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立花隆氏が再び「臨死体験」の解明に挑む

――NHKスペシャル「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」

No.11/2014年11月5日

「臨死体験」を手がかりにして、臨終時の心の状態を探る

現代の日本における“知の巨人”として知られている立花隆氏――彼が徹底した取材をもとに執筆した著書『臨死体験』(1994年・文芸春秋社発行)は、今なお多くの日本人に読まれています。出版から20年経った今、立花氏は再び臨死体験を解き明かすために世界各地を訪ね、取材を行いました。その内容をまとめたドキュメンタリー番組「死ぬとき心はどうなるのか」が、9月14日、NHKで放送されました。

立花氏は、現在74歳です。7年前に膀胱ガンにかかり、今年になって再発と思われる病変が見つかりました。番組の冒頭で立花氏は、今回の取材について次のように語っています――「私は、そう遠くない時期に死を迎えるに違いありません。私が死ぬとき自分の心に何が起きるのか、そこを知りたいと思いました。臨死体験がその手がかりになると思い、改めてその現状を取材することにしました」。

20年前の取材は「臨死体験」という不思議な体験を解き明かそうという、ジャーナリストとしての動機からのものでした。しかし今回は“死”を目の前にした立花氏が、「自分の問題」として真剣な思いで臨死体験の解明に臨んだのです。

最先端の脳科学者を次々と取材

立花氏は、脳科学の最先端を行く研究者を次々と取材し、彼らの研究成果をもとにして「死ぬとき心はどうなるのか?」という、自分にとって切迫した問題を何とか解決しようと試みました。マサチューセッツ工科大学の利根川博士をはじめとする研究者たちはいずれも、脳科学で明らかにされたことが“真実”であるという前提に立ち、脳から独立した心(意識)の存在を論外としています。意識研究の革命を起こしたとも言われているウィスコンシン大学のトノーニ教授は、「意識が脳内で生まれるメカニズムを解明することによって、将来は意識を持った機械を人工的につくることも不可能ではない」と語っています。

脳科学に信頼を置いている立花氏は、「臨死体験はやはり脳内で起きる幻覚である」という最新の脳科学がもたらした成果に、多くの刺激を受けていました。しかし、トノーニ教授の最新理論に対して、「この理論が証明されれば、人間の心は死によって消滅することになる」としながらも、次のように語っています――「神経細胞の100兆ものつながりが生み出す意識の世界は、きわめて奥が深く複雑性の極致にあります。その深みを極めることは、最新の科学をもってしても到底できない、大いなる謎にとどまると思いました」。

番組では、立花氏が取材の合間に手術を受けたことを明かしています。手術後、立花氏は奇妙な長い夢を見ました。その夢は、「自分が取材してきた臨死体験者たちが見たものに似ていた」と述べています。氏は、臨死体験者が語る、光輝く世界で全知全能の大いなる存在に出会うという“神秘体験”に大きな関心を抱きました。そして、神秘体験の脳内メカニズムを研究しているケンタッキー大学のネルソン教授を訪ねました。

立花氏は教授から研究成果の説明を聞いたあと、「いったい、どうしてそんなことが起きるのか?」と質問しています。それに対して博士は「科学というのは、どのような仕組みなのかを追求するものであって、なぜそのような仕組みが存在するのかと問われても答えられない」と言っています。ネルソン教授は、科学による脳の研究は脳の働きについての事実を明らかにするものであり、それは「死後の心(魂)の問題」とは別であることを述べたのです。

アレキサンダー博士の「臨死体験」が意味する重要なポイント

この番組の中に、脳科学の一般的な見解とは真っ向から対立する2人のキーマンが登場しています。それが、エベン・アレキサンダー博士とレイモンド・ムーディ博士ですアレキサンダー博士については、2014年2月にこのコーナーで取り上げています。アレキサンダー博士は、世界でもトップクラスの脳神経外科医です。彼は6年前、細菌によって脳を侵され7日間、昏睡状態に陥りました。その間、脳の活動は止まり、生還できる確率は2%と診断されたのです。そうした状況の中で、臨死体験をしました。徹底した唯物論者だった博士は、自分の臨死体験を機に「霊魂説」を認め、「脳が心を生み出すという考えは間違っている」と主張するようになったのです。

アレキサンダー博士は、立花氏に自分の脳死状態のデータを示して「脳が働いていないときに体験したのだから、脳と心は別の存在だ」と断言しています。番組内で立花氏は、それについてのコメントは何もしていません。氏は、脳科学だけに固執するのではなく、科学的なデータに裏付けられたアレキサンダー博士の臨死体験を広い視野から柔軟に捉え、死後の世界はないとの“先入観”を離れて取材を進めるべきでした。特に、博士が臨死体験の中で、すでに他界している妹に出会ったことについて徹底して取材をしたなら、それまでの自分の考えに少なからず衝撃がもたらされ、脳科学による研究の限界を自覚するようになったと思いますアレキサンダー博士は臨死体験の中で、見知らぬ女性と出会い心から慰められました。死の淵から生還したあとで、その女性が一度も会わないまま他界してしまった実の妹であることを知ったのです)。立花氏ほど臨死体験について多くのケースに接している人間が、アレキサンダー博士の体験の突出した重要性を見過ごしたことは、残念としか言いようがありません。

立花氏は最新の脳科学の成果を認めながらも、さらなる答えを求めて、最後にムーディ博士を訪ねました。数十年ぶりの再会です。

「死後の世界」を信じるようになったムーディ博士

ムーディ博士は1970年代に臨死体験者からの聞き取り調査をまとめ、それを世界で初めて発表し、一躍注目を浴びました。23年前、立花氏が取材したときムーディ博士は、「死後の世界が存在する証拠はない」と述べています。しかしその後、うつ病にかかり自殺をはかって臨死体験をしました。それ以来、「死後の世界」を信じるようになったのです。

2人は久しぶりの再会を喜び、「死」や「死後の世界」について語り合いました。すでに死後の世界を確信するようになったムーディ博士は、死後の世界を容認できない立花氏を広い心で包んで話をしていました。ムーディ博士は―「当時は死後の世界を認めず、他の説明をこじつけようとしていました。しかしそれは、死後の世界があるとは明確に言い切れなかったので、認めることから逃げていたのだと思います」と述べています。それは、目の前の立花氏に、かつての自分を重ね合わせているかのような語りかけでした。

博士は自分の経験から、「死後の世界」についてどれだけ説明しても、今の立花氏を納得させることはできないことが分かっていました。死後の世界を受け入れるには、“信じる”という心の飛躍が不可欠です。したがって博士は、立花氏本人が死んで自分の目で確かめるまでは、「死後の世界」が存在するという事実を受け入れることはできないことを知っていたのです。そのため議論を避け、親が子供に接するように、終始、寛容な態度で臨んでいました。立花氏を包むような博士の語り口や様子が、とても印象的でした。ムーディ博士は、いつまでも唯物主義の枠から出ようとしない立花氏に向けて、一つ一つ言葉を選びながらメッセージを送っていました。しかし立花氏は、そうした博士の思いや配慮に全く気づいていないようでした。

ムーディ博士が最後に登場したことで、番組全体の公平性が保たれたように思います。しかし、番組の最初にアレキサンダー博士について取り上げたにもかかわらず、それが単なる紹介だけで終わってしまったことは、きわめて残念です。もし立花氏が、アレキサンダー博士の体験を深く掘り下げて考えることができたなら、氏の思索のテーマは、「臨終時の心」から「死後の世界の有無」に及んでいったのではないかと思われます。

「臨死体験」についての2つの見解

臨死体験に関する見解は、大きく分けて2つあります。1つは、臨死体験は「脳がつくり出す幻覚・脳の産物」とする脳科学による見解(脳内発生説)です。そしてもう1つは、宗教で言われてきたように「肉体とは別に存在している心(魂)が、あの世との境界に赴いてその記憶を持ち帰る現象」とするものです。

脳科学は唯物主義に立脚し、“脳が心を生み出す”という考え方を前提としています。立花氏は著書『臨死体験』の中で明らかにしているように、当初から“脳内発生説”に立っています。そのため番組は、20年前には分からなかった臨死体験の謎が、現在の最新の脳科学なら説明できるのではないか、という期待の中で進んでいきました。

番組で取り上げられていたアメリカの“国際臨死学会”の参加者の大半が、臨死体験を通して「人間の死後の存続」と「死後の世界の実在」を確信するようになった人々です。臨死体験によって、死ぬことを恐れなくなった人々です。そして今回の番組を見ていた多くの人々も、それと同じような考えを持っていました。視聴者は、番組の中で立花氏が最新の脳科学研究をたどることで、徐々に「人間の死後の存続」と「死後の世界の実在」を受け入れる方向に向かっていくのではないかと期待していました。しかし結果的に、その期待は裏切られました。そしてテレビ局や立花氏に、非難や憤慨の声が向けられることになりました。

番組の中では立花氏は、臨死体験に対する自分の考え方を明確にしていませんでしたが、氏のスタンスはどこまでも「死後の世界は信じない」「臨死体験は脳内の幻想体験に他ならない」というものです。これが立花氏の考え方の大前提であり、一貫したある種の信念なのです。

立花氏は、唯物的な多くの脳科学者と同じ立場に立っています。したがって立花氏の頭の中には、臨死体験によって死後の世界の存在を探求するといった発想は、初めからなかったのです。しかし臨死体験に関心を持つ多くの人々は、臨死体験は「一時的に死後の世界に赴いた人が戻ってくる体験であり、その間の記憶は、死後の世界(死後の世界と隣接した世界)のものである」と考えています。そのため死後の世界の存在を認めないという、立花氏の思索の前提を知らなかった人々は、的外れな期待を立花氏と番組に寄せてしまうことになりました。番組放映後の反響の大きさを考慮したためか、批判に対する反論のためか、立花氏はその後『週刊文春』(2014年10月30日号)の中で、「臨死体験」に関する自らの考え方を明確にしています。時間を置く中で、自分の思索の前提・スタンスを明確にすることの必要性に気がついたのかもしれません。いずれにしても番組を通して立花氏を理解していた人々は、テレビでの印象と『週刊文春』の内容から受ける印象の違いに、騙されたような感じを抱いたのではないでしょうか。)

もしテレビの視聴者が、番組の冒頭で立花氏の思索の前提を知ったなら、初めから番組に期待をしなかったことでしょう。番組を見ることを早々に切り上げてしまったかもしれません。こうした点で、番組には大きな問題がありました。アメリカの“国際臨死学会”を取り上げたり、締めくくりに死後の世界を認めるムーディ博士を取り上げたりしていましたから、番組の構成は「立花氏の思索の旅」の主旨――「唯物論者の立花氏が、臨終時の心の状態を探究する」とは明らかに矛盾しています。死後の世界の存在を信じるムーディ博士と会うことは、立花氏の思索の旅にとって、ほとんど意味がなかったことは明らかです。番組を見ていた視聴者は混乱し、何かしら裏切られたような後味の悪い印象を残したのではないかと思います。

初めから結論ありきの、立花氏の思索の旅

今回、立花氏は臨死体験を手がかりにして「死ぬとき自分の心はどうなるのか?」という、人間にとって本質的な問題を探究しようとしました。しかし氏は、最初から「死後の世界はない」「臨死体験は脳の幻覚である」という考えを大前提としていました。立花氏は“唯物主義”の枠から一歩も出ないまま、思索の旅を続けたのです。立花氏の頭の中には一貫して、死後の世界についての問題意識など存在していませんでした。死後の世界がないことを当たり前と考えていました。「死後の世界の有無」が立花氏の思索のテーマではなく、「死に臨むときの心の状態」がテーマだったのです。そしてその手がかりを、最新の脳科学に求めたのです。

これが番組の基本的構成だったのですが、その探究の糸口を「臨死体験」に求めたために、視聴者との間に食い違いが生じてしまいました。「臨死体験は死後の世界と関係がある」と信じる視聴者は、番組に間違った期待を寄せ、それが裏切られた形になってしまったのです。先ほども言いましたが、もし番組の冒頭で、立花氏が前提としている考え方を知ることができていたなら、誰も番組に間違った期待を寄せることはなかったでしょう。視聴者の何割かは、途中で番組を見ることをやめてしまったかもしれません。番組に騙されたような感覚を持つこともなかったはずです。立花氏は番組の中で、肝心な自分の考え方の前提(スタンス)を明らかにしていなかったために、視聴者の多くは、まさか立花氏が頭から死後の世界を否定する“唯物論者”だとは思っていなかったのです。

「死によってすべてが消滅する」と信じている立花氏にとって、思索の旅が「臨終時における心の状態」に行き着くことは当然です。死後の世界の実在を認めるスピリチュアリズムの立場から言えば、立花氏の思索の旅は“初めから結論ありき”の旅にすぎませんでした。それは「死後の世界はない」とする枠内での思索の旅であり、真実を探究する旅ではなかったのです。初めから結論は決まっていたのです。

「臨終時の心の状態」――それ以外には立花氏の思索の旅の終着点はありません。その終着点が「苦しみと恐れに満ちたものか」、あるいは「平安に満ちたものか」という点に関心は集約されます。そして立花氏は――臨終時には「人間は恐れではなく、平安な夢見心地の状態に入り、そのまま死を迎えるようになる」との結論に至ります。死は、不安から解放された平安(アタラクシア)の中で進行するのだから何も心配する必要はない、ということになったのです。

立花氏は、死後の世界を否定する立場に立って、「臨死体験」を手がかりに思索の旅を出発しました。当然、最後まで死後の世界を認めることはありませんでした。立花氏の思索の旅の結論は、臨死体験者の多くが素晴らしい死後の世界を信じるようになり、死の恐怖から解放されるようになるのとは全く違っています。この点こそが、立花氏とアレキサンダー博士やムーディ博士との根本的な違いだったのです。

スピリチュアリズムの立場から見れば、頑なに“唯物論”に固執する立花氏の姿は、哀れとしか言いようがありません。“知の巨人”と言われるほどの才能に恵まれながら、的外れなことに人生を費やしてしまっているからです。

「臨死体験研究」の限界―――臨死現象研究より「心霊現象研究」こそが重要

臨死現象の研究からは、「死後の世界」が存在するかどうかの明確な結論を導き出すことはできません。臨死体験を「脳の産物」とする見解を覆すことはできません。スピリチュアリズムの観点からは、臨死現象(臨死体験)の研究は、超心理学と同じく死後の世界の実証実験としては、ある意味で時代遅れと言えます。

「死後の世界の有無」や「死後の霊魂の存続」を検証するには、臨死現象研究ではなく「心霊現象研究」でなければなりません。特に「霊界通信」の探究を通してしか、明確な結論を導き出すことはできません。霊界通信は、すでに他界している“霊”が霊媒を通して地上の家族や知人にメッセージを送ってくるという現象です。霊界にいる“霊”から送られてきたメッセージの内容を検証すると、その中に「通信を送ってきた“霊”と地上の家族や知人しか知らない情報」が含まれています。その事実からストレートに「死者はあの世で生きている」ということが証明されるのです。

スピリチュアリズムでは、100年以上も前からこうした形で「心霊研究」が行われてきました。そして送られてきたメッセージは「死後の世界」にいる“霊”からのものとしか考えられない、という数多くの証拠を積み上げてきました。アレキサンダー博士の臨死体験が大きな話題となったのは、それと同じような臨死体験のケースだったからです。

アレキサンダー博士は、脳死状態において臨死体験をしました。その状態で博士は、地上では一面識もないまま他界していた妹に会うことになりました。臨死体験中に、ある女性(霊)と出会い、覚醒後、それが実の妹であったことを知り、死後の世界を認めるようになりました。脳死状態の中で、すでに亡くなっていた実の妹に会ったという動かしがたい証拠によって博士は、死後の世界の実在を信じざるをえなくなったのです。この点こそが、臨死体験そのものよりも重要なことなのです。

“アタラクシア”より、喜びと感謝の中で死を待ち望む

どこまでも死後の世界の実在を認めない立花氏の思索の旅は、臨終時の“アタラクシア(心の平安)”という結論に到達しました。立花氏は「心の平安を持って死ねるなら、死は怖いものではないという心境に至った」と語っています。それは氏が、脳科学による裏付けから導き出した結論ですが、「死後の世界」の存在を事実とするスピリチュアリズムでは、そうした解釈は必要ありません。

シルバーバーチは――「死は地上人生の褒美として神が与えたものである」と教えています。“死”は、苦しみの多い地上人生を生き抜いたことに対する、神からのご褒美なのです。死後の世界が素晴らしい所であることが分かれば、おのずと死への不安や恐怖はなくなり、死を楽しみに待つようになります。

立花氏もいずれ“死”を迎え、死後の世界の存在を“事実”として認識するようになります。今のまま他界するなら立花氏は、霊界において脳科学は人間にとって最も重要な死の問題に対する回答(真実)を何ひとつ明らかにしていなかったことを知り、「自分はずいぶん遠回りをしてきた」と、つくづく実感することになるでしょう。そしてその時、生前、ムーディ博士が本当に言いたかったことが何であったのか、理解するようになるはずです。

立花隆氏へ――私たちスピリチュアリストの願い

私たちスピリチュアリストの本心を言うなら、特別な知的才能に恵まれた立花氏には、今後、臨死体験の探究から「心霊現象の探究」へと歩みを進めていただきたいと思っています。残された地上人生を、スピリチュアリズムの心霊現象を探究するために費やしていただきたいと願っています。

立花氏の心には、霊媒や心霊現象に対する拭いがたい不信感があることはよく知っています。恐山のイタコを前にして、半日もの時間を、その観察に当てたことも知っています。また“霊媒”と言うと、テレビや書籍で低俗な関心の対象となっている江原氏のような人物を真っ先に思い浮かべ、ますます不信感と軽蔑の思いを強くしたであろうことも推察できます。その江原氏が“スピリチュアリスト”を名乗っていることで、スピリチュアリズムへの不信感が増幅されるようになったことも承知しています。

しかし、スピリチュアリズムほど「死後の世界の探究」に真剣に取り組んできたものはありません。多くの一流の知識人がスピリチュアリズムに関わりを持ち、死後の世界の探究に人生を捧げてきました。

その一方で、江原氏のようにスピリチュアリズムを唱えながら、ニセの霊能力を売りにして人々を騙すペテン師が横行してきたことも事実です。残念なことに、ニセ霊能者と利害を共有する出版社やテレビ局が、その不正に加担してきました。さらに軽薄な知識人がニセ霊能者を持ち上げ、彼らの詐欺的行為に拍車をかけてきました。

今、売り出し中の東京大学の教授・矢作直樹氏も、そうした軽薄な知識人の一人です。立花氏は『週刊文春』(2014年10月30日号)の中で、江原氏と意気投合している矢作氏を一刀両断に切り捨てていますが、それは私たちも同じ思いです。

こうした現状にあって私たちは、日本の宝とも言うべき立花氏には、心霊現象(霊媒現象)には“ニセモノ”が圧倒的に多いけれど、スピリチュアリズムでは一流の科学者によって真摯な研究がなされ、数ある心霊現象の中から一部の本物を見いだしてきた歴史があることを知っていただきたいと思っています。恐山のイタコやテレビに出演する低俗なニセ霊能者によって判断することなく、「本物の霊媒・霊能者」について徹底して究明していただきたいと考えています。そうすれば必ずや、立花氏の知性に納得を与えるだけの実証性に富んだ事例が多くあることを確信していただけるはずです。

立花氏には、日本における“知の巨人”から「心霊研究の巨人・心霊研究の第一人者」になっていただきたい。日本のハンネン・スワッファーになっていただきたい。英国フリート街の法王と呼ばれたハンネン・スワッファーが、生涯をスピリチュアリズム普及のために捧げたように、立花氏にも、日本を代表するジャーナリストとして「死後の世界の真実を探究」するために、今後の人生を捧げていただきたいと心から願っています。