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瞑想・祈りはどうして必要か

霊的真理を実践して魂を成長させることが、地上生活の目的でした。そのためには、これまで何度も述べてきましたように、霊主肉従の努力(霊優位の生き方)、苦しみの克服、積極的な利他愛の実践が必要でした。それらについては、すでにニューズレター1号〜3号で説明してきました。そして四つ目の実践項目が「瞑想・祈り」です。私達が霊的人生を歩むに際し、瞑想・祈りを欠かすことはできません。

瞑想・祈りの重要性を主張しない高級霊はいません。シルバーバーチにしても、インペレーターにしても、聖ルイ(『霊の書』の通信霊)にしても、一日のうちわずかでもよいから祈りの時を持つように繰り返し述べています。またマイヤースも、『個人的存在の彼方』の中で同様のことを述べています。このように高級霊達が口を揃えて祈りの必要性を強調するのは、私達地上人が考える以上に祈りが重要だからです。なぜ霊界から見ると、祈りはそれほどまでに大切なのでしょうか? 地上にいてなす正しい祈りとは、どのようなものなのでしょうか?

地上の多くの宗教も瞑想や祈りを実践していますが、高級霊は、そうした彼らの祈りはあまりにも霊的に無知であるために、ほとんど意味をなしていないと述べています。また最近では、ニューエイジや新新宗教において特殊な瞑想法や祈りが行われ、それが修行の一つと位置付けされています。日本の宗教史上には、阿弥陀信仰のように、ひたすら称名することを信仰の中心としたものもあります。

スピリチュアリズムにおける瞑想・祈りの意義とは、私達の「心霊のレベルをより神に近づける」ということです。日常、肉体の中に閉じ込められ、薄らいでしまった霊的意識をもう一度取り戻し、神と霊界の人々とのつながりを緊密にし直し、霊的エネルギーを充電することです。それによって自らを霊主肉従の状態にし、霊的存在としての基本ラインに立たしめることです。さらには宇宙の最も深い聖域に参入し、神との直接的な触れ合いをする最高次元の霊的体験をするひとときなのです。このように祈りは、真実な意味で大変な霊的活動なのです。

「真の祈りとは、魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い変えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であると言えます。それによって神の意志との調和が深められるべきものです。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.226

瞑想・祈りのレベルの進展――「日常意識」から「深い祈りの世界」へ

私達の霊的意識は、その人の霊主肉従(霊>肉)の状態によって決定されます。霊的な力が50で肉的力が10の人と、霊的力が30で肉的力が20の人では、同じ霊主肉従といっても霊的意識の強さは大きく異なります。もちろん同じ一人の人間でも、一日のうちでその状態は絶えず変化しています。心の調子がよいと感じられる時、どんよりして重苦しい時など、いろいろな心霊レベルの間を揺れ動きます。その都度、霊と肉のバランスが違っています。

霊的エネルギーが十分あれば、心が軽く明るくなります。そういう状態の時は、容易に深い瞑想状態・祈りの中に入って行けます。この世のすべてのものが小さく見えるし、愛の思いが自然に湧き上がり、その愛の思いだけで周りの人々を見ることができるようになります。しかし日常生活において、そうした思いをもち続けることはなかなか難しいことです。いつの間にか、自己中心的な意識にとらわれ、物質的・本能的な思いに心が占められてしまいます。すぐに肉主霊従(霊<肉)の状態に下がってしまうのが、地上で肉体に包まれている私達の実情なのです。

このような肉主霊従の状態から(霊主肉従であっても霊的力が弱い状態から)、強力に霊的意識を高め引き上げていくのが、瞑想・祈りの目的なのです。これが霊的意識を取り戻す、霊的に引き上げるということの意味です。高い霊的心境を保つためには、このようにエントロピーの法則に逆らって、低い所から高い所へ、バケツで水をくみ上げるような霊的努力が必要なのです。

さて瞑想・祈りによって私達の霊的意識レベルを引き上げるについては、それなりの段階を踏む必要があります。一気に高いレベルにまで至ることは難しいのです(そうなれば一番よいのですが。また将来はそれを目指すべきですが)。そのため、瞑想・祈りを通じて霊的意識レベルを徐々に引き上げていく、ということになります。その段階は大きく三つのステップに分けられます。

瞑想・祈りの三段階

次に、それぞれの段階について見てみましょう。

①瞑想・祈りに入る準備段階

一人で祈りをする時には、誰もいない、自分一人だけの場所と時間をつくることが必要です。祈りやすい場所と祈りにくい場所があり、祈りやすい時間帯とそうでない時間帯があります。いつがよいのか、どこがよいのかは自分の感覚で決めなければなりません。一般には多くの人々が集まる場所は、霊気が汚れ霊通しにくいと言えます。そのため時には日常生活を離れ、海や山などに行ってするのもよいでしょう。また早朝や深夜にするのもよいでしょう。しかしできることならば、いつどこでも深い霊的世界に入って行けるようになるのが望ましいのです。忙しい日常生活の中にあっても、自分の今いるすぐ近くに、直ちに聖別された時空をつくることができるようにしたいものです。

また複数の人達と祈りをする時には、前もって集まる時間と場所を決めておくことが必要です。地上人の決意に応じて、霊界の人々がその時間と場所に対する準備をしてくれるからです。これは交霊会を開くにおいて、あらかじめ時間と場所と参加メンバーを決めておくことと同じです。霊界の援助と導きを得やすくするためです。

誰もが日常生活の忙しさから身を引いて、一人静かに目を閉じれば、少しずつ霊的感覚が戻ってきます。どんな唯物論者でも、暗闇の中にただ一人数時間おかれるだけで、日常では味わうことのない感覚を体験するようになります。一人になって目を閉じれば、自然と日常意識が拭われ、別の感覚世界に入って行くようになります。

それを利用したのが内観法です。何もせず、ただ小さなスペースの中でふすまに対して座っているだけです。一日二日とするうちに日常意識が薄らぎ、自然と内省的な考え方ができるようになります。また宇宙飛行士が大気圏外で数日間過ごすと、内面世界の変化が起こってきます。神の存在を身近に実感するといった、これまで味わったことのなかった体験をすることが報告されています。また罪を犯し牢獄生活を送る受刑者の多くが、外の世界との交流を遮断される生活の中で、自然に内省的になって行くこともよく知られています。牢獄の外で自由に生活している私達よりも、気高い心境に至っていることも珍しくありません。

このように世俗の刺激を絶つと霊性が自然に高まる効果が確認されていたため、昔から人里離れた山奥で修行が行われてきたのです。

もし皆さんの中で、霊的感覚や霊主肉従の状態を実感したいと思う方がいらっしゃるなら、夜誰もいない自然の中で数時間過ごしてみることです。はっきりと霊的な感覚を実感されることでしょう。思ってもみなかった世界の体験に驚かれるはずです。

「まず“静寂の時”をもつように心がけてください。日常生活の喧噪から離れた状態へ身を引くのです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.56

「ほんのわずかな時間でもよろしい。時には日常的な意識の流れを止めて、まわりに溢れる霊の力に思いを寄せ、その影響力、そのエネルギー、永遠なる大霊の広大な顕現、その抱擁、その温もり、その保護を意識いたしましょう。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.21

②霊的意識レベルを引き上げる段階

目を閉じた瞬間に、目の前に神がいて、霊界があることを実感できるような立体的感覚が迫ってくる時、または無限の宇宙の中で神と自分だけが対しているような世界を感じた時は、そのまま深い祈りに入って行くことができます。神との直接的な触れ合い、高級霊との交わりによって、強烈ですがすがしい感動と感激がその瞬間に湧き上がってくるでしょう。

最終的には誰もがこのように、目を閉じるだけで直ちに眼前に霊的世界を感じ取れるようになることがふさわしいのです。そうなれば、どんな環境や忙しい状態にあっても、すぐに霊的意識レベルを引き上げることができるのです。あっという間に霊的感覚を取り戻すことができるのです。心霊治療に入る前の準備とは、こうした霊的意識レベルにまで自分を高めておくことです。このレベルに至ってはじめて、高級霊の道具としてのヒーラーの仕事ができるようになるのです。

とはいっても、現実にはなかなかそういうわけにはいきません。目を閉じれば日常生活の出来事や仕事の内容が思い浮かんできたり、先ほどよりもいっそう頭が混乱し、意識が集中できなくなるようなこともあります。霊的感覚が広がってくるどころか、妄想だけが頭を駆け巡るかもしれません。これでは、とても祈りに専念できるような状態ではありません。こんな時は無理に祈りをしても、心のこもらない口先だけの祈り、形だけの祈りしかできず、無駄に時間だけが過ぎて行ってしまいます。大脳生理学的に言えば、日常生活で酷使されてきた左脳が緊張したままで、右脳を働かせられない状態ということになるのかもしれません。左脳だけが活発に活動したままで、肝心な右脳に切り替えることができないということでしょうか。

いずれにしてもそうした時は、無理をして祈りをしない方がよいのです。偽りの祈りしかできないならば、結果的に神と自分自身をあざむくことになってしまいます。神に対して最高の誠意をもって臨めないと判断した時は、それ以上進んではなりません。一番の聖域を汚してはならないからです。心がともない、誠意をもって臨める時だけ、神の前に出て行くべきです。祈りは、最も崇高な神との交わりの手段にしておかねばなりません。神が目の前にいて自分と対してくださっているという感覚がもてないうちは、無理に進まない方がよいのです。自分の心が、まだ神の前に出て行く状況でない時は、心のレベルを引き上げ整えることが先決です。まず霊的意識レベルを上げて、神の前に出て行く準備をすべきです。

「祈る気になれないのを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列にすぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。」

『シルバーバーチの霊訓(12)』(潮文社)  p.125

そのためには色々な方法がありますが、要は霊的エネルギーを蓄えるということです。霊的エネルギーが蓄えられると、日常意識・物質意識が小さくなります。そして霊的な考え方が自然にできるようになります。この世の出来事がどちらでもよいものに感じられ、自分は霊的存在であり、今、物質世界という仮の世界に住んでいるという実感が湧いてきます。そういう心境に至るまでがんばらなければなりません。これが、「日常意識(本能的・物質的意識)から霊的意識にレベルアップする」ということです。

従来の宗教はこのために、さまざまな方法を考案してきました。呼吸法、瞑想法、音楽、断食、水行などです。それらには実際に霊的意識レベルを引き上げる効力があります。

さてそうした方法の中で、最も効果的な心霊レベルアップの方法は何かということになリます。結論を言うと、「霊的真理(高級霊の教訓)を集中して読むこと」が最も効果的な方法であるということです。徹底して純粋な霊訓・霊界通信を読むことによって、短時間に高い霊的意識レベルにまで心を高めることができます。もちろん他の方法を組み合わせれば、もっと効果を上げることができるでしょう。

霊的真理を読むということには絶大な威力があるのです。霊的真理の内容が心に染み渡り始めると、急激に自分の視野と感情が“霊中心”になって行くことに気がつかれるでしょう。このように私達の心の中で、奇跡的変化が生じるのです。全く別の世界にスリップするのです。目を閉じれば、霊界を眼前に実感し、神が目の前にいらっしゃることが感じられるようになります。その後は、神に失礼のないように正しく語りかけることが始まります。

③直接、神と触れ合う祈りの段階

祈りとは、神に向かっての率直な語りかけです。直接的な触れ合いを求めることです。私達の祈りは、ストレートに神に届くのです。祈りの方法は、人間に語るのと同じようにすればよいのです。一人の相手に向かって話しかけるのと同じことです。

ところで神も守護霊も、祈る私達の心の内をすべてご存じです。私達一人一人の魂の成長にとって必要なものや、地上での最低の生活必需品についてもご存じです。さらには私達の因縁や、今後の人生についてもご存じです。そうした相手に向かって、一体何を祈ったらよいのでしょうか。自分のすべてを知っている相手に、わざわざ語りかける必要があるのかということです。

しかし、それでも祈りは必要なのです。それは祈りを通じて、さらに神との霊的触れ合い・霊的絆が深まるからです。これによっていっそうの喜びが得られ、現実的に心が豊かになるからです。

神に語りかけるに際し、言ってよいことと悪いことがあるのは当然です。この世の多くの人々がするような、自分の利己的な願い事・物質的な願い事をしてはなりません。ご利益信仰的な利己的な要求を、霊界の人々がまともに受け取るはずがありません。低級霊のからかい・いたずらの対象となるだけです。魂の成長とは無関係なこと、因果律を無視したような祈りは、その人にとってマイナスになるだけでなく、何よりも神に失礼に当たるのです。何を祈ったらよいのかは、霊的真理を正しく理解した上で、はじめて明らかにされます。

次に霊的真理に照らして、正しい祈りの内容を述べることにします。

  • 真理にそって、もっと自分の心を成長させたい。その道を示し導いてほしい。
  • 魂の成長のための苦しみに耐える力を与えてほしい。
  • 自分の醜い心をなくし、弱い心を強くしてほしい。
  • 自分の心にもっと深く人を愛せるような、広くて純粋な愛をやどらせてほしい。
  • まわりの人々が一刻も早く時期がきて、霊的真理を受け入れられるようになってほしい。
  • 時期のきた人と出会わせてほしい。
  • 自分をもっと人々のために働かせてほしい。霊界の道具として役立ててほしい。

こうした純粋で霊的真理にそった祈りなら、神・霊界の人々は確実に聞き届けてくださるでしょう。「人の役に立ちたい、道具として使ってほしい」という願いが、道具となる人材の現れるのを待ち望む霊界の人々を引き付けないはずがありません。必ず導き・援助が与えられるようになるはずです。

「いかなる祈りをするにせよ、私達が第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。」

『シルバーバーチの霊訓(6)』(潮文社)  p.56

祈りに際しては、声を出すべきか、出さなくともよいのかという問題がありますが、シルバーバーチは、地上人にとっては、声を出して祈ることで自分の考えが明確になるから声を出す方がよいと言っています。とはいっても、それでなければならないと言っているわけではありません。確かに声を出すと、祈ってよいことと悪いことの区別をしなければならなくなり、おのずと自分の姿勢もしっかりして、真理に合った祈りをせざるを得なくなります。そうした心構えをつくるだけで、自分の思いの中にあった不純さが払拭されるようになります。一方、声を出すと深い世界での祈りがしにくくなるというマイナスもあります。

もし意識が集中できない時には、声を出して、祈りの言葉を心をこめて何十回、何百回と繰り返すのもよいことです。

神への祈りが進むうちに、やがて広大な宇宙の中に神と自分一人だけがいて、別の世界に吸い込まれるような体験をするようになるかも知れません。そうなると、もはや語りかける言葉も必要なくなります。すべてが通じ、自分の体が無くなっているように感じます。深い深い静寂の奥に吸い込まれ、静かで澄み切った無限の世界が広がり、手を伸ばせば、神に届くかのような世界に入って行きます。

そうするうちに時として、さらに急激に世界が変化することがあります。自分が突然、宇宙と一つとなり神と一つとなるような衝撃的な感覚、自分が宇宙大になったような感覚に包まれます。堰を切ったように感動が湧き起こり、体の一つ一つの細胞すべてが酔いしれるようなエクスタシーの状態に入って行きます。こうした最高の体験、一瞬ではあるが最も深い霊的体験をするようになります。地上にいて味わう最高の世界、昔から言われてきた三昧の世界、ニルバーナと譬えられてきた世界へ参入することになります。この至福感・喜びは、地上のどんな喜びも比較になりません。まさに人間が体験する極限の心地よさなのです。それは私達が死後、霊だけの存在になった時、直接神の愛に酔いしれる感触・体験なのです。そうした喜びの極致を、地上にいながらにして味わう最も幸せな瞬間なのです。それは地上の時間では瞬時の体験ですが、あまりにも強烈で刺激的なため、一度体験すると、もはや忘れられなくなります。

「天と地が融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながら、すべての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。すべての束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)  p.195

「やがて最初の静けさを実感する。何やら宙空を滑るような、あるいは深い淵へ沈み行くような、そして感覚的なものから解き放たれるような感じがする。そして次の瞬間、エクスタシーを体験する。」

『マイヤースの通信 個人的存在の彼方』(スピリチュアリズム普及会)  p.194

祈りとは、まさに神との直接対話であり、私達の祈る対象はどこまでも神でなければなりません。しかし現実には、その祈りは霊界にいる背後霊や他のスピリットによって受け取られ、神の代行者であるそれらの霊達を通じて聞き届けられることになります。神の子供である私達の祈る姿勢は、直接、神に臨むべきですが、実際には、背後の霊達がその祈りを受け取り、摂理に適ったかたちで答えてくれるのです。

ところが、そうした神の代身者の立場にある霊的存在を無視して、神に直接対すべきだと主張する人達がいます(ヨーガの一派など)。しかし、これは霊的事実についての無知から生じた、単なる観念的な考え方にすぎません。

ヨーガの魂の生理学について

ヨーガの“魂の生理学”は精神世界に興味をもつ多くの人々によって、たびたび取り上げられてきました。体内に取り入れられた宇宙の根源エネルギーである「クンダリーニ」は通常は尾てい骨に眠っていますが、ヨーガの実習によって、そのエネルギーを上昇させることができるようになると言います。クンダリーニは下のチャクラ(エネルギー・センター)から通過して頭頂にあるチャクラにまで至ります。各チャクラが順番にエネルギーに満たされ、頭頂のチャクラと尾てい骨のチャクラのクンダリーニが結合されると、その人は覚醒状態に至り、意識は限りなく広がり光明化すると言われています。これがサマーディーという人間にとっての最高次元の境地と言われています。チャクラの位置や数、性質などには諸説があり、さまざまな解釈がなされていますが、基本的にはここで述べたようなものであると言ってよいでしょう。

ヨーガでは微細身といって、スピリチュアリズムでいう幽体に当たるものを認めています。またシルバーバーチなどの高級霊も時に、松果体に関連したチャクラや太陽神経叢について言及しています。ただニュアンスはヨーガと違って、霊的エネルギーが幽体から肉体に流れ込んで行く接点と説明しています。

実は、ヨーガのいうクンダリーニ上昇とは、肉主霊従(霊<肉)の日常意識から、霊主肉従(霊>肉)の霊的意識へと意識レベルを引き上げることを意味しているのです。徐々に高い霊的意識レベルへ上昇して行くことを別の形で理論化したものなのです。霊的エネルギーが充電されることによって、日常意識が薄れ払拭され、すがすがしい霊的意識が心の中心部を占めるようになりますが、こうした霊的意識レベルの上昇を、古代インド人はチャクラとクンダリーニの上昇というかたちで説明したのです。現実にはクンダリーニが上昇して覚醒するのではありません。霊的エネルギーが満たされ、霊主肉従の状態になって、それがさらに進んで霊的意識が大きくなるのです。

尾てい骨のチャクラにエネルギーが眠っている状態とは、最も低い意識レベル、すなわち性欲というきわめて肉欲的・本能的な世界に意識が集中していることを言います。霊的意識からはるかに隔たった低い意識状態にいることを意味します。性欲の本能的嵐のとりこになっている時、深い瞑想をするのは不可能です。清らかさと対極の位置にあるのが性欲です。性欲は、清らかな霊的意識をあっという間に吹き飛ばしてしまいます。性欲に支配されると、その人はまさに動物的本能に操られ、獣性を剥き出しにするのです。

性欲から最も遠く離れた霊的世界が、深い神体験・霊的交わりをする時なのです。自分の霊的意識を高めよう、心をもっと清らかにしようと必死に闘ったことのある人ならば、このことが実感できるはずです。ヨーガのクンダリーニの思想は、霊的意識レベルを引き上げることを意味しています。すなわち日常的な本能性・物質性を振り払って、霊的意識を取り戻して行くことを説いているのです。

ヨーガにおける最高次元の世界、ニルバーナの世界とは、深い祈りの中で訪れる至福体験のことを指しています。またヨーガでは、準備ができていないうちに無理やりクンダリーニを覚醒させると危険が生じると言いますが、その意味は、霊媒体質者が低級霊に憑依され、異常な状態になることを指しています。あるいは麻薬や催眠術によって低次元の霊的中枢が刺激され開かれて、低級霊とコンタクトしやすくなり、気が狂うようなことを意味しています。

自分に合った瞑想法を見つけましょう

瞑想・祈りとは、神と背後の霊達とのストレートな交わりであり、重要な霊的実践です。瞑想は最近の精神世界探求のブームにともない、日常性を克服する手段として注目されるようになってきました。そうした動きの中で多くの瞑想法が紹介されています。ヨーガの瞑想法、TM瞑想(タントラヨガ)、ダイナミック瞑想法、イメージ瞑想法、座禅、ビジョンクエスト、気功、古神道の鎮魂法などの瞑想法が知られるようになりました。

こうしたさまざまな瞑想法の中で、どれが一番よいのかと迷った方もいらっしゃるのではないでしょうか。結論を言えば、自分に合ったものなら、どんな瞑想法でもかまわないということです。何よりも自分に合った瞑想法を見つけることです。自分の心を最も効果的に高めてくれる瞑想法を探して、自分のものにしておくことです。

欧米人と東洋人では、これまで培ってきた精神的土壌、気質、体質、霊的性向が異なっています。そのため東洋人に向く瞑想法と西洋人に向く瞑想法は違ってしかるべきです。ニューエイジや人間改造セミナーなどで行われる瞑想法やセラピーが、必ずしも日本人に効果的であるとも思われません。ダイナミックな瞑想法や激しいパフォーマンスのともなう方法などは、西洋人向けの瞑想法のように思われます。もちろん自分にはこれが合っていると言う人には、それもよいことは言うまでもありません。要は現実的に、自分の霊的意識レベルが引き上げられるかどうかということです。日常意識を離れ、その後静寂な世界で、神と霊的世界という聖域に入って行けるなら、どのような方法でもよいということです。

ただこの後でも述べますが、祭りやハードロックのような激しいリズムやパフォーマンスをともなう瞑想法は、人によっては異常な神経興奮を生じさせ、トランス状態を引き起こし、低級霊の憑依という大きな問題を生み出すことになりがちです。

よくチャクラに対する理解が瞑想をする際には必要であるかのごとく言う人もいますが、チャクラの知識がなければ、瞑想の効果が劣るというようなことはありません。そうした知識よりも、自分の霊的状態に対する感性の方がずっと大切です。「霊的感性」によって、瞑想の効果を測ることができるからです。今、自分の意識レベルがどんなところにあるのか、日常意識を抜け出したかどうか、高い霊的意識レベルに至ったのかどうかを、自分の霊的直感というセンサーで知ることができます。この霊的感性(直感)をもつことは、それほど難しいことではありません。自分の心を高めようと真剣な内面的な闘いをしてきた人ならば、結果的に身に付くものなのです。より純粋な世界、高い心境世界を目指しての努力の結果として、清らかさに対する感性は自動的に養われるものです。今、自分の霊的意識レベルがどのようであるのか、自分の心が清い状態か醜い状態なのかを,的確に知ることこそが大切なのです。

瞑想・祈りにともなう心霊体験・心霊現象

瞑想・祈りの実践には気をつけなければならないことがあります。まず瞑想は霊的世界との接近を図ることであり、当然霊界のスピリットとも通じやすくなります。すでに霊界通信を通じて、私達の周りでは、未熟な霊や低級霊が常に付け入るスキを狙っていることを知らされています。瞑想をする人の動機や心の状態が、こうした低級霊を引き付けることになります。瞑想会は私達にとって心を高める時であると同時に、悪霊にとっては地上人に働きかける絶好のチャンスなのです。

自分の心を高めたい、高い霊的世界と触れ、エネルギーをもらいたいという純粋な動機からの瞑想ならば、何の問題もありません。瞑想中、背後霊や多くの高級霊が守り、力を与えてくれるでしょう。ところが利己的な動機(物質的なものへの要求や、前世を知りたいとか霊力をつけたいなどの願望)をもって瞑想に入れば、悪霊にとっては餌食が向こうからわざわざやって来るようなものです。さらにそれが霊的体質者であれば、まさに願ってもないチャンスが転がり込んで来るということになります。

チャンティングやダイナミック瞑想中の神経の異常興奮・泣き叫びなどは、低級霊の憑依の始まりであることが多いのです。霊媒体質(霊的体質)は生まれつきのもので、カルマによって決められています。霊媒体質者は、内面コントロールと正しい訓練によって将来人助けをすることのできる霊能力者になる素質をもった人と言えます。

しかし現実には、低級霊の餌食になってしまう人が圧倒的に多いのです。霊的真理を武器にできない霊能者は、安定した心霊をもち得ません。霊能者の精神安定・コントロールのためには、真理による知性的な世界確立がどうしても必要なのです。知性的にしっかりしていない霊媒体質者は低級霊に翻弄されやすくなります。霊的真理を武器として自己コントロールできる霊能者には、低級霊は働きかける糸口をもつことはできません。その意味で、霊媒体質者は特に霊的真理をじっくり読むことが必要です。

そうした人達は、瞑想はむしろ避ける方がよいのです。真理を読んで自分をコントロールすることを、何よりも身につけるべきです。しかし、こういう人に限って本を読むのは苦手であり、現象だけに異常に興味をもつことが多いのです。私達の背後で暗躍する低級霊に対する正しい知識がなければ、好き勝手に翻弄されることになってしまいます。

自分が参加している瞑想会に異常な神経興奮や落ち着きがなくなるような雰囲気がある場合は、そこは避けるべきです。瞑想会の参加者の中に、こうした低級霊の憑依をコントロールできる人がいない限りやめるべきです。参加者がどれだけ新しい自分を発見したと感激したり、霊的視野が開かれたと興奮するようなことがあっても、全体に落ち着いた冷静な雰囲気が支配的でない瞑想会は、後によくないことが必ず生じるようになるでしょう。

低級霊の餌食にならないようにすること、これが瞑想に当たっての一つ目の注意点です。

瞑想・祈りが進んでくると、人によっては、さまざまな超常現象を体験するようになります。サイキック能力が発現したり心霊現象(霊的現象)が起こるのは、ごく自然の成り行きなのです。金粉が降ってきたり、スクリーンが見えてきたり、幽体離脱が起こったり、いろいろな現象が生じるようになります。自然に心霊治療能力がつくこともありますし、他人のオーラが見えたり、霊聴や霊視ができるようになることもあります。

しかし、それらに心をとらわれ過ぎてはなりません。ごく当たり前の現象としてやり過ごすことが必要です。サイキック能力が得られたことが、魂の成長の証ではありません。

確かにこれまで体験のないことが自分の身に生じれば、最初は驚き嬉しいかもしれませんが、霊的真理に照らして正しい位置づけをすべきです。サイキック能力や心霊的感覚は刺激があります。しかし、それにとらわれることは間違いです。サイキック現象と魂の成長に関しての無知から引き起こされたのがオウム事件だったのです。霊現象は初めて出くわした人にとっては刺激が強いため、惑わされ道を狂わされることになりがちです。しかし霊的真理を知った私達は、そうした現象を当然のものとしてやり過ごさなければなりません。

深い祈りの最中に味わう、自分が宇宙と一つとなるような至福体験についてはすでに述べましたが、それはまさに地上における最高レベルの霊的体験・神体験ということができます。しかしそうした体験をしたことが直ちに、その人の魂が地上人生の頂上を極めたということではありません。地上生活の意義は、肉体の重さを背負い、それを克服しながら歩んで行くことにあります。そうした歩みを通して少しずつ魂は成長して行くのです。あまりにも強烈な霊的体験をしたことによってそれが忘れられず、瞑想や祈りだけの生活をしようとすることは、地上にあっては邪道です。肉体の重さを携え、地上ならではの苦しい体験を乗り越えてこそ、魂が成長して行くのです。霊的体験・霊的現象と魂の成長は関係がありません。

瞑想・祈りにともなう霊的現象にとらわれないこと、これが二つ目の注意点です。

次に心すべきことは、決してよこしまな動機から瞑想をしないということです。自分の前世を知りたい、背後霊を知りたいなどという欲求が、正しい結果をもたらすことはありません。退行催眠については次号で取り上げたいと思いますが、シルバーバーチも言うように、これによって前世を知ることはできません。そもそも自分の前世を知りたいという願望は、単なるエゴ以外の何物でもありません。エゴと霊的知識に対する無知から生じていることなのです。それがますます悪霊の付け入るスキをつくり上げているのです。

また早く自分を変えたいという思いは純粋かも知れませんが、その思いが強くなり過ぎると大きな問題を引き起こすことになります。人間改造セミナーでの興奮や洗脳、またセミナーやセラピー通いといったことが、いかに霊的成長から懸け離れたものであるかは、いまさら言うまでもありません。一気に自分が変わることを期待するのは虫のいい話です。自分の成長は、日々の地道な努力を通じてしか達成されないものなのです。

自分の霊的意識レベルを上げる、心を高めるという以外の動機で瞑想・祈りをしてはなりません。これが三つ目の注意点です。

神との愛を最優先する道“祈り”

地上の人間関係に絶望し、孤独感を抱くようになるのは当然のことです。それは不幸ではなく、霊的に見れば必然的に生じることなのです。人間は「縦の愛(神と霊界の人々)」と「横の愛(人間関係)」の中で生きて行くようになっています。イエスはそれを、「神を愛する、隣人を愛する」という言葉で表しています。

その際、縦の愛が先にあってその後に横の愛は成立する、というのが霊的摂理なのです。神への愛が先にあって、正しく人を愛せるようになるということです。神との正しい関係があってこそ、はじめて人間関係の中に利他性をもつことができるようになります。神のいない人間だけの関係の中に、正しい愛(利他愛)は存在しないのです。「神への愛を優先する」「縦の愛を優先する」ことが重要なのです。人間だけの関係は、霊的摂理に合っていません。夫(妻)や家族よりも、友人や身近な人達の誰よりも、神と背後霊との関係を重要視することが「縦の愛を優先する」ということになります。

背後霊との関係を通じて“神の愛”が私達に注がれます。この愛によって私達の心は満たされるようになっています。人間だけの愛を求める中では、飽きや不満足感が生じるようになるのです。地上の大半の人々は、神から離れた人間だけの愛を手に入れようとします。人間だけの愛の中に永遠性をもたせようとします。しかし、それは無理なことなのです。スピリチュアリズムと出会った方々であっても、いまだ人間だけの愛を重要視しているということはないでしょうか。配偶者や家族や友人など誰も信じられず、頼れなくなることは、ある意味ではよいことです。夫婦であっても所詮は別人なのだと思い知らされ、孤独を味わうのもよいことです。

人間関係に絶望することは、神と霊界だけを信頼する道を歩み出すきっかけになります。地上の人間よりも神と霊界を信じ、これに頼る人生を出発するチャンスとなります。縦の愛を横の愛よりも優先する“霊的自立・新生の時”を迎えたということなのです。人間関係の孤独を通じ、神との真実な関係を築く時に至ったということなのです。地上の人間関係がどれほどよいように思えても、当事者同士に神と霊界を優先する姿勢がない限り、いつかは人間関係の中で孤独という心の痛みを味わうことになります。

祈りとはまさに、地上のいかなる親しい人間よりも、神と霊界に信頼を寄せることであり、地上のどんな人間関係よりも、神と霊界との愛の関係を求めることです。たった一人になって、もっとも深い愛で結ばれた神と霊界の人々の前に出て行くことなのです。縦の愛だけの世界に入って、“神の子”という人間存在の本質に浸りきる、崇高な時間なのです。

「誠心誠意、魂の底からの祈り、神の御心と一体となり、神の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を神の僕としてより相応しく、そしてより逞しくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。」

『シルバーバーチの霊訓(12)』(潮文社)  p.124

祈る資格

最後に、「祈る資格」について述べることにします。祈りとは純粋な信仰実践の一つであり、親である神の前に心を解き放ち、もっとも深い世界で触れ合う時間です。そのため祈るについては、最高の誠意が私達に要求されます。神の前に恥ずかしくない誠意があってこそ、神の前に出て行く資格があるということになります。

では、私達のもつべき最高の誠意とは何でしょうか。それは、常日頃から霊的真理にそった生活の努力をしているということです。そして自分としては可能なかぎり精一杯、努力しているということです。そうした純粋で真摯な歩みをしている時のみ、祈る資格があるということです。そうした姿勢の中には、すでに神との深い触れ合いがあり、その上で、自分の力の及ばないことについて、ストレートに導き・援助を願い求めることができるのです。

醜い自分の心との闘いをした時のみ、「もっと自分を清らかにしてください」と祈ることができます。苦しみに正面から立ち向かって乗り越える努力をした時のみ、「力を与えてください」と助けを求めることができます。伝道や他の人々のために、自分のできる最善を尽くした後に、「力を貸してください」と導き・援助を求めることができます。このように、日頃から霊的真理にそう真摯な努力をしている時のみ、「祈る資格」が与えられるということです。

そうした努力があって初めて、寂しい時に、「慰めてください」と祈ることができるのです。最高の愛で結ばれた神の前に“素直な子ども”として立つことができるのです。

「あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して、正直に、正々堂々と、真正面から取り組んだとき――解決のためにありたけの能力を駆使して、しかもなお力が及ばないと悟ったとき、その時こそ、何らかの力、自分より大きな力をもつ存在に対して、問題解決のための光を求めて祈る資格ができたと言えましょう。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)  p.152