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ニューエイジも新・新宗教もスピリチュアリズムを超えるものではありません

シリーズ2・・・スピリチュアリズムから見た新新宗教(幸福の科学・統一教会・GLAを中心として)

はじめに

前号では、スピリチュアリズムから見たニューエイジ・チャネリングについて述べてきました。今回は、スピリチュアリズムから見た新新宗教について述べたいと思います。

日本における新宗教(新興宗教)といえば、江戸から明治期に確立した教派神道系の天理教や金光教や黒住教など、また大正・昭和の二度にわたる国家による大弾圧を受けた大本教、そして昭和になって急激な勢力拡大を果たした創価学会、立正佼正会、霊友会、生長の家、PL教団、世界救世教、真光教などを指します。

それに対して新新宗教とは、そうした新宗教に比べ、つい最近になって名前が知られるようになった宗教教団のことです。1970年代以降に設立されたもの、あるいはその頃からその存在が急に世間に知られるようになったもので、現在、ひじょうに活発な活動を展開しているものを指します。具体的には、白光真宏会、GLA、幸福の科学、コスモメイト、真如苑、さらにはキリスト教系の統一教会などです。そして、これらとは一線を画しますが、盛んに宣教活動をしているものとして、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教などが目立ちます。

新新宗教は新宗教に比べ、世界観・価値観・生命観・死生観など全般にわたって進んでいると言ってもよいでしょう。救済観・運命観に関してみても、新宗教が先祖供養や浄霊を中心としているのに対して、新新宗教ではスピリチュアリズムに近い立場をとるものが多いのです。

今回はスピリチュアリズムから新新宗教を見て行きますが、その中で代表として三つの教団を取り上げることにします。幸福の科学、統一教会、GLAです。これらを取り上げたのは、それらの教義の内容がスピリチュアリズムに非常に似ていること、そのために多くの人々、とりわけ若者の心をとらえていること、そして使命感と情熱をもって布教に取り組んでいることからです。布教に対する情熱・真剣さということであればエホバの証人などは真っ先に取り上げるべきですが、教えの内容があまりにもスピリチュアリズムから離れているため除外します。

私達スピリチュアリズムを信じる者として、これらの新新宗教とスピリチュアリズムの違いを知っておくことが必要です。スピリチュアリズムの観点(高級霊の観点)から見た時、正しいものについては認め、間違っているものについては、どこがどう間違っているのか、はっきりと指摘できることが必要です。それが高級霊の地上の道具・手足としてスピリチュアリズム(最高純度の霊的真理)普及に係わる私達の責任でもあります。

まず、これら三つの新新宗教に共通する点を整理しておくことにしましょう。その後に、一つひとつの教団について問題点を述べることにしましょう。

これら三つの新新宗教の教え(教義)には、スピリチュアリズムによって示された霊的真理との共通点・一致点があります。まず、霊界という死後の世界をいずれもが認めています。死後、霊体という形態をもって生き続けると言います。また、その死後の世界(霊界)はいろいろな界層から成り立っており、どの界層に住むようになるかは、その人の魂(霊性)の成長度合いによって決定されると言います。そして死後の界層を決定する魂の成長は、地上での努力・精進を通じてなされると説いています。このように、これら三つの教団には明確な“死生観”があると同時に、自力救済という“救済観”もあるのです。

さて、その地上での魂の成長を可能とする生き方・努力とは一体何かということですが、いずれもが「利他的生き方・自己犠牲的生き方」であると言っています。イエスやシャカによって説かれた利他的生き方こそが、最も価値ある生き方とされています。さらにはまた、そうした利他的生き方、人を愛する実践の一つとして、物質主義・利己主義の世の中にあって苦しむ人々に、正しい生き方を伝え教えることが大切なこととされています。すなわち“使命感”をもって布教に携わることが、最も価値ある生き方ということになるのです。

こうした教理はまさにスピリチュアリズムの言うところと同じものです。高級霊の教えそのものと言ってもよいほどです。文句のつけようがないほど、スピリチュアリズムと一致しています。この点で、これら三つの教団はスピリチュアリズムそのものと言えるでしょうし、多くの新新宗教の中で傑出していると言えるかも知れません。

それならば将来、これらはスピリチュアリズムと同じ方向に向かって歩んで行くことができるのでしょうか。これらとスピリチュアリズムはお互いに歩み寄ることができるのでしょうか。スピリチュアリズムは外見上の名称にはこだわりません。どこの教団であるかは問題にしません。ただ真理の内容が同じならばよい、という考え方なのです。霊的真理という唯一の事実に合致しているかどうかだけを重要視する立場です。同じ霊的真理を共有している以上、これらの新新宗教とスピリチュアリズムは霊的真理普及に対して共同歩調を取ることができるはずです。

しかし結論を言えば、これらの教団とスピリチュアリズムは本質的に違っています。その違いは、教義の一部がスピリチュアリズムと異なっている、といった次元の問題ではありません。もっと本質的なところで、スピリチュアリズムとこれらの教団は違っているのです。その理由は、これらの三つの教団が同じスピリチュアリズム的な真理を共有しながら、お互いに全く歩み寄れない現実を考えてみればはっきりします。なぜこれらの教団は歩み寄れないのでしょうか。歩み寄るどころか、お互いがそれぞれ自己の教団の優越性を主張しています。スピリチュアリズムと等しい優れた真理を手にしているはずなのに、どうしたことでしょうか。

その一番の原因は、これらいずれの教団にも「強烈なカリスマを持った教祖がいる」ということなのです。それぞれの教団では、自分達の持っている真理は我が教祖によってもたらされたものであり、その宇宙の真理を明らかにした教祖は、宇宙の中で最も優れた存在・最高の存在であると位置付けされています。そのため、これらの教団では霊的真理よりも教祖の方が重要視されるようになってしまっています。もし我が教祖がいなかったら、地上人類は真理を知ることができなかったと考えるのです。実はこの「教祖と霊的真理という関係」こそ、スピリチュアリズムとこれらの新新宗教の本質的な違いなのです。

特に幸福の科学と統一教会には、それがはっきり当てはまります。霊的真理と教祖の関係をぎりぎりまで突き詰めて行くと、これらの教団の本質が浮き彫りにされてくるのです。スピリチュアリズムは霊的真理だけを問題とします。神と人間の間の仲介者は必要ないとします。特別な人間は認めません。すなわち霊的真理が全てであって、教祖や救世主は必要ない、というのがスピリチュアリズムなのです。率直に言えば、これら二つの教団においては、スピリチュアリズムに反して、霊的真理は教祖のカリスマ確立のための道具となっている、ということです。

次にこれらの教団を別々に取り上げ、もう少し踏み込んで見て行きましょう。

幸福の科学について

教祖大川隆法氏は、自らを地球系霊団の最高大霊であるエル・カンターレの本体意識であると言います。氏は単に仏陀として再誕したのではなく、シャカよりも大きな本体意識であると言います。氏は自らをシャカ以上の存在であると断言し、さらに自分と神は一体であり、宇宙一の指導者であると位置付けしています。私達にとってエル・カンターレなどという呼称はどうもピンときませんが、別の言い方をするなら、彼は自分の存在意識は人間を超えた神そのものであると言っているのであり、また法そのものであると位置付けしているのです。こうして彼は自らの立場を、神と等しい人類史上で最大最上のもの、これ以上のものはない、というところまで高めています。

しかし彼が自分のことをどれほど大きな存在であると主張しても、スピリチュアリズムの霊的真理に照らした時、その誤謬はあまりにも明らかです。厳しい言い方のようですが、大川氏は自分に都合よく作り出した造語を駆使して大言壮語していると言わざるを得ません。幸福の科学の出版物は結局のところ、彼が宇宙最大の存在であるという独断的主張を正当化しようとする試みに他なりません。

ご存じのように、彼は初期には次々と霊言集を出しました。歴史上の有名人の霊言集を手当たり次第出すことによって、自らがこうした歴史上の人物より上に立っていることを主張しようとしました。しかし彼のこの試みも、スピリチュアリズムを通じて霊界通信のメカニズムを知った者にとっては、全くの人為的なものであることは明白です。霊界通信の価値はその内容にあることは言うまでもありませんが、彼によって示された霊言の内容は極めてレベルの低いものばかりです。これらが本当に彼が霊界から受け取ったものであるとするなら、そのソース(通信霊)は低級霊ということでしょう。

また彼は自分の指導霊として、出ロナオ(大本教教祖)、中山みき(天理教教祖)、聖観世音菩薩、聖母マリア、浅野和三郎、モーリス・バーバネル、シルバーバーチ、トルストイ、ペテロ、不空三蔵、日蓮、マホメット、アインシュタイン、高橋信次、イエス・キリスト、シャカ、天御中主大神を挙げています。ここには、他宗教の祭神や教祖や有名宗教者を一方的に自分の指導霊とすることで、自分の権威を高めようとする幼稚な論理が窺えます。背後霊現象の実態を知る者にとっては、彼の言っていることは茶番劇と言う他ありません。挙げ句の果てには、神(天御中主大神とはキリスト教の神をさす)までが指導霊と言うのですから、何とも言いようがありません。

また彼はたびたび他宗教を徹底して非難してきました。相手を非難することによって自らの立場が高いことを誇示しようとします。これも前述した霊言集や背後霊と同じ発想から出たものでしょう。しかし、もし自らの立場が歴史上かつてなかったほどのこの世を超越した偉大な存在なら、どうしてこれほどまでに次元の低いことに係わる必要があるのでしょうか。

さらに彼は他人の前世までも勝手に極め付けるような行為に出ます。しかし幸福の科学で言うところの前世は、何の根拠もないものばかりです。スピリチュアリズム、とくにシルバーバーチやマイヤースによって明らかにされている再生の複雑さを考えると、彼が言う前世は、ほとんど全てがフィクションであることが分かります。他人の前世をとやかく言う目的が、相手を低め、それによって自分を高めようとするためであることが丸見えなのです。

結局、これらのことから言えることは、彼は霊的世界について何も知らないということです。霊的世界については、ほんのひとかけらの実感も体験したことがないでしょう。もし本当に知っているとするなら、彼は自分の行為の結末に身震いを覚えることでしょう。たとえ彼が死後の永遠の生命について語り、地上の利他的愛の重要さを説いたとしても、それは全て自分のカリスマを作り守るための手段であると言わざるを得ないのです。

大川氏が自分の指導霊・背後霊として挙げたシルバーバーチの霊訓を直接読み、これと氏の言うところのものと比較したら、それだけでその真偽は明らかになります。シルバーバーチをわざわざ自分の指導霊に取り込もうとしたのは、シルバーバーチに脅威を感じていたからでしょう。本物の高級霊の迫力に恐れを感じたからでしょう。幸福の科学の教えの偽善性は、スピリチュアリズムと比較さえすれば明白になります。ごく普通の理性を持った人間なら、程度の悪い作り話や大言壮語の中に、何一つ真実のものがないことに気がつくはずです。

その意味で、現在幸福の科学に係わりを持っている人々には、何よりもスピリチュアリズムの霊的真理を読んでもらいたいと願っています。もし時期が来ている人なら、その内容のあまりの違いに直ちに気がつくことでしょう。大川氏がやみくもに突き進んだ自己証明路線は目に余る幼稚性のため、それほど深く信者の心を洗脳できていないと思われます。

本物でないものは、本物(スピリチュアリズム)が現れると、いとも簡単に崩れてしまいます。動機が純粋であるなら何一つ恐れる必要はありません。たとえ未熟さや無知から間違いを犯すことがあったとしても、それに気づいたなら、謙虚に反省して訂正すればよいだけのことなのです。

大川氏と幸福の科学にとって、スピリチュアリズムほどの脅威はないでしょう。シルバーバーチが自分の指導霊であるなどと言って繕えるうちは何とかやって行けるかも知れません。しかし、それはいつまでも続くものではないのです。信徒が目覚め、真摯な思いでスピリチュアリズムの霊的真理を直接読むようになれば、幸福の科学の教理の真偽はたちどころに明らかにされてしまうのです。

統一教会(改称世界平和統一家庭連合)について

統一教会が、スピリチュアリズム的霊的真理と強大なカリスマ教祖を持っていることは幸福の科学との共通点です。統一教会では、教祖文鮮明氏をキリストの再臨と考えています。経典である『原理講論』は、つまるところ文鮮明氏が再臨のメシヤであることを証明するためのものです。では、どのようにそれを証明しようとしているのでしょうか。

統一原理はキリスト教とは異なる独自の聖書の解釈をします。人類の罪の起源を旧約聖書の創世記の失楽園の物語に求めるところは一般のキリスト教と同じですが、その内容の解釈においては大きく隔たっています。統一原理では人類の始祖がサタンと性的関係を結ぶことによって原罪が生じ、やがてこの罪が全人類に及んだと言っています。そしてこの罪は、原罪のない神の一人子メシヤによってのみ償われることができるのだと言うのです。そして神は人類を救うために、このメシヤを地上に送り出すための準備をすることになります。それが、これまでの人類歴史の歩みであったと言うのです。そうした神の導きの結果この世に送り出されたのが、二千年前のイエスであったのです.ところがイエスは十字架に掛かり、その救いは未完成のまま(霊的救いはなされたが肉的救いはなされなかったと言う)残されることになります。そのため神はさらに二千年の歴史をかけて導き、今、再臨のメシヤとして文鮮明氏を再び地上に送り出すようになったと言うのです。この再臨のメシヤはサタンと戦い勝利して、人類に残されたままになっていた救いを成就して、人類に最終的な救いをもたらすようになると言います。人類は文鮮明メシヤによって原罪を拭い去り、完全に救われ、またそうした人間が増えることによって地上には地上天国が到来すると言うのです。

経典である『原理講論』は膨大な思想体系となっています。そしてその内容は精緻をきわめ、一見、完成度の高い教理となっています。その体系の大きさ、論理展開の整合性、さらに現代の科学的知識までを取り入れた内容を前にして、初めてこれと出会った人々は反駁すべき手段を持ち得ません。これまで統一教会の活動(募金や霊感商法など)が社会的に非難されてきましたが、それが教団にとっての致命的な打撃とならなかったのは、こうした強烈な教理という土台の上に立っているためなのです。またキリスト教サイドからその聖書の比喩の解釈の間違いが指摘されても何らダメージを受けなかったのも、これまでのキリスト教にはない思想体系をそなえていたからなのです。

外部からの非難が浴びせられても、それはさしたることではありません。なぜなら統一教会にはキリスト教にはない霊界の知識があり、イエスを含めた全ての霊界の人々の応援・バックアップを受けていると信じているからです。外部からの反対は単に地上での出来事であり、霊的に無知な人々がなす偏狭な行動に過ぎないと思っています。自分達こそが霊界の意向にそい人類を救う最高の使命を与えられている以上、そうした反対は取るに足りないことと考えているのです。

これまで、この統一原理の本質・根幹部分に対して踏み込んだ批判はありませんでした。なかったというより出来なかったと言うべきでしょう。しかし今、統一原理の核心部分に対しての批判がスピリチュアリズムにおいて初めてなせるようになりました。一見、完璧で矛盾のない壮大な統一原理は、人間が原罪を持つというところから出発します。この出発点が正当なものであるなら、その後の精妙な論理によって、文氏がメシヤであるという証明も可能となるかも知れません。

統一原理の権威の根拠は霊界であり、イエスを含めた霊界の人々に置かれています。また文氏こそ霊界において最も権威ある人間であることに置かれています。また彼ほど霊界の全てに通じている人間はないことを認めることにおいて、統一原理の権威は保たれています。文氏は霊界の人々全てを含めて、誰よりも霊的事実に通じていると信じられています。これが統一教会の打たれ強さの理由だったのです。また世間の人々が適切な批判・反論を加えることができなかった理由でもあったのです。

しかしスピリチュアリズムは、統一原理の領域内に入って同じレベルからストレートに臨み対することができます。統一原理の評価・批判は、「霊的な事実」という点においてなされるべきものです。統一原理に対する真偽は、それが(霊的)事実であるのか事実でないのかという点において、はっきりさせられるべきものなのです。それが出来るのは、言うまでもなくスピリチュアリズムをおいて他にありません。なぜなら、スピリチュアリズムほど霊界の事実を細部にわたって明らかにしているものはないからです。

スピリチュアリズムによって明らかにされる結論を言えば、統一原理の出発点であり同時にメシヤ観の土台になっている原罪は存在しないということです。そういう事実はこの世にもあの世にもないのです。また原罪を作る原因となったサタン(堕天使)も霊界に存在しません。この二つのことが意味するものは実に重大です。なぜなら、このことによって膨大な統一原理の全てが根底から崩されてしまうからです。当然メシヤの必要性の根拠も失われるし、文氏がメシヤであるということも全て虚構となるのです。霊界にいる高級霊で、原罪の存在、そしてサタンの存在を認める者は誰一人としていません。

スピリチュアリズムは、それこそ霊界の全ての高級霊における知識の総結集が背景となっています。統一教会の立場では、メシヤ文氏は、こうした霊界の高級霊よりも霊的事実に通じて霊界の事実を知っている。その彼が言う以上、やはり統一原理のほうが正しいのだと言うでしょう。原罪はある、サタンはいると必死に言い張ることでしょう。しかし肉体を持ち脳の意識で思考する地上人は、その認識レベル、知り得る霊的知識は宿命的に限られています。それに比べて、肉体を持たずに自由に存在する霊界人は、地上のいかに卓越した霊能者よりも比較にならない認識能力を持っているのです。

近い将来、間違いなく、スピリチュアリズムは統一教会にとっての最大の脅威となるでしょう。スピリチュアリズムは、霊的事実を統一原理に指し示すことによって、統一原理を根底から覆す力を持っているのです。キリスト教からの反発も、マスコミからの非難も、政治的な圧力も、統一教会にとっては真の脅威ではありません。それらはむしろ内部の結束を固めてくれるありがたいものなのです。統一教会にとっての真の脅威はスピリチュアリズムという霊界の事実なのです。

スピリチュアリズムが最大の脅威であるという点では、統一教会は幸福の科学と同じです。すでに統一教会では、スピリチュアリズムに脅威を感じ始めているのでしょう。統一教会系列の出版物(『霊界を科学する』野村健二)の中で、わずかですがシルバーバーチについて触れています。しかしそこでは、シルバーバーチは再生を否定している者として紹介されています。何という自分に都合のいい理解なのでしょうか。自己の教理の正当性を主張しようとするのは構わないことですが、白を黒と言うようなことはすべきではありません。度を超した自己正当化はマイナスを作り出すだけなのです。

幸福の科学と統一教会について述べてきましたが、両者の共通点をもう一度、整理してみましょう。

大川氏や文氏がどれほど霊界の事実を全て知り得ると自己主張しても、それはほんの部分的なものに過ぎません。スウェーデンボルグは霊界に何年間にもわたって訪れ、霊界の事実を明らかにした人物として歴史的に名を知られていますが、実は彼が示した内容は、霊界にいるごく普通の者において知られ得る常識レベルの知識に過ぎません。それはスウェーデンボルグはどこまでも地上の人間としての霊界訪問であり、臨死体験の領域に在ったからなのです。そのため限られた霊界の様子しか明らかにできませんでした。しかもその記述は潜在意識の強烈な脚色によって、かなり真実性が薄められたものとなっています。

高級霊によってあの世からストレートに地上に送られてきた情報と、地上サイドの人間を通じての情報では、その内容には天と地ほどの違いがあるのです。シルバーバーチやインペレーターなどの高級霊の通信と、大川氏や文氏の語るあの世についての内容を比較するだけで、どちらがより広く・深く・正確に霊界の様子を認識しているかは一目瞭然なのです。結局は、大川氏や文氏も人為的・人工的教理を説いたに過ぎないことが分かります。どれほど自分達は霊界でトップであると主張しても、それを実際に認める霊界人は誰ひとりいないのです。

この両教団を信じている方達に対しては、スピリチュアリズムの説く霊的真理と自分達の教理を比較されることを願います。どちらがより深く霊的世界について明らかにしているかを十分検討してください、ということです。人間に理性が与えられているのは、これを用い比較して、より正しいものを見つけ出すためです。疑うことを禁止するのは、神が人間に理性を与えた趣旨に反することなのです。自分達の教理が絶対に正しいという自信があるなら、他との比較に脅えることはないはずです。

幸福の科学と統一教会について結論を言えば、霊界の高級霊で大川氏や文氏の権威を認める者はいないということです。また両氏が主張する、自分達だけが特別であるという立場を認める者もいないということです。結局、それらの教団の教理の中から、教祖の権威とその存在の必要性を取り除いて、後に残ったスピリチュアリズムと共通する霊的真理のみが、霊界に通用するものなのです。

これら二つの教団では、霊的真理を教祖のカリスマ確立に利用してきました。また死後の救いを手段にしたり霊界の罰をほのめかせ、信者の心を煽り、多くの純粋な人達を狂信的な信仰の道へと駆り立ててきました。

統一教会が世界布教のためにアメリカに進出し、結果的に敗退の憂き目に遭ったのは、統一原理という人為的教理が、ニューエイジという、より本物に近い教理に敗れ去ったことを意味します。再臨のメシヤという錦の御旗を掲げた神権政治確立の野望が、ニューエイジ的世界の前で挫折を余儀なくされたのです。長い目で見れば、地上的な洗脳や間違った使命感だけでは人の心はつかめないものなのです。

幸福の科学も統一教会も部分的にはそれなりに正しい霊的真理を説きながら、その一方で強力な教祖のカリスマを打ち出しました。教祖は天によって公認された特別な立場であると考えます。しかしそのために教理の全体的な方向性は、各自の魂の成長を最優先することでなくなります。すなわち教団のために働くことが神のために働くことになり、それが最も価値ある信仰と人生であることにスリ替わっています。そこでは結果的に、霊的真理や魂の成長より教団と教祖が重要視されるようになっています。

たとえ自分達の教団は魂の成長を重要視していると力説しても、それを最優先としなければ、おのずと魂の成長は後回しになり、やがてそれも押し潰されてしまうようになります。魂の成長についての方針は、それを重要視するということではなく「最優先する」というのでなければなりません。魂の成長が教祖のカリスマに押し潰されているのが、それら二つの教団の実情なのです。

カリスマ確立に関して見る限りでは、統一教会が数段上を行っているようです。幸福の科学では有名人や神々を自分の指導霊にしたり、数多くの著名な人物の霊言集を作るなど、自分で自分の偉大さを並べ立てることによって自らの偉大さが証明されるとするような、見え透いた手段を取っています。

それに対して統一教会は、サタン―原罪―メシヤによる救済といった精妙な論理体系を作っています。方法において両者の間には、子供と大人ほどの違いがあります。統一教会ではその精巧な論理性ゆえに強烈な洗脳が可能となり、死後も霊界において地上同様な狂信世界を作り上げることが考えられます。この点では、ものみの塔(エホバの証人)やクリスタデルフィアンの信者と同じような死後の経過をたどることになるでしょう。

幸福の科学も統一教会も、教祖の死後、急激に勢いを失うことになるのは間違いありません。なぜなら、一人の人間によってのみ救いが与えられるという狂信的信仰は神の造られた摂理に反し、霊的な目覚めの到来した人間を、もはやつなぎ止めることはできなくなるからです。

幸福の科学も統一教会もともに、地上ユートピア建設、地上天国建設の最終目標を掲げています。しかし本当に神と人類に貢献したいということならば、それらの教団の中から真っ先に教祖の存在とカリスマを否定すべきなのです。そして後に残った霊的真理だけを教団の教理とすべきなのです。そうした時、各自の魂向上のための努力が教団の中心的方針となって行くでしょう。それでこそ初めて、霊界の道具となって働くことができるようになるのです。利他愛・自己犠牲の愛のすばらしさ、そして霊界という永遠の世界の存在が、単なる自己アピールの材料から真に生きたものとなるのです。

GLAについて

幸福の科学・統一教会に比べ、GLAはきわめて良心的です。それは高橋信次という教祖の人間性に負うところが大きいと思われます。彼は稀に見る偉大な霊能力者でしたが、それだけに止まらず実に誠実な宗教者でもありました。彼の霊能力ならびに人格、そしてその教理から判断すると、彼はまさしくスピリチュアリズムの高級霊の働きかけを受けていたと思われます。おそらくは、彼は明治以降最大の使命をもって現れた日本人であると言ってもよいでしょう。

彼の働きは、それ以前からあった日本心霊科学協会が精彩を欠き低迷する中で、その使命を代わって果たしたと言えるでしょう。彼によって、スピリチュアリズム的な実践的信仰がはじめて日本にもたらされたと言えます。多くの時期の来た人達が高橋信次の教えによって目覚めさせられたという事実は、高橋氏が我知らずのうちに、スピリチュアリズムの道具として貢献したことを意味しています。

霊能力と同時に内省的な方向を持った高橋氏は、日本の中にあって希有の人材でした。出口王仁三郎を凌ぐ日本の誇るべき人物でした。しかし地上にいる以上、いかに卓越した霊能力者であっても、霊界人のように全ての霊的事実を知ることはできません。彼はイエスとシャカの霊格の違いについても知ることはできませんでした。そのことは、彼の霊的レベルがどの程度のものであるかを示しています。

彼は教団内に多く出現した異言を霊的成長の証としました。しかし異言自体は古今東西を通じてかなり頻繁に見られるありふれた霊的現象であり、霊的成長度とは全く無関係のものです。事実、高橋氏生存中にも信者の中から、「人格的に劣る者が異言を吐いているのは矛盾しているのではないか」という疑問の声が上がっていました。また異言は必ずしも前世を証明するものではないにもかかわらず、彼は教団内に多くの異言を語る者が現れたことをもって、GLAには特別な歴史的使命があると考えたのでした。GLAにはシャカの十大弟子、キリストの十二弟子をはじめとする過去の世界中の偉人が集まり、GLAは人類に最終ユートピアを建設する使命を持っていると解釈しました。

しかし、これは明らかに独断的誤解でした。霊的現象は一般の人々には魅力あるものであり、自己の教団が歴史的なものであることをアピールするには持って来いの方法です。しかし霊現象はそれほど力を持ったものではありません。人間の心を深いところから変える力はありません。高橋氏自身もそれについては理解していたようで,霊現象にとらわれることの愚を説いています。しかし、その一方で異言を過大評価し、GLAに歴史上の重要人物達が結集していると大きな誤解をしてしまいました。そしてこの誤解は、GLAのその後の運命にとって致命的ともいえる打撃をもたらすことになりました。

霊現象に引かれ集まった人々は、歴史の例に漏れず必ず問題を引き起こすようになります。高橋氏のこうした霊現象の扱いに対する失敗は、彼の死後、教団分裂という事態を招くことになります。異言や退行催眠による前世探求があまりにも根拠のない、いい加減なものであり、低級霊にとっての絶好の働き場所であることを私達はよく知っていますが、そうした霊現象を前面に押し出した教団運営の結果がいかなるものであるかを、奇しくもGLAが自ら証明してしまったのです。霊能で人が集まれば必ず霊能で混乱を生じるようになるのが必然的成り行きなのです。折角もたらされた内省的教理も、こうした人間(特に霊道の開けたとされる人々)のエゴをコントロールすることは出来なかったのです。

しかし、高橋氏が大川氏や文氏と違っていたのは、彼らほど積極的に自らのカリスマを確立しようとしなかったことです。確かに彼も、自分を仏陀の再生者、さらに晩年には、人類に最終ユートピアを実現させるために現れた真のメシヤであるエル・ランティーと公言するような間違いをしてしまいました。自らをシャカとイエスとモーゼスの意識を包含した、彼らよりもっと大きな存在としたのです。これは明らかに霊的真理と霊的世界に対する無知をさらけ出すものです。このように高橋氏も、一歩間違えるとこの世の醜い教祖に転落寸前の状態にありましたが、彼の場合は、その誠実な人間性がそこまで至らしめることを阻止しました。

とは言っても、彼の作り上げた間違った見解は、彼の死後大川氏に全て引き継がれ、各種の霊言路線になったり、エル・カンターレ路線を作り出すことになるのです。幸いなことに高橋氏の優れた人間性が、GLAが地に堕ちるのをギリギリのところで食い止めました。また彼が50歳前にしてこの世を去ったということが、結果的には幸いして、霊的堕落への歯止めがかけられたのです。

霊界における最大の事実とは、イエスを頂点とした高級霊一丸となった人類救済の組織活動であることは言うまでもありません。これに勝る霊界での大きな動きはありませんし、これ以上のカを持つ存在もありません。地上でいかに卓越した霊能者であっても、知り得る霊界の事実は限られています。高橋氏ほどの不出世の霊能者であっても、イエスを中心とする霊界最大規模のプロジェクトの事実を知ることはできませんでした。高橋氏は無意識のうちに間接的にこの霊界の大計画の一つの駒として、霊的真理普及に協力してきたのです。

高橋氏は正確な自分の立場と状況を理解できないまま他界しました。霊界から見れば、彼が生前説いた教理・教えには多くの誤謬がありました。シルバーバーチに代表されるスピリチュアリズムの霊的真理とその内容を比較すれば、そのレベルの差は歴然としています。彼が晩年に最もしなければならなかったことは、自らのカリスマを霊的真理によって否定することでした。また霊的真理こそ全てで、自分も一人の地上の道具に過ぎないことを表明することでした。彼がこうしたことをどのくらい自覚していたのか、その実情については知ることはできませんが、結果的には、彼はそれをなすことなく重要な問題を残したまま他界することになりました。

GLAの優れた点は何といってもその内省主義にあります。GLAの教理ではそれを、「イエスや仏陀の説かれた原点に還る」という言葉で表したり、「イエスに還れ、仏陀に還れ」という言葉で表現しています。しかし厳しい見方に立てば、イエスの教えとシャカの教えが同じ普遍的真理であるとは到底言うことはできません。これは高橋氏があまりにも仏陀に引かれ過ぎたための結果なのです。霊界では、イエスとシャカの霊的レベルは比較にならないものであるのは常識的なことであり、両者を同列に置くことは大きな間違いなのです。シャカが地上で悟った内容とは霊的なものではなく、きわめて物質次元に限られた現象についての法則であり、およそ普遍的な霊的真理と言えるようなものではありません。神の存在を否定しようとしたのがシャカの悟りの実情であったし、シャカは死後の世界や救いに関心を持つことを我執として不問に付したのです。それでいて自ら悟りを得たと思ったことは、明らかに錯覚だったのです。高橋氏が掲げたような内容を、シャカが地上時代に悟ったのではありません。

このように考えると、GLAにおける教えは、高橋氏個人の先入観に支配された教理であることが分かります。彼は自分で勝手に作り上げたシャカ像を事実のものとして教理を確立し、それを生涯通してしまったのです。本来はイエスとシャカの教えはとても相容れることができないほど隔たったものです。地上時代のシャカの悟りを普遍的真理とみなすことは到底できないことなのです。シャカの縁起の法が普遍的霊的真理ではなく、イエスの愛の教えこそが普遍的な霊的真理なのです。異言という霊的現象の威力でそうした矛盾は陰に隠れ、シャカとイエスが同じ普遍的真理を説いたという、大きな誤解が真実として定着してしまいました。

高橋氏の後継者佳子氏の代になってからは、こうした父高橋氏の問題点が徐々に改善されつつあるように思われます。父親のシャカ重視が訂正され、キリスト教的な利他愛重視の方向に動いてきました。そして同時に、心霊現象(異言)を重視したかつての路線がかなり改められています。何より良いことは、徹底して内面主義路線を進んでいることです。父高橋信次氏のカリスマは徐々に薄くなり、それに比例して、教団は全体として霊的に向上してきました。外見的には信次氏存命中ほどの迫力はなくなりましたが、そのぶん正統的な霊的修行が徹底されるようになり、霊的視点から見たときに明らかに向上してきていると思われます。そして教理の内容も、スピリチュアリズムに極めて近いものになってきています。今後は教理の整備と同時に、信次氏ならびに自分のエル・ランティーとしてのカリスマをいかに払拭して行くか、ということが課題となるでしょう。

日本の歴史上、現在のGLAは最もスピリチュアズムに近い存在であると言えます。現在存在する宗教団体の中で、GLAが最も霊界の良き道具となる可能性を持っていると思われます。今後の健全な発展を見守って行きたいと思います。

以上、現代を代表する三つの新新宗教を取り上げて見てきました。冒頭でも述べましたように、これら三つの宗教ではいずれも、霊界の実在、霊界での永遠の生命、そして地上での生き方によって霊界でのレベルが決定されること、もっとも大切な生き方は絶対的な利他愛の実践であること、を説いています。まさにこれは、スピリチュアリズムによって明らかにされた霊的真理そのものと言えます。

しかしそうした霊的真理が、教団を構える中で教祖のカリスマと教団の権威に押し潰されてしまっています。霊的真理よりも教祖や教団が重要視されているのです。せっかくスピリチュアリズムと等しい霊的真理を持っていながら、それが教祖や教団の権威づけの道具として悪用されているのです。それは明らかに霊的真実から大きく外れるものです。結局、本物でない偽物の宗教と言わざるを得ません。

教祖が健在で、そのカリスマの威力があるうちは洗脳の渦の中で全体を走らせることもできるでしょう。人間的な意欲の発動によって爆発的な行動力を示すこともできるでしょう。一見すさまじい勢いで発展しているかのごとき時期を迎えることもあるでしょう。しかし所詮、本物でないものは長続きしないし、必ず破綻の時がやって来るのです。

これらの教団に一旦は人生を捧げ、すべてのエネルギーを注ぎ込んだ人達が、それが本物でないことに気づいた時、後に残された道はスピリチュアリズムしかあり得ません。なぜなら、これまでの真理をさらに深く、さらに高めているのがスピリチュアリズムだからです。一度、霊的真理の一部を知った者が、それ以下の低い真理で満足できるはずがありません。早晩、こうした教団で人生を捧げて歩んでいる人達にも気づきの時が訪れることでしょう。また一刻も早く、その時が来ることを願います。

客観的に考えてみれば、こうした教団で人生を捧げようと歩んでいる人達は、霊的な目も開かれ、霊的真理にも馴染み、さらには霊主肉従の自己克己の努力もしています。そして現実的に自分の人生を犠牲にして、人のために働こうとしています。たとえ一人ひとりは教祖や教団に騙され利用されているとしても、霊的真理にそった真摯な歩みの内容は魂に蓄積されているはずです。物質に流されているこの世の人とは比較にならない程の、高い歩みをしているはずです。

いずれ時期が来ればそうした人達は、スピリチュアリズムの真理を深く受け入れることができるでしょう。霊界は、スピリチュアリズム普及のために純粋に人生を捧げることのできる人材を待ち望んでいますが、彼らは、その至近距離にいると言えるかも知れません。いまだに霊的真理に目覚めることなく、眠ったような中にいる宗教者とは比べ物にならない歩みをしていることは間違いないのです。

スピリチュアリズムが今後、高い次元で受け入れられ展開して行くのは、こうした人達を通じてだと思われます。そういう意味もあって、前号のニューエイジに続いて、今回、三つの新新宗教を取り上げました。