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イエスの本来の使命と、生前のイエスの教え

――イエスは生前、どのような教えを説いたのか

No.37/2021年4月5日

イエスは生前、どのような教えを説いたのでしょうか。キリスト教の創始者がイエスであることは、誰もが知っています。そして大半の人が、キリスト教の教義はイエスの教えからつくられた、と考えています。イエスが生前に説いた教えとキリスト教の教義は一致している、と思っています。ところがそうした常識的な考え方は、全く間違っているのです。イエスが説いた教えとキリスト教の教義は、その本質も、その目的も、根本的に違っています。キリスト教の教義は、イエスの意図から外れた人工的な教えなのです。

イエスの生前の言動を知ることができる唯一の情報源は、4つの福音書とされています。しかし、それらの福音書はイエスの死後、イエスに会ったこともない人間が、口伝えの情報に基づいて記したものです。それを使徒の名前で出した文書であって、ある意味で偽書と言うべきものなのです。

生前、イエスが説いた教えの中心テーマは“愛”でした。キリスト教はしばしば“愛の宗教”と呼ばれますが、それはイエスが愛の重要性を説いたことに由来します。しかし、キリスト教の教義では、イエスが説いた“愛の教え”は片隅に追いやられてしまいました。キリスト教が歴史上、実際に行ってきた行為は、イエスの愛の教えに反することばかりです。その非道さは、愛の宗教からは程遠いものです。現実のキリスト教は、イエスが強調したような“敵をも愛する宗教”ではなく、“敵を憎み、敵を許さず、敵を滅ぼすまで戦う宗教”だったのです。「イエスの教え」と「キリスト教の教え(教義)」は、全く違っています。キリスト教の教義は、およそイエスの教えとは言えません。キリスト教は、イエスの意思に反する宗教なのです。

今回は、イエスの生前の教えが何であったのかを示し、それがイエスの死後につくられたキリスト教の教義とは異なるものであることを明確にしていきます。両者の違いを浮き彫りにするためには、イエスの生前の教えが何であったのかを知ることが不可欠です。

(1)キリスト教におけるイエスと、スピリチュアリズムにおけるイエス――イエスに対する、キリスト教とスピリチュアリズムの見解の違い

キリスト教にとってのイエスと、スピリチュアリズムにとってのイエス

キリスト教とスピリチュアリズムは、2千年前に地上に誕生したイエスと深い関係があります。キリスト教とスピリチュアリズムはともに、イエスを人類の歴史上、最も重要な人物と考えています。

キリスト教にとってイエスは、キリスト教の創始者であり、人類を罪から救う救世主です。そして三位一体の神そのものです。キリスト教はイエスから始まり、2千年かけて地球上に広まり、世界最強の宗教として人類に君臨することになりました。一方、スピリチュアリズムにとってイエスは、スピリチュアリズム運動の創始者であり、総指揮官であり、最高責任者です。「霊的真理」を地球上に普及させ、人類を悲劇から救いだそうとする救済運動(スピリチュアリズム運動)は、イエスによって興されたものです。そのスピリチュアリズムは現在、霊界からの働きかけの中で広がりを見せています。スピリチュアリズムに関わる動きのすべてが、イエスから発しているのです。

地上におけるスピリチュアリズム運動の歴史はさほど長くはありませんが、霊界では、イエスを頂点とする高級霊の組織体制のもとで、長い期間をかけて準備が進められてきました。そして19世紀の半ばに至って、スピリチュアリズム運動は地上で展開を始めるようになったのです。今、地球を取り巻く霊界では、イエスを中心として高級霊たちが総動員体制でスピリチュアリズム運動を展開しています。

このようにキリスト教とスピリチュアリズムはともに、イエスを最高の存在としていますが、イエスに対する考え方と関わり方において根本的に違っています。

スピリチュアリズムは、キリスト教の「贖罪論」を認めない

2千年の間、クリスチャンは――「イエスは人類の原罪を背負い、人類の身代わりとなって十字架刑を受けることで贖罪(しょくざい)をなし、人類を救済することになった」と信じてきました。キリスト教会は、罪人(つみびと)である人間は、イエスによる贖罪の死と、イエスの復活(死からの蘇(よみがえ)り)を信じることで救われるようになる、と教えてきました。これがキリスト教の「贖罪の教義」です。イエスを、贖罪を通して人類を救済する“キリスト(救世主)”であると信じることが、キリスト教における最も重要な信仰内容となります。

しかし、スピリチュアリズムは、そうしたキリスト教の考え方(贖罪論・キリスト論)を根底から否定します。イエスを、贖罪を通して人類を救済するメシアであるとするキリスト教の教義を、霊的根拠のない偽りの人工的な教えであると断言します。そしてその間違いは、死後の世界において「霊的事実」として明確に知ることになります。

イエスは贖罪によって人類を救済するために、2千年前に地上に誕生したのではありません。イエスは十字架の死によってキリストとしての使命を果たすために、地上に誕生したのではありません。イエスは、そんなこと(贖罪による人類救済)のために地上に生まれてきたのではありません。キリスト教の「贖罪論」は、イエスを貶(おとし)める偽りの教義・邪悪な教義です。

キリスト教は、イエスの真実を捻(ね)じ曲げ、間違った人工的な教義によって人類を“霊的牢獄”に閉じ込め、地球上にさまざまな悲劇を引き起こしてきました。その意味でキリスト教は、“人類の敵・イエスの敵”と言えます。生前、イエスが説いた教えはキリスト教によって歪(ゆが)められ、間違った教え(教義)にすり替えられてしまいました。

キリスト教は、その根幹教義である「贖罪論」を否定するスピリチュアリズムを最大の敵とし、サタンの手先と決めつけて激しい非難を繰り返してきました。

(2)間違ったイエスのイメージをつくり上げたキリスト教

1)聖書を通して、“イエスの真実”を知ることはできない

聖書を、間違いのない“神の言葉”と信じるキリスト教徒

キリスト教は、イエスの教えや使命は、聖書の中に示されていると言います。イエスの使命は、キリストとして人類を救済することであると教えてきました。イエスは自ら十字架の死を受け入れることで人類の罪を贖(あがな)い、人類を救済することになったとしてきました。そしてさまざまな“奇跡の業”を通して、イエスがキリストであったことが示されたと言います。特に死からの蘇りである「復活」は、最大の奇跡であり、まさにイエスがキリストであったことを証明する歴史的出来事だと主張します。

イエスは磔刑(たっけい)で死を迎えた後、3日後に復活しました。弟子たちの前に生前の姿を取って現れ、弟子たちに語りかけ、弟子たちと一緒に食事までしました。死者が蘇り、生前の姿を取って現れるというようなことは奇跡以外の何ものでもなく、そうした奇跡が発生したのはイエスが唯一の神の子であり、メシアであったからだと言うのです。

聖書を通して、イエスの教えや使命を知ることはできない

キリスト教徒は、イエスの生涯やイエスの言動は、聖書(福音書)の中に記されているとします。しかし、生前のイエスを知るための唯一の情報源とされる福音書は、最近の聖書学研究によって、イエスの死後、後世の人間によって創作された文書であることが明らかにされています。イエスと会ったこともない人間が、口伝えに入手した情報をもとに、福音書の原典にあたる文書を記したのです。

そうしてつくられた原書(ギリシア語のオリジナル)が、さらに別の人間によって次々と写本(コピー)されていきました。その写本の過程で、神話や他の宗教の内容が取り入れられ、原書の中身は大きく変化していきました。私たちが今、手にしている新約聖書(福音書)は、このようにしてでき上がったものなのです。新約聖書の中に、イエスが言ったとする記述があっても、本当にイエスが言ったかどうかは分かりません。

こうした状況を、シルバーバーチは次のように述べています。

「あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーにすぎません。そのうえ、原典にないことまでいろいろと書き加えられています。

初期のキリスト教徒は、イエスがすぐに再臨すると信じていました。そのためイエスの地上時代の詳細について、誰も記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないため、ついに諦めて記憶をたどりながら書き記すことになったのです。“イエス曰く……”と書いてあっても、実際にイエスがそう言ったかどうかは分かりません。」

『シルバーバーチの教え(下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.114

「バイブルの中にある言葉のすべてがイエスによって語られたものではなく、その多くは後世の人間が書き加えたものです。“イエスがこう語った”と言っても、あなた方がそう思っているだけのことです。」

『シルバーバーチの教え(下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.134

「バイブルの中には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはなりません。」

『シルバーバーチの教え(下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.115

「イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、そのうえかなり改ざんされていることを忘れてはなりません。」

The Spirit Speaks

福音書を通して、イエスの生前の真実を明らかにすることはできません。イエスのありのままの姿を知ることはできません。もちろん福音書の記述のすべてが創作というわけではなく、その中には、実際に生じた出来事やイエスが語ったと思われる内容も含まれています。とは言っても、新約聖書を通して、イエスの生前の姿を客観的に明らかにすることはできません。聖書は、信頼に足る歴史書とは言えないのです。そのため現在に至るまで、イエスに関する真相の多くが謎に包まれたままになってきました。

2)イエスの使命を勝手に創作したキリスト教――贖罪によって人類が救済されるとしたキリスト教

イエスに付き従った弟子(使徒)たちの誰ひとりとして、イエスの本当の使命を悟ることはできませんでした。イエスは自分の使命が誰からも理解されない中で磔刑に処せられ、死ぬことになりました。弟子たちは巻き添えを恐れて、イエスを見捨てて逃げ去りました。その後、弟子たちは「復活」という奇跡に直面し、イエスはユダヤ教で予言されていた“メシア”であったと確信することになりました。そして心を入れ替えて、イエスの命(めい)に従って布教活動に邁進することになったのです。とは言っても、弟子たちはイエスの本当の使命を分かっていなかったため、イエスの真意が正しく伝わることはありませんでした。間違ったイエスのイメージが、地上に広まることになってしまいました。

弟子たちの命懸けの伝道活動を通して、キリスト教はローマ帝国内に広まり、やがて各地にキリスト教徒によるグループがつくられるようになりました。その中で最も多くの信者を抱えたローマ地方のグループが、キリスト教世界の指導権を握るようになり、それが後にローマ・カトリック教会につながっていくことになります。

こうした流れの中で、イエスは贖罪によって人類を原罪から救済するキリストであるという「贖罪論・キリスト論」が形成されていきました。「贖罪論」に基づくイエス像がつくり上げられ、イエスの贖罪を信じることによって救済されるとするキリスト教が形成されることになったのです。それがその後、人々の魂を“霊的牢獄”に閉じ込め、さまざまな災いをもたらすことになりました。

シルバーバーチは、次のように述べています。

「ナザレのイエスは、そんな目的(贖罪)のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるべきか、いかにすれば内部の神性を顕現させられるかを教えるために地上界へ降りてきたのです。キリスト教の神学は、地上世界にとってまさしく“災いのもと”です。」

『シルバーバーチの教え(下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.152

イエスを神とする「三位一体論」の成立

キリスト教が拡大する中で、キリスト教の教義がつくられていきました。キリスト教の教義は、イエスの贖罪によって人類の罪が許され救われるという「贖罪論」と、イエスは「三位一体の神」であるという内容によって構成されています。「贖罪論」と「三位一体論」が、キリスト教の教義の2つの柱です。キリスト教はイエスを、贖罪によって人類を救済するキリストであり、人間ではなく神であるとしたのです。

しかし、これらはどちらも「霊的事実」とは異なる間違った教えです。

(3)“イエスの生前の使命”を明らかにしたシルバーバーチ

シルバーバーチによって初めて明らかにされた“イエスの真実”

スピリチュアリズムでは、イエスの真実を「霊的事実」に基づいて明らかにしてきました。霊界の事実を知ることは、地上人には不可能です。そのためイエスの真実は長い間、謎に包まれてきました。イエスの真相を知るためには、霊界にいる高級霊によって「霊的事実」を示してもらうことが唯一の方法となります。霊界における事実こそが、イエスの真実・真相そのものなのです。

『シルバーバーチの霊訓』には、霊界で実際にイエス本人と会っているシルバーバーチを通して、イエスについての真実が示されています。霊界では年に2回、地上人類の救済活動に携わる指導霊が集結し、大審議会が開かれます。その大審議会の主宰者がイエスです。高級霊は大審議会に参加して、イエスと直接会えることを最大の喜びとしています。シルバーバーチをはじめとする高級霊は、イエスと触れ合い、言葉を交わす中で力を得て、再びスピリチュアリズム普及のために地上に戻ります。

シルバーバーチは霊界で、イエスと直接会うことが許されている超高級霊であり、イエスときわめて身近で密接な関係にあります。そのシルバーバーチによって、イエスの霊界での様子や、地上時代のイエスの様子が具体的に知らされています。言うまでもなくそれは、これまで地上の宗教では全く知ることができなかった事柄ばかりです。私たちはシルバーバーチを通して、イエスについての真実を知ることができるようになったのです。『シルバーバーチの霊訓』の中には、地上人類に初めて明かされた“イエスの真実”が述べられています。

シルバーバーチが明らかにする、イエスの本当の使命

霊的事実に照らしてみれば、イエスの使命は、キリスト教が主張してきたような贖罪による人類救済ではないことが分かります。キリストとして人類の罪を贖い救済することがイエスの使命であることを示す霊的事実は、霊界には全く見当たりません。キリスト教が説いてきたような“サタン”や“人類始祖の堕落”やそれによる“原罪の発生”といったことを示す霊的事実は、どこにも存在しません。地上時代、熱心なキリスト教徒(聖職者)であった霊を呼び出して尋ねてみれば、例外なく「サタンはいない、原罪はない」と言います。

スピリチュアリズムの到来にともない、シルバーバーチを通してイエスに関するさまざまな真実が明かされることになりました。イエスの真実を知っているシルバーバーチは、イエスの生前の使命についてどのように言っているのでしょうか。「イエスの使命とは何か? イエスは何のために2千年前に地上に誕生したのか?」――それについてシルバーバーチは、何と言っているのでしょうか。

シルバーバーチは人類史上初めて、イエスの地上での使命を明らかにしました。シルバーバーチは霊界で、イエス自身に直接確認したうえで、その答えを示しています。幸運なことに私たちスピリチュアリストは、“イエスの使命”という地上人類にとって最も重大なテーマについての答えを知ることになったのです。

イエスの使命は、ユダヤ教の中に埋もれてしまった「基本的な真理」を掘り起こすこと

シルバーバーチは、イエスの使命に関して次のように述べています。

「イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説のがれきの下に埋もれて無視されていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。」

The Seed of Truth

ここで言及している「基本的な真理」こそ、イエスが生前、人々に伝えようとした教えだったのです。では、ユダヤ教の中でがれきの下敷きとなっていた「基本的な真理」とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか。シルバーバーチは、この基本的な真理が、ユダヤ教の聖典の中に含まれていることを示唆(しさ)しています。

さらにシルバーバーチは、次のような意味深いことを述べています。「イエスの教えは最高であると思われますか?」との質問に対して、シルバーバーチは――「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言っているのは、説かれた教えの本質は、他の多くの教えと同じものだということです。」(The Seed of Truth)

この言葉は、イエスが説いた教え(基本的な真理)は、ある意味でありふれた真理であったということを意味しています。シルバーバーチは、イエスの生前の教えは、これまで誰も知らなかったような特別な真理ではない、と言っているのです。

イエスの使命が分からなかった弟子たち

イエスの使命は、ユダヤ教の中に埋もれていた「基本的な真理」を掘り起こすことでした。そしてその基本的な真理をもとに、人々に正しい生き方を示すことだったのです。しかし、イエスに付き従って布教に携わった12弟子も、またイエスを神の子と思ってその周りに集まってきた多くの人々も、誰ひとりとしてイエスの本当の使命を悟ることはできませんでした。

さまざまな奇跡の業を見て、“イエスは唯一の神の子であり、メシアに違いない”と思う人はいましたが、彼らが考えるメシア(キリスト)とは、ローマの圧政からユダヤを解放するイスラエルの王・地上の王としての存在でした。彼らは、イエスの使命を全く理解することができませんでした。12弟子たちは、イエスがやがてイスラエルの王としてこの世を治めるときには、自分たちもそれぞれ重要な役目につけるようになると考えていました。それを期待して、イエスに付き従っていたのです。

弟子たちは、自分たちのうちで誰がいちばん師の心に適(かな)い、やがてくる神の国で最も高い地位につけるかを言い争っていました。それを聞いたイエスは、次のように諭(さと)します。

「あなた方の知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。かえって、あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである。」

(マルコ10章・42節〜45節)

マタイ20章・25節〜28節に、同じような言葉が記されています。)

別の時に、弟子たちがイエスのもとに来て言いました。「いったい、天国では誰がいちばん偉いのですか?」――それに対してイエスは、次のように答えます。

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国ではいちばん偉いのである。」

(マタイ18章・3節〜4節)

また、弟子たちが“誰がいちばん偉いか”と互いに論じ合っていたのに対し、イエスは12弟子を呼んで、次のように言います。

「誰でもいちばん先になろうと思うならば、いちばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない。」そして一人の幼な子を取り上げて、彼らの真ん中に立たせ、それを抱いて言われた。「誰でも、このような幼な子の一人を、私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私を受け入れるのではなく、私をおつかわしになった方(神)を受け入れるのである。」

(マルコ9章・35節〜37節)

イエスは心から弟子たちを愛していました。しかし、弟子たちのあまりの理解力の乏しさに、何度、がっかりしたことでしょうか。それが、イエスに孤独と焦りをもたらしたことは言うまでもありません。イエスは時々、一人で寂しい所に出かけて、神に祈りを捧げていました。聖書の中には、イエスが弟子たちに“信仰の薄い者たちよ”と、厳しい言葉を投げかけたことが記されています。そこには、イエスの焦るような心の内がよく表れています。

(4)イエスが生前、明らかにしようとした教え(基本的な真理)とは

イエスの使命は、ユダヤ教のがれきの中に埋もれてしまった基本的ないくつかの真理を掘り起こすことでした。では、イエスが掘り起こそうとした「基本的な真理」とは、どのようなものだったのでしょうか。

実は、その基本的な真理が聖書の中に示されているのです。

イエスが人々に教えようとした「基本的な真理」とは――“神と隣人への愛”

すでに見てきたように、聖書は生前のイエスの真実を知るには、あまりにも信頼できない書物です。聖書の内容の多くが、人間の勝手な想像によってつくられたものです。

しかし、その中には部分的に、実際に生じた出来事やイエスが語ったと思われる言葉が含まれています。じっくり聖書を読んでいくと、イエスが生前、人々に教えようとしていた「基本的な真理」が何であったのかが浮き彫りになってきます。それを聖書の言葉の中から見ていくことにします。

「ひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した。「先生、律法の中で、どの戒めがいちばん大切なのですか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣(とな)り人(びと)を愛せよ』。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている。」

(マタイ22章・35節〜40節)

「ひとりの律法学者がきて(中略)、イエスに質問した。「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれである。『イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ一人の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事な戒めは、ほかにない。」

(マルコ12章・28節〜31節)

「ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った。「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」彼に言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか。」彼は答えて言った。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。」彼に言われた。「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる。」

(ルカ10章・25節〜28節)

3つの共観福音書に共通して述べられているところから、(表現上の多少の食い違いはあっても)ここで示した内容は、イエスが実際に語ったものと推測できます。それを通して、イエスがユダヤ教の教え(律法)の中で、「神を心から愛すること」と「自分自身を愛するように隣人を愛すること」を最も重要視していたことが分かります。

したがってシルバーバーチが指摘した、イエスがユダヤ教の中から掘り起こそうとした「基本的な真理」とは、この「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という教えであると言えます。そしてその教えを実践することの大切さを、イエスは説いたのです。イエスが生前、人々に伝えようとしたのは、“神と隣人を愛する”というシンプルな教えだったのです。

旧約聖書(律法)の中には、イエスが述べた“愛”に関連する箇所があります。熱心なユダヤ教徒であったイエスは、旧約聖書に示されている言葉を引用する形で、さまざまな教えを説いています。旧約聖書(律法)には、ユダヤ教の戒めの一つとして“神への愛”と“隣人への愛”が示されています。イエスは多くの戒め(律法)の中から、愛こそが最も重要であると「愛の優位性」を主張し、愛を最高位に位置づけしたのです。この点で、イエスは一般のユダヤ教徒と違っていました。

「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」

(旧約聖書レビ記19章・18節)

「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない。」

(旧約聖書申命記6章・5節)

律法の中で、愛を最高のものとしたイエスの教え

イエスがいた頃のユダヤ人社会では、律法主義が支配的になっていました。ユダヤ教の聖典の中に示されている律法の諸規定(さまざまな決まり事)を厳格に守ることが、信仰者としての正しいあり方とされていました。律法主義が徹底され、日常生活のあらゆる部分が律法(規則)に支配され、人々は律法にがんじがらめに縛られていました。人々は律法を恐れ、律法を守ることだけに意識を向け、それが正しい信仰とされていました。その結果、人々の魂は“霊的牢獄”の中に閉じ込められてしまいました。

イエスはそうした律法主義が支配するユダヤ人社会の中で、ユダヤ教を改革する方向を示そうとしたのです。イエスは、マルコ書の中で次のような言葉を述べています。これは、実際にイエスが語った言葉であると推測されます。)

「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

(マルコ2章・17節)

ここで述べられている“義人”とは、律法の諸規定を厳格に守っている人々のことユダヤ教の祭祀長や律法学者など)で、“罪人”とは、義人から律法を守っていないと非難され、社会から疎外されている貧しい人々を指しています。

イエスはまた、次のようにも言っています。

「すべて外から人の中に入って、人を汚しうるものはない。かえって、人の中(心)から出てくるものが、人を汚すのである。」

(マルコ7章・14節)

マタイ15章・11節に、同じような言葉が記されています。)

これはユダヤ教の食物規定にとらわれる必要はない、という表明ですユダヤ教では律法によって、食べてよいものと悪いものが厳しく区別されています)。イエスのこの言葉は、律法学者には、律法に反する言葉・律法を無視する言葉として映ったことでしょう。こうしてイエスは、当時のユダヤ人社会を支配していた律法主義に異を唱えたのです。

イエスはユダヤ教のさまざまな戒め(律法)の中で、“愛”こそが最も重要な律法であることを説きました。そして“愛の実践”によって、律法が全うされることになるとしたのです。

“隣人愛”を“人類愛”にまで高めたイエスの愛の教え――「民族宗教」から「世界宗教」へ

イエスは、律法に示された戒めの中で、神への愛と隣人への愛を実践することを最重視する“愛の教え”を説きました。イエスの教えはすでに、ユダヤ教という「民族宗教」の枠を超えて、人類普遍の「世界宗教」という領域にまで進んでいました。ユダヤ人の救いを超えて、人類全体の救済を目指すものとなっていました。熱心なユダヤ教徒であったイエスは、ユダヤ教という民族宗教を乗り越えて、人類全体を対象とする世界宗教への方向性を示すことになったのです。

それを表しているのが、イエスの次の言葉です。イエスが説いた“隣人愛”の教えは、“敵をも愛する”という究極の教えにまで次元を高めています。

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなた方の聞いているところである。しかし、私はあなた方に言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなた方の父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである。あなた方が自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか。」

(マタイ5章・43節〜46節)

ルカ6章・27節〜35節に、同様の内容が記されています。)

この言葉は、イエスの説く愛が、徹底した“利他性”に基づく愛であることを示しています。イエスの言葉は、個人主義に染まった現代人には、あまりにも高い理想として映ります。観念的な理想主義のように思われます。イエスは、理想とも言えるような「完璧な利他愛実践の基準」を示したのです。完璧な利他愛は、神を共通の親とする強い同胞意識があって初めて可能となるものです。神のもとにおける全人類の“完全平等・完全公平”の思想を土台としてのみ、“敵をも愛する”という究極の利他愛が可能となるのです。

このイエスの言葉は、愛の対象がユダヤ人の枠を超えて、人類全体に及んでいることを示しています。ユダヤ教の中における“隣人”とは、ユダヤ教を共有するユダヤ民族を指しています。“敵”とは、ユダヤ民族を攻撃する人間や国を意味しています。イエスは、そうしたユダヤ人を攻撃する人間をも愛の対象としたのです。“敵をも愛する”という言葉は、ユダヤ人ではない人間をも愛せよ、という人類愛の教えなのです。

ユダヤ教はどこまでも、ユダヤ人の救済を目指す宗教です。ユダヤ人こそ、神に選ばれた救済されるべき民族であるとする宗教です。イエスの言葉は、ユダヤ人を超えて、すべての人間に向けられています。こうしてユダヤ教の“隣人愛”は、イエスによって世界中の人間に向けての愛――すなわち“人類愛”になったのです。イエスの愛の教えは、“人類愛”という普遍的な愛にまで高められたのです。

イエスの言葉は、すべての人間・すべての民族の救いを目指すものです。ユダヤ教の選民思想が、全人類に共通する平等な思想へと昇華しています。こうしてユダヤ人の救いを目指す宗教(ユダヤ教)は、イエスによって人類全体の救済を目指す宗教に高められることになりました。ユダヤの民族宗教は、イエスによってキリスト教という「世界宗教」として広まっていくことになったのです。

“愛の実践”を強調するイエスの教え

イエスは、自分の説教を喜んで聞いても、それを実践しようとしない者を非難し、厳しい言葉を投げつけています。

「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいます我が父の御旨(みむね)を行う者だけが、入るのである。」

(マタイ7章・21節)

「私を主よ、主よ、と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」

(ルカ6章・46節)

イエスは日常的な譬(たと)えを通して、人々に教えを説きました。この言葉の中で、イエスが言っている父(神)の御旨とは、イエスが強調してきた“神と隣人への愛”を指していると考えられます。イエスは、愛は口で言うだけでなく、実践を通して示さなければならない、実践がともなわなければ愛は本物にはなり得ない、ということを主張したのです。この言葉には、イエスの愛の教えが徹底した“実践主義”に基づくものであることが示されています。

(5)スピリチュアリズムと同じ、イエスの愛の教え

愛を最高のものとしたイエスの教え

キリスト教の間違いを知ることになった一人の人間(元牧師)が、シルバーバーチの交霊会に参加して、次のような質問をしています。「そんなキリスト教なら、いっそのこと世界中に広がらなかったほうがよかったと考えられませんか?」――それに対してシルバーバーチは、次のように答えています。

「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、多くの人生の師が説いているのと同じシンプルな真理を説いていたのです。」

The Seed of Truth

シルバーバーチが指摘しているように、生前のイエスは“神と隣人への愛”を強調し、律法の中でそれが一番重要である、と説きました。“愛の実践”こそが、生前のイエスの教えの中心だったのです。

スピリチュアリズムにおける愛の教え――「利他愛実践の教え」

2千年前にイエスが説いた「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という教えは、現在のスピリチュアリズムにおける教えと同じです。自分を愛するように隣人を愛することを、シルバーバーチは「利他愛の実践」と呼び、その重要性を繰り返し強調しています。そしてこれこそが、スピリチュアリズムにおける最も重要な教えであると述べています。

“利他愛”とは、神が霊界と宇宙を創造する際に設けた、万物を支配するための「摂理(法則)」です。したがって、人間にとって利他愛を実践することは、神の摂理に一致した生き方をするということになります。そしてそれを通して人間は、「霊的成長」をするように造られているのです。神の摂理である利他愛に反するのが、“利己主義・自己中心主義”です。シルバーバーチは、それは霊的成長の未熟さから発生するものであり、実はそれこそが長い間、宗教でさまざまに議論されてきた“罪の真相”であるとしています。

このようにスピリチュアリズムは、「利他愛の実践」を最も重要視します。利他愛こそが“真実の愛”であり、利己心に基づく愛・肉体本能から発する愛は本当の愛ではないことを教えています。真実の愛である利他愛(霊的愛)で他人を愛するとき、その人の行為は「神の摂理」に一致し、魂の成長(霊的成長)が促されるようになります。利他愛の実践によって「霊的成長」をなすことが、地上人生の目的です。地上生活は、そのためにあるのです。

シルバーバーチの教えの中心は“利他愛”です。それがスピリチュアリズムにおける最も重要な「霊的真理」であり、信仰実践の核なのです。人間にとって最も価値ある生き方とは、利他愛を最優先した生き方です。それを一言で表現するなら――「利他愛至上主義」「利他愛最優先主義」ということになります。利他愛至上主義は、シルバーバーチの思想の核心であり、スピリチュアリズムにおける最も中心的な思想です。「利他愛至上主義」「利他愛最優先主義」は実にシンプルな教えですが、人間のすべての面を支配する、きわめて重要な法則(摂理)なのです。

イエスとシルバーバーチの教えは同じもの

このように考えると、「愛が最も重要である、愛が最高の律法である」と説いたイエスの教えと、シルバーバーチの愛の教え(利他愛至上主義)は、全く同じものであることが分かります。「利他愛の実践」――これこそがイエスが生前、人々に伝えようとしたことだったのです。それはまさに“愛(利他愛)”を最優先する教えであり、それゆえキリスト教は“愛の宗教”と呼ばれることになったのです。イエスは、「神の摂理」に基づく利他愛実践の教えを説きました。「利他愛の実践」という神の摂理に一致した生き方の大切さを人々に教えたのです。

イエスとシルバーバーチは、人間にとって利他愛を実践する生き方が最も重要である、と説いた点で全く同じです。イエスは2千年前に、シルバーバーチが説いているのと同じ教えを説いたのです。「自分を愛するように、隣人を愛せよ」というイエスの言葉は、シルバーバーチが説く“利他愛”を見事に言い表しています。

(6)イエスの“愛の教え”を、“贖罪の教え”にすり替えてしまったキリスト教

生前のイエスは、自分をユダヤ教徒と考えていた

生前のイエスの意識の中には、その後、キリスト教の中で勝手につくり上げられることになった「三位一体論」や、十字架の死を贖罪とする「贖罪的救済論」は全くありませんでした。イエスは、自分がキリスト教の創始者として祭り上げられるようになることなど、想像さえしていませんでした。イエス自身はみずからを、熱心なユダヤ教徒の一人だと思っていたことでしょう。それゆえ自分の教え(愛を最優先する教え)は、ユダヤ教の律法を全うするものである、と断言していたのです。イエスは律法の頂点に“愛の実践”を置くことで、ユダヤ教を改革しようとしていたのです。

イエスが生前に説いた教えは、すでに述べたように「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という言葉に集約されます。その利他愛実践の教えは、実にシンプルでありながら、すべてを包括する大真理です。イエスが説いた愛の教えと、イエスの生き方が「神の摂理」に一致していたために、キリスト教はその後、世界宗教として地球上に普及していくことになったのです。

「贖罪論」が、キリスト教の教義の中心となる

イエスが説いた“愛の教え”は、イエスの死後、キリスト教が形成されていく過程で大きく歪(ゆが)められ、イエスが予想もしなかった方向に歩みだすことになりました。イエスが思ってもいなかったことが“イエスの教え”とされ、それがキリスト教の教義になってしまいました。「霊的無知」な人間がつくり出した間違った教えが、人々を洗脳して“霊的牢獄”に閉じ込めることになってしまったのです。

イエスは死後、生前の姿を取って弟子たちの前に現れました。この“奇跡”を前にして弟子たちは、「イエスはユダヤ教が予言していたメシアである」と思うようになり、イエスの願いにそって伝道に邁進することになりました。その一方で、イエスの十字架の死に対して、「イエスが原罪を背負い身代わりになったことで、人類の罪が許されることになった」と考えるようになりました。こうして「贖罪思想」が形成され、それがキリスト教の中心的教え(根幹教義)になっていきました。イエスの贖罪によって人類の罪が許され、そのイエスを“キリスト(メシア)”と信じることによって人間は救済されるという、とんでもない教義がつくり上げられることになりました。イエスの「贖罪の死」と「復活」を信じることで人間は救われるという、キリスト教の信仰ができ上がってしまったのです。

片隅に追いやられたイエスの“愛の教え”――“愛の宗教”から“贖罪の宗教”へ

こうしてイエスが説いた“愛の教え”は、イエスの贖罪による救済の教えに取って代わられることになってしまいました。キリスト教が愛について語ることがあっても、それは「贖罪論」というメインの教義の付け足しのような意味しか持ちません。「贖罪論」が最優先で、贖罪思想の前には“愛の教え”は影が薄いものになっています。イエスが強調していた愛の教えは後回しにされ、片隅に追いやられ、イエスが言ってもいないことがキリスト教の教えとなってしまいました。イエスに対する的外れな見解(贖罪思想)が、キリスト教の中心的教義になってしまったのです。こうして、イエスが思ってもいなかった宗教が出現することになりました。

イエスの十字架の死によって人類が救済されるようになるという「贖罪論」が、キリスト教の正統的な教義として、人々の心を支配することになりました。イエスによって唱えられた“愛の教え”は、贖罪論という間違った教えの脇に置かれ、重要視されなくなりました。キリスト教は“愛の宗教”としてではなく、“贖罪の宗教”として、人類を支配することになったのです。

キリスト教が引き起こした数々の悲劇――“愛の宗教”とは正反対のキリスト教の実態

間違った教義に基づくキリスト教は、ローマ帝国を後ろ盾にすることで、大きく版図を拡大することになりましたAD392年、キリスト教はローマ帝国の国教となる)。それと同時に、キリスト教の教義(贖罪説)に反対する宗教や人間を異端として弾圧し、排斥していきました。こうしてキリスト教は勢力を拡大する中で外部の宗教を支配下に置いていきましたが、7世紀にアラブ地方にイスラム教が興って力を持つようになると、キリスト教はイスラム勢力との間に戦争を引き起こすことになりました十字軍)

歴史上、キリスト教が引き起こしてきた数々の凄惨(せいさん)な戦争は、およそ“愛の宗教”からかけ離れた行為で、まさに“悪魔の仕業”と言うべきものです。魔女狩りや魔女裁判という常軌を逸した蛮行が、イエスの名のもとで行われました。さらにはカトリック教会とプロテスタントという同じ正統派のキリスト教徒の間で、残酷な殺し合いが繰り広げられました。宗教戦争における“大量殺戮(さつりく)”は、正視できないほどの悲劇を生みだしました。ここまで人間は残酷になれるものか、というほどの悲劇を繰り返してきました。こうした非道な行為が、すべてイエスの名のもとで行われ、正当化されてきたのです。

イエスは、真実とは大きく異なる偽りのイメージを押し付けられ、人殺しの大義名分に利用されてきました。イエスは、そうしたキリスト教の醜さと非道さをつぶさに見続け、2千年もの間、悲しみの涙を流してきたのです。

(7)イエスのもう1つの使命――人々を「霊優位の生活」に導くこと

ここまでシルバーバーチの言葉を手掛かりに、生前のイエスの使命について見てきました。イエスの使命は、ユダヤ教のがれきの下に埋もれていた「基本的な真理」を人々に示すことでした。その基本的な真理とは、神と隣人を愛するという“愛の教え”のことを言います。

イエスが人々に示そうとした「基本的な真理」には、愛の教え以外に、もう1つ重要な内容がありました。それは、物欲にとらわれてはならないという“霊中心の教え”です。イエスは、人間は愛の教えと霊中心の教えを実践することによって救われるようになる、永遠の生命を得ることができるようになる、と説いたのです。

イエスには、神と隣人を愛することを教えるという使命だけでなく、霊的真理にそった生き方を教えるという、もう1つの使命があったのです。

イエスのもう1つの使命――「物質中心の生き方」を、「霊的真理にそった生き方」に変えること

シルバーバーチは、イエスのもう1つの使命について、次のように述べています。

「イエスには使命がありました。それは、当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。」

Wisdom of Silver Birch

このようにシルバーバーチは、イエスのもう1つの使命が、人々に物質中心の生き方の間違いを説き、霊的真理(摂理)にそった生き方へと導くことにあったことを明らかにしています。そのためにイエスは、さまざまな分かりやすい譬えをもって、教えを説きました。聖書には、そうしたイエスの教えが数多く見られます。イエスは、物欲にとらわれた生き方をやめて「霊的真理」にそった生き方をすることの大切さを、繰り返し強調しています。

人々を「物質中心の生き方」から「霊的真理(摂理)に一致した生き方」へ導こうとするイエスの教えは、シルバーバーチが説いている教えと同じです。物質中心の生き方を霊的真理に一致した生き方に変えることは、シルバーバーチが説いている「霊中心・霊優位(霊主肉従)の生き方」にするということなのです。

イエスが示す「物質中心主義」への警告

物質中心の生き方をやめて、霊的真理にそった生活を送るべきというイエスの教えを、聖書の中から見ることにします。

このイエスの教えを端的に示しているのが、“金持ちの青年の話”です。この話はマタイ書、マルコ書、ルカ書に共通して出てきます。部分的な違いはあっても、話の内容は共通しており、このことからイエスが生前、実際に語った話であると思われます。

「イエスが道に出て行かれると、一人の人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ私をよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺き取るな、父と母とを敬え。』」すると、彼は言った。「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております。」イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた。「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい。」すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(中略)

イエスはさらに言われた。「子たちよ、神の国に入るのは、何とむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」

(マルコ10章・17節〜25節)

イエスは、物質的な富(財産)は永遠の生命という霊的宝を得るためには障害となること、物質的な富を捨て、他人に施すならば、永遠の生命を手にすることができるようになることを教えているのです。物質中心の生き方をやめて、物欲にとらわれない霊中心の生き方をすることの大切さを説いているのです。

さらにマタイ書とルカ書には、次のような内容が述べられています。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなた方は、神と富とに兼ね仕えることはできない。」

(マタイ6章・24節)

ルカ16章・13節に、同じ言葉が記されています。)

「それから人々に向かって言われた。『あらゆる貪欲に対して、よくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。』」

(ルカ12章・15節)

このように福音書には、物質中心的な生き方に対するイエスの戒めが、分かりやすい言葉で繰り返し述べられています。このことからイエスが生前、人々の物質中心的な生き方に警告を発し、霊的真理(摂理)に一致した生き方の大切さを強調していたことが分かります。まさにこれこそが、イエスの使命の1つであったのです。

以上、生前のイエスの使命について見てきました。シルバーバーチは、イエスの使命はユダヤ教の中に埋もれていた「基本的な真理」を掘り起こすことにあった、と言っています。その基本的な真理とは――「神と隣人を愛すること」と「物質中心の生き方をやめて、霊的真理にそった生き方をすること」だったのです。イエスは、こうしたシンプルな教えを人々に説いたのです。

そしてその教えは、2千年の時を経て、地上で展開を始めた“スピリチュアリズムの教え”として再び登場することになったのです。

〈まとめ〉

イエスの使命について、もう一度まとめます。イエスの使命は、「基本的な真理」を示し、人々の生き方を変えることでした。その「基本的な真理」には、2つありました。1つは――「神を愛し、隣人を愛する」という“愛の教え”です。もう1つは――「物質中心の生き方を、霊的真理にそった生き方に変える」という“霊中心の教え”です。

このイエスの2つの教えを、2千年後にシルバーバーチが“スピリチュアリズムの教え”として説くことになったのです。

イエスの教えとシルバーバーチの教え