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利他愛の実践は魂の成長にとって必須条件

魂を成長させるためには利他愛の実践は不可欠です。利他愛とは霊的エネルギーを周りの人々に与えることです。自分や自分の家族のことを心配したり、一生懸命になることは誰でもできます。しかし、それによって魂の成長がなされるわけではありません。自分の利益とは関係のない無償の行為が利他愛です。この利他愛の大切さを強調しない高級霊はいません。霊訓では繰り返し繰り返し、利他愛の実践の重要性を説いています。ここでもう一度、利他愛について考えてみましょう。

地上の大部分の愛は利己愛

さて利他愛について知るために、利他愛の反対である利己愛について見てみましょう。この利己愛を観察することで、利他愛について深く知ることができるはずです。“愛”というと真っ先に思い浮かぶのが恋愛です。恋愛がいかに心地よいもので、楽しく心弾ませるものであるかは、いまさら説明する必要はないでしょう。一生を神に捧げようと固い決心をしたはずの独身の修道者を、人間の世界に堕としめ引き戻してしまうのが恋愛です。恋愛の喜悦は麻薬のような恐ろしい力を持っています。もちろん恋をする二人は、自分達の愛の純粋さを疑いません。

しかし、そうした一見すばらしく感じられる恋愛も、霊的視点から見ると、実は本能から出たものであることが分かります。恋愛感情の深層には、相手を独占したいという支配欲が根を下ろしています。恋愛感情が最終的に行き着くところは、相手を独占することです。ですから激しい恋愛であればあるほど、その裏返しとして強い憎しみや苦しみが伴うようになります。恋愛につきまとう苦しみは、すべて自分の所有欲・独占欲に原因があるのですが、恋愛感情の麻薬的甘さの中にある時は、なかなかそれに気がつかないのです。恋愛は本能的感情なので、本人達の心を支配しているのは、好き嫌いという本能的な思いだけです。そうした利己的で自己中心的な感情を、多くの人々は愛と錯覚してきました。恋愛は霊的に見た時、決して賛美されるものではありません。動物の本能と同じレベルのものであって、霊的なものではありません。特別な自己克服の努力が要求されるものではないのです。

本能に由来する恋愛感情は、いつか必ず冷めるようになっています。長続きしないようになっています。そして恋愛感情が冷めた後には、必ず苦しみが生じるものです。その苦しみは恋愛感情の激しさに比例して当人に返ってくるようになります。その苦しみによって利己愛の間違いを知り、本当の愛の何たるかを知ることができるならば、恋愛は真の愛を知るための反面教師となるでしょう。しかし恋愛感情に流されたままで、魂が成長することはありません。

この恋愛に代表される「所有欲・独占欲」と「好き・嫌いの感情」による関係が恋愛ばかりでなく、地上で愛と言われるものの実態です。相手のためと言いながら、本音のところでは自分を中心とし、自分の思いどおりになることを願い、自分や自分の家族のためだけの利益を求めます。もちろん誰も、わざわざ意識的に自分だけの利益を求めようと考えているわけではありません。意図的に相手を独占しようと思っているわけではありません。本人は相手のために尽くしているつもりでいるものの、無意識のうちに独占欲・支配欲が心を占めてしまうのです。無自覚のうちに、我知らず自然となってしまうのです。これが恐ろしいことなのです。その原因は、私達が肉体を持っているためなのです。霊体は肉体という重いベールに包まれ、いつもその制約を受けているため、いつのまにか利己的な感情が心の中心を支配するようになってしまうのです。

霊界の人々と違って、常に思いの中に利己性が随伴する地上の人間が高い世界を目指すためには、本能的心をコントロールするという“霊主肉従の闘い”を余儀なくされるのです。そして利己的思いに打ち勝つための内的な闘いを克服した時のみ、霊界人に近い霊的に優位な状態に立つことができるのです。そうした霊主肉従の状態であって、はじめて利他愛の実践に踏み出すことができるのです。

真の利他愛の見本――地上人に対する霊界の人々の姿勢

では、この地上世界において純粋な利他愛を持つにはどうしたらよいのでしょうか。どこかに完全に利他愛だけに生きている人がいるでしょうか。この利他愛が最も価値あるものであることを人類に教えてくれたのがイエスでした。イエスの言動の中に、私達は本物の利他愛を見ることができます。しかし実はもっと身近に、純粋な利他愛の模範的実践者がいるのです。それが“霊界の人々”なのです。シルバーバーチは言うまでもなく、スピリチュアリズムに携わり人類を救おうとしている人々、そして私達一人ひとりの背後にいて導いてくれる守護霊、こうした霊界の人々は、まさに肉体的利己性の全くない利他愛実践者なのです。高級霊からの霊界通信を通じて明らかにされたことは、こうした地上時代のイエスに匹敵する利他愛の持ち主が私達の背後に数え切れないほど大勢いて、常に愛し導いてくれているということです。

そうした霊界の人々は、ただ私達の真の幸福だけを願っています。私達の幸せを自分のこと以上に求め、そのために自分のことを忘れるほどに私達のために尽くし、導いてくれています。霊的摂理のもとで与えられる限りの全てのものを惜しみなく与えてくれています。そして霊界の人々は、決してその見返りを期待しません。私達が成長すれば自分のことのように喜び、私達が愚かな利己的原因から失敗すれば、悲しみ哀れに思ってくれるのです。決して怒ったり憤慨することはありません。ただ一方的に与えることだけで、全てをよしとしているのです。

私達がこれまでに出会った地上人の中で、これほど純粋な真の愛で愛してくれた人がいたでしょうか。私達の母親は、確かに私達のために自分を顧みず尽くしてくれました。しかし残念なことに、その行為の大半は本能に基づいています。その愛は常に感情的で、自分の子供だけがよければそれでいい、という支配欲から出ています。しかし霊界の人々(背後霊)の愛は純粋に利他的で、見返りに対する何の期待もないのです。

私達のなすべきことは、霊界の人々が私達地上人を愛する姿勢に習うことです。霊界の人々を手本として利他愛を実践することです。そのためにはまず、肉体的思いや感情をコントロールする努力(霊主肉従の努力)を始めなければなりません。

利他愛継続の障害

利他愛の実践とは、ある時だけ、一時的に実行すればよいというものではありません。一生涯続けるべきものです。この地上世界は“心の訓練場”である以上、生涯を通じて利他愛の実践の努力を続けることが必要です。地上人生の最後まで、新鮮な奉仕意識を持ち続けることが大切です。

最初に霊的真理と出会った感動は、いつ迄も続くわけではありません。利他愛にかける情熱も、いつの間にか色褪せるというようなことも起こってきます。そして情熱が枯渇するにつれ、知らず知らずのうちに、「愛することよりも愛されること」を相手や周りの人々に期待するようになります。人からよく思われたり、尽くしてもらうことを願うようになります。頭では与えることの大切さを知っているし、チャンスさえあったら人のために働きたいと思っているのに、知らないうちに自分の心が、与えることより与えられることを願うようになってしまいます。

これは肉体を持っているため、本能的な思いが霊的思いを覆ってしまった結果です。しかしそれでは、真理を知らないこの世の人と何ら変わらないことになってしまいます。しかも困ったことには、本人は霊的真理を知っているため、自分は霊的道を歩んでいる、この世の人とは違うのだと思い込んでいるのです。実際の霊性はしぼみ涸れ果てて、ほとんど霊的な死人のようであるのに、自分は真理を知らないこの世の人とは違うというプライドだけは持っています。

利他愛継続の最大の障害とは、このような感動の喪失とともにいつの間にか忍び込んでくる、与えられることを先に期待する心、愛されることを先に願ってしまう心なのです。そしてそれに気がつかない霊的なボケと傲慢さなのです。自分を厳しくチェックできない人、謙虚でない人は、自分が霊的真理を知っていることで利他愛の持ち主になったかのように錯覚します。傲慢なスピリチュアリスト、自分の思うようにならないと、すぐに好き嫌いで判断するスピリチュアリスト、与えられることだけを期待している子供のようなスピリチュアリストが何と多いことでしょうか。結局スピリチュアリストと言っても、それは名前だけのことで、霊的にはこの世の人より劣ることにもなりかねないのです。

新鮮な利他愛の意識を持ち続けるには、「自分は与えるだけでよいのだ」「与えることが自分のすべきことであって、人からもらうことではない」と、きっぱりと割り切った心構えをすることが必要です。そして自分の心が与えられることを望んでいないか、定期的にチェックすることが必要です。

もし私達の心に、少しでも相手からの見返りへの期待があると、それはわずかな期待にとどまらず、自然にエスカレートし、やがて見返りをもらうのが当たり前となってしまいます。時には、見返りをくれない相手を礼儀知らずとか、裏切り者というように考え始めることになります。そうなったら、この世の人よりももっと醜いことになってしまいます。「与えるだけでよし、相手の反応は自分の義務とは関係のないこと、ただ与え続けよう」とのみ、心をしっかりと固めなければなりません。利他愛を実行し続けるためには、寂しさに負けない心のタフさが必要です。踏ん張る強さが必要です。いじけたり不満をこぼしたりせず、すべてを明るくやり過ごす前向きで広い心が必要です。霊界の人々が地上人を愛するように、私達はその姿を見習って行かなければなりません。それこそが、まさに地上における最高の修行なのです。そうした努力を通じて、自分の感情に流されることなく、別け隔てなく、人を愛することができるようになって行くのです。

自分の好みでない人、気に食わない人には与えないというのであれば、本当の利他愛の持ち主とは言えません。自分の子供や家族、自分に利益を与えてくれる人には与え尽くすことができるが、そうでない人にはできないというのであれば、霊的価値は半減してしまいます。

必要ならば、自分や自分にとって大切な者、価値ある者も犠牲にできる上においてのみ、そこに“霊的愛”が存在するようになるのです。常に霊的コントロールを心がけ、利他愛の実践の努力を継続することによって、本能的・利己的要素を持ちながらも、同時に真の霊的愛をつくって行くことができるようになるのです。

「家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.145

「好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感のもてない人を愛する―これが魂の霊格の高さを示します。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.142

最高の利他愛の実践――霊的真理の伝道・一人でも多くの人に霊的真理を伝える

スピリチュアリズムが興された目的は、地上人に霊的真理を教え、あの世における真の救い・霊的な救いをもたらすためです。そしてそのために霊界の人々全てが、見返りを求めず、この活動に献身的に従事しています。ただ地上の人々を救いたいという純粋な思いからのみ働きかけているのです。そして幸いなことに、私達は真っ先にその恩恵にあずかり、霊的真理を知ることができました。そうした私達がなすべきことは言うまでもなく、霊界の人々と同じように、一人でも多くの人に霊的真理を伝え、本当の生き方と幸せを教えてあげることです。霊界の人々が私達のために一方的に献身的な導きをしてくれたように、私達も他人のために尽くすことです。

言うまでもなくその奉仕は、すべて自発的に、自ら喜んですべきことです。私達のなすべきことは、霊界の人々に習って霊的真理普及の手伝いをすることです。自分の一生をそのための道具として神に提供することです。自分の名誉や利益をすべて捨てても、霊界の道具として、スピリチュアリストの当然の義務として、真理普及のために喜んで人生を捧げることなのです。本当のスピリチュアリストかどうか、本当の霊的真理の実践者かどうかは、この一点において明白にされます。霊的真理を知ってスピリチュアリストになるのではなく、霊界の人々と同じように霊的真理の普及に献身的に携わることにおいて、はじめてスピリチュアリストと言えるのです。

シルバーバーチは、霊的真理を知りながら、それを自分の内にとどめている人をエゴイストと呼んでいます。皆さんはそんなエゴイストにはなっていないでしょうか。自分が霊的真理を知ったというだけで、満足しているようなことはないでしょうか。

「肝心なことは、それを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終ってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.118

スピリチュアリズムに携わる霊界の人々のように、純粋な思いから伝道をしてこそ、私達に最高の地上人生が訪れます。霊的真理の伝道ほど次元の高い愛の行為はありません。地上における最高の愛であり奉仕なのです。マザーテレサが貧困者に対して施した無償の奉仕より、もっと価値のあるすばらしい奉仕活動なのです。マザーテレサは、無私の精神から苦しむ人々のためにその人生を捧げました。しかし、霊界という本来の世界での救いを直接人々に与えることはできませんでした。マザーテレサ個人としての魂は、その無償の愛の行為によって高められ、霊界においてはキリスト教の間違った教理の影響は速やかに拭い去られたことでしょう。しかし地上においては、肝心な霊界を目的とした核心的な救いを、人々に与えることはできませんでした。その点、スピリチュアリズムに携われた私達は、それだけでも極めて幸せな立場にいるということです。マザーテレサ以上の救いを人々に与えることのできる、恵まれた立場にいるからです。

私達は宇宙で最高のものを、他人に与えることができる特権を与えられています。後はそれをいかに人々に与えるのか、ということです。それについては何度も述べてきましたように、霊界の人々の姿勢が私達の見本です。シルバーバーチやインペレーターに習って、この世の人々に接していくのです。「見返りを求めない、自分のことを忘れて、ただ相手の霊的幸せを願いできる限りのことをする、相手が誰であれ差別をしない、相手の態度に感情的な反応をしない、分ってくれたら喜び、拒否されたら相手に同情し哀れに思う。」これが私達が地上でなすべきことなのです。

一人でも多くの人に霊的真理を伝えることこそ、私達のライフワークです。霊的真理の伝道こそ人生で一番の仕事です。年若い方も、すでに老いの年齢に至った方も、自分に与えられた地上生命、残された余生を全てこのために捧げようと考えなければなりません。生計を得るためのこの世の仕事は、ライフワークではなく、霊的真理の伝道のための一つの手段という位置付けをすべきでしょう。地上人生の生計を得るための仕事は何でもよいのです。

シルバーバーチは、他人のために自分を犠牲にすることの尊さを説いています。また、自分にできる限り精一杯のことをしなさいと教えています。それについて少し深く考えてみましょう。

利他愛の実践・伝道には自己犠牲が伴います。その自己犠牲とは具体的に言えば、自分のしたいことを後回しにして、自分の時間とエネルギーを他人のために優先的に傾けるということです。人によって犠牲にするものは異なるでしょうが、家族や家庭のことを後回しにしたり、友人との付き合いや趣味の時間を削ったり、伝道の時間を生み出すために仕事を変えたりするなど、霊的真理の伝道をもっとも大切なこととして、人生の中心に位置付けするということです。もし何一つ犠牲にすることなく、空いた時間に、片手間に伝道するというなら、真の利他愛とは言えないでしょう。

また、できる限り精一杯ということについても、自分に都合よく、とらえ違いをしていないでしょうか。できる限りとは、現状でよしとすることではありません.無理をする必要はありませんが、可能な限り知恵を絞り、工夫をこらし、積極的に取り組むということです。シルバーバーチは、「自分の関心事は真理を普及することだけであり、その大事業から外れたことをする人は、本来同胞のために捧げるべきエネルギーをムダ使いしている」と述べています。

皆さんは、霊的真理の伝道が人生で一番の仕事になっていらっしゃるでしょうか。

霊的真理の伝道についての心の準備

スピリチュアリズムの真理を手にした私達は、霊的真理の伝道に心が燃え立っていなければなりません。真理の普及にあたっては、何より無償の精神に立った伝道の意欲に燃えていることが必要です。それさえあれば具体的な方法は取り立てて言うべきことはありません。後はわずかな注意点があるだけです。一人でも多くの人に霊的真理を伝えたい、知ってもらいたいという燃える思いこそ、伝道において何より肝心です。

霊的真理の伝道をするに際しては、まず「焦らない」ということです。一人でも多くの人に霊的真理を知ってもらいたいという思いは、まさに純粋さから出るものです。そうした思いが強ければこそ、真理を受け入れてくれる人に出会えないと、どうしても焦りを持ってしまうようになります。しかしその時は、次の様な霊的事実を思い起こすことが必要です。

まず、「霊的真理は時期のきた人でない限り受け入れられない」ということです。時期のきた人とは、人生の悩みを通じて、心を満たしてくれる真理との出会いを待ち望んでいる人のことです。そのような人がもし皆さんと出会うならば、たちまち皆さんに引き付けられ、もっともっと話を聞きたいということになるでしょう。霊的真理に関する本を貸して欲しいと自分から言ってくることでしょう。このような人が時期のきた人ということです。霊的真理はこうした人でない限り受け入れられないようになっています。

それを無理やりセミナーに誘って一方的に教え込むというようなことをすると、一時は洗脳され、本人も表面上は心が変化したかのように感じられますが、やがて時間の経過とともにその熱も冷め、あの高まりは一体何だったのだと恥かしく思うようになるのです。さもなくば、単なる活動家になって行くかのいずれかなのです。霊的視点から見れば、活動自体が大切ではなく、それによって本人の魂が成長することが重要です。しかし現実にはその肝心なことが忘れ去られ、組織の歯車として活動して、それが神のためであると錯覚している例が多いのです。霊的真理の伝道には、洗脳もセミナーも必要ありません。霊的真理の普及は、大衆扇動による一時的な感動と洗脳によって進められるものではありません。

「集団的暗示や熱狂的説教による陶酔ではいけません。理性と叡智と論理と常識、そして何より愛をもって真実を説くことによって、一人ひとり得心させて行かねばなりません。結局はそれしかないのです。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.55

霊的真理を一人でも多くの人に伝えたいと願っているのは、私達だけではありません。霊界でスピリチュアリズムに携わる人々こそ、私達よりずっと長い間、しかももっと純粋に、その思いを持ち続けてきたのです。霊的真理普及の働きかけは地上サイドから始まったのではなく、霊界の人々から出発しています。霊的真理普及の主役は私達ではなく、霊界の人々なのです。私達はその地上における道具としてお手伝いをしているのです。

霊界の人々は、時期の来た人が誰であるのか正確に知ることができます。その人が、どのようにしたら霊的真理に出会うことができるのかも的確に知ることができます。そしてその人の霊的背景、霊的レベル、時期、性格、環境、他に与える影響度など、すべてを考慮した上で、スピリチュアリズムの普及に最もムダのない導きをするのです。霊界の人達が最もよいタイミングを見計らって、私達と時期のきた人との出会いのチャンスが与えられるのです。

ですから私達は、「時期のきた人と出会わせてください」と真摯な思いで、毎日毎日祈り続けることが大切です。シルバーバーチは、「皆さんは、心がけ一つで道具となれることを自覚なさってください。」と言っています。霊界には、もっともっと人類のために働きたいと願っている人々が大勢います。地上に働きかけることのできる道具の登場を待ち焦がれています。そうした状況の中でもし地上に、「私を道具として使ってください」と言う人がいるなら、霊界でそれを見逃すことは絶対にありません。霊界の人々にとってはこの上ないチャンスの到来です。私達が自分の利益を忘れ、ただ霊界の道具として使って欲しいとの純粋な決心をするなら、それが無視されることは決してありません。霊界の道具として自分を使ってくださいと祈る瞬間から、私達は自分ひとりの限界を超えて、何十倍、何百倍の力を持つことになるのです。自分一人では到底できなかったことが、霊界の働きによって展開して行くようになります。

ただその際、私達は霊界からの働きを、地上サイドから計るようなことをしてはなりません。一人の時期のきた人に出会うためには、霊的に全ての条件が整う必要があります。それゆえ地上から見ると、いつまでたっても変化がないように思えることがあります。しかし私達には見えなくとも、霊界では着々と準備が進められているのです。私達としてなすべきことは、「自分を道具として用い、できるだけ多くの仕事をさせてほしいと祈り続けること」「時期のきた人と出会わせて欲しいと願い続けること」そして、「今現在、そのためのベストの準備が霊界で着々と進められてることを信じること」なのです。道具としての純粋さ、燃える思い、霊界の人々に対する信頼、これこそが良き霊界の道具となるための条件です。

「あなた方が道具を提供し、その道具を使って私達が仕事をするということです。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)  p.44

「たった一人の人間も、霊の力を背後にすれば大きな仕事ができるのです。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.53

伝道では具体的に何をすべきか

さてそうした準備ができたら、霊界の人々の導きがより効果的に実現するために、地上における受け皿を準備しなければなりません。霊界では、時期のきた人を私達と出会わせるように導きます。ですから私達としては、できるだけ人と出会う場所や時を用意する必要があります。新聞広告やチラシなどによって読書会への参加を呼びかけてもよいでしょう。自分の方から外部の人々の集まりへ参加するのもよいでしょう。また手紙などを利用するのもよいでしょう。自分でよかれと思うことは何でもしてみることです。そして自分が霊的真理を持っている人間であることを、できるだけ多くの人に知らせることです。そうすれば霊界の人々はそれを利用して、時期のきた人と私達との出会いのチャンスをつくり易くなります。霊界から働きかけ時期のきた人をその場に導いたり、インスピレーションによって私達に気づくように仕向けることができます。

シルバーバーチは、「軽くドアーをたたいてみるのです。」と伝道の秘訣を教えています。時期のきた人かどうかの見定めは、少し霊的真理をほのめかせなさい、ということなのです。時期のきた人ならば、それだけですぐに飛びついてくるはずです。ほんの少し霊的真理を語るだけで、関心を向けるはずです。

一方それとは逆に、時期のまだきていない人に何とか霊的真理を分からせようと働きかけることは、時間とエネルギーの浪費に終ります。しかも決してよい結果は得られません。受け入れることのできない人々に霊的真理を分からせようとすることが伝道ではなく、時期のきた人に出会うことこそが伝道なのです。できるだけ多くの種蒔きをし、霊的真理の所在を知らせ、時期のきた人が向こうから出向いてくるようにするのが、霊界とタイアップした伝道なのです。

霊的真理を受けることのできる時期のきた人との出会いが実現した時、皆さんはきっと霊界の導きを手に取るように感じられるはずです。大きな感動の体験をなさることでしょう。

「みなさんは、ご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.157

「閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、まっすぐに突き進まれるがよろしい。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.48

伝道についてもう一つ心得ておくべきことは、私達の責任は、霊界の導きによって時のきた人と出会い霊的真理を示してあげるまで、ということです。その後、霊的真理を相手がどのように活用し成長していくか、そのチャンスを本当に生かすかどうかは、私達の責任外のことであるということです。せっかく出会ったのにと思って、いつまでもその相手に固執して未練を持ってはなりません。すぐ次の新しい人との出会いを求めて出発すべきです。

もちろん出会いの後、相手が求めてくる限りにおいては自分の持っているものを可能な限り与えてあげるのは当然です。また、そのための時間を惜しんではなりません。しかし相手の魂の成長に関しては、どこまでも本人任せにしなければなりません。相手にもっともっと成長して欲しいと願うことは純粋な愛の思いですが、本人の成長は、私達のなすべき領分を超えた世界での出来事です。私達が責任を持とうと考えてはならない世界なのです。与えるまでが私達のなすべきことであって、その後のことは、全てその本人が責任を負うべきことなのです。それが霊的摂理であるからです。

「それから先のこと、つまりその知識を日常生活においてどう活用するかは、その人自身の責任です。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.42

もしそうした霊的摂理を踏み外し、相手への情熱のあまり、相手の心の成長にまで関与し始めると、いつの間にか相手を自分の所有欲の対象として眺めるようになってしまいます。私達は霊的指導者になろうと思う必要はありません。またそうした人間に頼ろうと思ってもなりません。すでに霊界から真理は与えられているのです。あとは各自が自分の責任において真理を実践し、成長して行くことが大切なのです。

少人数のサークルは、霊的人生を歩む上でとてもプラスになります。スピリチュアリズムの組織化を図ることは決して間違っていることではないと思いますが、その際には最も厳しく自分をチェックしなければなりません。なぜなら神のためという出発が、いつのまにか自分の自己満足のためにスリ替わってしまうことが多いからです。残念なことに、そうしたケースを目にすることがよくあります。結局は、霊的真理を利用した自己満足のための組織作りに終わってしまっているのです。

それと同じような落とし穴は、心霊治療に係わる人達にもよく見受けられます。患者に対する所有欲・支配欲に対しては、厳しく自分を律しなければなりません。誰からも評価されなくとも、霊界の人々は真実を知っているのです。それを心の支えとして、与えることだけが自分のなすべき全てであると、心を強くしなければなりません。謙虚になって、無名の霊界の道具に徹することです。患者に対する所有欲を克服する方法は、それ以外にはありません。せっかくの神への貢献のチャンスを、自分自身のプライドや自己満足の道具としてはなりません。

霊的真理の伝道に携わる私達は、常に自分を忘れた純粋な奉仕精神を燃え立たせ、同時に霊界の人々の導きの手助けをする道具であることを常に心にとめ、淡々と歩むことが大切なのです。

「わたしたちの新たな道具として、一命を捧げていただけませんか。あなたの行為によってたった一つの魂でも救うことができれば、それだけで、あなたの地上人生は無駄でなかったことになります。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.55〜56

「他人への貢献の機会を与えてくださったことに関し、神に感謝すべきです。人間として、これほど実り多い仕事は他にありません。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.114