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釈迦(シャカ)は今?

霊界通信では、たびたび「イエス」について語られます。ニューズレター8号「霊界から見たスピリチュアリズムの歴史」)では、そうした霊界通信によって明らかにされた、霊界でのイエスの様子について述べました。さて、地上の三大宗教の創始者としてイエスと並び称されるのが「釈迦」(シャカ)です。大半の日本人にとっては、シャカはイエスより身近な存在と言えます。ところが高級霊界通信の中で、シャカについて語られることはほとんどありません。一方、最近の新新宗教では、シャカの再生者を名乗る教祖が登場したり、シャカからの霊界通信を受信するといったことが行われています。私達のサークルにも、「今、シャカは霊界でどのような位置にあり、何をしているのでしょうか」「スピリチュアリズムでは、シャカをどのように考えたらよいのでしょうか」といった質問が寄せられています。

シャカが地上に誕生してからほぼ2500年がたちました。その間、シャカが生前説いた教えは、多くの学者や宗教家によって研究されてきました。ここでは「霊的事実」という観点から、シャカの実際の姿に迫ってみたいと思います。スピリチュアリズムでなければ知ることができない、シャカの実像を見ていきたいと思います。

イエスとシャカの違い

シャカについて質問する人々の多くが、シャカをイエスと並ぶ聖人として位置付けしています。仏教徒にとって、シャカは悟りを得た地上最高レベルの人物(覚者(かくしゃ))であり、歴史的に傑出した人物ということになります。時には、私達普通の人間を寄せ付けないほどの超能力者として考えられることもあります。イエスも立派であったかも知れないが、シャカもそれに劣らず立派な人物であったと思っています。

しかし結論を言えば、そうした評価はすべて地上サイドのものであって、必ずしも真実を言い表してはいません。このような問題の真の回答は、「霊的事実」および「霊的真理」の観点からなされなければなりません。霊的視点に立ってイエスとシャカを比べてみるとき、この二人の聖人の間には、極めて大きな違いがあるのです。

第一に、イエスとシャカでは、その霊的背景において著しい隔たりがあります。イエスの霊的背景についてはすでにニューズレターで述べましたが、イエスは特別な使命のもとに地上に誕生した高級天使でした。イエスは神格的霊性を持ちながら、地上人として生まれました。こうした高級天使が地上人として受肉するようなことはめったにないことですが、イエスの地上降臨は、その稀なケースの中でもさらに特別なケース、人類史上、空前絶後の奇跡とも言うべき出来事でした。イエスにはこのような極めて重大な霊的背景があったのです。イエスの「霊格」は人類史上、無条件に傑出したものでした。そうしたイエスを天に属する人間とするならば、シャカは地に属する人間ということになります。

第二に、霊能力においても、イエスはシャカを始めとする他の聖人の追随を許さない立場に立っていました。イエスは地上にありながら、霊界の天使や霊界人と自由に交わることができました。イエスほど霊界の事実に精通した人物は存在しません。一方、シャカの霊能力は普通一般の地上人と大差がなく、イエスと比べ明らかに劣っています。シャカはイエスのように、霊界の存在を明確に知ることはできませんでした。死後の世界の問題は地上の人間にとって最大の関心事ですが、その重要な問題について、シャカは明確な回答を示すことができなかったのです。

第三に、イエスは一度かぎりの地上人生を送り、死後はそのまま高級霊界に直行しました。イエスは初めから、地上世界での霊的成長のプロセスを必要としない「霊格」を備えていました。それに対し、シャカは死後、何度か地上への再生のプロセスを踏まなければなりませんでした。シャカは私達と同様、霊的成長のために幾度かの地上人生を繰り返さなければならなかったのです。古代インドの輪廻転生思想によれば、人間が一定の霊的成長をなしたときには輪廻のサイクルから脱け出し、二度と地上に生まれ変わることはなくなります。「覚者」とは輪廻のサイクルを脱した高貴な人間のことです。その意味からすれば、イエスはまさに初めから覚者であり、一方シャカは覚者のレベルには至っていなかったということになります。地上時代のシャカは、自ら悟りを得て覚者になったと思っていたようですが、実はそれは“錯覚”であったということになります。再生の観点から見たとき、イエスとシャカの違いは明らかです。

以上、イエスとシャカを比較してきましたが、こうした点から判断すると、イエスとシャカの霊格・霊的レベルは天と地ほどの開きがあったことが分かります。仏教徒がシャカをイエスと同列において考えるのは、彼らに霊的視点がないためであり、ただ彼らの希望を言っているに過ぎないということです。それは霊界の事実から出たものではなく、単なる地上的な判断に過ぎないということなのです。

地上時代の「シャカ」という人物は、霊界には存在しない

「シャカは今、何をしているのか」と考えるとき、皆さんがそこに思い描いているシャカとは、2500年前にインドに生まれ、修行の末に悟りを開いたと言われる一人の聖人のことです。おそらくは仏教絵画や仏像によってイメージされるシャカを思い浮かべておられることでしょう。しかし、皆さんが考えるそうした「シャカ」という人物は、霊界のどこにも存在しません。シャカと名乗った2500年前の一人のインド人は、霊界のどこを探してもいません。仏典を通じて知ることができるシャカは、地上人のイメージと仏典の中にしか存在しないのです。現代人がシャカに思いを巡らすとき、かつてのシャカの幻影と、2500年前に消え去った残像を、事実と“錯覚”しているのです。

すでに度々スピリチュアリズムの「霊的真理」を通して、再生に関する事実を学んできました。再生について理解するためには、インディビジュアリティーとパーソナリティーの違いを正確に把握することがどうしても必要です。私達地上人は、パーソナリティーとしての“地上の人物像”しか見ることができません。そのため、再生を全てパーソナリティーの観点からのみ判断してしまうことになります。地上人の視野からでは、再生現象のごく一部、物質次元に現れた部分しか理解できないのに、それだけを再生の全てであるかのように勘違いしてしまいます。再生について正しく理解するには、霊界人と同じような視点から見ていかなければなりません。

パーソナリティーとは、地上世界だけに現れる大我(インディビジュアリティー)の一部分・一側面に過ぎません。霊界にいるシャカを2500年前のインド人として考えるのは、パーソナリティーの視点に立った見方です。地上だけのパーソナリティー(人物像)は肉体の死とともに消滅するのです。霊界においてシャカは今、2500年前にその一部をインドでシャカとして顕現させたことのある「霊」として存在しています。その霊こそが、シャカの「大我・本体霊」なのです。その霊にとって、かつてのシャカとしての地上的人格は、残滓(ざんし)のようなものに過ぎません。地上時代のシャカ像とは、以前着ていた衣服のようなものなのです。

皆さんが将来霊界に赴いたとき、もし一定の霊格を持っているならば、昔「シャカ」として地上世界に一側面を現したことのある「霊」と会うことができるかも知れません。しかしその霊は、皆さんの思うシャカとは似ても似つかぬ存在なのです。

霊的真理に無知だった地上時代の「シャカ」

シャカが生前に説いた教えは、スピリチュアリズムの「霊的真理」から余りにも大きく懸け離れています。その最たるものが、死後の魂と死後の世界の実在についてです。シャカは常住不変の実体の存在を否定しました。このシャカが否定した不変の実体とは、スピリチュアリズムで言う「霊魂」に他なりません。霊魂の存在は、スピリチュアリズムにおける最も基本的な真理です。生前のシャカは、スピリチュアリズムの基本であり、最重要な真理――「霊魂の実在」を否定したのです。このように地上時代のシャカは、根本的な間違いを犯しました。シャカは、自己という実体がない以上、死を恐れる必要はないし、『縁起の法』を理解することによって死の恐怖にとらわれることはなくなるとしました。こうした道理によって、シャカは死の恐怖や人生の苦しみからの克服を図ったのです。しかし、これはスピリチュアリズムの立場からすれば、単なる屁理屈・詭弁(きべん)に過ぎません。

シャカの弟子の中には、シャカに“死生観”についての疑問をぶつけた者もいます。マールクンヤという青年修行者が、次のような質問をしています――「身体と霊魂は一つであるのか、別なのか」「人間は死後も存続するのか、しないのか」シャカはこの質問に対して沈黙を続けます。そこでマールクンヤはシャカに詰め寄り、さらに答えを求めました。シャカはそうしたマールクンヤを厳しく諌(いさ)め、『毒矢の譬(たと)え』を説くことになります。シャカは――「現実に苦悩の矢に当たって苦しんでいるのに、世界は常住であるのかどうかとか、魂は永遠であるのかどうかなど、おかしな話ではないか。まず毒矢(苦悩)を取り除くこと、すなわち苦悩を解決するのが先決である」と答えます。そしてそのために示した解決方法が『四諦(したい)の教え』でした。

こうしたシャカの論法は言うまでもなく、「霊的事実」に対する無知から出たものです。もしシャカに霊界や霊魂を見ることができる能力があったなら、このような返答など決してしなかったはずです。マールクンヤがシャカに投げかけた質問こそ、人間として最も率直でまともなものでした。それに対するシャカの答えや『毒矢の譬え』は、まさに詭弁以外の何物でもありません。シャカの観念的な無我説と輪廻転生観は、明らかに論理矛盾を露呈しています。そして、その矛盾がシャカの死後、唯識(ゆいしき)学派の弟子達による『アーラヤ識』という難解複雑な形而上学を作り出すことになってしまったのです。シャカが2500年前に犯してしまった間違いは、現代に至るまで影響を残すことになってしまいました。

仏教の教えは、死後直ちにシャカ自身によって捨て去られた

地上時代のシャカは、自分が悟った真理に自信を持っていたようです。しかし死後、霊界に入るやいなや、地上時代に説いた教えがあまりにも偏り、真実から大きく懸け離れていたことを知るようになりました。霊界という事実の前に、地上での考えは根底から覆(くつがえ)されました。その結果、死後数年もしないうちに、かつて説いたほとんど全ての教えを自ら否定することになりました。従って、仏教はシャカ自身によって、すでに2500年前に葬り去られているのです。シャカは同時に、自分が悟りを得て覚者・仏陀(ぶっだ)となったと思ったことも間違いであったことに気がつきました。そしてシャカは、現在私達が信じているスピリチュアリズムの「霊的真理」と全く同じものを受け入れるようになったのです。シャカは霊界に入り、それほど時間が経たないうちに“スピリチュアリスト”になったのです。

ところが地上の状況は、こうした霊界でのシャカの動きとは全く逆の方向に進んでいってしまいました。シャカ自らがすでに自分の説いた教えを変更しているにもかかわらず、地上の弟子達はそれに固執し、さまざまな解釈を施し、難解なだけで真実ではない教義を作り上げることになりました。そうした的外れな努力が、現代に至るまで延々と2000年以上にも渡って続けられてきたのです。何という滑稽なことでしょうか。それは丁度、私達が小学生時代に書いた作文を、当時の同級生が取り出してあれこれと批判・判断するのと同じことなのです。かつて小学生だった自分は、その後何十年かの人生によって考えも視野も大きく変化し、別人のようになっています。それなのに、そんなに昔のことを論じても何の意味もありません。地上の仏教学者や宗教家はそれと全く同じようなことを、いまだにシャカに対して行っているのです。

シャカからの霊界通信?

こうした事情を知ってみると、21世紀を迎えようとする現代に、霊媒を通じて「シャカ」と名乗る人物が出てきて、地上時代のシャカと同様なことを語るというのは、明らかにおかしなことです。また霊界通信によって、2500年前にシャカが地上で説いたのと同じような教えが届けられるというのも、決してあり得ないことです。シャカと霊通したとか、シャカが霊界通信で地上時代の教えを説くようなことがあるとするなら、その全てを疑ってかかるべきです。

このように考えると、現代の新新宗教においてしばしば取り上げられる「シャカ」からの通信が、いかにいい加減なものかがお分かりいただけるはずです。地上人が考えるようなシャカという人物は現実には存在しないのに、シャカからの通信と称してメッセージが公表されるのですから……

稀に地上人の「霊性」が高く、純粋な動機から真実を求めている限りにおいては、シャカ霊の属する“類魂”の別の霊が、シャカの名を語り、地上人に応じることがあります。たとえ地上人が無知であっても、その純粋な動機に照らしてプラスになるとの判断の下で、そうした例外的なことがなされる場合があります。その際は、シャカからの通信ということであっても、2500年前のシャカ本人ではありません。もしシャカが地上に通信を送ることが許されるとするなら、スピリチュアリズムと同じ「霊的真理」以外のことを語るようなことは、決してありません。「シャカ」が現在、シルバーバーチ同様の“スピリチュアリスト”であることを忘れてはなりません。

一高級霊として、イエスのもとで働く「シャカ霊」

2500年前、シャカとして地上に顕現し仏教を創設することになった一個の霊は、その後、再生のプロセスを経る中で霊格向上の道を歩んできました。その結果、現時点では高級霊の一柱に至っています。さて霊界にいる高級霊で、現在「イエス」を頂点とする地上浄化の大事業に関係を持たない者は一人もおりません。シャカ霊もその例外ではありません。「シャカ霊」は、現在スピリチュアリズムに係わる何らかの使命を与えられ、地上人類救済のために貢献しているはずです。私達がシャカについて語るのを許されるのは、ここまでです。

シャカについて、これ以上のことをあれこれ詮索したり知ろうとする必要はありません。そうした関心は、単なる低俗な好奇心以外の何物でもありません。シルバーバーチが決して地上時代の身元を明かさなかったように、いかほど霊界における「シャカ」の立場を詮索しても、正しい答えが得られることはないのです。