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最も困難な闘い

私達の霊性は、利他愛の行為を通じて高められるようになっています。“愛”は人間の霊性にとって何より重要なものですが、それにはさまざまなレベルがあります。最も次元の高い愛は完全な利他愛で、無私の行為・自己犠牲の行為となって示されます。自分を忘れ、ひたすらより全体の霊的向上のために自分のすべてを捧げる行為となって表れます。利他的な愛は純粋な霊的世界に由来しています。

それに対して、肉体の本能から出たものが利己的な愛です。自分にとって大切なものだけを求める愛です。自分の本能的満足や自分の家族の利益を優先するのは利己性の表れです。そうした利己的な愛の中でも、最も低い次元にあるのが“性愛”なのです。性愛は人間の肉体の一番深い部分を支配して、地上人を常に利己的な方向へ引きずっていこうとします。

さて、私達が肉的本能を抑制し「霊主肉従」に至るためには、この最大のエゴ性である性欲と闘わなければなりません。霊主肉従の努力の中で最高に困難なものが、この性欲との闘いです。地上人にとって一番コントロールし難いものが、性欲の問題なのです。神は地上の人間に、霊的成長のための努力として「性欲のコントロール」という課題を与えられました。神は人類に性の自由という特権と同時に、それを霊的成長のためのチャンスとして活用する道を与えられたのです。

キリスト教の“霊肉二元論”の間違い

これまでキリスト教では、霊と肉の闘いということを強調してきました。キリスト教における霊と肉の問題は、神とサタンの対立に関連づけて考えられます。キリスト教では、神=霊、サタン=肉という図式で、霊肉の問題をとらえるのです。そこでは人間内部の霊と肉との闘いは、神とサタンの闘いということになります。そして肉体の欲望は“悪”として決めつけられ、敵視されることになりました。特に性欲は悪の権化そのものとして考えられ、人々には異常なまでの禁欲が求められてきました。

「霊的真理」に照らした時、こうしたキリスト教における理解は明らかに間違っています。霊界にはサタンはいませんし、原罪も存在しません。そもそも神によって与えられた性欲が悪であるはずがありません。“悪”とは、スピリチュアリズムの霊的真理にそって言うならば、肉主霊従に陥り、霊が肉体に閉じ込められて霊的成長ができないマイナスの状態のことなのです。肉体や性欲自体が悪であるということではありません。神によって造られたものは、すべてが善いものであり、性欲も神によって与えられた以上、悪ではありません。霊によってコントロールされている限りにおいて、性欲は魂の成長にプラスになるものとして、人間に与えられているのです。

イエスの示した厳しい“内面基準”

聖書の中には――「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」マタイ5章28、29節)というイエスの言葉があります。この聖句が、肉=悪というキリスト教の間違った“罪観”を強力に推し進めてしまったことは事実です。これを見るかぎり、性欲は最悪の存在のように受け取れます。この聖句を絶対的な基準とするならば、地球上に住む男性はすべて地獄に行くことになります。この言葉を守ることのできる男性は、地上には存在しないはずです。イエスはそうした実情を知った上で、こうした最高に厳しい“内面基準”を示したのです。

この厳しい基準をクリヤーすることができるのは、肉体のない霊界の人々に限られます。しかし唯一イエスだけは例外として、地上人でありながら、この清らかさのレベルを維持できたのです。イエスだけは、“情欲”という獣性から無縁であったのです。キリスト教ではそのイエスの特殊性を、原罪のない神の一人子(ひとりご)として説明しますが、ニューズレター8号(新年号:「霊界から見たスピリチュアリズムの歴史)で述べたように、現実には原罪はない以上、この説明は間違っています。イエスといえども、肉体を持っていた以上、性欲がなかったわけではありません。もし性欲がないとしたら、肉体的な片輪ということになります。

霊訓ではそれに対して、イエスの肉体は一般人とは異なり浄化され清らかであったと、隠れた秘密に言及しています。この言葉の真意は、イエスにおいては「霊主肉従」のバランスが、極めて大きく霊に傾いていたため、霊の支配状態が強かったということを意味しています。イエスにあっては、日常的に「霊優位」の状態が維持されていたということです。そのため性欲自体が浄化され、この世の男性のような情欲にはならなかったのです。肉体の特別な浄化のため、また強力な霊的エネルギーを絶えず受け入れていたため、性欲は存在しても、情欲は存在しなかったということなのです。ゆえにイエスは、男性であるにもかかわらず、情欲の思いで一度も女性を見たことがなかったのです。

私達も深い祈りの後には、霊的エネルギーに満たされ、情欲の思いから完全に解放される清らかな瞬間の時を持つことがあります。イエスには、そうした高められた霊的な状態が継続してあったのです。そうであればこそ、イエスは先程述べたような、“性欲”に対する厳しい分別レベルを人類に示すことができたのです。

キリスト教徒の“罪意識”

さて、イエスの示した厳しい内面基準のため、男性修道者の中には去勢をするような者まで現れることになりました。性欲の中に最高のエゴ性が現出します。情欲の炎は霊的な清らかさから最も遠いもので、まさに獣性というべきものです。そのため、この醜さに全力で闘いを挑み、去勢にまで及んでしまったのです。私達は、そうした清らかさを求めて闘いをしてきた修道者達を、一方的に非難することはできません。醜い本能性の思いをなくそうと血みどろの闘いをしてきた彼らを、現代人の誰もが非難する資格はありません。

敬虔なクリスチャンが自分を罪人であると意識するのは、どうしても克服できない、この“情欲”の壁にぶつかった時です。クリスチャンが自己の清らかさに最も自信を失うのは、この時です。そして自分は偽善者であると自分自身を非難してきたのは、この情欲の壁に突き当たった時だったのです。彼らにとって肉は悪でありサタンであると思えばこそ、肉体を傷めつけることは決して悪いことではありませんでした。キリスト教の罪観は確かに間違っています。しかし、清らかさを求める方向性とそのための内面の闘いは間違っていません。肉欲の放縦を善しとして、これに身を任すことに罪悪感を感じなくなっている現代人と比べ、彼らがどれだけ霊的な清らかさを持っていたのかは言うまでもないでしょう。

ニューエイジでは従来のキリスト教における間違った信仰について、これを根本的に否定しようとしますが、霊的な清らかさという点においては、クリスチャンの方がはるかに優れています。ニューエイジには“霊的な清らかさ”という視点が乏しいため、真に霊的なものが何であるのかが判断できません。そのためキリスト教における正しい点までも、否定することになってしまっているのです。これはニューエイジにおける大きな問題点です。性欲に対する“禁欲”は、人間性を抑圧する偏狭な道徳でないどころか、「霊的成長」にとっては欠くことのできない正しい努力なのです。

清らかさの決定――性欲との闘い方

その人の霊的な清らかさは、性欲に対する姿勢においてはっきりと示されます。セックスにルーズであったり、セックスばかりに意識を向けている人間が、高い霊的心境に至ることは決してありません。歴史上の人物で、誰が本当に優れた「霊性」を持っていたのかは、彼らの性欲に対する姿勢によって判断することができます。

トルストイの作家活動の後半におけるキリスト教への傾倒と性欲との闘いは、よく知られています。彼は晩年に『クロイチェルソナタ』や『性欲論』などを著し、禁欲生活の重要性を述べています。また日本の親鸞も、性欲について深く掘り下げた人物として知られています。性欲との闘いに対する親鸞の率直な態度は、彼の清らかさを求める姿勢を示しています。禁を破って山里へ降りて女性を求めたり、あるいは陰でコソコソと性欲処理をする僧侶の現状の中で、妻帯に踏み切ったことは、清らかさを限界まで追求した彼の心の純粋さを示しています。パウロもこの親鸞と同じようなテーマについて述べています――「私のように、一人でおれば、それが一番よい。しかしもし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方がよいからである。」(コリント前7章8、9節) またインドのガンジーは――「今日一日、私はよい夫であった」と述べています。これは、今日はセックスの欲望に打ち勝って妻とのセックスをしなかったということを意味しているのですが、ここにはガンジーが、いかに清らかな世界を求めていた人物であるかが示されています。

困難な男性の性欲コントロール

イエスの述べた厳しい内面基準は、スピリチュアリズムの観点からは正当なものであり、私達が当然目指すべき目標となります。しかしその目標は、独身の若い男性にとっては想像を絶するような厳しいものであり、ほとんど実行不可能と言ってもよいでしょう。それを実行しようとすれば、どれほどの苦しみと絶望が待ち受けているのかが、容易に理解されます。若い男性にとっての霊と肉との闘いは、まさに性欲との闘いにあると言っても過言ではありません。しかしいかほど困難であっても、高い理想を目標として努力しなければなりません。ガンジーが、「今日一日、私はよい夫であった」と言ったような率直な姿勢を手本として、一日でも、少しでも多く、清らかな時間をつくり上げるための闘いをすべきなのです。

現在の社会には、あまりにも情欲を誘発する刺激が満ち満ちています。その中で、見るもの聞くものを聖別することは大変です。2日、3日と真理を読み祈りをして高めた心も、一歩街に出た途端、アッという間に崩されてしまうかも知れません。また時には性的な妄想が次々と湧いてきて不安定になり、それを制することができなくなるかも知れません。そうした敗北の苦い経験を繰り返し――「清らかさを保つのは何と難しいことか、自分は何と醜い人間なのか」と絶望の底に叩き落とされるような、惨めな思いを味わうこともあるでしょう。初めから負けることが分かっている闘いなどもう止めてしまおうと、諦(あきら)めようとするかも知れません。

そのような時、情欲とは無縁な女性があまりにも清らかに映ることでしょう。女性の清らかさが羨ましく感じられることでしょう。また一刻も早く霊界に行って、醜い情欲の思いから解放されたいと考えるかも知れません。霊界にしか、もはや望みはないように思われるかも知れません。あるいは性欲は肉体の生理現象で正常なものだから、排泄するのは当然だと居直ってしまうかも知れません。しかしこれこそが、まさに歴史上の修道者の誰もが苦しみ抜いてきたことなのです。そして現在でも、清らかさを求めようとする全ての人間が、例外なく直面しなければならない内面の闘い・醜さとの闘いなのです。

性欲との闘いは、私達が清らかな思いを心に宿し、清らかさを深めていくための努力に他なりません。年をとってからも、清らかな心境を求める情熱と姿勢を失ってはなりません。「もっともっと清らかになりたい」という思いがなくなれば、もはや「霊的成長」は望めないのです。

闘うこと自体に価値がある――諦(あきら)めずに闘い続けなさい

忘れてはならないのは、清らかになろうとして闘いをすること自体が、その結果にかかわらず、すでに高いところに身を置いているということです。結婚して好きな時にセックスができる人達は、もはや清らかさを求める厳しい闘いからは縁遠くなります。好きなように性欲を満たせる状況にある中では、清らかさへの感度も意欲も薄れてしまいます。若い時には敗北の連続であったとしても、清らかさを求めての闘いに臨めるというそのことが、この世の男性とは異なる、格段に高い世界にいることを示しているのです。たとえ闘いに負けることがあっても、清らかさを求めて闘うその姿勢は、魂を高みへ押し上げることになります。少しでも清くありたいと抵抗することこそが大切なのです。

若い時に性欲と正面切って取り組んだ人とそうでない人とでは、内面の清らかさと深さにおいて、大きな差が生じます。年をとってから清らかさの感性を深めることは、とても難しいのです。若くて、多感・敏感・繊細な心を持っていればこそ、清らかさの感性を育み深めることができるのです。常に性欲に負け続けてばかりであったとしても、諦めずに闘いに挑む姿勢が、心を高い世界に導いていくのです。性欲との闘いは、積み上げた石をまた崩すような虚しい闘いであるかも知れません。それでも諦めずに闘い続けていって欲しいと思います。それが霊的に見た時、計り知れない大きな永遠の宝をもたらすことになるからです。若い時に性欲との闘いの経験を持たなかった者は、将来、霊的に深くなることはできません。若い時に性欲の放縦に染まり切った者は、霊的な不具者となってしまうのです。

性欲との闘いは本当に苦しいものです。しかし、それは霊界に行った時には完全になくなります。まさしく“死”は清らかさを求め続けてきた人にとっては、苦しみからの解放の時となります。地上の醜さから解放される喜びの時となるのです。清らかさを求めて闘ってきた者と、性欲を肉体生理の当然の現象として放縦に身を任せてきた者とでは、地上にいる間に、天と地ほどの大きな「霊性の差」をつくり上げることになるのです。

性欲との闘いをしている者と、性欲の放縦に身を任せている者とでは、全身から放射される清涼感が全く異なります。その清らかさの違いは、霊的感性の敏感な人には簡単に見分けられます。

また霊能者として霊界のスピリットとコンタクトする立場にある者にとって、性欲との闘いは最も強く求められるものです。性欲に翻弄されている霊能者ほど、霊界の低級霊にとって付け入りやすい存在はありません。性欲との熾烈な闘いをしていない霊能者、清らかさのない霊能者は、すべて低級霊の侵入を受けていると言っても間違いありません。

性欲コントロールは「霊主肉従」がポイント

性欲コントロールの最も効果的な方法は、できるだけ強力に「霊主肉従」の状態をつくり出すということです。霊的真理を読み、瞑想や祈りをすることで霊的エネルギーが蓄えられるようになると、情欲の妄想はサッと消え去ります。こうした闘いによって情欲の嵐が静まり、清らかな世界に入った時は、心の底から勝利感が湧いてくるはずです。

バーバネル(シルバーバーチの霊媒)と友達であり、シルバーバーチの交霊会にも出席して何度か直接指導を受けていた、テスターというイギリス人ヒーラーがいました。彼は自分の著書の中で、キリスト教の“禁欲主義”を非難しています。マスターベーション(自慰行為)を禁じているから若者は欲求不満になり、いろいろな問題を起こすことになると言っています。そしてマスターベーションを認めるべきだという意見を述べています。しかし「霊的真理」に照らしてみれば、その考えはやはり間違っています。彼の率直な人柄がそうした発言をさせたと思いますが、たとえ実現不可能なことと分かっていても、目標は完璧なもの、理想的なものでなければなりません。闘いに負けた結果マスターベーションに走ってしまうことがあっても、それを初めから善いものとして認めることはできません。女性の生理と同様、男性の夢精は自然な生理現象です。射精の瞬間、エロチックな夢を見ることが普通ですが、覚醒時における霊的コントロールの力が強くなるにつれ、夢精中においてもコントロールできるようになっていきます。しかし、これは一人一人の内容によって大きな差があるため、ここではそれ以上のことを述べるのは差し控えます。)

若い男性が一人で生活する時は、性欲の誘惑を克服することは至難の業です。一人で身を清く保つということが、いかに困難なことかを実感するはずです。しかし、もし若者二人が一緒に生活するなら、誘惑に流されることはずっと少なくなります。誰かといることによって適度な緊張が保たれ、はるかに身を清く保ちやすくなります。また肉体が疲れ過ぎ意志の力が弱くなった時や、何らかの大きなショックを受けたり、緊張を強いられた後には、性欲の衝動が襲ってくるものです。性の情報が乱れ飛び、絶えず刺激にさらされる中にあって、若い男性が一人でいることは、狼の群れの中に子羊がいるようなものなのです。一人の力では到底抗し切れるものではありません。

肉体が病気などで弱った時は、自然に性欲が後退します。従って意識的にそれと同じ状態をつくれば性欲は減退します。そのための方法として、断食が修道生活においては勧められてきたのです。一週間に一日を断食の日に決めることは“霊的浄化”のためには良い方法です。この日をもって一週間分の身の清めをするのです。また飽食に陥らないようにすること、飲酒を避けることも大切です。

ヨーガにおけるクンダリーニの上昇とは、霊的エネルギーを高め、性欲をコントロールする過程を別の形で説明したものです。瞑想によって霊的エネルギーが高められ、「霊主肉従」の状態ができると、性欲がコントロールできるようになります。

夫婦間のセックスはどうあるべきか――夫婦間の性のコントロールの必要性

パウロは、結婚した男女に対して次のように言っています――「合意の上で祈りに専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。」コリント前7章5節)パウロは、結婚してからも二人が清らかな意識を持ち続けることの必要性を言っています。

たとえ夫婦であったとしても、嫌がる相手にセックスを強要することは許されません。それは動物にも劣る本能剥き出しの最も醜い行為と言わざるを得ません。こうした家庭内暴力に対して、最近になってメスが入れられるようになったことは社会として大きな進歩と言えます。では二人が同意する限り、自由にセックスしても良いのでしょうか。こうした質問は、現代人にとっては全く馬鹿げたことのように思われるかも知れません。「そんなこと当たり前じゃないか」「夫婦がお互いに同意している以上、何の問題があろうか」――これが大半の人々の答えです。しかし先程のパウロの言葉は、こうした現代人の常識に対して、異議を唱えるものなのです。

夫婦二人がセックスに同意したとしても、それはどこまでも肉体レベル・本能レベルでのことに過ぎません。二人が何より霊的世界とそこでの結び付き(霊的結び付き)を優先するのでない限り、たとえ気持が一致したことであっても、霊的に“善”とはならないということです。霊的なものをそれぞれが優先するために、夫婦間のセックスを一時中断するのは良いことであるとパウロは言っているのです。これはスピリチュアリズムにおけるセックスの在り方を説いています。理想のセックスとは、お互いが霊的成長を最重視し、霊的な結び付きをセックスよりも優先するという前提がある時に、初めて成立するものなのです。単なる肉欲の快楽と喜びを、霊的意識よりも優先するところに、霊的なセックスはあり得ません。お互いが、必要な時には性欲をコントロールすることができる、というところにおいてのみ、理想的なセックスが成立するということです。

率直に言えば、セックスはなくてはならないというものではありません。セックスレスは夫婦愛の危機のようによく言われますが、本当に霊的に深い世界で結び付いている夫婦にとって、セックスは二の次なのです。セックスができなければ愛し合えないというものではなく、むしろセックスをコントロールする努力の過程で、二人の間に本当の深い愛が育まれることの方が多いのです。セックスの快楽に溺(おぼ)れた二人が、霊的に深く結び付くことはありません。かならず“飽き”がきてしまうのです。すべてが肉的レベル・本能的レベルであるからです。霊的レベルにまで至らない限り、愛は必ず飽きがくるようになり、苦痛へと変わっていきます。年老いた夫婦がセックスから遠ざかるのは、自然の成り行きです。年老いてなお性欲が旺盛なことを賛美するような風潮もありますが、愚かなことです。もちろん年老いたらセックスをするなということではありません。霊的関係が深まっているか、セックスなしでも深い愛情関係をつくることができるのかということです。

年若い夫婦であっても、性欲をコントロールすることの大切さを知っておくべきです。必要な時にはセックスを遠ざけることができてこそ、霊的関係を育んでいくことができるのです。そしてそれが結局、二人に本当の喜びをもたらすことになるのです。肉欲の喜びしか知らない者は“霊的不具者”です。霊的な喜びを知らない人はかわいそうな人間です。肉欲コントロールの必要性を知り、それを実行できる二人においてのみ、地上のセックスは存在価値を持つようになります。初めて獣とは違った存在になることができるのです。二人が性欲のコントロールをするもとでのみ、セックスの喜びは追求されるべきものなのです。お互いが率先してセックスをコントロールするというのも、この世の人々にはない、すばらしい夫婦愛の在り方であり、霊的努力の道であることを知っておくべきでしょう。

女性の性愛との闘い

独身の男性が身を清らかに保とうとすることは、本当に大変な克己の努力が要求されます。女性はそうした男性の持つ“情欲”とは無縁です。男性のような抑えがたい激しい性欲との闘いは必要ありません。しかしその代わりに、男性とは異なる別の苦しみと直面しなければなりません。女性にとって、本能から生じる利己的感情の起伏は男性よりも激しく、それゆえ男性と比べ多くの感情的苦痛を持つようになります。利己的な感情との闘い、すなわち“嫉妬”などのマイナスの感情との葛藤が、男性より強くなります。男性が性欲コントロールで苦しむように、女性も自己の醜い感情で苦しまなければなりません。女性は感情コントロールにおいて、男性よりも多くの内面の闘いと苦しみが要求されるのです。「魂の成長」を求める限り、こうした苦しみと直面せざるを得ないのです。

そうした利己的な愛・ジェラシーは、自らの心を常に“霊的視点”に立たせることにおいてのみ、乗り越えられるようになっています。相手の人間より、神と霊界を優先することによって、初めて克服することができるのです。自分のことより相手の霊的成長を願う利他愛の努力を通じて、利己的感情・醜い感情は少しずつ浄化されていくのです。男性であれ女性であれ、地上において「霊的成長」をなすためには、必ず苦しみがともなうということなのです。