です。さまざまな失敗から学び、その失敗を糧として成長する所として造られています。全く失敗をしない人ならば、地球上に生まれる必要はありませんでした。

したがって私達は失敗を恐れずに、自分の良心に照らして善かれと思うこと、人のためになると確信することを積極的に実行すべきです。失敗を恐れて何もしないのは間違った生き方です。何もしないということは、「何も善いことをしない」という利己的な生き方なのです。霊的成長の道を、自ら放棄する愚かな歩みなのです。

(2)スピリチュアリズムは完璧な自己責任主義・自力救済主義

完全な無干渉主義

霊界の人々は、時のきた地上人を霊的真理に導くために必死の努力をしています。地上人は、何気なく、あるいは偶然にスピリチュアリズムと出会ったと思っていますが、実はその背景には霊界からの強力な導きがあったのです。

さて、そうして地上人は霊的真理と出合うことになりますが、その後のことは、すべて地上人自身の意志に委ねられることになります。自分の責任で、その後の人生を選択していかなければなりません。すなわち「霊的真理」によって示された最高の目標・正しい方向に向けて歩み出そうとするのか、あるいは手にした真理を無視してこれまで通りの生活を続けるのかを、自ら決めなければならないということです。

このようにスピリチュアリズムは、高い目標・真の救いに至る道を示す一方で、それをどのように活用するかについては本人の意志に任せます。霊界サイドからは、地上人が救いに至る高い方向性は示しますが、それを実践に移すかどうかについては直接的な干渉は一切しません。スピリチュアリズムは、この世の宗教組織や会社などのように一方的に命令したり、強制的にノルマを課すようなことはありません。示された目標に向かって努力し、霊的宝を得るかどうかは、すべて本人の自由意志に委ねられます。スピリチュアリズムは――その意味で全くの「無干渉主義・自由放任主義」なのです。

完璧な自己責任主義

それは同時に、自らの選択した行為の結果については、自分自身ですべて責任を負わなければならないということを意味します。せっかく最高の救いの道が示されたにもかかわらず、邪な思いや利己的な思いからそれを無視するならば「神の摂理」によっていつかは、その間違いに対する償いをしなければならなくなります。後悔と苦しみの時が必ず訪れるようになります。

スピリチュアリズムは――「魂の成長に関するすべての責任は自分自身で負う」という、きわめて厳しい「自己責任主義」に立っています。

自力救済主義

スピリチュアリズムの厳格な「自己責任主義」は、救いの問題にそのまま反映されます。スピリチュアリズムの霊的真理は「最高の救い」に至る道を示しますが、それを実行して救いを手にするかどうかは、本人次第であるということになります。すなわち「自己の救いは、すべて自分自身でなす」ということなのです。

神が、苦しむ人間に同情して救ってくれるようなことはありません。霊界から高級霊が手を差し伸べて救ってくれるようなこともありません。心優しい地上人や威厳を持った教祖が、自分の罪を許し引き上げ救ってくれるというようなこともありません。自分で自分を救うしかないのです。目の前に示されたチャンスを生かして救いにあずかるかどうかは、最終的には本人が決めることなのです。

この意味でスピリチュアリズムは――きわめて徹底した「自力救済主義」ということになります。神や霊、他人による“他力救済”は間違いです。キリスト教の贖罪思想も全くの間違いです。安易な救いの道は現実には存在しないのです。

最後は、すべて一人一人の問題

スピリチュアリズムは、神や他人が自分を救ってくれるという“他力救済”の考えを否定します。「自分で自分を救う」という“自力救済”の道以外は存在しません。霊的成長に関しては、自分で責任を負わなければなりません。霊的成長はすべて自分の責任であり、それを他人のせいにすることはできないのです。同時に他人の霊的成長に対しては、誰も責任を負うことはありません。このように「霊的成長」とは、最終的には、すべて一人一人の問題となります。スピリチュアリズムは地球人類救済のための霊界を挙げての大プロジェクトですが、その進展は地上人それぞれの努力を通じてなされていくものなのです。

こうした完全な「自己責任主義・自力救済主義」という点で、スピリチュアリズムは他の宗教と一線を画しています。その厳しさにおいて、スピリチュアリズムは群を抜いています。

(3)スピリチュアリズムは徹底した内面主義的信仰

スピリチュアリズムは、深くて敬虔な神への信仰

スピリチュアリズムは、霊界において常識となっている「神と神の摂理への崇拝」という宗教を地上にもたらそうとするプロジェクトです。霊界にいる億万の高級霊達は皆、神への絶対的な信仰を持っています。私達地上人の感覚からするならば、霊界人は残らず敬虔な信仰者ばかりなのです。シルバーバーチは毎回の交霊会を、祈りで始め、祈りで終えています。そして私達に対して、祈ることの重要性を繰り返し述べています。霊界には、地上世界のような無神論者は存在しません。

スピリチュアリズムが信仰であると言うと、あまりよい感じがしないという人がいるかもしれません。信仰という言葉に、従来の宗教の偏狭で狂信じみた様子を思い浮かべるからです。しかしスピリチュアリズムが、人生と生命を懸けた信仰であることは間違いありません。“信仰”とは、神などの信仰対象を絶対的に信じ、これにすべてを捧げる生き方・絶対帰依する生き方です。神を全面的に信頼し、神に人生のすべてを捧げ尽くすという生き方です。

信仰のために殉教していったクリスチャン達、毎日何度も聖地に向かって祈りを捧げるイスラム教徒は代表的な地上の信仰者と言えますが、スピリチュアリストもそれと同様に熱心な信仰者なのです。“スピリチュアリスト”は、神に一歩でも近づくことを目標とする信仰者なのです。

神と良心の声に忠実であろうとする生き方――内面主義・内省主義的な生き方

真に信仰的な人は、神の前に徹底して自分の内面と行為を正そうとします。敬虔な信仰者とは、こうした内省的な人のことです。他人の目や評価を気にせず、ひたすら神の前に正しくありたいと願い、神と自分の良心の声に忠実に従おうとします。そして日常生活において、真理の遵守を心がけます。

スピリチュアリストは、常に自分自身に厳しく、純粋で内省的な信仰を求める「内面主義者・内省主義者」なのです。

すべてを見通す高級霊の前に……

さらにスピリチュアリズムには、深い内面主義・内省主義にならざるをえない特殊な理由があります。それはスピリチュアリズムの「霊的真理」によって、霊界人の目を意識するようになるからです。霊界の霊達が、私達地上人の行為をすぐ近くで見ていることを実感させられるからです。

霊界人は、地上人の心の内を残らず見通し、心の動機と目的を見抜いています。そしてその動機の純粋さに応じて、霊界から援助や指導・働きかけをするようになります。霊界人は、地上人の心の底に巣くい隠されている利己心やエゴの思い・虚栄心・傲慢さのすべてを知っています。霊の前には嘘や隠し事は一切通用しません。真理の理解が深まるにつれて、こうした事実がはっきりと分かるようになります。

神はもちろんのこと、霊界の人々の前にすべてが知られているということが実感できるようになると、人はおのずと自分の考え方や行為を正しいものにしようと努めるようになります。霊的真理にそったものにしようと心がけるようになります。霊界との関係が密接になればなるほど、より内面的・内省的にならざるをえなくなるのです。

死後、霊界では、地上時代の不正のすべてが明るみに出る

スピリチュアリズムが地上人を内面主義・内省主義に仕向ける、もう一つの理由があります。それが“死後の審判”についての内容です。この霊界の事実が分かるようになると、人目に隠れて不正を行うということができなくなります。死後の霊界では、地上時代のすべての言動が白日の下にさらけ出され、自ら直視させられることになるからです。

そこでは地上時代の不正や悪事のすべてが周りの人々に知られ、言い逃れできないような状況に立たされることになります。こうした形で霊界入りの直後、地上人生の細部にわたる反省が促されることになります。これが“死後の審判”と言われてきたものの実際です。人間は死後、このようなプロセスを通じて地上時代の隠し事や不純な動機から出た自らの不正を突きつけられ、「自分で自分を裁く」ことになるのです。

以上のような事実がスピリチュアリズムによって明らかにされているために、地上で人を騙したり、外面だけを取り繕うことの愚かしさが実感できるようになります。利己的に生きること、私利私欲に走ることが決して得をする在り方ではなく、それどころかたいへんなマイナスの結果をもたらすことが強烈な実感をともなって迫ってくるようになります。「正直に人生を歩む」――それが最も賢明な生き方であることが強く自覚できるようになるのです。

こうした理由から、スピリチュアリズムを通じて「深い内省主義」が、一人一人の心の内にしっかりと根付くようになります。

(4)霊的視野の重要性と、霊的楽天主義――スピリチュアリズムは霊的視野から地上世界を眺める

霊的視野で地上人生を見る

大半の地上人は、肉体を持つことによって霊的意識を失い、物質的な意識に支配されるようになります。そして、それが不必要な心配や不安をつくり出すことになっています。

スピリチュアリズムによる霊的真理は、地上世界にいる人間に、霊界人と同じような霊的考え方と霊的判断の仕方を教えています。これが「霊的視野から地上世界を見る」ということであり、先に述べた霊優位主義・霊中心主義の実践的応用となっています。霊界までを包括した「霊的視野」という広い視点に立って地上人生を眺めるようになると、地上でのさまざまな問題は、実に取るに足りない小さなものになってしまいます。一般の人々にとって悲劇や不幸と思われている問題が、それほど深刻なものではなくなってしまいます。

霊的楽天主義

霊的視野を持つことによって、最高のポジティブシンキング・霊的楽天主義が可能となります。いったん「霊的楽天主義」が身につくと、とかく人間が陥りがちな取り越し苦労や不必要な恐れ・悩みから解放されるようになります。すべての出来事を、自分の霊的成長にとって善いものと受け止められるようになります。

地上人生において遭遇するあらゆる出来事は、自分の霊的成長にとってふさわしいものであり、ベストの道が展開していくのだと考え、悠然と人生に臨むことができるようになるのです。

“死”は喜びであり、祝福すべき出来事

人間は霊的視野を持つことで、楽天的な考え方ができるようになります。さまざまな出来事に対して、受け止め方が根本から変わるようになります。その代表的なものが、自分の死の問題であり、愛する人との死別の問題です。

スピリチュアリズムに限らず宗教の多くは、死後の生命の存続を説いています。そして“死は悲劇ではない”と説明していますが、死後の生命に対する確信が乏しいために、いざ自分に死が迫ってくると不安に駆られるようになります。また身内との死別に遭遇すると平静さを失って嘆き悲しむことになります。

大半の地上人にとって、愛する人との死別は最大の不幸であり悲劇です。しかしスピリチュアリズムでは“死”は、重苦しい肉体から解放され、地上とは比較にならない素晴らしい世界に旅立つ喜ばしい出来事であるとします。死は単なる自然現象の一つにすぎず、死によってそれまでの愛情関係がなくなってしまうわけではありません。真の愛情で結ばれた者同士の関係は、いっそう密接になります。したがって身近な人間との死別は、「愛する人が物質や肉体の束縛から解放されて幸せになる祝福すべき時」と考えればよいのです。

スピリチュアリズムのように、自分の死を喜び、愛する人との死別を新しい人生の門出として祝福するといったことは、他の宗教では想像もつきません。こうした点においてもスピリチュアリズムは、この世の宗教とは根本的に違っています。他のすべての宗教を超越しています。

苦しみ・困難はありがたいもの

霊的視野によってもたらされる「霊的楽天主義」のもう一つの実例は、苦しみ・困難への対処の仕方です。死別の問題と同様に、地上人が不幸と考えがちなのが苦しみ・困難についてです。それに対してスピリチュアリズムは、この世の宗教や一般の人々とは正反対の見方をします。

これまで人類は、地上人生の苦しみ・困難を不幸とのみとらえ、それが取り除かれることが救いであると考えてきました。何とか苦しみを避けようとして躍起になってきました。そして多くの人々が“救いの道”を宗教に求めてきました。神の力や奇跡にすがって苦しみを取り除き、不幸をなくそうとしてきたのです。

しかしスピリチュアリズムは、そうした従来の宗教とは全く反対の考え方をします。苦難は、その人間の霊的成長を妨げてきた「カルマ」を清算するための必要なプロセスであり、人間の魂と精神を鍛えて「霊的成長」を促すことになる、ありがたいものと見なすのです。スピリチュアリズムでは、地上世界は霊界での生活に備えて魂を訓練する場所であり、しかもそこに住むのはほんの一時のことである以上、苦しみの体験をむしろ歓迎するのです。

地上での苦労が、霊界という永遠の世界での幸せを約束するものであるとするなら、その苦しみ・困難は貴重なものと言えます。苦しみの体験によって得られる霊界での喜びに比べたなら、地上での苦しみなど取るに足りないものだからです。したがってスピリチュアリズムでは、神にすがって苦しみを取り除いてもらおうとするのではなく、苦しみ・困難に堂々と立ち向かい乗り越えることを教えるのです。

スピリチュアリズムのように、苦難の体験を積極的に善いものと考え、楽天主義的な見方をする宗教は他にはありません。スピリチュアリズムは、霊界の高くて広い視点から地上世界を眺めるために、地上の宗教とは全く違った楽天的なとらえ方をすることができるのです。

(5)霊界の霊たちとの密接な関係

霊界の大軍団の一員である“スピリチュアリスト”

物質主義と利己主義に覆われた地上世界で“スピリチュアリズム”という人類救済の大義のために人生を捧げようとする人間は、霊界の霊達にとっては、まさに同志であり同じ大軍団の一員です。スピリチュアリズムのために献身的に働いている霊界の霊達は、常にそうした地上人を求めています。

シルバーバーチは、スピリチュアリズムのために献身的に携わっている霊界人の気持を次のように述べています――「こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ち受けている霊がいくらでもいるのです。私達の方から皆さんを待ち望んでいるのです。皆さんが私達を待ち望んでいるのではありません。」『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.115)「大勢の霊がこれまでずっとあなたを鼓舞し、保護し、導き、目にこそ見えなくても現実的影響力を行使してきたのです。喜びをともに喜び、悲しみをともに悲しんできました。まさしく笑いも涙も分け合ってきたのです。そうした霊とあなたとは文字どおり一体であり、決して見捨ててはおきません。」『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.71)

このような状況において、もし地上人がスピリチュアリズムのために人生を捧げ、霊界の人々と一緒に働こうと決心するならば、霊界人は放っておくはずがありません。一人の地上人に、霊が大挙して押し寄せるようなことになります。そして、その地上人を道具として最大限に用いてスピリチュアリズムを推し進めようとします。こうして地上のスピリチュアリストは、霊界の大軍団の一員として働くことになります。「霊界の道具」となったスピリチュアリストは、見た目には一人の人間であっても多くの霊達の力が結集されるため、何百・何千人分もの働きができるようになります。

地上には、このような形で霊界人とタイアップし、霊界からの協力と導きを受けられる宗教や宗教者はいません。唯一、スピリチュアリズムにおいてのみ可能となるのです。それはスピリチュアリストが、霊界を挙げての大プロジェクトの実情と目的を知っているからです。スピリチュアリズムは地上の宗教の中で、最も霊界人と密接な関係にあります。「霊界の霊達との密接度の違い」――これが他の宗教と比べたときのスピリチュアリズムの際立った特徴の一つなのです。

道具意識の素晴らしさ

霊界側の絶大な期待と願いの中で、地上人が自らを「霊界の道具」として提供するとき、霊界人と地上人の関係は最も強化され密接度も高まります。普通ではあり得ないような霊界からの影響力が、一人の地上人に向けて注がれることになります。スピリチュアリズムは、こうした霊界人と地上人の霊的な結びつきと協力関係を通して、地球上に「霊的真理」を普及拡大させていくことになります。

スピリチュアリズム運動の主役・主導役は、霊界の億万の高級霊達ですが、彼らは地上人を道具として用いる中で、その影響力を行使していくのです。スピリチュアリストがいなければ、霊界の霊達も力を発揮することはできません。“スピリチュアリスト”という「地上の道具」があってこそのスピリチュアリズムなのです。その意味でスピリチュアリストは、霊界人にとってきわめて重要な存在です。

このようにスピリチュアリストとは、真っ先に霊的真理を受け入れた地上人ということだけではありません。霊界の霊達の地上の道具として、ともにスピリチュアリズムを進めていく使命を担っています。したがってスピリチュアリストには、自ら志願して霊界の道具となることが求められているのです。それを通じてスピリチュアリストは、地上人として最高の人類への貢献ができるようになります。何も自分の力に頼って、がむしゃらに働こうとする必要はありません。リラックスして、自らをより良い道具、霊達が使いやすい道具とするように専念すればよいのです。それによって最高の利他愛の実践・最高の人類愛の実践が可能となるのです。

霊界の良き道具となって多くの霊達の協力を得られるようになれば、自分一人でなす何百・何千倍もの人類への奉仕が可能となります。しかも淡々と歩む中で、それが実現していくのです。とかく世間の人々は、自分には能力がないから大きな仕事はできないと言いますが、自分を霊界の道具として捧げるならば、確実に大きな仕事が達成できるようになります。今地球上には、スピリチュアリズムほど霊界の人々との一体関係・協力関係をつくり上げることのできる宗教は他にありません。

さて、ここで問題となるのは「どのようにしたら霊界の良き道具となれるのか?」ということです。霊界の道具となるためには、何よりも霊の側が魅力を感じるような、喜んで働きかけたいと思えるような内容を地上人が備えていなければなりません。厳しい内面性が要求されます。その内容とは――「スピリチュアリズムの歴史的使命を正しく理解し、そのために高級霊が一丸となって働きかけている事実を知っている」「自らの我欲を捨て去り、ひたすら人類全体の救いのために働きたいとの純粋な奉仕精神と利他愛を持っている」「人類の幸福のために自分を最大限に役立てたいと願い、そのために喜んで犠牲を引き受ける覚悟を持っている」ことです。

こうした奉仕精神と犠牲精神があるならば、霊達は喜んでその人間を道具として用いようとします。霊界の道具としての内面的資質が高まれば高まるほど、いっそう多くの霊の援助を引き出し、スピリチュアリズムと人類全体への貢献の可能性が拡大していくことになります。口先でいくら奇麗事を並べても、霊は地上人の心の内をすべて見通しています。「奉仕精神と犠牲精神のともなった純粋な道具意識」――スピリチュアリストには、常にこうした内容が期待されているのです。

道具意識の素晴らしさは、自分の力を超えた人類への奉仕・利他愛の実践が可能になるということだけではありません。道具意識は、私達の心を徹底して謙虚にしてくれます。“謙虚さ”は、霊的成長にとって不可欠な要素です。世の中の大半の人々は自我を大切にし自己主張に走りますが、それが結局、本人の心にエゴと利己心を増幅させることになっています。道具意識は謙虚さをもたらし、心から醜い利己性や低俗な自己主張を取り除いてくれます。そして霊的成長をスムーズに促してくれます。「純粋な道具意識」は、地上人に大きな霊的恩恵をもたらしてくれるのです。

地上からの守護霊への接近

スピリチュアリズムは、霊界人と地上人が、想像以上に密接な関係にあることを明らかにしています。こうした事実は、スピリチュアリズムによって初めて知らされました。さらにスピリチュアリズムは、一人の地上人と一人の守護霊の間に、さらに密接な霊的関係があることを明らかにしています。

地上人の誰もが、地上に生まれてから死ぬまで、一人の守護霊によってずっと守り導かれています。今この時も、守護霊は私達に密着し、霊的成長のために働きかけています。そしてこれからも、私達が地上人生を終えるまで、その関係は絶えることなく続くことになります。守護霊は、私達の性格・気質・霊的な背景、さらには今後の人生行路から寿命に至るまで、ありとあらゆることを知り尽くしています。またこれまでの地上人生における隠れた行為についても、その一部始終を知っています。そのうえで守護霊は、私達の魂の成長にとって最も適切な導きをしてくれるのです。まさに守護霊は、地上人にとっての「生涯の個人教師・専属の霊的家庭教師」なのです。

一方、守護霊は教師として私達の霊的指導に係わっているだけではなく、神の代理者として、私達地上人を「神の愛(純粋な利他愛)」で愛してくれています。その愛は、地上の肉親の献身的な愛よりも深くて広いものです。自分のすべてを与え尽くし、一切の見返りを期待しない純粋な利他愛なのです。これまでの人生で、私達を最も深く愛してくれたのは肉親ではなく、実はこの守護霊だったのです。

誰もがそうした守護霊の愛と導きを得て地上人生を送っていますが、その最大の援助者の存在に気づいている人はほとんどいません。大半の地上人が、最も身近で親しい関係にある守護霊について知らないまま「自分は誰にも理解されず、愛されることもなく独りぼっちである」と錯覚しています。しかし本当は、独りぼっちで孤独な地上人などどこにもいません。私達のすぐ傍に守護霊がいて、真実の愛で包んでくれている事実を知ることができるなら、その瞬間に孤独感や疎外感は消し飛んでしまいます。

スピリチュアリズムは、こうした地上人と守護霊との密接な関係を繰り返し強調しています。地上人が守護霊の現実の姿を知ってその愛に感謝し、自ら接近を図るとき、守護霊からの働きかけと導きはずっと強力になります。地上人と守護霊を結ぶ霊的パイプは、さらに太くて強いものになります。その結果、地上人は霊界からの影響力とエネルギーをストレートに受けられるようになるのです。

このようにスピリチュアリズムは、地上人が守護霊に近づく努力をする必要性を訴えていますが、祈りや瞑想は、地上人と守護霊の霊的絆を強化するうえで大きな意味を持っています。地上人と霊界人の関係を強化するために“祈り”は、とても大切なものなのです。

地上の宗教の中で、スピリチュアリズムほど守護霊の実態を明らかにし、地上サイドから守護霊に接近を図ろうとするものはありません。ここに他の宗教にはないスピリチュアリズムの特徴があります。

(6)祈りの大切さ

祈りを重要視するスピリチュアリズム

今、地上人と守護霊の霊的関係を強化するうえで“祈り”が大きな役割を果たすことを述べました。いずれの宗教においても、祈りは当たり前のものとして行われています。宗教や信仰に祈りはつきものです。スピリチュアリズムは、祈りの重要性を繰り返し強調しています。それは祈りが、多くの霊的恩恵を地上人にもたらすからです。祈りは地上人が考える以上に、霊的影響力が大きいものなのです。

的外れな祈り――奇跡や特別な配慮を願う祈りは聞き届けられない

多くの人々は苦しみ・困難に遭遇すると、神に祈り、不幸を取り除いてもらおうとします。これまで地上人類は“祈り”とは、神に願い出て、その超越的な力をもって奇跡を起こし障害や不幸を取り除いてもらったり、特別な配慮をしてもらうことであると考えてきました。人間が必死に願い出れば、神はその祈りを聞き届け敵から自分達を守ってくれる、時には自分達に代わって敵を打ち滅ぼしてくれるものと思ってきました。しかし人類が地上に誕生して以来、そうした祈りが聞き届けられた例は一度もありません。そして今後も、一切そうした奇跡は起こりません。

なぜなら地上人類が遭遇する苦難や障害は、「神の法則(因果律)」の支配のもとで引き起こされているからです。人類が体験するあらゆる出来事は、すべて神の摂理に基づいて発生します。神が宇宙や万物を支配するためにこしらえた法則は、人間の願いや希望とは係わりなく、機械的に運行されるようになっています。したがって地上人が摂理によって発生した苦難や障害を神に祈って回避しようとしても、それはできません。もし神が、個人の願いを聞いて摂理に特例を設けるならば、神の造った宇宙そのものが根底から崩れ去ることになります。

多くの日本人は神仏に、家内安全・無病息災・商売繁盛を祈ります。しかしこうした常識的な願い事も、結果的には一切聞き届けられることはありません。大半の地上人の祈りは物質的利益を求めるものになっていますが、そのようなご利益を願う祈りは、決して聞き入れられることはないのです。

地上人が祈りを通して神に願い出る内容の多くは、的外れなものばかりです。こうした状況は個人レベルだけでなく、宗教レベルの祈りにもそのまま当てはまります。これまでの宗教における祈りのほとんどが、摂理に反した内容となっています。真理からずれたことを平気で祈ってきました。そのような祈りは、たとえ必死であったとしても無駄となります。摂理から外れた祈りは、地上人のエゴや物質欲を引き出し、霊的成長にマイナスをもたらすことになります。霊界人から見たとき、これまで地上人がしてきたような祈りは“しない方がましであった”ということなのです。

祈りは何のためにするのか? 祈りの効用とは何なのか?

ではスピリチュアリズムは、なぜ祈りの重要性を訴えているのでしょうか。祈りには、どのような効用があると考えているのでしょうか。結論を言えば、祈りには2つの効用・目的があります。

1つ目の祈りの効用とは――祈りによって「霊的成長が促される」ということです。祈りが霊的成長を促し、霊的成長にプラスになるというのは、次のような理由からです。祈りや瞑想は、地上人を支配している肉的意識・物質的意識を一時的に中断させ、霊的意識を取り戻させます。日常の喧騒から身を引いて一人になり目を閉じると、自動的に物質世界の感覚が遮断され、霊的世界に意識が向くようになります。それまで「肉主霊従(物質的意識中心)」であった心が「霊主肉従(霊的意識中心)」になり、心は本来の状態を取り戻し息抜きができるようになります。そうなると霊的エネルギーを取り入れられるようになり、それにつれて霊中心性が高まり、霊界の高次の波動に魂を合わせることができるようになります。高級霊からのインスピレーションを受けやすくなるのです。

祈りの実践を続けることによって、地上人は肉体を持ちながらも短時間に高い心境に至ることができるようになり、日常生活における霊的コントロールが容易になります。霊的エネルギーを必要に応じて取り入れられるようになり、利他愛実践の意欲を常に保てるようになるのです。これが1つ目の祈りの効用であり目的です。

2つ目の祈りの効用とは――「背後の霊との一体化が促され、より多くの利他愛実践のチャンスが与えられるようになる」ということです。祈りによって霊界の霊との関係が密接になり、たくさんのエネルギーと導き・援助が得られるようになります。その結果、霊の道具としてさらなる貢献の場が与えられ、大きな働きができるようになります。

正しい祈りとは?

正しい祈りを通して、こうした素晴らしい霊的効用がもたらされます。ではその正しい祈りとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。祈りが正しいものとなるためには、次の2つの条件を満たす必要があります。

1つ目の条件とは――「祈りが正しい対象に向けてのものである」ということです。すなわち正しい祈りとは、大霊である“神”に向けての語りかけ・働きかけです。祈りの対象は、唯一の神、大霊の他にはありません。それ以外のもの、例えばイエスや宗教の教祖、背後霊や天使・神々といったものに向けての祈りは間違っています。この意味で神道などの多神教における祈りは間違いであり、ひいてはその信仰自体が的外れの行為ということになります。

2つ目の条件とは――「祈りの内容が正しい」ということです。言い換えれば、神に向けての祈りの言葉が、摂理と真理に合致したものになっているということです。人間の身勝手な願い事、摂理を無視した一方的な願い事は、本当の祈りではありません。

こうした2つの条件を満たしたとき、祈りは正しい霊的行為となります。祈りは、霊的親である大霊(神)に少しでも近づきたいという魂の切望に他なりません。魂の深みから湧き上がる、霊的成長を求める純粋な霊的渇望です。真実の祈りとは、それ自体が利己性を全く含まない「純粋な霊的活動・魂の表現活動」なのです。

何を祈ったらよいのか?

摂理から外れた祈りは、間違った祈りです。その意味で霊的真理を知らない人の祈りは、真剣であっても本当の祈りではないということになります。神は地上人が祈る前から、本人にとって何が必要なのかをすべてご存知です。心の内もすべて見通しています。その神に向かって私達は、一体何を祈ったらよいのでしょうか。

まず、祈ってはならないことを知っておかなければなりません。これは祈りの最低限のマナーということになりますこれまで人類は、この最低限のマナーを守ってきませんでした)。物欲・名声といったこの世の利益を願うような祈りは、マナー違反です。また摂理によって発生している苦しみ・困難を、一方的に取り除いてほしいと願うこともマナー違反です。苦しみ・困難に対しては――「御心ならば取り除いてください。この苦しみが必要なものであるなら喜んで受け入れますので、どうか耐える力を与えてください」と祈るべきです。

マナー違反の祈りをしないようにする一方で、摂理に合った祈りを積極的にします。摂理に合った祈り・真理にそった祈りとは――「自分の霊的成長を願うこと」「弱い自分の心を強くしてほしいと願うこと」「霊主肉従の力を与えて清らかな心を持てるようにしてほしいと願うこと」です。そして「もっと利他愛実践のチャンス・奉仕のチャンスを与えてくれるように、人類のために自分を道具として活用してくれるように、自分を犠牲にしてくれるようにと願い出ること」なのです。

こうした摂理に適った祈りは、霊界の守護霊や他の霊達によって聞き届けられ、本人にとってふさわしい時期に、適切な助力や導きが与えられることになります。神に向けての正しい祈りは、実際には神の代理者である霊達や天使達によって聞き届けられることになります。

祈る資格

祈りは、最も純粋な霊的行為・信仰実践の一つです。霊的な親である神の前に心を解き放ち、最も深い霊的次元で触れ合う厳粛な一時なのです。したがって祈りには、常に最高の誠意が要求されます。誠意があって初めて、神の前に出ても恥ずかしくないということになり、“祈る資格”が与えられるようになるのです。

その誠意とは、常日頃から霊的真理にそった実践を心がけているということです。そうした人であってこそ、神の前に「もっと自分の心を高めてください」と祈ることができるのです。常に醜い自分の心との闘いをしている人のみが、「もっと自分の心を清めてください」と祈ることができるのです。苦しみ・困難から逃げることなく堂々と立ち向かう人であってこそ、「耐える力を与えてください」と祈ることができるのです。絶えず他人や人類への奉仕に励んでいる人であってこそ、神に向かって「もっともっと奉仕のチャンスを与えてください」と願い出ることが許されるようになるのです。