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(3)犠牲精神

高級霊の教え(霊訓)では、しばしば自己犠牲的な生き方が強調されています。それに対して日本人は、あまり違和感や抵抗感を持つことがありません。それは日本人の中に、自己滅私的な公的意識・犠牲的な生き方が自然な形で根付いているからです。日本人は古来、公(おおやけ)のための自己犠牲を美徳と見なしてきました。スピリチュアリズムは、現代社会一般に見られるようなエゴ的個人主義を良しとせず、かつての日本人の中にあった大義のために自己を犠牲にする生き方に価値を認めます。

残念なことに最近になって、日本人はその霊的な美徳を失いつつあります。現代では多くの人々が、日本人も欧米人のように自分の意見や利益をはっきりと主張すべきであると考えるようになっています。

しかしそうした傾向は、霊的に見たとき必ずしも賞賛されるものではありません。本当に価値があるのは、個人の主張よりも相手への思いやりです。自己主張を後回しにしても、全体への協力・奉仕を優先しなければなりません。「自己滅私・自己犠牲」という犠牲精神を表す言葉は、現代人にとって最も厭うべきものとなっていますが、そうした犠牲的あり方こそが「霊的真理」にそった歩みなのです。

ここではスピリチュアリズム精神の2つ目の真髄である「犠牲精神」について見ていきます。

1)利他愛の極致――犠牲精神

利他愛の深さは、自己犠牲の分量に比例する

心ある人間であれば誰もが、「人のために役に立ちたい、人々のために奉仕したい」と考えるものです。利他的な思いは、すべての人間の霊的意識の中に存在しています。そうした崇高な願望を物質次元の世界で実践することによって、魂は成長していくようになります。

利他的行為には、さまざまなレベルがあります。同じ「利他愛」と言っても、ピンからキリまでのランクがあるのです。相手のために少しだけ時間を割くこと、余ったお金を困っている人に与えることも利他的行為です。そうかと思えば、人類全体のために人生のすべてを捧げ、自分の全財産を投げ出すことも利他的行為です。どちらの方が利他性の度合いが優っているかは、説明するまでもありません。大きな犠牲をともなう行為ほど、利他性のレベルが高いのです。

利他愛の深さは、自己犠牲の分量に比例します。利他愛の真価は、自己犠牲の多寡によって決定されます。自分が携わっている奉仕活動・ボランティア活動がどれだけ「霊的価値」を持っているかは、どれだけ自己犠牲を払ったかによって決まるのです。スピリチュアリズムは単に「利他愛」の重要性を説くだけでなく、利他愛には「自己犠牲」がともなっていなければならないことを強調します。積極的に自己犠牲を買って出る生き方――すなわち「犠牲精神」に立った生き方を勧めているのです。霊界の高級霊は地上のスピリチュアリストに対して、自分たちとともに全人類の救いのために自己犠牲的な生き方をしてほしい、と望んでいるのです。

利他主義の極致は「犠牲精神」

神の摂理である「利他主義(利他愛)」とは、自分の利益を後回しにして、周りの人々の利益や幸福を優先するあり方です。その利他愛を極限まで進めると、全人類のために自己を積極的に犠牲にするという生き方に至ります。“利他主義の極致”は――「全人類のための自己犠牲」なのです。自分の利益や好み・喜びを後回しにして、最大多数の人々の最大幸福のために自らを犠牲にすることです。

自分のことより相手のため、自分のことより全体のためという生き方が利他主義ですが、それは自ら喜んで犠牲を引き受ける「犠牲精神」のレベルにまで高まったとき、完璧なものになるのです。

2)自己犠牲の法則と、高級霊による自己犠牲の手本

自己犠牲の法則

犠牲精神は、「自己犠牲の法則」を別の言葉で言い表したものです。人間の霊的成長は、利他愛という摂理に一致した実践によってなされます。その際、自己犠牲が多ければ多いほど、結果的に大きな霊的成長がもたらされるようになります。全人類の霊的向上と真の幸福のために自ら犠牲と苦労を買って出るなら、それに見合っただけの霊的成長が促されるようになるのです。これが「自己犠牲の法則(代価の法則)」です。

言うまでもありませんが、間違った目的(私利私欲の追求・この世的な利益追求)のためにどれほど犠牲を払っても、霊的成長はなされません。どこまでも「摂理にそった目的のために犠牲を払う」ということが肝心なのです。

自己犠牲とは、自分の利益を後回しにして、より多くの人々の幸せを優先して求めることです。霊的世界の存在を認めず、“死ねばすべてが終わる”と思い込んでいる人間にとって自己犠牲は、損失以外の何ものでもありません。それは、世間一般の常識からあまりにも懸け離れた生き方のように映るに違いありません。しかし霊界の人々にとって自己犠牲は、ごく当たり前の生き方です。現在の地球が物質中心の価値観に完全に支配されているため、それが特殊なものとして感じられるのです。

自己犠牲は、地上における最も価値ある生き方です。自己犠牲は利他性のレベルを高め、霊的成長をより早く促してくれる賢明な生き方なのです。「自己犠牲の法則」は、「利他性の法則」を強化する法則と言えます。

「我欲を棄て、他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.145

スピリチュアリズムを進める高級霊たちは「犠牲精神」の手本

現在の地上世界で犠牲精神を実行している人は、めったにいません。もしそうした人間がいるとするなら、周りから聖人と見なされ、多くの人々の尊敬を勝ち取ることになるでしょう。

地上世界にはこれまで、ガンジーやマザー・テレサのような犠牲精神に徹した人間が現れましたが、実は“スピリチュアリズム”を推進している億万の高級霊たち全員が、彼らと同じ犠牲精神の持ち主なのです。スピリチュアリズムはまさに、霊界に存在する無数の聖人たちによって展開されている「地球人類救済計画」と言えます。

「犠牲精神」という高級霊の完全な利他愛によって、今この時もスピリチュアリズムは進められています。自分の利益を一切求めず、地上人類の救いだけを願う高級霊たちの「犠牲的精神・真の利他愛」から、すべてが展開しているのです。

高級霊の「犠牲精神」に清められ、啓発されて

高級霊たちの私利私欲のない純粋な犠牲精神と利他愛を知れば知るほど、私たちには、高級霊の前に誇ることができるものは何ひとつないことを実感させられます。それと同時に「高級霊の姿に倣って、一歩でも彼らに近づきたい」との思いが湧き上がってきます。

シルバーバーチに代表される高級霊の犠牲精神に触れるたびに、私たちの醜い心は浄化されます。彼らの高貴な精神と純粋さに啓発され、物質に閉じ込められ狭くなっていた心が広がります。この世の利害にとらわれていたケチくさい生き方が、馬鹿らしく感じられるようになります。「自分のことだけで精いっぱい、他人のことなどかまっていられない」と思っていたエゴ的な心が洗われ、自然と「自分のことより他人のことを優先したい」という気持ちが湧いてきます。

高級霊の清らかさと犠牲精神・真の利他愛によって、私たちの心の持ち方や考え方が改められ、物質世界の醜さから抜け出せるようになります。そして「もう一度、ゼロから人生をやり直そう!」との決意を固めることができるようになるのです。

3)犠牲精神は、自分の大切なものを他人に与えること

自己犠牲の基本は、自分の持っているものを人々に与えること

人間は、利他愛の実践を通して「霊的成長」がなされます。その「利他愛の実践」とは、自分より恵まれない人々に、自分が持っているものを与えるところから始まります。利他愛を言葉で説明することは簡単ですが、それをいざ実行に移そうとすると、必ず「与える」という現実の行為がともなうようになります。

多くの良心的な人々が、貧しい人に食べ物や衣服を与えています。たしかにそれも立派な利他愛の行為と言えますが、さして大きな犠牲がともなうものではありません。しかし利他愛を実践する際、場合によってはそれまで大切にしてきたものや、長い時をかけて築き上げてきた大切な宝を捨て去らなければならないようなことも起こります。金銭だけでなく、地位や名誉を犠牲にしなければならないような状況に立たされることもあります。この段階に至って、普段は“愛がある”と自負していた人間が突如、利己主義者へと変貌してしまうのです。

聖書に見る「金持ちの青年の話」

聖書に、次のような金持ちの青年の話が載っています。

「ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、“先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか”イエスは言われた。(中略)『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』この青年はイエスに言った。“それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう”イエスは彼に言われた。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい」この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」

『聖書マタイ19章』  16〜22節

ルカの福音書では、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』の言葉が、戒律の内容『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』という戒律として記されています。そしてこの若者が、「そうした戒めはすべて守ってきた」という内容になっています。

この金持ちの青年の話は、「自己犠牲」と「魂の救い」に関する本質的な問題を提起しています。人間は、利他的行為を通して霊的成長がなされるようになっています。そこでイエスは、貧しい人々のために自分の持ち物を売り払うように青年に要求しました。困っている人々のために自分の持ち物を売り払うという行為(犠牲)は、利他愛の実践として当然のことです。

しかしこの青年は、自分の利益を優先しました。イエスから「貧しい人々に分け与えるように」と言われても、自分の持ち物を捨てることができませんでした。相手のために、自分の持ち物を犠牲にする(与える)ことができなかったのです。結局この青年は、「自分を捨てる」という利他愛の実践に踏み出すことができませんでした。どこまでも自分の物質的利益を確保したうえで、永遠の生命(救い)を得ようとしたということです。「自分の生命を捨てようとする者はそれを得る」という「神の摂理(利他愛の法則)」に従うことができなかったのです。

偽りのボランティアと本物のボランティア

マザー・テレサの奉仕活動は多くの人々の心を打ちましたが、それは彼女の生き方が金持ちの青年のようではなく「利他主義」に徹していたからです。マザーは、自分の持ち物だけでなく、自分の人生のすべてを貧しい人々への奉仕のために捧げました。偽りのボランティア・自己満足のボランティアではなく、「自己犠牲」のともなった本物の利他的行為でした。現代人にとってマザー・テレサの生き方は特別なもののように映りますが、イエスの教えに忠実に従おうとするなら、それは当然のことです。

金持ちの青年の生き方は、すべて利己的な動機から発していました。相手のためにわずかな自己犠牲さえも払えないという事実によって、内面の不純さが露呈してしまいました。スピリチュアリストの誰もが「人類のために奉仕したい」と思っていますが、現実には多くのスピリチュアリストが自己犠牲を嫌がり、この金持ちの青年と同じ結果に終わってしまっています。日頃、愛の大切さを口にしてはいても、実際に自分を犠牲にすることができないのです。

自分を犠牲にする覚悟

シルバーバーチは――「自分を犠牲にする覚悟のできていない人間に、いい仕事はできません」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.243)と、犠牲精神の本質をずばりと突いた言葉を投げかけています。高級霊の教えは、私たち地上人にとって本当に厳しい内容ばかりです。その厳しさを前にするとたじろいでしまいますが、「自己犠牲」のともなわない利他愛など、現実には存在しません。「自分を後回しにする」という滅私的な生き方は、利他愛を実践するうえでごく当たり前のことなのです。

私たちは、口先で愛を唱えるようなスピリチュアリストになってはなりません。地球人類のために自分の利益をすべて犠牲にして働いている高級霊たちを裏切るようなことをしてはなりません。「スピリチュアリズム普及」のために自己犠牲を払うことほど、価値ある生き方はないのです。

「霊的真理の伝道」という最高の人類愛を実践するためには、大きな犠牲がともないます。スピリチュアリストは常に、自己犠牲の道を歩むことを覚悟しておかなければなりません。自己犠牲を避けたスピリチュアリズムへの貢献はあり得ないということを、肝に銘じておかなければなりません。そうでないなら、その人の言う“人類愛”は、口先だけのきれい事に終わってしまいます。

4)犠牲精神は、自己滅私・無私の姿勢となって表れる

犠牲精神と滅私的姿勢

利他主義(利他愛)は「神の摂理」です。したがって私たちが利他愛を実践するなら、宇宙の法則と一致し「霊的成長」が促されることになります。その利他愛は犠牲精神(喜んで自己犠牲を受け入れる姿勢)によっていっそう純化され、高められることになります。

犠牲精神は、滅私的姿勢・無私の姿勢となって表れます。犠牲精神と滅私的生き方・無私の生き方は、表裏一体の関係にあります。『シルバーバーチの霊訓』では、自己犠牲の重要性が繰り返し説かれています。「自己滅私」「無私」「自我を忘れる」といった表現によって、犠牲精神が明瞭に述べられています。

自分のことを忘れて他人のために

シルバーバーチは――「あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出すとき、あなた方を通して大霊が働くのです。(中略)それは無理ですとおっしゃるかも知れませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての正しい生き方だからです」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.68)と言っています。

ここで重要なのは、「自分のことを忘れて他人のために精を出す」という言葉です。シルバーバーチは、「自分のことを忘れて」、すなわち「滅私的な姿勢」で他人への奉仕に取り組むように教えているのです。

“滅私奉公”は最も賢い生き方

他人への奉仕のために、自分や家族の利益を犠牲にするようなことは、この世がすべてだと思っている人間には絶対にできません。しかし私たちスピリチュアリストは、一般の人々とは違っています。「霊的真理」を通して、死後にも人生が続くこと、本当の人生は霊界に行ってから始まるのであり、地上はそのための一時的な訓練場所であることを学んでいます。霊界こそが本来の世界であることを知っているのです。

自分の物質的利益を後回しにして、時には犠牲にして人々のために尽くすあり方は、神の願いに応えることであり、利他愛を実行することです。より多くの人々の幸せのために自分を犠牲にするところに、マイナスの結果が生じることは決してありません。それどころか、大きな霊的恵みと喜びが、神と宇宙から返ってくるようになるのです。

実際に思い切って実行すると、その通りの結果がもたらされます。それが「利他愛の摂理」です。自分を忘れて“スピリチュアリズム”のために貢献することは、最も賢い生き方であり、最も多くの愛を神から受ける方法であることを実感するようになるのです。

『シルバーバーチの霊訓』に見る自己滅私・無私の精神

自己滅私・無私の生き方について述べているシルバーバーチの言葉を引用します。

「いちばん大切なことは、他人のために己(おのれ)を捨てるということです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.246

「愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすらともなわずに、すべてのものを愛することができることです。(中略)なぜなら自我を完全に滅却しているからです。(中略)愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表れます。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.146

「互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。(中略)愛は己のためには何も求めないのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.150

「ところが不幸にして大半といってよい霊媒が(中略)、苦しむ者、弱き者、困窮せる者のために営利を度外視して我が身を犠牲にするところまで行きません。(中略)目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。」

『シルバーバーチの霊訓(6)』(潮文社)  p.84

「自己を滅却することによって実は自分が救われていることを知ることでしょう。(中略)多くを与える者ほど多くを授かるという因果律の働きの結果に他なりません。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)  p.24〜25

「実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.82

「霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。(中略)自己犠牲をともなう長くゆっくりとして根気のいる、曲がりくねった道です。己を捨てること――これが進化の法則です。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.83

「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)  p.180

聖書に見る犠牲精神

聖書の中でも同じように、自己滅私の生き方の重要性が述べられています。

「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」

『聖書マタイ16章』  24〜25節

マタイ10章(38〜39節)にも、これと同じ内容が少し表現を変えて記されています。

5)最高の自己犠牲は、家族愛を犠牲にすること

“最高の自己犠牲”――愛する人・愛する家族を犠牲にすること

利他的行為の真価は、どれだけ自己犠牲を払っているか、大切なものを犠牲にしているかによって決定されます。それは“愛”に関して言えば、「人類のために、どれだけ自分の愛する人・愛する家族を犠牲にしているか」ということになります。

一般的に自己犠牲と言えば、人生や財産などの犠牲が思い浮かびます。自分の時間や自分の財産(金銭・家屋敷)、娯楽や旅行が自己犠牲の対象とされます。これらを犠牲にして人助けの奉仕に携わっている人は、たしかに利他愛を実践していると言えます。

しかし“霊的人生”には、さらに厳しい自己犠牲の道が存在します。それが“愛”を犠牲にすることです。「愛する人を犠牲にする」――これこそが地上における最も厳しい自己犠牲なのです。愛する人とは、大半の人々にとっては“家族”を意味します。誰もが家族を愛し、無条件に大切に思っています。そのいちばん大切な宝を、人類のために犠牲にしなければならないことがあるのです。

聖書の中で、イエスは次のように述べています。

「おおよそ、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」

『聖書マタイ19章』  29節

「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。」

『聖書マタイ10章』  37節

ここに出てくる「私(イエス)」を、「神」あるいは「人類」に置き換えてみれば、スピリチュアリズムの犠牲精神そのものとなります。愛する者(家族)を、神・人類・信仰のために犠牲にすることは「真実の犠牲精神」です。世の中では、自分の家族の利益や幸福のために努力するのは当然のことですが、イエスはそうした一般的なあり方とは正反対のことを説いているのです。「霊的価値観」の観点から、最も本質的で重要なことを教えているのです。

家族への愛は「肉体本能」に由来しており、それは動物と何ら変わらないものであって「霊的価値」はありません。全体のため、全人類のために家族を犠牲にすることができて初めて、自己の狭い枠を超えて本当の利他主義、広くて深い利他愛の世界に入っていけるようになるのです。「霊界の道具」として歩むためには、たいへんな自己犠牲がともなうことを覚悟しておかなければなりません。自分を「霊界の道具」として捧げるということは、場合によっては愛する家族さえも犠牲にするということなのです。

スピリチュアリズムでは“家族”を大切なものとしていますが、それは世間一般で考えられているような意味からではありません。家族を重視する宗教・道徳・思想の多くが“血縁関係”に大きな価値を置いています。特に東アジアの儒教文化圏では、その傾向が強く見られます。しかしスピリチュアリズムでは、血筋や血縁には重要性を認めません。血縁関係は肉体レベルだけのつながりであって、そこには霊的要素や霊的結びつきがほとんどないからです。実際に血縁関係の多くが肉体の死とともに消滅してしまい、永遠性を持っていません。

6)犠牲精神は最高の道具意識を実現

自己犠牲を喜びとして受け入れられるようになったとき「犠牲精神」が確立し、霊界の道具としての意識が最も純粋なレベルに高められることになります。高次の道具意識が、その人間の心にしっかりと定着することになります。

霊界から地上に向けて最大の働きかけができるのは、地上人が無条件に霊界の人々に身を預け、自らを道具として捧げるときです。自己犠牲を喜んで受け入れ、道具としてすべてを捧げる決意をしたとき、霊界の人々はその人間を使って地球人類の救済活動を強力に推し進めることができるのです。高級霊たちは、犠牲精神のない人間を自分の道具として用いることはありません。

犠牲精神は「道具意識」を確立するための不可欠な条件です。スピリチュアリズムに関わる高級霊たちは、地上人が自己犠牲を喜んで引き受けることによって「犠牲精神」を確立し、自らを霊界の道具として捧げてくれることを願っているのです。

「必要とあらば喜んで身を捧げる用意のある、そういう協力者であってくれることを望みます。」

『シルバーバーチの霊訓(6)』(潮文社)  p.64

「あなたのような道具が“私はいつでも用意ができております。どうぞお使いください”と言ってくださるのをお待ちしている事実を、この目で見て知っているのです。(中略)真理が手引きするところならどこへでも迷わずついて行く用意があるという意志表示をしてくださらないといけません。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.64

「喜んで私たちに身をゆだねてくださる人以外に、道具とすべきものがないのです。(中略)こちらの世界では、使用に耐えられる人物の出現を今か今かと待ちうけている霊がいくらでもいるのです。私たちの方から、皆さんを待ち望んでいるのです。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.115

「もっともっと多くの人材――これが私たちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却する用意のできた、(中略)いかなる犠牲をも厭わない人材がほしいのです。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.115

渋々の自己犠牲ではなく、心から喜んで自己犠牲を引き受けられるようになるにともない、高級霊たちの強力な働きかけを受けて「最高の霊界の道具」となることができます。そして奇跡的とも言える大きな貢献のチャンスがもたらされるようになります。これが、私たちスピリチュアリストが目指すべき理想の姿なのです。

7)霊的視野を持つことによって、自己犠牲は喜びとなる

利他愛は「自己犠牲」がともなって初めて本物になることが分かりました。とは言え、犠牲を払うのは誰にとっても辛いことであり、本音では避けたいと思うものです。特に心霊が下がって視野が狭くなったときには、自己犠牲はきわめて辛い実践となります。

しかしどのような犠牲であれ、それが「利他愛」のためであるなら、決してマイナスにはなりません。それどころか、もっと大きな幸せにつながります。犠牲に見合った“霊的恩恵”が、必ずもたらされるようになっています。こうした「霊的真理」にそった見方・考え方をすることが、「霊的視野」を持つということです。

常に「霊的視野」から物事を眺められるようになると、「自己犠牲」は辛いものであるどころか、喜びに変わっていきます。初めは“仕方がない”と思ってイヤイヤ受け入れていた自己犠牲が、辛く苦しいものではなくなります。より多くの人々の救いや幸せに貢献できる喜びが心の中心を占めるようになり、“犠牲を払っている”という意識もなくなっていきます。そして自ら望んで、さらなる自己犠牲の道を求めるようになるのです。これほど素晴らしい生き方、価値ある人生はないことが実感できるようになるからです。自己の利益にとらわれることがなくなり、ひたすら自分を「霊界の道具」として捧げ、よりいっそう人類のために奉仕したいと思うようになるのです。

霊的視野と犠牲精神は、一体不可分の関係にあります。「霊的視野」という広い見方・考え方ができてこそ「自己犠牲」は喜びとなり、生きがいとなります。この意味で霊的視野は、犠牲精神の原動力と言えます。霊的視野とは、霊的真理にそった見方・考え方のことです。したがって絶えず霊的真理を読んで霊的視野を維持する努力を続けるなら、自らの内に「犠牲精神」が不動のものとして確立されることになるのです。