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(5)カルマの法則と再生人生

――前世のカルマと再生人生の関係

今、地球人類はスピリチュアリズムによって、再生の目的をはっきりと知ることができるようになりました。再生には2つの目的があります。その1つは――「個人が前世でつくったカルマを地上の苦しみを通して償う」ということです。この場合は、カルマの償いを他のメンバーに代わってもらうことはできません。自分自身でカルマを清算しなければなりません。もう1つは――「類魂全体の進化・向上のために類魂を代表して新たな地上体験を求める」というものです。再生には、こうした2つの目的があります。これが“スピリチュアリズム”によって初めて明らかにされた再生の目的です。

再生、すなわち人間の生まれ変わりという現象は、「類魂」という存在ならびに「類魂全体の向上進化」という内容を踏まえた上で理解されることなのです。これまで地球上の多くの宗教が、再生について説いてきました。しかし霊界における類魂の事実を知らなかったために、再生の目的について明確に理解することができませんでした。

肉体を持って物質世界で生活する人間は、とかく神の摂理に反した行為をしてしまいます。それが前世の悪いカルマとして再生人生の内容を決定することになります。再生には前世でつくったカルマの清算という明確な目的がありますが、それは常に神の法則(摂理)によってなされます。再生は、神の造られた「カルマの法則(因果律・因果応報の法則)」と「償いの法則(苦しみによるカルマ清算の法則)」に基づいて展開します。

ここではそうした再生を支配する「カルマの法則」と「償いの法則」について見ていきます。さらに前世のカルマが、どのように再生人生を決定することになるかを具体的に見ていきます。

1)カルマの法則と霊的成長

「カルマの法則」とは、原因と結果の法則

宇宙は、神によって造られた絶対的な法則(摂理)によって支配されています。それは人間が、どのようにしても決して変えることのできない法則です。人間もすべての存在も、この法則にそってこそ調和の中に置かれるようになります。人間にとってこれこそが本当の幸福な状態なのです。

神の造られた法則の中で、最も基本となるのが「カルマの法則」です。それは「原因と結果の法則(因果律・因果応報の法則)」とも呼ばれます。この法則は、ある結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものはあり得ないというものです。結果には必ずそれに先立つ原因があり、その結果がさらなる原因となって新たな結果を生んでいくようになるのです。

「カルマの法則」は、しばしば“種蒔き”の譬えで説明されます。蒔いた種が実りをもたらします。種は正直で、トマトの種を蒔けばトマトがなり、レタスの種を蒔けばレタスができます。トマトの種を蒔いてレタスが実るようなことはありません。蒔かれたタネ(原因)は、大自然の摂理に従って正確に実(結果)を結びます。こうした自然界の様相は、そのまま人間にも当てはまります。

「カルマの法則」と霊的成長

人間の運命と霊的成長も、この「カルマの法則」によって決められます。地上生活で行ったことは、必ずその後の人生においてそれ相当の結果をもたらします。すべての行為は、本人の霊的自我の中に刻み込まれますが、その行為が魂を豊かにし、反対に貧しくもするのです。人間がなした行為は、必ずそれに見合った結果をもたらすようになります。

利己主義の種を蒔いた人間は、利己主義の報いを刈り取らなければなりません。罪を犯した人は、その罪の報いを刈り取らなければならないのです。この摂理は、いかなる宗教的儀式によっても、いかなる宗教的教えによっても変えることはできません。「因果律」に干渉して、都合のいいように変えることはできないのです。蒔かれた原因は、数学的・機械的な正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうとスピリチュアリストであろうと、平凡人であろうと、この神の造られた摂理を曲げることはできません。霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をする以外にはないのです。

その霊的成長は、霊を優先した日常生活の努力(霊主肉従の努力)と純粋な利他愛の実践を通じてなされます。日常生活を物欲に流されないように霊的コントロールし、人々の霊的向上と霊的幸福のために犠牲的歩みをするとき、霊的成長が促されるようになります。無私の犠牲的行為や、思いやりと寛容性を持った実践を通じて霊的成長は成し遂げられるのです。

反対に肉体本能に翻弄され、この世的な利益や快楽を追い求めるとき、霊的成長は閉ざされてしまいます。そして人間として最大の損失をこうむるようになります。他人を憎み、正義を妬み、利他愛の実践に励む人間を妨げようとする者は、やがて当然の報いとして、激しい後悔と苦しみを自ら招くようになります。邪(よこしま)な心・復讐心・悪意を抱いていれば、自分自身がその犠牲となり、ゆがんでひねくれた性格になるという代償を払わされることになります。 罰せられるのも報われるのも、すべて本人の行為の1つ1つが生み出す当然の結果なのです。

2)償いの法則と、苦しみによるカルマの清算

「カルマの法則」とは、罪と罰の法則のこと

カルマの法則は、いかなる人間も逃れることのできない支配力を持っています。そこには一切の例外もありません。そうした基本法則に反するような奇跡が起こり得るかのように説く教えは、すべて間違いです。神が摂理を曲げて、特定の人間に配慮をしたり特典を与えるようなことは決してありません。この意味で、信仰によって神の特別な恩寵や奇跡を願う多くの地上の宗教は間違っています。原因と結果の間には、何ひとつ、誰ひとり介入することはできないのです。神もイエスも霊能者も入ることはできません。

この「カルマの法則」は、人間の霊的成長に当てはめると「罪と罰の法則」と言い換えることができます。

償いの法則の大原則――罰の苦しみを、他人に負わせることはできない

自分がつくった「罪(悪いカルマ)」は、必然的にその本人に“苦しみ”という「罰」として返ってきます。その罰を他人に背負わせることはできません。地上の宗教は、神に罪を許してもらうために祈ったり、神と人間の仲介者(救世主)に罪の肩代わりをしてもらおうとします。

しかし、そうした虫のいい話は決してあり得ません。自分が犯した罪(悪いカルマ・悪い原因)は、自分自身で償わなければならないのです。そこには完全な自己責任の原則が貫かれています。これがカルマの法則の大原則であり、償いの法則の大原則なのです。

「償いの法則」

償いの法則とは、「自分が犯した罪は、自分自身の苦しみの体験を通して償うことになる」という摂理のことです。罪を償い帳消しにできるのは、罪をつくってしまった本人だけなのです。他人に代わってもらうことはできません。「償いの法則」は、人間の霊的成長のために神が定めた救いの手段でもあるのです。

自分の行った行為の責任を他人に負わせることはできませんし、他人の行為の責任を自分が代わって背負うこともできません。どれほど愛する関係にあっても、それはできません。愛する子供の罪を親が肩代わりしてあげることも、先祖の罪を子孫が償ってあげることもできません。各自が、自分で人生の重荷を背負わなければならないのです。

「償いの法則」とは、苦しみによるカルマ清算の摂理のこと

罪の結果は、「犯した罪に相当する苦しみ」という形でもたらされます。これが罰の内容です。前世でつくった悪いカルマは、同じ程度の苦しみを体験することによって償われます。ただ単に反省し後悔するだけでは償うことはできません。利己的行為によって他人をひどく苦しめたような場合には、それと同じような状況に立たされ、相手と同じような苦しみを味わうことになります。そうして初めて償いが完了するようになるのです。

罪は、それ相当の苦しみを持って帳消しにされるようになります。そしてその苦しみは、どこまでも罪を犯した本人自身が背負わなければなりません。これが「償いの法則」です。小さなカルマならば、地上人生の中で罪の償いは完了する可能性があります。小さなカルマは、地上生活の間に反省とそれに見合った苦しみを味わうことによって清算されます。しかし大きなカルマの場合は、そういうわけにはいきません。そのカルマは死後にも持ち越され、苦しみや後悔を引き起こすことになります。さらには霊界でも十分にカルマ清算がなされないときには、地上への再生というプロセスが必要になります。再生人生を通して前世の罪を償うことになるのです。

悪いカルマ
地上人生での苦しみを通して償う
死後、幽界での苦しみを通して償う
再生人生での苦しみを通して償う

死後における「罪の償い」

地上人生を、物質的利益や富・名声を追求することだけに費やし、霊的成長が全くなされなかった人間は、死後その愚かな生き方をたいへん恥じ、後悔するようになります。また自分の利益のために他人を騙し苦しめるといった悪行を犯した場合は、死後その罪を目の前に突きつけられるようになります。そこから逃げることもできない中で拷問に似た苦しみを味わうことになるのです。そうした苦しみは、すべて“自業自得”であり、自分が犯した罪の結果を、自ら招いているだけのことなのです。

利己性の強い人間や独裁者といった悪性の強い人間は、死後もなかなか反省に至ることができません。しかしそうした人間でも、幽界における孤独と暗闇の境涯で耐えがたい苦しみを経験する中で、少しずつ地上時代の愚かさを自覚していくようになります。

また死後の生命の存続を頑(かたくな)に否定し続けた唯物論者は、死後、自分の死体の傍(そば)をさ迷い、混乱・錯乱状態の苦しみを体験することになります。本人には、その苦しみがいつまでも続くように感じられ“自殺したい”と思うのですが、それもかないません。ただ苦しむだけの状態がずっと続くのです。

また霊的なものを一切受け付けなかった傲慢な者は、死後、自分の考え方の間違いを皆の前で明らかにされることになり、恥ずかしさと屈辱を味わうようになります。傲慢な人間にとって、屈辱は最大の苦しみなのです。

また地上人生を怠惰に過ごし、何ひとつ“善”を求めることがなかったような人間も、死後は幽界で、退屈で退屈で死ぬような辛さを味わうことになります。何かをしなければならないような感情が湧いてきても、何をすべきかが分かりません。あまりの退屈さに、“生きていても仕方がない、早く死んでしまいたい”と思うようになります。

また殺人者は、死後、殺人を犯した現場を繰り返し見せつけられます。そして殺したはずの犠牲者と、何度も対面させられることになるのです。

以上述べてきたのは、地上人生を摂理に反して生きてきた人間の死後の状態です。彼らに共通しているのは、耐えがたい苦しみが永遠に続くように思われることです。そうした孤独と後悔の中で、永い永い時を過ごすようになります。実はこの苦しみの体験が、地上でつくったカルマを償うプロセスになっているのです。

死後の苦しみのパターンは、どのような摂理違反をしたのか、愚かな生き方をしたのかという内容によって異なります。物質性が強かった者にはそれに関連した苦しみが、利己的な感情によって正しく生きることができなかった者には精神的な苦しみが、知性に恵まれながら利己的な生き方をした者には恥ずかしさや屈辱といった形での苦しみが与えられるようになります。

このように死後の苦しみの内容は、人それぞれに異なっています。いずれの場合も死後、地上人生でつくった悪いカルマを“苦しみ”によって償っていることには変わりありません。

反省と後悔の念の芽生え

大半の人間は霊界に入ると、苦しみの中で「霊的自覚」を少しずつ芽生えさせるようになります。地上人生の間違いを自覚し、後悔の思いが湧き上がってくるようになります。そしてさらに霊的自覚が深まり、反省と後悔の念で苦しむようになると、次のステップに踏み出すことになります。次のステップの1つが、「地上に再生する」ということです。地上に再生することで、新たな償いの道を歩み始めることになります。

霊界での苦しみは、地上で味わういかなる苦しみよりも、比較にならないくらい大きいのです。肉体というバリアーがないために、精神的な苦しみが何十倍もの圧力を持って迫ってくるようになります。なかにはあまりの苦しさに、狂乱の寸前にまで至るような者もいます。しかし、そうした苦しみのプロセスのすべてが、カルマの償いになっているのです。地上でつくった「カルマ」は、霊界では「罰の苦しみ」としてもたらされることになります。その苦しみを通して罪を償う中で、霊的自覚が生まれるようになるのです。

もし、こうした苦しみがなかったならば、未熟な霊はいつまでも霊的成長の道を歩み出すことができないまま放って置かれることになります。死後、地上で犯した罪に対する罰としての苦しみが与えられ、それによってカルマが償われるということは、神が人間の「霊的成長」のために準備した配慮なのです。

再生によるカルマの償いの道

以上のように霊界において苦しみを体験する中で、ほとんどの霊たちは霊的自覚を芽生えさせ、自分の地上人生の間違いを反省し後悔するようになっていきます。こうした反省・後悔のプロセスは、その後の霊的成長の歩みに、きわめて重要な意味を持っています。地上人生への反省・後悔は、霊的自覚と霊的意識の芽生えのバロメーターであり、それは地上臭が取れ始めたことを意味しています。他界者は地上人生を反省・後悔するようになると、自分の霊性に見合った「類魂」の中に入っていくことになります。

ところが他界者の中には、そうした芽生えさえ得られない者もいます。いつまでも霊的自覚が持てないまま、地上近くをうろつくのです。このような人間は、摂理の働きによって半ば強制的な形で、地上に再生させられることになります。こうしたケースでの再生人生は、きわめて悲惨なものとなります。生まれつきの精神障害者として、あるいは重度の身体障害者として再生人生を送ることになります。

霊界での苦しみによってカルマの償いがなされるような場合もあれば、それだけではとうてい償いきれない場合もあります。カルマが大きい場合、霊界での反省と後悔の苦しみだけでは不十分なのです。

また、こうしたケースとは別の再生もあります。すでに「類魂」の箇所でも述べましたが、類魂の一員としての生活を送る中で、やがて次の霊的成長の段階に至る時期を迎えるようになります。すると内在していたカルマが表面化し、かつての自分の地上人生の何が間違っていたのか、何が今の自分の霊的成長の足かせになっているのかを知るようになります。そして、それを清算する最後のプロセスとして地上への再生が促されるようになります。カルマ清算を完全なものとするためには、罪を犯した物質世界にもう一度戻り、そこで同じような誘惑と闘い苦しみの体験をする必要が出てくるのです。

本当はありがたい「罰」としての苦しみ

自ら進んで地上に再生した場合であっても、霊界での記憶が失われてしまうため、再生人生ではすべての出来事を物質的な視野からのみ判断するようになってしまいます。すると本人は、カルマの法則によってもたらされた「苦しみ(罰)」を突如降って湧いた不幸のように感じることになってしまいます。時には不当な苦しみが一方的に与えられたかのように思い、自分の運命を呪うようになります。大半の地上人には、自分が遭遇する苦しみが“自業自得”であり、正当な罰であることが理解できないのです。

霊的視点に立てば、罰としての“苦しみ”は正当なものであり、むしろありがたいものなのです。なぜならその苦しみによって、「悪いカルマ(過去に犯した罪)」が消滅するようになるからです。霊的成長の足かせ・阻害要因が取り除かれるようになるからです。地上人には「霊的真理」による再生についての正しい理解が必要となります。前世が分からなくても、今の苦しみが自分の霊的成長にとって必要なものであることを認め、謙虚に苦しみを甘受し、同時に勇気を持って困難に立ち向かわなければならないのです。

カルマの償いのプロセスのまとめ

これまでの説明から「カルマの清算」については、地上人生の間と、死後の世界に行ってからと、さらには再生人生という3つのケースがあることが分かりました。ここではもう一度、「償いのプロセス」の全体を整理し復習します。

摂理に反した行為(悪いカルマ・罪)は、必ず「罰」という結果をもたらします。その罰は“苦しみ”という形となって現れます。激しい後悔として、人目を避けたくなるような疎外感として、いたたまれないような屈辱感として、あるいは愛する人との離反や離別として、または周りの人々からの軽蔑・非難として、さらには肉体の苦しみや物質的な困難として現れます。そこでは常に、かつて自分が摂理に違反したと同じ程度の苦しみが与えられるようになっています。

生活スタイルや食生活の間違いといった小さなカルマ(摂理違反)は、肉体の病気として地上人生の中で現われることになります。その際“病苦”をこれまでの間違った生活に対する警告として受け止め、それを正すようにすればカルマは早めに断ち切られ、健康を取り戻せるようになります。また自分の利己性が周りの人々の反発を招いた場合には、間違った在り方を反省して利己性を出さないように努めれば、再び人々の信頼を取り戻すことができるようになります。

地上の人間は、日常生活を送る中で絶えず新しいカルマをつくり出し、その償いをしながら人生を過ごしています。地上人生の失敗を通して教訓を得、それを霊的成長の糧として毎日を歩んでいます。地上人生は―まさに「失敗から学ぶ」という「霊的成長の訓練場」になっているのです。一般的に言って、小さなカルマは地上人生の間に罰として発生し、地上人生の間に帳消しにすることができます。考えようによっては、地上にいる間にカルマを償うことができるということは幸いと言えます。

しかし地上人生でつくり上げたカルマがあまりにも大きく、地上生活の中での反省と修正の努力だけでは帳消しにできないような場合もあります。そうしたケースでは、悪いカルマは死後の世界に、さらには再生の地上人生にまで持ち越されることになります。

大半の人々が、霊界に行ってから地上人生の間違いに気づき、後悔し、苦しみを味わうようになります。そして、その苦しみを通してカルマを償うことになります。しかしカルマを完全に清算するにはほとんどの場合、再生というプロセスを踏まなければなりません。再生人生において待ち受けているのは、カルマを償うための厳しい試練です。再生者は、その試練を乗り越えることによって前世のカルマの償いを完成させることになります。

現在、地球上に住んでいる多くの人々が、こうした再生人生を歩んでいます。自らが前世でつくり上げたカルマを償い、今後の霊的成長のための準備をしているのです。

カルマの法則・償いの法則

カルマの法則・償いの法則

3)前世のカルマが決定する再生人生

以上のような経過をたどって、地上への再生が行われるようになります。再生の最大の目的は、前世でつくってしまった「カルマ(罪)の償い」です。

前世で大きなカルマをつくった者は、死後、霊界における反省や後悔を通しても十分にカルマを償いきれません。そしてカルマの償いを完成させるために、地上へ再生することになります。再生霊の一人一人は、それぞれ霊性レベルもカルマの内容も違っています。したがって当然、再生人生における試練の内容は異なることになります。カルマ清算のためばかりでなく、類魂全体の霊的成長を促す目的で、類魂を代表して地上に再生するケースもあります。この場合は罪の清算、すなわち罰としての再生ではありません。さらには人類の救いを進めるという大きな使命を背負って地上に再生するケースもあります。この場合にも、カルマ清算という意味はありません。)

以下では前世で大きなカルマ(罪)をつくった人間が、具体的にどのような再生人生を歩むようになるのか、例をあげて見ていくことにします。悲惨な再生人生の実例です。

自殺者の再生人生

前世の地上人生を自殺で終えてしまった人間は、霊界で暗闇の中に置かれ筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになります。多くの場合、そうした人間は時をおかずに強制的に地上へ再生させられることになります。再生人生では、摂理の働きによって自殺への誘惑を受けやすい環境に置かれます。再生者は、しばしば窮地に追い込まれ、自殺に駆られるような試練を受けることになります。

再生前に前世の行為(自殺)に対する反省がしっかりとなされ、「二度と同じ失敗はしない!」との決意を強く持っていた場合には、窮地に追い込まれて自殺の誘惑が頭をかすめても何とか踏みとどまることができます。そして与えられた地上人生を、今度は最後まで全うすることになります。そうして前世で犯した自殺の罪を償うことができるのです。

しかし再生者の中には、試練に負け、再び前回と同じように自殺をしてしまう者もいます。その場合は霊界に行ってから、前回よりもさらに大きな苦しみのプロセスを踏まなければならなくなります。再・再生人生においては、いっそう厳しい試練が待ち受けることになります。

高い地位を利用し、貧しい人々を苦しめた人間の再生人生

高い地位にあぐらをかき、傲慢さとうぬぼれを生涯持ち続ける人間がいます。身分の低い者への思いやりも同情心もなく、自分の利益のために貧しい人々から搾取するのです。そのような人間の死後は、言うまでもなく悲惨なものとなります。そして地上に再生して、カルマ清算の道を歩まなければならなくなります。傲慢さと極度の利己性という罪を、苦しみを通して償うようになるのです。

再生人生では、前世と正反対の環境に置かれることになります。すなわち極度の貧困者や物乞いとしての人生を歩むようになります。一方、前世と同じような物質的に恵まれた家に生まれ、多くの物質的誘惑の中に身をさらすようになる人間もいます。このように前世と正反対の立場か、全く同様の立場に立たされることになるのです。

後者の再生のケースでは、前世と同じような過ちを犯す危険が常にともないます。実際に多くの再生者が誘惑に負けて物欲に翻弄された人生を送り、せっかくの罪の償いのチャンスを無駄にしてしまっています。一般的に言って、前者のように貧困の苦労を通して前世のカルマを償う方が、ずっと無難なのです。現在、金持として物質的に恵まれた地上人生を送っている人間の中には、こうした前世のカルマを償うために誘惑の多い環境に身を置いている人がいるのです。

権力に任せ、人々に冷酷で残忍な仕打ちをした人間の再生人生

政治権力を握った独裁者や国王あるいは聖職者などは、しばしば権力を背景に、人々に冷酷で残忍な仕打ちをしてきました。そうした人間は死後、身の置き場がないような苦しみを味わうことになります。自分によって苦しめられた人々が、いつ仕返しをしてくるかもしれないという恐れの中で時間を過ごすようになります。それと同時に、犠牲となった人間が次々と目の前に現れます。その恐怖と苦しさに、狂乱状態になってしまう者もいます。

そうした人間は、再生してカルマを償うための厳しい道を歩まなければならなくなります。再生人生では、かつて自分が人々にしたと同じような仕打ちを受ける立場に立たせられます。周りの人々から虐げられ、嫌われ、動物に等しい扱いを受けるようになります。

聖職者として、罪なき女性を魔女に仕立て上げて火刑に処したような人間は、再生人生の最後に同じような体験をさせられることがあります。不自由な身体のために火事から逃れることができずに焼死したり、全身大やけどを負って命を落とすといった試練を受けるのです。それが前世のカルマ清算の最後の仕上げとなり、償いが完了することになります。前世で他人を溺死させたような場合も、再生人生の最後を、水難や船の難破といった事故で生命を失う試練を受けることになります。

金と美貌を乱用して、徹底して享楽を追及した女性の再生人生

世の中には、金ばかりでなく美貌にも恵まれるといったうらやましいような人間がいます。そのような女性は、とかく物質的享楽に溺れ、本能的快楽を追求しがちです。そうした人間の多くが、死後は人々から見放され、無視されるといった孤独を味わうようになります。地上で頼りとしていた金や美貌は何ひとつ通用しないことを実感するようになるのです。虚栄心や自己顕示欲があまりにも強いために、霊界に入ってからも霊的成長がなされないような場合には、再生人生において前世の償いにふさわしい道をたどるようになります。

再生人生では、卑しい身分の家や貧困の家庭に生まれ、極度の困窮生活を強いられるようになります。時には顔にアザや身体上の欠陥を持って生まれてくることもあります。そのために人々から嫌われ、生涯、孤独を強いられるようになるのです。

優れた知性を悪用して、この世の富を追求したり人々を苦しめた人間の再生人生

前世で優れた知性に恵まれ、一流の学者としての名声を手にしながらも、それを悪用して人々を騙し、富を築いたような人間がいます。そうした人間は死後、せっかくの知性を私利私欲のためだけに用いた愚かさを、いやというほど実感させられることになります。知性への奢りのために霊的成長を犠牲にしてしまったことを知り、大きな後悔の中に突き落とされるようになります。

再生人生では、前世と正反対の人生を選択するようになります。知能的欠陥や精神的欠陥を持って生まれたり、精神病を患って自分の知性を生かすことができない状態に置かれるようになります。こうした形での苦しみを通して、前世のカルマを償うことになります。

自分の家族のために人々を騙し、犠牲にした人間の再生人生

自分の家庭と子供のために、周りの人々を犠牲にするような生き方をする人間がいます。自分と自分の家庭にしか愛を向けることができず、他人がどれほど困って苦しんでいても平気で無視します。無関心を装って決して手を差し伸べようとしません。

そうした利己的な人間は死後、初めて利己的な生き方の間違いと愚かさを実感し、自分の地上人生には何ひとつ本当の愛の奉仕・利他愛がなかったことを悔やむようになります。幽界でも家族と会えず、周りの人々とも愛の関係を結ぶことができずに絶対的な孤独状態に置かれるようになります。

再生人生では、前世で他人にしたのと同じことをされる立場に立たされることになります。すなわち自分の家族や子供の窮状を目の前にしながら、誰からも手を差し伸べてもらえない辛い体験をするようになります。周りの誰も助けてくれず、自分の家族や子供を犠牲にせざるをえなくなります。さらには自分が執着してきた家族や子供から相手にされず、家庭の中にあっても孤立状態に置かれるようになります。

他人に自分の罪を着せて、苦しめたような人間の再生人生

自分の犯した罪を他人になすりつけ、罰を逃れる人間がいます。罪を着せられた相手は、そのために一生涯を棒に振り、家族を死に追いやるような苦しみを味わうことになります。自分の罪を他人に押し付け、その時は何とかうまくごまかせたと思っていても、死後、自分の行った不正は白日の下にさらけ出されることになります。

罪を着せた相手の人間だけでなく、犯罪とは関係のない人々の前にも、自分が罪を犯している状況が映像として映し出されるのです。それを何度も何度も見せつけられ、針のムシロに座らされるようないたたまれない状態に追い込まれます。やがて自分の罪を告白し懺悔することになります。しかし、それだけで前世でつくったカルマが清算されることにはなりません。地上への再生を選択して、罪を償わなければならないのです。

再生人生では、前世とは逆の立場に立たせられることになります。すなわち他人から無実の罪を着せられるのです。冤罪の苦しみだけでなく、親戚や家族からも見捨てられ、孤独の中で前世の罪を償うための人生を送ることになります。

医者としての野心から、病人を生体実験した人間の再生人生

前世で、医者としての名声と富を得ようとの野心から、病人を騙して生体実験をしたり、病人に不当な苦しみを与えたような場合、死後はその不正が皆の前にあらわに示されるようになります。犠牲となった病人が、繰り返し目の前に現れ、気が狂いそうな状況に追い込まれるようになります。当然、カルマを清算するための再生人生が必要となります。

再生人生では、前世と正反対の立場に置かれ、苦しみの体験をするようになります。すなわち悪徳医師に騙されて身体に障害を持つようになったり、ニセの薬や治療によって重病を患うようになり、一生涯を身体の不自由さと苦しみの中で過ごすことになります。

以上、前世における利己的な行為が、どのような再生人生をもたらすかの具体例を見てきました。こうした話を通して“利己的な生き方”が、いかに恐ろしい結果を招くようになるのか理解されたことと思います。この世では人目を欺いて不正を行うことができても、霊界では必ず暴かれるようになります。また再生人生において、それに相当する罰の苦しみを体験しなければならなくなるのです。