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ブライアン・ワイスの『前世療法』の問題点

ブライアン・ワイスの『前世療法』はベストセラーとなり、多くの人々に「退行催眠」の存在を知らせることになりました。しかし、この『前世療法』も、先号で述べたイアン・スティーヴンソンやシルバーバーチの見解と照らし合わせてみると、あまりにも多くの問題点を抱えていることが明らかになります。『前世療法』は人々に間違った知識を与え、幻想を事実のごとく信じ込ませ、大きな弊害を作り出しています。

次に、スティーヴンソンやシルバーバーチの退行催眠への指摘をもとにして、『前世療法』を検討してみることにしましょう。

まず第1の問題点として、霊的現象に対するブライアン・ワイス自身の理解力の乏しさをあげなければなりません。ワイスは、キャサリンの前世回帰現象に出会い、驚き混乱します。そして、その現象を理解しようとして、スティーヴンソンの『前世を記憶する子どもたち』を読んだと言っています。しかし、その後のワイスの歩みを見る限り、彼はスティーヴンソンの退行催眠に対する重要な指摘を全く理解できなかったと言わざるを得ません。どうしてワイスは、スティーヴンソンの問題点の指摘に気がつかなかったのでしょうか。スティーヴンソンが、「退行催眠を何とか終息させたいと考えている」とまで明言している内容が心に響かなかったのでしょうか。ワイスは、スティーヴンソンの見解に反論することなく、それどころか、スティーヴンソンの研究を自著の中で紹介し、まるで自分とスティーヴンソンが同じ考えであるかのごとくに扱っています。まともな知性の持ち主ならば、スティーヴンソンと自分(ワイス)の見解の違いを、まず埋め合わせるのが当然です。ワイスのしていることは、明らかに学問の世界における常識からの逸脱です。

こうしたことをしてしまった理由として、ワイス自身に心霊現象についての知識がなかったことが考えられます。心霊現象を判断する決め手ともいうべき心霊的な知識の欠如が、彼を間違った方向に向かわせてしまったのです。心霊的な現象を的確に判断するには、豊富な心霊的知識が不可欠です。霊的知識が乏しければ、判断力は狭く限定させられてしまいます。そして自分の方向性が間違っていても、その間違いに気づくことができなくなります。

もしワイスにスティーヴンソンほどの霊的知識があったなら、退行催眠をさまざまな角度から分析・判断できたはずです。そしてその結果、退行催眠によって前世を知ることができるというのは間違いであることに気がついたはずです。

第2の問題点は、ワイスが退行催眠によって明らかにしたという「前世の人格」についてです。すでに何度も述べてきましたように、退行催眠によって思い出したとされる前世の人格は、大半が潜在意識によるフィクションであったり憑依霊の仕業なのです。ワイスが『前世療法』の中で取り上げている前世の人格を注意深く分析してみると、それらが紛れもなく、潜在意識のフィクションや憑依現象であることが分かります。ワイスの霊的現象に対する理解力不足と一方的な思い込みが、彼に、前世像がフィクションであることを気づかせなかったのです。

第3の問題点は、霊界の導きに対するワイスの無知さです。霊界サイドがキャサリンを通して働きかけてきたことの真意を、彼は最後まで理解することができませんでした。スピリチュアリズムの観点から見れば、二人に対しての霊界側からの意図は、はっきりとしています。

キャサリンへの4、5回目の退行催眠で、あの世にいるマスター達(霊達)が、彼女を通じて霊的真理を語るようになりました。マスターからの通信はしばらく続きます。しかし、やがてマスターからの最後通告とともに、あの世からの通信は途絶えることになります。こうした一連の出来事は、霊界サイドがキャサリンという霊媒(チャネラー)を準備し、それを通じて霊的真理を地上に送ろうとした計画があったことを示しています。そして一定の通信を送った段階で、その計画が達成されたためか、あるいは別の理由で計画が変更され、あの世からの通信がストップしたと思われます。

このように考えれば、ワイスとキャサリンにとって最も重要なことは、彼女が過去世の記憶を取り戻すことではなく、あの世から送られてくる霊的真理そのものであったことが明らかにされます。キャサリンの霊媒としての能力は、霊的真理を地上にもたらすために、霊界において計画・準備されたものだったのです。

霊界側は、催眠トランスを利用してキャサリンの霊媒としての回路を作り上げていきました。ワイスはそうした霊界サイドの真意に気づくことなく、退行催眠や前世の記憶だけに心が奪われてしまいました。むろん彼の関心は、霊からのメッセージにも向けられてはいましたが、退行催眠と前世という見当違いの方向に異常に傾いてしまっていたため、肝心なことから大きくズレたまま進んでしまったのです。

結局、ワイスを通じてメッセージや霊的真理を地上に伝達しようという計画は、霊界側から見切りをつけることになったようです。これ以上、退行催眠による安易な前世探しが先行することは、将来大きな問題を生じさせるようになるとの判断から、霊界側の働きかけが一方的に断ち切られたと思われます。安易な前世探しは、人類にとって大きなマイナスを引き起こすことになるからです。

第4の問題点は、前世を思い出すことによって病気が治ったというワイスの思い込みと錯覚です。ワイスの前世療法は、大きな意味でいえば心霊治療の一つと考えられます。病気が癒されたというケースは、催眠の過程で何らかの霊的作用が働いたことによるものと思われます。はっきり言えば、こうしたケースは退行催眠でなくとも、他の方法でも治ったということです。ワイスは、「患者の40%は、現在の問題を解決するためには、過去世まで遡(さかのぼ)る必要がありました……こうした人々の病気は、何百年、何千年も昔の過去世で起こったことに起因しているために、従来の今生だけに限定した退行催眠療法を行っていては、どんなに優れたセラピストでも、彼らを完全な治癒に導くことはできないでしょう」と述べています。ワイスのこのような発言は、彼が心霊治療に対する知識が全くなかったことを示しています。

スピリチュアリズムによってもたらされた霊的真理に照らしての結論を言えば、こうした病気(カルマによる病気)は、治るべき時期のきた人は治り、まだカルマが清算されず時期のきていない人は、何をしても治らないということです。それが霊的な摂理なのです。どのような手段を取るかが重要ではなく、その人に時期がきているかどうかが問題なのです。

それを、退行催眠で前世を思い出したから病が癒されたと言うことは、原因と結果を取り違えた考え方、霊的摂理を無視した考え方なのです。本当は退行催眠をするか否かにかかわらず、同じ結果が生じたはずなのです。実際、退行催眠による治癒率が期待するほど上がっていないという事実は、このことを証明しています。

誠意と洞察力を持ったセラピストなら、治癒は退行催眠とは無関係に生じていることがはっきりと理解されるでしょう。病気が治るか治らないかは、どのような治療法を取るかということによるものではありません。治るべき時期にきている患者は、退行催眠以外のいかなる治療方法を施しても治るようになっています。わずか5分間、話をするだけでも治るのです。それが心霊治療における原則なのです。

第5の問題点は、『前世療法(2)』(続編)や『ソウルメイト―魂の伴侶』(続々編・PHP研究所)で述べられているソウルメイト(魂の兄弟)についての見解です。ワイスは、退行催眠によって、前世の人間関係(親子・夫婦・師弟・主従)が次世における身近な人間関係を結ぶことが明らかにされたと言っています。前世で夫婦であった二人は、次の地上人生で再び夫婦になったり、父と娘になったり、あるいは兄と妹というような、近しい関係になったりすると言うのです。また現在生じている人間関係のトラブル・不和などは、前世における人間関係に原因があり、それが悪いカルマとして現在にもたらされた結果であると言っています。このような時空を超越して前世からの関係を結んでいる相手を、「ソウルメイト」(魂の友)と呼んでいます。

このソウルメイトの考えは、表面上は、「死後生命の存続」「再生」「カルマの法則」といった、スピリチュアリズムによって明かされた霊的真理と共通の見解に立っています。その上で、前世と今生の具体的な人間関係を、退行催眠で実証するといった形になっています。そうした真理と実証(?)が同時に示されることによって、ソウルメイトの存在は真実であるかのような印象を与えることになりました。多くの人々がその理論性と実証性に感動して、新しい世界観・人間観を持つようになりました。今の人間関係は過去世からの宿命的なものであり、深い絆で結ばれたものであると思うようになったのです。そして、これまでとは違った観点に立って現在の人間関係を見直していこう、という人が増えてきました。

前世の夫婦が次世でも夫婦になったり、今の二人の出会いが前世の夫婦関係によって引き寄せられたものであるとするなら、本当にロマンチックな出来事と言えます。愛する者とは、次世でも一緒に暮らしたいと思うのはごく自然な願いであり、ソウルメイトが事実であって欲しいと考えるのは当然です。前世で愛し合った男女は、次の地上人生において、インスピレーションという一目惚れの形でそれを思い出すことがあるとも言われます。もし、そうした出会いが事実なら、ソウルメイトはこの世を超越した神秘的な関係、まさにすばらしい関係ということになります。

しかし結論を言いますと、退行催眠でワイス達が言う「ソウルメイト」といった人間関係は現実には存在しません。ソウルメイトという特殊な関係に、これまで感動と夢と希望を見い出してきた方が大勢いらっしゃることはよく知っています。ソウルメイトを新たな人生の指針・生きがいの根拠としてきた方も多くいらっしゃることでしょう。しかし、「ソウルメイト」は事実ではないのです。

退行催眠による前世像の大半が潜在意識によるフィクションであることはニューズレターの前号で述べましたが、実はソウルメイトも、これと全く同じプロセスで作り出されたものなのです。催眠下という日常的意識を超越したところにおいて作り出された想像の産物が、ソウルメイトなのです。退行催眠ブームの当初は、前世探しは個人レベルでのフィクション・ストーリーに限られていましたが、やがて複数の人間を同時に巻き込んで、肥大化したフィクション・ストーリーを作り上げるようになりました。それが「ソウルメイト」です。当事者全員によって前世の人間関係を作り上げ、全員がそのフィクション・ストーリーの中でそれぞれの役割を演じ、そこで展開される前世の人間関係を事実であるかのごとく思い込むことになります。これが「ソウルメイト」の実態なのです。

退行催眠で言われてきたソウルメイトが、単なるフィクションの産物であることは、スピリチュアリズムによって明らかにされた霊的事実に照らしてみれば一目瞭然です。私達は死後、幽界で一定期間過ごすことになります。そこで物質や肉体に由来する感性・意識を拭い去って純粋な“霊的存在”になるのですが、そうした肉体性・物質性がなくならないうちは、いつまでも幽界に留まることになります。

物質意識を拭い去り、霊本来の世界である霊界に入った者(霊)は、そこで「類魂」の仲間入りをすることになります。類魂とは「グループ・ソウル」とも呼ばれ、個々の霊が集合して、全体で大きな霊をつくるようになった「意識体」(共同意識体)のことです。大きな霊といっても、「類魂」は単なる個々の霊の集まりではありません。地上のグループ(人の集まり)では、どこまでも肉体を中心とした個別意識が支配的ですが、霊界の類魂では、その個別の意識の壁が取り除かれるのです。地上の人々の集まりは、その意味で“ソウル・グループ”(個人の集まり)を越えることはできませんが、「グループ・ソウル」(一つとなった大きな魂)は、共有意識という全体性が自然に優先されるようになる世界なのです。霊界の類魂では、「私はあなた」「あなたは私」「私は全員」という、融合した一つの共有意識(より大きな霊的存在)がつくられます。

死後、私達はこうした類魂という大きな霊の構成メンバーとして、霊的成長へ向けての新たな歩みを始めることになります。やがて類魂を構成する一部の霊が、類魂全体の成長のために、体験を求めて地上へ再生するようになります。こうして地上への再生者となった者(霊)は、類魂全体の進化にプラスとなる体験を求めると同時に、その本人がかつての地上時代に作ってしまった悪いカルマを清算するようなプロセス(苦しみ・困難の道)を歩むようになります。地上への再生は多くの場合、こうした二重の目的を持ってなされるのです。

さて、いよいよ地上に再生するについては、その目的――魂の成長とカルマ清算を果たすにふさわしい肉体と環境(国・民族・家庭)を選択することになります。つまり地上で自分の親になる人を選ぶということです。そうして後に、自ら選んだ地上の両親のもとに生まれることになります。以上が、霊界から地上に再生していくまでのプロセスです。

退行催眠で言われてきたソウルメイトでは、以前の地上の人間関係が再生時の人間関係を作り出すということでした。しかし今述べてきましたように、霊的事実はそれとは全く異なるものです。地上の人間関係が続くのは、せいぜい幽界までなのです。霊界に入れば、各人の霊的成長レベルに応じて行くべき界層が決められます。この段階で、地上のほとんど全ての人間関係(夫婦・親子・家族など)はバラバラになります。住む世界が別々になるのです。但し、住む界層が異なるといっても、愛による結び付きが失われてしまうわけではありません。真実の愛によって結ばれている者どうしにおいては、霊界でも必要に応じて会うことは可能です。(上層の者が下層に出向くという形で)いうまでもなく、その愛からは、地上的な要素、特に本能に基づく異性愛的要素は全て取り除かれています。かつての男女愛・夫婦愛は、親友の愛(地上の友情)に近いものになっています。

霊界において別世界に所属するようになっても、真の愛情がある限り、それが悲しみになることはありません。霊界に入る段階に至った者においては、互いの霊的成長だけが重要であって、愛する人と別々になる状況も喜びをもって受け入れられるようになっています。一人一人の意識が大きく変化しているのです。異なる界層に離れ離れになると寂しくなってしまうという考えは、どこまでも地上の観点からの心配に過ぎません。それを悲しみと感じなくなる世界が霊界なのです。

以上のような霊界の事実と照らしてみると、以前の地上人生における人間関係が再生時の地上生活に持ち越されるという考えが、いかに霊界の事実から掛け離れたものであるかが理解されるはずです。先ほども述べましたように、まず幽界をへて霊界に入る段階で、夫婦であってもその大半が別々になります。そしてその後は、それぞれにふさわしい霊的進化の道を歩むことになります。

別々の界層・類魂に所属している両者が、一定の霊界の期間をへて再生者として地上に生まれるチャンスが与えられたとしても、お互いの地上への再生の時期が重なるというようなことなど考えられません。また自分の成長・類魂全体の成長を促すにふさわしい国・民族・親を選ぶという点から判断すれば、魂の成長度が異なる別々の「類魂」に属している両者が、同様な地理的状況に置かれることは、ほとんどあり得ないことも理解されるはずです。その上、地上への再生という重大事にあたって、「類魂」(グループ・ソウル)という絶対的な壁を無視して、二人という横の関係において相談の機会を持つということは、決してあり得ません。再生に先立っての話し合いや打ち合わせというようなことは、再生時における守護霊となる“類魂の仲間”との間においては存在しますが、それ以外のものはありません。

さらに、もっと大きな問題は、地上に再生するのは、前世とは全く別の自分(私)であるということです。今の「私」という意識は、その地上人生における一度限りのもので、再生時には別の人間意識(私)になっています。前世の「私」は二度と地上に存在しません。今の「私」は次の再生時にはいないのです。したがって、霊界の視点から見た時の霊としては同一であっても、地上の人物としては全く別人になっています。そして地上では、そうした人物像しか「私」として意識することはできないのです。もし、かつて地上で夫婦であった二人が再生することになったとしても、その時は、それぞれが別の「私」と「あなた」として生まれるということになるのです。前世の人間関係をつくっていた両者が存在しない以上、地上において、再び「私」と「あなた」という関係・結びつきをつくることは不可能なのです。退行催眠でいう前世の人間関係とは、この地上の人物像どうしの関係を意味しているのであって、現実には存在しないということなのです。

ソウルメイトという考えは、どこまでも再生という複雑な現実を度外視したところにしか存在しませんし、空想の世界でのみ有り得ることです。そしてその空想とは、あくまでも人間の小さな視野・地上的視野から描かれた願望にすぎません。あまりにもこの世的な、肉体レベルに縛られた観点からの想像物なのです。再生とは徹頭徹尾、霊的成長という純粋な霊的要因によって展開する出来事です。前世の人間関係が次の再生時にも引き継がれるという考え方は、どこまでも地上・血縁という物質的要素を基準とした発想から出たものです。

スピリチュアリズムの観点から見た時、ごく稀なケースではあっても、前世の人間関係が次世に持ち越されるものとして、次のようなことが考えられます。

それは、地上の当事者どうしが極めて大きなマイナスのカルマ(二人だけによって作られた特殊なカルマ)を作り上げた場合――例えば、物欲から生涯にわたって憎み合い傷つけ合い、殺人まで犯すような関係を作ったケースでは、両者がともに霊性の未熟さゆえに霊界まで入ることができず、カルマ清算のために、幽界から揃って地上に再生させられることが考えられます。この場合、二人が再び地上で縁が結ばれ、カルマを清算するための状況が再現されることも有り得るでしょう。

つまり、こうした稀なケースでは、前世の身近な人間関係が再生時においても作り上げられるかも知れません。しかしこれは滅多にないことで、可能性があるにすぎません。

ソウル・メイトによって、この世の人間関係のトラブルに前向きに取り組む姿勢を持たせるのはよいことであっても、それはどこまでも、玩具(おもちゃ)で子供をなだめて親の言うことに従わせるのと同じことです。単なるフィクションを事実と思い込ませることが、長い目で見て決してよい結果をもたらすはずはありません。たとえ、そのフィクションを信じた者が感動し救われたと感謝の言葉を述べたとしても、事実でない以上、どこかで破綻が生じるようになるのです。間違いは間違いとして、訂正されなければならないのです。

さて、こうしたソウルメイトに一見似たものとして、シルバーバーチは「アフィニティ」(ツイン・ソウル)について言及しています。これは霊界の同一類魂に属する極めて密接な二つの魂のことを指します。霊界では“意識”こそが人間存在にとっての本質であるため、アフィニティのケースは、霊的には一つの霊を形成する二つの片割れ、一つの霊魂の半分ずつ、ということになります。霊的には一体関係にあるということです。そしてこの二つの霊が同じ時期に地上に再生してめぐり合い、夫婦(男女)の関係を結ぶことがあります。

アフィニティといわれる二人は、霊的成長レベルが全く同じであり、霊として一つ(同質)であるため、その後の霊的成長の歩みも、一つの単位としてともになしていくことになります。アフィニティといっても、低い霊界に所属する(類魂に入る)こともあり、そうした低いレベルにあっては、男女の違い(区別)ははっきりとしています。しかし、そうした二人も進化向上してより高い界層に進むに従い、両者間から男女差が消えていきます。

以上がアフィニティとしての進化のプロセスですが、こうしたアフィニティにおいては、霊界の関係が地上でもそのまま継続することになります。しかしこれは、退行催眠で言われてきたソウルメイトの関係とは全く異なるものです。ソウルメイト的夫婦関係は単なる願望であり、催眠によって作り出されたフィクションにすぎませんが、「アフィニティ」はごく稀なケースではあっても、現実に存在するものなのです。

ワイスが言うような、グループ退行催眠によって明らかにされるとするソウルメイト・ストーリーは、催眠下で作られた空想であり、現実的な人間関係ではありません。前世に由来するというワイスの言う人間関係は作り話にすぎません。グループ退行催眠では、個人レベルの空想がさらに増幅され、全員でいっそう大きな空想、フィクション的世界を作り出します。

冷静でまともな観察眼を持った人間なら、集団退行催眠で現出される前世の関係は、どうもおかしいと気づくはずです。いつまでもそうしたことを続けるのは、バカバカしくなるはずです。一目惚れを前世での夫婦関係の引き合う縁と勝手に思い込み、結婚に至った多くのカップルが、結局、悲惨な結末を迎えています。それと同じようなことを、全員でしているのが、グループ退行催眠の実情なのです。こうした異常なことは、スティーヴンソンならずとも、一刻も早く止めさせなければならないと思うのが当然です。夢を現実と信じ込む異常さの中に、身を任せるようなことがあってはならないのです。

第6の問題点は、ワイスが『前世療法(2)』の最後で述べている、自分自身で前世を思い出すための具体的な方法についてです。そこでワイスが示している方法は、自己暗示によってフィクションの前世を作り上げるテクニック以外の何物でもありません。わざわざ空想を作り上げ、前世と思い込ませようとする明らかに間違った方法と言えます。

以上、ワイスの「退行催眠」と「前世療法」についての問題点を明らかにしてきました。ワイスはキャサリンに対する治療が終了した時点で、退行催眠の間違いに気づき、一切の退行催眠をストップすべきだったのです。残念ながら、ワイスはその後も、霊界の意図からどんどん外れた方向へと歩み続けています。彼の『前世療法』はベストセラーになり、多くの人々に受け入れられ、今や彼は、ニューエイジの旗手的存在と見なされています。確かにワイスの行為は、多くの米国人の目を霊的世界に向けさせることになりました。このことは一面では貢献ともいえますが、皮肉なことに、それ以上の弊害を生み出してしまいました。

フィクションであっても魂が成長すればいいではないか、現実的に病気が治るのだからそれでいいではないか、というような、筋の通らない居直り・反論をするセラピストがいます。しかし人間は、やはり真実・事実を知って、その上に立って努力し、魂を成長させるべきなのです。子供だましのような手段で魂を成長させられるレベルは、所詮限られています。退行催眠を持ち出さなければ、もっとスムーズに魂の成長を促すことができるのです。退行催眠は、わざわざ魂の成長にとっての遠回りの道を作り出してしまいました。人々に人気のあるもの・受けのよいものが、魂を引き上げるわけではありません。偽物によって人の心を感動させるということが、魂の向上にどれほど悪影響を及ぼすかは計り知れません。

これまで、ワイスの「前世療法」を厳しく批判してきたのは、退行催眠による前世探しは一見スピリチュアリズム的でありながら、実はその本質を見失わせ、単なる好奇心・興味の方向に人々を引きずっていくという有害性を持っているためです。退行催眠などという手段は、人類の霊的成長にとってマイナスをもたらすものです。

ワイスは、「40%の患者は、退行催眠で過去世まで溯る必要がある」とか、「男女関係・夫婦関係・家族関係など難しい深刻な問題の根本原因は、前世にあることが私には分かってきました」などと言っています。このように言われれば、何の知識もない一般の人々が、退行催眠による前世に心を奪われ、間違った好奇心に翻弄されてしまうのは当然のことです。キリスト教の贖罪思想・原罪思想に相当する、大きな罪作りをしていると言わなければなりません。

アラン・カルデックによる『霊の書』(『スピリチュアリズムの真髄 「思想編」』当サークル発行)の中には、この世の人間関係は過去世に関係があるとするような一節があります。退行催眠でいうところの、ソウルメイト的な人間関係を述べています。これは結論を言えば、明らかに間違っています。『霊の書』という最高級レベルの霊界通信においても、間違いはあるという一つの実例です。この辺りに、『シルバーバーチの霊訓』と比較した時の差が表れています。

こうした間違いが生じた原因として、霊自体(通信霊)の知的レベルという問題や、霊界通信を地上人が受けた時のミス、あるいは、それらの通信を編集してきたカルデックのミス、そしてフランス語から英語への翻訳過程におけるミスなど、さまざまな状況下における間違いの可能性が考えられます。『霊の書』の通信内容の誤りは、『シルバーバーチの霊訓』という、より広範囲でしかも細部にわたる霊訓と比較した時に、はじめて明らかにされます。

退行催眠による前世像やソウルメイトといった人間関係が、ことごとく事実から遠く離れたフィクションであることは、これまでの説明で理解されたと思いますが、そうした事態を引き起こしている最大の原因は、実は催眠術の性格そのものの中にあるのです。

米国では、今まで盛んに催眠術や催眠療法が行われてきましたが、最近になってこうした催眠術への過度の信頼と偏りが、疑問視されるようになってきました。そして催眠への新たなチェックが、心理学や大脳生理学などの分野で進められるようになり、その結果、現在では、催眠下ではテレビや人の話など外部から入手した情報によって偽の記憶やストーリーが作り出されることが明らかになってきました。前世像やソウルメイトといった架空のストーリー、また宇宙人にさらわれる事件(アブダクティー)は、まさに催眠によるフィクションであることが裏付けられています。

ニューズレター前号(退行催眠と前世療法の問題点-1)で紹介した、イアン・スティーヴンソン博士などは、催眠に対して今述べたようなしっかりした見解を持っていたため、退行催眠の問題点を正確に見抜いていたのです。今後、アメリカにおける催眠の研究が進むにつれ、「退行催眠」や「前世療法」は、いずれ地上から姿を消すようになるのではないかと思われます。

飯田史彦氏の『生きがいの創造』について

ここ数年、日本で評判となってきたのが、飯田史彦氏の『生きがいの創造』です。彼はこの本の中で、海外の科学者による前世研究や死後生命の研究を紹介し、それによって新しい人生観と生きがいを持つための手掛かりを提供したいと述べています。学者という立場から、しかも畑違いの経営学の学者が、死後の生命や生まれ変わりなどという宗教分野のテーマを取り上げたことで、大きな反響を巻き起こしました。

一人でも多くの人々が霊的真理を知り、本当の霊的人生を歩んでいただきたいと願う私達にとって、こうした動きは誠にうれしいことです。飯田氏の勇気ある行動に拍手を送りたいと思います。日本においても、アメリカに遅れること約20年目にして、やっと学者が死後の世界や永遠の霊的生命について表舞台で論じるようになったことを、心から喜びたいと思います。

しかし、彼の『生きがいの創造』をそのまま無条件で受け入れることはできません。その中に重要な問題点があることを指摘しなければなりません。飯田氏がこの本において扱っているものが霊的分野に関する内容である以上、スピリチュアリズムの立場から、評価・批判していくことが必要です。単に死後生命の存在や前世・再生を認めるというだけで、それを全て善しとすることはできません。これまで見てきたニューエイジや新新宗教でも、輪廻転生や死後の生命を認めています。また、このニューズレターで取り上げてきた前世療法のワイスも再生を認めています。しかしそれでいて、あまりにも大きな弊害を生み出しているのです。こうしたことが、飯田氏に当てはまらないとも限らないのです。

人々を真に正しく導くためには、霊的分野における正確な知識が要求されます。いうまでもなく、その最も正確な知識とは、高級霊によって示された「霊的真理」です。真理という絶対的な基準を手にした私達がなすべき使命の一つに、他の思想・宗教の正当性と間違いを指摘することがあります。それがスピリチュアリストとしての役目でもあります。そうした観点から、これまでワイスとスティーヴンソンの前世研究の内容を検討してきました。そして、ここで同じような観点から、飯田氏の『生きがいの創造』を見ていきたいと思います。

飯田氏は、現代科学者の過去世研究を紹介するのが執筆の目的である、とたびたび述べています。そして、この本の内容を信じるか信じないかは皆様にお任せします、と言っています。学者の立場としては当然そうあるべきです。そのスタンスを徹底して貫くことが、公平で客観的立場を守るということになります。

しかし結論を言いますと、飯田氏は一見客観的立場に立っているかのようなポーズを取りながらも、「退行催眠」を無条件に正当なものとしています。そうした強い個人的思い込みを土台にして、『生きがいの創造』を書いています。霊的なものに興味のある人々がこの本を読んだ時、例外なく退行催眠は正しいもの、前世を思い出す手段として実にすばらしいものだと思うはずです。

飯田氏は、ワイスをはじめとする退行催眠の推進者と、それに反対するスティーヴンソンを、前世を認めるという共通点を根拠として、同列に扱っています。ワイスとスティーヴンソンの両者は、結論として前世を認めているのだから同一に見なしてもよい、という考えです。

しかし、すでに述べてきましたように、スティーヴンソンは、「退行催眠」(特に前世探求のための催眠)は止めさせなければならないという強力な主張を持っています。ゆえに、もし飯田氏が、ワイスとスティーヴンソンを公平かつ客観的に紹介したいというのであれば、スティーヴンソンが退行催眠については反対の立場をとり、批判しているという点を明確に示さなければなりません。さもなくば飯田氏自身が、スティーヴンソンの反対論拠に対して、克服的見解を示さなければなりません。それが、客観的立場に立って科学的情報を提供するということではないでしょうか。

飯田氏は、『生きがいの創造』の目的は、死後の世界や生まれ変わりの存在そのものを証明することではなく、科学的な研究成果を整理して紹介し、すでに信じている人々を勇気づけたり、人生を応援することであるとしています。どこまでも、新しい観点からの「生きがい論」を示すことにあるというのですが、だからといって情報提供に公平さを欠いてもよいということにはなりません。まして、この書のオリジナルが学術論文であるなら、なおさら、ここで述べたような手順を踏むのが“学問の常識”と言えるのではないでしょうか。反対意見がある場合、それをもオープンに提示することこそ、真の客観性というものです。

飯田氏が、意図的ではないにせよ、そうした偏った紹介をするようになってしまった原因は、彼自身が、「退行催眠」を無条件に真実と考えているところにあると思われます。そうした飯田氏の個人的先入観を土台として、この本は編集されています。従って本全体を通して、彼は自分の意見を一方的に主張するという結果になっています。飯田氏は、スティーヴンソンの見解をどのように受け止めていたのでしょうか。もし飯田氏がスティーヴンソンの意図を正確に理解していたとするなら、退行催眠を全面的に打ち出すような形をとることはできなかったと思います。このように見ていきますと、飯田氏の『生きがいの創造』には、極めて大きな問題点があると言わざるを得ません。

この本の読者には、スティーヴンソンの真摯で洞察あふれる批判については何も知らされていません。もし飯田氏がスティーヴンソンの重大な指摘を公平な立場に立って示していたとするなら、読者の反応はずっと違ったものになっていたことでしょう。退行催眠を鵜呑みにし、単純にこれに感動するというようなことはなかったはずです。結局、読者は、飯田氏が選んで提供した一面的な情報だけを受け入れることになりました。

たしかに飯田氏の言うように、前世とか死後の世界を頭から信じない人達を相手にする必要はありません。対象は霊的なものに関心を持ち、純粋にそれを求める人達です。そういう人達が、こうした興味を引かれる情報だけを与えられた時、どのような反応をするかは容易に予想できるはずです。もしスティーヴンソンの言うことが正しいのであれば、退行催眠に多くの期待を抱かせることは大きな罪作りということになります。飯田氏には、そうしたことを考える余裕がなかったのでしょうか。空想に等しい偽りの情報であっても、生きがいを与えられるならそれでよい、ということにはならないと思います。

スピリチュアリズムにおいては、先に述べましたように、退行催眠によって前世を知ることはできないとしています。「霊的真理」という絶対的に信頼できる基準と照らし合わせた時、スティーヴンソンの退行催眠に対する批判は正当なものであると認められるのです。退行催眠による過去世が事実でないとするなら、飯田氏が引用・紹介した前世の実例は、真実から大きく掛け離れていることになります。

本当に、退行催眠によって前世を思い出すことができるとするなら、私達は飯田氏に対して何の異議を唱える必要もありません。心から賛同するだけです。しかし飯田氏の『生きがいの創造』は、真実からはずれ、結果的に、間違った知識を人々に教えることになってしまいました。多くの人々に間違いを事実と信じ込ませ、退行催眠への傾斜を深めさせ、魂の成長に係わる大きな弊害を生み出しています。

この本の中には、死後の世界や地上における正しい心構えなど、まさに霊的真理そのものと言えるような、すばらしい内容も述べられています。(特にホイットンの『輪廻転生』からの引用)しかし残念なことに、それらは全て、退行催眠は正しいという主張を土台とした構成の中で述べられています。飯田氏は、せっかくスピリチュアリズムに貢献する道を歩み出しながらも、同時に、大きなマイナス点をも作り出してしまいました。実に残念なことです。

人々に対しては、徹底して吟味した上で正しいと確信できたものだけを教えるのが、道を説く者としての責任ある姿勢と言えます。さもなくば、本当に公平で客観的立場に立ち、自己の主観を厳しく排除した上で、情報を提供すべきです。飯田氏には、もう一度スティーヴンソンの退行催眠についての批判を吟味し、正すべき点については勇気をもって訂正していただきたいと願います。そして今後、霊的真理を普及する学者として、霊界の信頼できる道具として、大きな貢献をなしていただきたいと願っています。

飯田氏は、生きがい論第三作『生きがいの本質』で、先に著した『生きがいの創造』に対する総括的見解を述べています。そこで次のような驚くべき発言をしています。

――第一作の『生きがいの創造』は、死後の生命や生まれ変わりに関する各国の大学教官や医者たちの研究成果をご紹介し、私たちはどのようにして生まれてきたのか、という仕組みの観点から、人間の「生きがい」について考察しました。私自身は、決して“真理の解明”に興味があったわけではなく、人間に生きがいをもたらす価値観とはどのようなものなのか、を新たな方法で追求したつもりでした。しかし、私の書き方が未熟だったために、私があの世や魂そのものの研究を行っているかのような誤解も生んでしまいました。私は「あの世」でなく「この世」の研究者であり、あくまでも、人間に生きがいをもたらすような発想法に興味を抱いていたにすぎません。(32頁)

飯田氏は、さらにわざわざ次のような、『生きがいの創造』に対する自己批判の弁まで述べています。

――これまでの二冊の『生きがい論』が大きな欠陥を持っていることに気づいてしまいました。まず、『生きがいの創造』を執筆した時点では、どのようにして生まれてきたのか、という仕組みにとらわれすぎており、なぜそのような仕組みなのか、という本質問題を充分に論じていませんでした……私は大いに反省しました。自分は、見せかけにすぎない生きがい論を説いてきたのではないか……(39、40頁)

またこの書の最後では、次のような言葉を述べています。

――私は、人間の生きがいについて、人間の価値観というものに焦点をあてながら研究している学者ですから、何が真理であるかということよりも、どのような価値観を選び取ることが人間に生きがいをもたらすのだろうか、という問題意識を貫いています。なぜなら、真理であるかどうかという判断不可能な問題にこだわってしまうと、かえって自分自身を、出口のない迷路へと追い込んでしまうからです。(345、346頁)

飯田氏の『生きがいの本質』には、ここに引用したような思わず我が目を疑ってしまうような内容が随所に述べられています。飯田氏は一体どういうつもりで、こうした発言をしておられるのでしょうか。飯田氏はご自身の発言の意味を、本当に理解しておられるのでしょうか。自分で自分のすべてを否定していることが、分かっていらっしゃるのでしょうか。

「死後生命の実存」「再生の実在」「カルマの法則」という普遍的真理との出会いがあって、人はこの世限りの物質的価値観を否定するようになります。真理を知ることによって、自分の人生をこれまでとは違った視点から眺めることができるようになります。その結果として、「人生観・価値観」が根本から変化するようになるのです。そして今までにはなかった「生きがい」を持てるようになるのです。つまり、真理という出発があって、結果的に新しい生きがい論が成立するのです。はじめに霊的真理があり、そこから新たな生きがい論が生まれるという筋道こそ、飯田氏自身が取っていた論法であり、『生きがいの創造』執筆の大前提であったはずです。そうした考えに基づいて、多くの現代科学者の研究成果を取り上げてきたはずです。

読者が、飯田氏の書いた書物に感動を覚えたのも、そうしたしっかりとした筋道の上で、これまでに全くなかった新しい生きがい論を提示したからなのです。飯田氏の本の中に、今まで知らなかった「死生観」や「生命観」という真理を見い出したからこそ、多くの読者は感動したのです。飯田氏がわざわざ宗教における教義や教えを採用せず、大学の研究者の研究成果を取り上げたのは、真理を宗教的アプローチでないものにしたいとする、飯田氏の明確な意図があったためです。真理こそ生きがい論の出発点であったがために、飯田氏も必然的にそのようにしてきたのです。

しかるに『生きがいの本質』での発言は、そうした常識ともいうべき前提を根本から覆しています。先に引用した一節の中では、「死生観」「生命観」といった真理の問題は、現世における生きがい論のための単なる手段にすぎない、と明言しています。飯田氏自身はこうした真理の問題には関心がなく、真理よりこの世の生きがいに関心があるのだと、到底理解に苦しむようなことを述べています。飯田氏のこの発言に従うならば、嘘でも作り話でも、この世の生きがいを持てるなら何でもいい、ということになってしまいます。わざわざ科学者の研究にこだわって「退行催眠」とか「ソウルメイト」といったことを言う必要はなくなります。他の新新宗教のように間違ったドグマでも何でもよい、ということになってしまいます。単に生きがいだけを問題にするのなら、新興宗教に入信してその人なりの生きがいを持つことと、何も違いはなくなってしまいます。

これは明らかに飯田氏の根本的な間違いです。本末転倒した、あまりにも本質的な間違いと言わなければなりません。彼はこの本で、わざわざ『生きがいの創造』を自己批判していますが、実はその批判自体が全く的外れなものになっています。矛盾した自分の実態こそ批判しなければならないのに、結局、言い訳じみた自己批判をしているにすぎません。

「死生観」「永遠の生命観」「再生観」といった真理は、飯田氏が述べているような、何かの手段として軽々しく扱えるものではありません。それどころか生きがい論は、こうした真理が明らかにされることによって結果的に得られるものです。真理なきところでは、“真の生きがい論”は生まれてこないのです。

真理や真実に対する探求なくしての生きがい論など、所詮、主観だけの自己満足、単なる空想にすぎなくなってしまいます。歴史上多くの賢人たちは、人生を捧げて真理を求めてきました。それは真理の追求こそが、何にもまして重要であること、優先されるべきものであることを知っていたからです。そのため、死後の問題・永遠の生命の事実を知ろうと、多くの宗教者が人生をかけてきたのです。真理の探求とは、それほどまでに真剣なことなのです。真理を、生きがい論のための一つの手段として扱うことなど、あってはならないことです。真理の探求こそ、まさに人生をかけてなすべき最高の大事なのです。

飯田氏の『生きがいの本質』での発言は、学者としてのミスの次元を越えて、もっとも本質的な人間性に係わる問題を露呈していると言わなければなりません。純粋な読者の心を踏みにじり、人の心を弄ぶような無責任この上ない発言であることを、しっかり認識していただきたいと思います。飯田氏の本心からの自省を願わずにはいられません。

退行催眠セラピーの危険性と問題点

退行催眠の現場(特にグループで行うような場)では、交霊会と同じような霊的状況が出来上がります。そこでは低級霊が非常に感応しやすくなります。そうした時に、空想と現実をゴチャ混ぜにして、自らその中に身を任せのめり込むようなことは、自殺にも等しい行為です。低級霊にとっては、願ってもないような働きかけのチャンスがころがり込んでくることなのです。自分から喜んで低級霊に身を売り渡すようなことなのです。また前世に対する関心の根底には、程度の悪い見栄やエゴが潜んでいることが多く、退行催眠は、わざわざそうした低級な欲望に油を注ぐようなものです。

再生についての間違った理解は、地上における地味な自己克己の歩み、苦しみを自己の成長に必要なものとして甘受する生き方から、その人間を遠ざけることになります。日常の出来事を何もかも前世に結び付けて考えるようになってしまえば、地上人生における意義は片隅に追いやられることになってしまいます。夢や占いをそのまま信じ込むことが愚かであるように、退行催眠による前世をそのまま信じるのは異常なことなのです。

そうは言っても、霊的真理を知らない人が、前世を簡単に知ることができるという甘い誘惑に抵抗することは難しいでしょう。その意味で、こうした催眠に係わる人達は、責任の重大さをよくよく自覚するべきです。真理からズレた、間違ったことに手を貸すようなことは厳に慎まなければなりません。他人の魂の成長にとっての障害となることほど、大きな罪作りはないのです。

私達は自分の過去世を知らなくとも、正しい地上生活を送れるように、神によって創られています。もし地上生活を正しく生きるために過去世を知ることが必要ならば、神によって、簡単にそれを知ることができるように定められているはずです。シルバーバーチは、前世を知ることは、それ相当の霊的進化を遂げた人間においては理屈上は可能であるが、現実の地上人類においては、あり得ないことであると言っています。

前世の記憶を取り戻すためには、毎朝、睡眠中の霊界での体験・出会い・語らいを完璧に思い出せるほどの霊的レベルにあることが最低限必要とされます。しかし、地上のいかに優れた霊能者・霊通者であっても、そのレベルにまで至っている者はいません。前世は、そこまでのレベルにある者が瞬間的なインスピレーションとして知ることができる、というものなのです。

地上の人間が、自分の過去世を知ることが実質上不可能な状態に置かれているのは、それが分からないことが、地上人生にとってふさわしいからなのです。それを思えば、前世をわざわざ知ろうとする必要はないし、知らないことを“ベストの道”と考えなければなりません。そして地上人生において生じる一つ一つの困難に堂々と立ち向かい、克服していくべきなのです。日常の心のコントロール、醜い心との闘いにエネルギーを向けるべきなのです。

自分の過去世の何たるかを知らなくとも、今の自分の内容こそが、これまでの過去世の総合的な結果なのです。そしてそこに存在する悪いカルマは、地上において正しい霊的歩みを実践する中で、徐々に消滅していくようになっています。まさにそのために、私達はこの地上で人生を送っているのです。