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1)スピリチュアリズムの実践の第一歩

霊的存在としての絶対条件・必須条件

「人間は霊と肉の二元からなる存在である」「霊と肉はそれぞれが正反対の方向性を持っている」、したがって「霊と肉の間で葛藤が生じるようになる」「霊優位のためには何らかの闘いや修行が必要とされる」――こうした内容はスピリチュアリズムによって明らかにされた真理です。

「霊優位」は、人間が霊的存在としての立場を確立するための必須条件です。霊優位の反対、すなわち「肉優位」の状態では、霊は肉体という物質の中に閉じ込められて自由に活動できなくなります。物質に抑え込まれて霊本来の働きを奪われ、成長できなくなります。「霊優位(霊主肉従)」は、まさに霊的成長のための絶対条件・必須条件なのです。

「霊主肉従」の闘いは、地上ならではのもの

肉体のない霊界人は、私たち地上人と違って「肉優位(肉主霊従)」の状態になることはありません。霊界人は肉欲から完全に解放され、地上人のような「霊と肉」といった内面の葛藤に悩まされることはありません。地上人から見たとき霊界人は、清らかさだけの存在となっているのです。それに対して肉体をまとっている地上人の場合は、全く異なる方向性を持った「霊(霊的意識)」と「肉(肉体本能的意識)」が一つの心の内に存在しています。霊は利他的方向を志向し、肉体本能は利己的方向に向かおうとします。それによって心の中で激しい葛藤が生じることになります。

私たちが霊的成長をするためには、「霊優位(霊主肉従)」の状態をつくり上げることが最低条件となります。霊が肉体の力に抑え込まれているかぎり、霊的成長は望めません。地上で霊的成長を求めるなら、「霊主肉従」の闘いを避けることはできないのです。

スピリチュアリズムの第一の実践は、「霊主肉従」のための内面の闘い

もし私たちがそうした内面の闘いを避けて、霊的真理普及(伝道)という外面的な行動だけに邁進しても、単なる活動家になってしまいます。自分に甘く、他人に厳しいだけの人間になってしまい、決して霊的成長はできません。私たちはまず、自己の内面の闘いを通して“真の信仰者”となる道を歩み出さなければなりません。それから外へ出て人々のために働くということです。先に自分自身の内面を厳しく律し、自らの心をスピリチュアリストとしてふさわしいものにしなければならないのです。

このようにスピリチュアリズムの霊的実践の第一歩は、「霊主肉従」のための内面の闘いから始まります。

「霊が主人で物は従僕です。つねに霊に係わることを優先させなさい。」

『シルバーバーチの霊訓(12)』(潮文社)  p.231

「残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしないかぎり覚醒は得られません。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.99

「霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.74

2)厳しい霊主肉従の闘い

きわめて困難な「霊肉の闘い」

大半の地上人の霊は、肉体という物質の牢獄に閉じ込められています。肉体が地上人の霊の働きを不自由にし、霊に制約を加えています。肉体本能が心全体を支配し、霊的意識を失わせてしまっているのです。

「霊肉の闘い」を真剣にしている人間、心の清らかさを熱心に求めている人間は、肉体の力をコントロールすることの難しさを否(いや)というほど味わうことになります。「霊優位(霊主肉従)」の状態をつくるのは、言うは易く、行なうはきわめて難しいことなのです。必死に闘いを挑んでも、すぐに肉体が優位になってしまいます。清らかさを求めようとすると、心の中でたちまち霊肉の葛藤が始まるようになります。こうした体験を重ねると、肉体という牢獄から霊魂を解放することこそが、まさに信仰生活の出発点であることをはっきりと自覚するようになります。

霊優位の闘いの厳しさは、「霊的成長」を真剣に求めている者にとっては切実な問題です。霊優位の状態を確立するためには、たいへんな困難がともないます。どれほど霊的エネルギーを振り絞らなければならないかを、つくづく実感するようになります。魂の清らかさを求める者の前には、常に肉体が大きな壁として立ちはだかります。肉体が重苦しい覆いとなって魂の自由を奪い去っていきます。そして失敗と敗北の連続といった体験を余儀なくされることになるのです。

“親鸞”の内面葛藤の告白

霊優位のための内面の闘いは、歴史上の修行者や宗教者を苦しめてきました。そうした信仰者の代表として、親鸞とパウロのケースを取り上げます。

親鸞は、初めて“肉食妻帯”を肯定して実践した僧としてよく知られています。出家僧が肉食妻帯をするというようなことは、日本仏教界ばかりでなく世界の仏教界の中でも前代未聞の大事件でした。仏教の出家僧とは、一生涯独身を貫くものとされてきたからです。親鸞は、それを根底から覆したのです。親鸞の妻帯は、それまでの仏教の常識を根本から否定するほどの革命的な出来事でした。

親鸞がそうした“戒律を破る”という大胆な行為に出たのは、彼がただ単に情欲(肉欲)に負けて堕落したためではありません。それどころか霊的に見たとき、きわめて正当な理由があったのです。親鸞はひたすら霊的な清らかさを求め、徹底して霊と肉の闘いに挑んできました。親鸞の心の清らかさと信仰的な誠実さは、他の修行僧とは比較になりませんでした。

親鸞は自著の『教行信証』の中で――「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山に迷惑して……」と述べて、自己の内にある愛欲と名利の心を吐露しています。愛欲も名利も肉体本能から出る欲望であり、親鸞はそれを業(ごう)と見なし、業の深い自分を嘆き悲しんでいるのです。親鸞の立派なところは、抜き差しならない“肉欲”という業に対して、うわべを取り繕った偽善的な信仰生活を送るのではなく、どこまでも誠実な姿勢で信仰に臨もうとしたことでした。

親鸞が苦しんだ欲望とは、“性欲”を意味していることは間違いありません。親鸞は当時の多くの修行僧が、陰でこそこそと戒律を破りながら、外面だけは取り繕って戒律を守っているかのように見せかける偽善的な生き方を忌み嫌ったのです。“妻帯”という破戒行為は、肉体の欲望に対して限界まで闘いを挑んだ結果として、最後に親鸞が下した結論だったのです。自分の心の醜さと徹底して闘った親鸞であればこそ、それまで誰もしたことのなかった英断を下すことができたのです。全力を傾けた闘いを経た人間であればこそ、内面の御(ぎょ)しがたい欲望の前に無力で醜く業の深い自分の救いを、率直に阿弥陀仏に願い出ることができたのです。そして念仏さえ唱えれば、いかに業の深い人間であっても救われ、浄土に生まれ変われると説くことができたのです。

親鸞は自分の心の内にある欲望と全力で闘い、その結果、どうしても肉欲の誘惑を断ち切れない自分自身の姿を直視し、最後に念仏によって阿弥陀仏にすがる道を見出しました。親鸞ほど人間の弱さと醜さを隠さずに、ありのままの姿で仏の前に出て行こうとした修行僧はいませんでした。

スピリチュアリズムからすれば、“念仏を唱えるだけで救われる”というような教えは「霊的事実」とは明らかに違っています。しかしそうした結論に至るまでの親鸞の信仰的な真剣さと純粋さ・誠実さには、心から尊敬の念を抱かずにはいられません。親鸞には、本物の信仰者の先輩として敬意を表したいと思います。親鸞は、まさに日本が世界に誇ることができる本当の宗教者・信仰者と言えます。

“パウロ”の内面葛藤と罪の告白

親鸞と同じような内面の闘いの様子を、パウロも述べています。ローマ人への手紙の中(第7章)に有名な箇所があります。パウロの内面における霊と肉のすさまじい葛藤と闘いの様子が、迫力をともなって伝わってきます。その箇所を引用します。

「私たちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、私は肉につける者であって、罪の下に売られているのである。私は自分のしていることが、わからない。なぜなら、私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。(中略)そこで、この事をしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。私の内に、すなわち、私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを、私は知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲している私に、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、何というみじめな人間なのだろう。」

このパウロの告白を通して、彼がどれほど内面において激しい闘いをしてきた人間であるかを知ることができます。パウロはその闘いの中で、肉体を支配する力がとても強く、容易に抵抗できないものであることを率直に述べています。そして内面における善と悪の分裂状態を前にして、自分は何とみじめな人間であることかと嘆いているのです。

パウロが言う肉に入り込んでいる罪とは、親鸞の場合と同様に“性欲”のことを意味しているものと思われます。肉体を支配する強い本能の力の中に、パウロは罪(の法則)を見ています。パウロの脳裏には当然、その罪の大もとになった人間始祖がつくり上げた原罪のことが思い浮かんでいたはずです。人類の罪は原罪から発し、その罪が延々と遺伝して人類に及んだために、こうして自分は今、罪人としてのみじめさを持つことになったと考えるのです。そしてこの罪から人間が救われ、内面の葛藤から解放されるためには、イエス・キリストに対する信仰に依る他はないと結論づけるのです。親鸞が阿弥陀仏にすがったように、パウロはイエスにすがることによって罪の苦しみから逃れようとしました。

スピリチュアリズムからすれば、パウロの罪についての見解は明らかに間違っています。実際には原罪は存在しませんし、全人類が罪人であるというような事実もありません。したがって、イエスを信仰することによって罪が許され救われるようになるという見解は間違っています。しかし純粋な信仰を確立しようとして激しい霊肉の闘いをしてきたパウロの姿には、本物の求道者・信仰者としての真価を認めることができるのです。

パウロは、神が与えた肉体本能の衝動を罪とする考え違いをし、その錯覚のうえで間違ったキリスト教の教義をつくり出してしまいました。イエスの真意から懸け離れたパウロ流の考えを、キリスト教の教えとしてしまいました。しかしこうした大きな失敗を犯したにもかかわらず、パウロの純粋一途な求道的信仰心は、現在の私たちスピリチュアリストにとっても良き手本であることは間違いありません。

3)神によって肉体が与えられたことの意味(肉体付与の意義)

神が人間に肉体を与えた理由

霊優位のための闘いは、実は神が人間に与えた霊的成長のプロセスの一つです。「霊優位の闘い」を通して、霊的力・心の力が鍛えられ、霊的成長への志向性が強化されます。まさにそのために、神は人間に肉体を与えたのです。敢えて困難な状況の中に立たせることで魂を強化し、霊的成長を促そうとしたのです。

人間が天使とは異なる物質の身体を付与され、わざわざ不自由な環境に誕生するについては、こうした深い神の愛があったのです。肉体を持った地上の人間が、たいへんな苦しみ・困難を体験することの背景には、神の深遠なる叡智からの配慮があったのです。

肉体本能は、罪でも悪でもない

肉体本能から生じる欲望は、これまで多くの宗教で言われてきたような罪や悪や煩悩や業ではありません。肉体は、神が人間の霊的成長のために与えてくれた善なるものなのです。したがって肉体の本能的欲求がどれほど強くても、忌み嫌うようなものではありません。本能それ自体は何も悪いものではないのです。肉体本能をどのように考えるべきかという点で、従来の宗教は間違った認識をしてきました。

スピリチュアリズムは、肉体とそれを支配する肉体本能は神が与えてくれた善いものであり、霊的力で本能的欲望をコントロールすることが正しい人間のあり方であることを明らかにしました。「霊肉の闘い」の厳しさに打ちのめされ、自分の内に存在する肉欲の強さに辟易(へきえき)するようなことがあったとしても、自分は何とみじめな人間なのかと嘆き悲しむ必要はありません。自分は何と罪深い人間なのか、業の深い人間なのかと絶望する必要はないのです。

死とともに「霊肉の闘い」から解放される

人間は、肉体の死とともに純粋な霊的存在となって霊界に入ります。そしてそこで肉体を脱ぎ去った自由を味わうことになります。

霊界入りした最初の頃は、新しい環境ですがすがしい生活を送れる喜びが心を占めていますが、しばらくすると肉体を持ったかつての地上人生の意味がよく分かるようになります。あれほど苦しみを与えた肉体が、自分の霊的成長にとって本当に必要なものであったことを、つくづく実感するようになるのです。

4)霊的成長は、「霊主肉従」と「肉主霊従」の間を行き来しつつ達成されるもの

すぐに「肉主霊従」に引き戻されてしまう地上人

「霊優位」の状態、すなわち「霊主肉従」の状態では、自然と周りの人々に対して愛の思いが湧くようになります。肉欲が消え、エゴ的思いがなくなり、霊的な心地よさ・すがすがしさ・明るさ・喜びを心の底から味わうことができるようになります。祈りなどによって霊的エネルギーが多量に取り入れられて霊優位になったときには、利他愛が心を占めるようになります。一度でも霊主肉従のすがすがしさを体験すると、誰もがそうした状態を維持したいと思うようになるのです。

しかし残念なことに地上人は肉体を持っているため、「霊主肉従」の状態を長続きさせることができません。よほど意識していないかぎり、すぐに「肉主霊従」の状態に陥ってしまいます。常に気を引き締めて肉体本能をコントロールしていなければ、霊主肉従を維持することはできません。これが肉体をまとっている地上人の宿命です。

「肉主霊従」という摂理に反した不調和な状態が続くと、やがて心身に苦しみや痛みを感じるようになります。それが限界にまで至ると、否応なく「霊優位」の方向を目指すようになります。苦しみや痛みが霊優位の方向に心を向けさせるきっかけとなるのです。このように大半の地上人は、長い肉主霊従の期間を経て霊主肉従へと向かうようになります。しかし苦しみが過ぎ去ると、再び肉主霊従に戻るといったことを繰り返すのです。地上人類は「霊優位」の状態と「肉優位」の状態の間を行ったり来たりする中で、少しずつ霊的成長の道をたどってきたのです。

スパイラルを描きながら、少しずつ霊的成長をする

今述べたように、地上人は「霊主肉従」と「肉主霊従」の間を行き来しています。しかし考えてみれば、こうした揺れ動きを自覚できる人は、まだましと言えるかもしれません。霊主肉従を目指すことの重要性さえ知らない人間の場合には、肉主霊従の暗闇の中にどっぷり浸かったまま人生を過ごすことになってしまうからです。

地上人は肉体を持っているため、いったん「霊主肉従」の状態になったとしても、一転して「肉主霊従」に陥るといったことを繰り返します。上がったり下がったり、“三歩進んで二歩下がる”といったことの連続です。しかしそうしたプロセスの中で、「霊的成長の上限ライン」が少しずつ引き上げられていくことになります。もっともその進歩はあまりにもゆっくりとしたものであるため、自分が成長しているかどうか、はっきりと自覚することはできません。それどころか同じ失敗ばかり繰り返していっこうに成長していないように感じて落胆したり、失望感にとらわれるようになります。

しかし地上世界は失敗から学ぶように造られているため、挫(くじ)けずにチャレンジするかぎり、スパイラルを描きながら少しずつ進化の道をたどるようになっています。失敗に負けずに内面の闘いを続けることによって「霊的成長」に対する意志の力が強化されるようになるのです。地上の人間は忍耐強い霊的コントロールの努力を継続する中で、徐々に霊優位の時間を多く確保できるようになっていきます。まさにこれこそが「霊的成長」の指標なのです。

霊的成長のプロセス