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はじめに

昨年は森総理大臣の“神の国”発言を巡り、大きな議論が巻き起こりました。スピリチュアリズムでは、こうした愛国心や民族主義・国体といった問題について、どのように考えるべきなのでしょうか。またスピリチュアリズムの観点に立ったとき、日本の誇るべき点あるいは問題点とは、どのようなものなのでしょうか。

シルバーバーチやインペレーターの霊訓の中には、欧米の国々について言及した箇所がありますが、残念なことに日本について述べたものはありません。しかし他国に対して語られた言葉を通して、霊界の高級霊が現在の日本をどのように眺めているかを理解することができます。今回はスピリチュアリズムの観点から見たときの、日本と日本人について学ぶことにしましょう。それを通して、今後日本はどのような方向で努力すべきか、また国家としてどのように進んでいくべきかを考えてみたいと思います。

(1)民族意識と愛国心

日本民族である前に、神の子供であり同一の地上人類

科学技術の急激な発展に伴い、世界はここ100年の間にみるみる小さくなってきました。経済活動は国境を越えて行われ、地球は共通の活動の場となってきました。現代の地球においては、国境の壁はどんどん低くなっています。つい150年前までは日本は鎖国政策の下、他国との交流を避けていましたが、現代では国際社会の中に組み込まれ、世界の一員として歩まざるを得なくなっています。私達一人一人も、国際人であることは避けられなくなってきています。こうした地球人類史上初めてのグローバライゼイションの時代を迎え、日本が国際社会でその立場を確立するためには、日本人としての明確なアイデンティティーを持つことが必要であるという意見が出されるようになってきました。日本民族としての自覚が希薄になることは、国際人としての立脚点を失うことであり、同時に国の将来の存立を危うくするものであると考える多くの人々がいます。

彼らは日本を愛すればこそ、国際交流が日常的になった現代には、日本人としてのアイデンティティーが必要であると強く感じるのです。国際人になるためには、その前に日本人としての自覚が必要であり、日本人としての明確な民族的自覚を持たずして、どうして良き国際人たり得るのかと考えるのです。昨年の秋に出版され大変な好評を博した『国民の道徳』(西部邁(すすむ)著)には、そうした憂国の思いが余すところなく著されています。日本に対する愛国の思いがひしひしと伝わってきます。物質文明の中にあって、日本の良き精神的伝統を守ろうとする気高い志を感じることができます。心から日本の行く末を憂える人々は、まさに日本における精神的支柱なのです。

しかしスピリチュアリズムは、「愛国心」を無条件に正当なものとして認めることはしません。スピリチュアリズムでは、そうした憂国の心情を純粋で尊いものとしつつも、さらに高い霊的次元から別の見方をするのです。それは、地上世界を国別・民族別に考えず、すべての地上人類を神の前における同じ兄弟姉妹として見るということです。霊界の人々が地上世界を見るとき、国家や民族の違いを問題にしてはいません。肌の色・言葉の違いなどは霊界の人々にとって無きに等しいものです。霊界においては、地上人の霊性ならびに心の内容こそが考慮の対象となるのです。地上人の身体的特徴の相違が問題ではなく、心の中身・霊的レベルこそが重要なものとなるのです。

スピリチュアリストは霊界の人々に倣って、地上にいながら霊的視点から物事を考え、判断しなければなりません。私達は、霊界の人々と同様な視点に立って、日本民族ならびに日本国を見ていかなければなりません。常日頃から日本人と外国人を、霊的存在として同一の人類、神の子供として等しい人類と考えるようにしなければなりません。愛国者であることは間違ってはいませんが、それ以上に、世界人類として愛し合うという姿勢が優先されなければならないのです。世界と全人類があり、その後に日本と日本民族が存在するという位置関係こそが、スピリチュアリズムにおける基本的な考え方なのです。

「地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。すべてが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても、大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.185

「霊的に言えば、皆さんはお互いにつながり合った関係にあります。人類は一大霊的家族を構成しているのです。なぜなら、霊性という共通の要素が、神とのつながりと同じように、切っても切れない絆によってしっかりとお互いを結びつけているからです。

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.203

シルバーバーチは英国の王室存続についての質問を受け、国民の心を一つにするようなものは善いものとして、英国王室の存続に対して賛成の見解を述べています。こうしたことから判断すれば、これまでとかく議論の対象となってきた国旗や国歌の問題も、同様の理由から肯定されるべきです。唯物的思想から国旗や国歌を廃止しようとする考えは間違っています。天皇制の問題についてはいずれニューズレターで取り上げる予定ですが、スピリチュアリズムは、現在の象徴としての天皇の存在を認める立場に立っています。

「民族・国家意識」から「世界同胞意識」へ

先に述べた純粋な憂国の思いにあふれた愛国者達は、日本の将来を憂い、物質主義が横行する中にあって精神的支柱と言えます。しかし残念ながら、彼らは霊的世界を踏まえた広い視野に立ってはいません。そのため結局、物質次元に基づく判断にとどまることとなり、日本における“霊的支柱”になることができないのです。もし彼らに霊的視点と現実の霊界に対する認識があったならば、その純粋な思いは「愛国主義」を超えて、初めから「世界主義」に立つことになったはずです。最も大きなところから判断するための霊的真理・霊的視点がないことが問題なのです。そのため人類に共通な霊的要素の重要性が理解できずにいます。霊界から見れば、人種や民族・国家に由来する違いなどほとんど無きに等しいものであり、同じ地上人としての共通要素の方が圧倒的に多いのです。

私達は日本人である前に、「地球人」としての意識を持つように努めなければなりません。地球は21世紀を迎えた現代において、スピリチュアリズムの到来により、人類史上初めて国家意識を現実的に乗り越えることができる新しい時代に入ってきたのです。キリスト教・イスラム教・仏教の世界三大宗教は、国家の壁を超えた人類共通の霊的世界の確立を目指してきました。しかし現実には、そのいずれにおいても地上世界の物質的限界を超えることができず、人類共通の霊的世界の建設は理想で終わってしまっています。スピリチュアリズムは、それらの世界宗教が求めてきた人類の希望を現実のものとする使命を持っているのです。

「再生」の観点から日本人を見ると

日本人としてのアイデンティティーを求めるよりも、先に地球人であろうとしなければならないというスピリチュアリズムの見解は、「再生」という事実を考えてみるとより明確になります。私達は霊的真理によって再生の人生を歩むことを知らされています。大半の人々が、今後も別の地上人生を送ることになる可能性を持っています。それを溯(さかのぼ)って考えると、今日本人として地上人生を歩んでいる私達の前世が、中国人や欧米人であったということもあり得るのです。もしかして皆さんは、日本の植民地時代に蛮行を受け死に至った中国人であったかも知れません。今日本を非難し続けている朝鮮人が、かつては日本人の軍人であった可能性もあるのです。ユダヤ人とドイツ人の間にも、こうした関係があることも考えられます。現在ユダヤ人としてナチス追及を進めている人物が、前世ではナチス党員としてユダヤ人虐殺に加わっていたかも知れません。

このような再生の事実を考えてみると、今の地上人生だけの視点で民族や国民を固定化・限定して考えることは、いかに間違っているかが明らかになります。「再生」という事実に照らして見るとき、そこには神の霊を分け持った霊的存在(一個の霊)があるのみで、地上における民族の違いなどは、その“霊”の単なる表皮の一つに過ぎないことが分かります。そうした表皮は地上かぎりのものであって、死とともに消滅してしまいます。私達の本質は“霊”であり、日本人でもアメリカ人でもないのです。こうした再生の観点から見れば、私達は「地球人」(霊)としての意識を優先すべきであって、日本人という民族意識・民族的アイデンティティーにこだわることは二の次でなければならないということになります。

「私にとってはどの人間もみな“肉体を具えた霊魂(スピリット)”です。私の目にはドイツ人もイギリス人もアメリカ人もありません。みなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子供です。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.162

「類魂」の観点から日本人を見ると

霊的真理によれば、私達は死後幽界で一定の生活をへて、霊界に入ります。そこでは霊的成長レベルの等しい者同士の生活が始まります。その集まりにおいては各自の意識が共有(融合)され、一つの大きな霊的意識体を作り上げます。これが「類魂」と言われるものです。類魂では、各自の意識内容と地上体験が共有されることになります。その結果、自分と類魂の仲間が同一の意識を持つことになります。あなたの地上体験は私の地上体験というようなことが現実に起きるのです。ここにおいて地上における民族や国の違いは霊的意識の中に溶け込み、無きに等しいものになります。霊界における類魂の一員になることによって、地上では不可能な民族や国家の壁を完璧に超えることが可能になるのです。そこでは、同じ神の子供、神の霊を付与された霊的存在としての意識が全員を支配しています。人類の本質である純粋な霊としての意識が開かれ、地上的壁がすべて消え去るのです。このように死後は「類魂」の中で地上時代の区別を完全に拭い去り、霊的な兄弟姉妹として生活するようになります。

私達スピリチュアリストにおける意識の持ち方は、地上にあって、それと等しい世界を目指すべきなのです。外国人に対して、地上的壁・物質的区別を取り払った霊的観点から見なければならないのです。

「地上を去り、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていきます。魂には民族も国家もありません。あるのは肉体上の差異だけです。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社)  p.130

愛国者の死後の歩み

日本人である前に地球人でなければならないということは、霊界における愛国者の死後の歩みを見ることによっても明らかになります。シルバーバーチは次のように言っています。

「地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程をへても、それをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。」

『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社)  p.235

地上では強烈な愛国者・民族主義者であっても、霊界に入り霊的に成長するにつれ、そうした意識を徐々に拭い去っていくことになります。これは私達が地上において、民族主義者の壁を超えて、初めから「世界同胞意識」を持って生きることが可能であり、それが高次の生き方であることを示しています。

地上世界における国民性・民族性の形成

国民性とか民族性といった国民や民族に独自の共通要素・傾向については、どのように考えたらよいのでしょうか。日本人の国民性とかアイデンティティーとは、どのようなものなのでしょうか。ユングの言う集合的無意識の中に存在するアーキタイプ(元型)のようなものがあると考えればよいのでしょうか。

私達地上人は霊と霊体と肉体から成り立っています。そして霊的世界と物質的世界の両方の世界から影響を受け「霊性」を向上させていきます。地球上には私達の精神にさまざまな影響を及ぼす要素があります。気候や地理的要因、また歴史的要因や宗教的・文化的要因などです。これらが総合的に影響を及ぼすことによって、そこに住む人々に共通した精神的傾向(型)を作ることになります。このようにして形成されたある共通の精神的型を「国民性・民族性」と考えることができます。日本人の持つ繊細さや誠実さ、グループ性などは、この精神的型の一つと言えます。こうした共通の精神的傾向は、教育や習慣を通じて、あるいは伝統として地上の子孫に引き継がれていくことになります。

民族全体に対するカルマの法則

またシルバーバーチは、民族にはその先祖によって作られたカルマという地上的制約が存在することを明らかにしています。「カルマの法則」(因果律)は、神の作られた世界を支配する摂理・法則ですが、それは一人一人に適用されるばかりでなく、民族に対しても、あるいは国に対しても同様に作用するものなのです。先祖が神の摂理に合った善行を積めば、それは子孫に良い結果をもたらします。反対に先祖が摂理に反したことをすれば、それは子孫に罪の償いのための苦しみとなって現れます。こうした先祖から受け継いだカルマによって、民族・国民が一つの共通した運命を持つことになります。

具体的に言えば、民族全体がエゴ的な動機から他の民族を力で支配し、虐(しいた)げたような場合には、それが「民族全体のカルマ」として子孫に持ち越されます。そしてその清算のために苦しむような事態が生じてくるということです。

自己のカルマ清算と、民族のカルマ清算の関係

ある霊が地上に再生するに際しては、自分の個人的カルマを清算するのにふさわしい条件を提供してくれる民族や国を選ぶことになります。その国の人間になることによって、自己のカルマ清算と、その国のかつての地上人達(先祖達)のカルマ清算とを同時になすような歩みが始まることになります。自分のカルマを償うために、その国にあるカルマの苦しみを利用することになるのです。また自分の霊性をより高めるために、そして神への貢献の場を求めて再生する国を選ぶこともあります。その国にある善いカルマや精神的型を自分のものにして霊的進歩を図ろうとするものです。

このように再生とカルマの間には非常に複雑な要因が幾重にも絡まっています。その民族の先祖が犯した罪の償いを子孫がするような道と、自分個人のカルマ清算の道が重なり合って進んでいきます。

「国際人」と「地球人」の違い

国際化が進むにつれて海外に出かけたり、外国人と付き合う機会が多くなってきました。また日本国内にも大勢の外国人の姿を見かけるようになり、国際結婚をする日本人も珍しくありません。最近では、こうした国際人と言ってもよいような日本人が増えてきました。

しかし単に外国で生活したり外国人と結婚することが、地球人になったことを意味するわけではありません。そうした国際人が必ずしも「地球人」ということではないのです。英語を話し、外国人の友達をつくり、海外に家を持ち、海外で仕事をすることによって国際人になることはできますが、それによって霊的に優れ、立派な人間になったということではありません。国際人であることは、霊的な観点から見たとき特別すばらしいこととは言えません。国際人とは、単に物質次元の諸条件によって決められるものであり、国際人イコール良い地球人ではないのです。

地球人と国際人は、霊的内容の点で全く異なっています。霊的意識と霊的自覚がなければ、地球人になることはできません。つまり地球という物質世界を霊的視点から眺めることができるようになって、初めて地球人としての資格を持つことができるということなのです。国際人になるためには、霊的人生観や霊中心の価値観を持つ必要はありません。国際人になるのはさして努力の要ることではありません。それは物質的なわずかな条件さえ整えば、誰もがなれるという程度のことなのです。

一方、地球人とはどこまでも、霊的観点に立った高い霊的意識を持った人間のことです。地上にいながら物質世界を超越することができる人間のことを言うのです。まさにスピリチュアリストこそ、「本物の地球人」となる資格を持っているのです。

(2)日本人の真の霊的宝とは

本当の霊的価値とは

外国人に日本を紹介する際、必ず取り上げられるのが日本の伝統文化です。茶の湯・生け花・浮世絵・書道・陶芸、また歌舞伎・能・文楽・狂言などの伝統的芸能、あるいは相撲・剣道・柔道・弓道などの伝統的武道、伝統的日本建築や日本庭園などです。さらには日本独自の宗教として神道や禅仏教が紹介されたり、歴史のある古い神社仏閣が取り上げられます。こうした伝統的文化は私達日本人にとっての誇りであり、他国には見られない日本独自の文化と言えます。

しかしスピリチュアリズムという霊的視点から見たとき、必ずしもそれらが「霊的価値」を持っているということにはなりません。ただ珍しいとか、他に類例がないというだけで霊的価値が決定されるわけではありません。物質主義に支配された現在の地上世界にあっては、希少性や独自性、歴史の古さが一つの価値決定の基準となっています。けれどもスピリチュアリズムにおける価値基準は、そうしたものとは全く異なります。スピリチュアリズムにおける価値は、それが人類の霊的進歩に役立つかどうか、あるいは間接的であっても人類の霊性向上に貢献することができるかどうか、という点において決定されます。

従って世界文化遺産に登録されたからといって、霊的価値があるとは言えません。単なる歴史的な遺物に過ぎないものや遺跡、古い仏教建築物には霊的価値はありません。法隆寺のような世界最古の木造建築物であっても、現代人の霊的進化に貢献することがない以上、全く価値はないということになります。単なる物質に過ぎないものに霊的価値はありません。朽ち果てかけた仏像や、時間だけが経って古くなった神社仏閣などの建物自体には何の価値もありません。物欲に絡んだ人間の怨念が染み込んだような文化財や骨董品も同様です。そうした人間が作り出した物に比べて自然の風物は、私達の心を癒し、はるかに多くの霊的エネルギーを与えてくれます。いかなる歴史的遺物も、自然ほどの霊的価値は持っていないのです。

人類の霊性進化に役立つかどうかという単純な基準において、すべての「霊的価値」は決定されます。そうした基準に照らしたとき、現在地上で価値があるとされているものの大半は、捨て去ってもよいようなものばかりです。それらはガラクタに類するようなものなのです。源氏物語は日本が世界に誇る文学と言われていますが、貴族生活の恋愛葛藤・官能的世界・文学的遊戯に終始した作品が、一体どれだけ読む人の霊性を高めると言うのでしょうか。そのような文学作品には霊的価値がないことは明白です。源氏物語は霊的観点から見たとき、単なる地上の低俗な娯楽作品の域を出ないものなのです。

こうしたものについて真の価値判断ができないのは、「霊的真理」が普及していないためです。真理という絶対の基準がないために、人類にとって本当に価値のあるものは何であるかが分からないのです。

伝統的日本文化

それでは日本の伝統的文化はどうでしょうか。日本の伝統的文化の特徴として、「道」によって示される精神性があります。茶道・華道・書道・武道などのように、日本の伝統的文化は、単なる実用や趣味や娯楽の段階にとどまらず、それを通じて人間の精神的向上に至ることが目標とされています。これは日本人が、常に精神的な進歩を指向していることを示しています。またより高い目標に向けての自己訓練を貴重なものと考えていることを示しています。このように日本の伝統的文化の中には、徹底して「物より心を重要視する」という日本人のメンタリティーが表れています。日本人は古来より、心を重視し、物質に偏ることを嫌ってきたのです。多くの外国人は、日本人は何をするにしてももっと楽しんでやったらいいと言います。日本人は真面目すぎて遊び心がないと言います。しかし日本人は、何事も精神的なものに結び付けないと安心できないのです。

スピリチュアリズムは霊的成長に係わりのないものには価値を見い出しません。その意味で日本人のこうした精神的な向上指向は、スピリチュアリズムと一致していると言えます。霊的成長は、長期にわたる苦難や苦労を克服する体験を通じてのみ可能となります。そうしたスピリチュアリズムの歩みと、伝統的な日本文化における「道」の在り方には相通じるものがあるのです。

禅仏教と神道

宗教は文芸や文学よりも人間の精神的領域に深い影響を与えます。その意味から宗教は、他のいかなる伝統的文化よりも「霊的価値」を持ち得る可能性があると言えます。問題は、実際どの程度まで人々の魂を高めることに貢献しているのかということです。霊的貢献度において、その宗教の価値は決定されます。日本の禅仏教には確かに日本独自の要素が見られます。そして部分的ではあっても「霊性向上」に対する貢献性が認められます。それゆえ禅仏教は、日本の誇る“伝統的精神文化”と言うことができます。そのため欧米において、日本の禅仏教は注目を集めてきたのです。

では日本の民族宗教である神道はどうでしょうか。キリスト教に代表される教理宗教には、間違った人工の教え(ドグマ)によって人々の霊的成長を妨げるという大きなマイナス点があります。一方、自然宗教である神道には教理(ドグマ)はなく、そのため人間の霊的成長を阻害するという弊害を作り出さずに済みました。また多くの神社は緑豊かな森林の中に位置し、それによって社(やしろ)が清浄化され、そこを訪れる参拝者の心を清々しくします。そうした意味において、神道にはそれなりの精神的効果があると言えますが、霊性向上という点においてはほとんど貢献性がありません。霊的世界に対する事実が明らかにされている時代にあって、神道のようにいまだに霊界があるかないかを明確にできないような宗教は、もはや時代遅れであると言わなければなりません。神道については、いずれ今後のニューズレターで取り上げる予定です。

真の日本的なるものの探求――国学者と鈴木大拙(だいせつ)の場合

日本の精神は、海外には「大和魂(やまとだましい)」や「武士道」としてよく紹介されます。日本の歴史上今日に至るまで、日本独自の精神を明らかにしようという意識的な試みが多くの人々によって行われてきました。そうした試みをした代表者として、ここでは江戸期における二人の国学者と、昭和前期の鈴木大拙を取り上げてみます。現代では日本人論が大流行で、さまざまな方面(作家・歴史家など)から日本人のアイデンティティー探しがなされてきました。

国学は江戸時代に、外来宗教である仏教や儒教の支配に反対する立場から生まれました。国学者は仏儒の外来宗教が日本に伝来する以前に、日本には独自の精神があったのだとします。それが成熟しないうちに外来宗教が入ってきたため、十分に育たず、仏教や儒教の影響を受けることになってしまったと考えます。日本古来の精神を取り戻すには、古典の研究を通じて、仏儒の渡来以前の姿を明らかにする必要があると言うのです。

国学者として最も有名な人物が本居宣長(もとおりのりなが)で、古事記の研究でよく知られています。彼は日本人の精神の原点は、源氏物語などの古典文学によって示されている「もののあはれ」を知る心であるとしました。一方、彼の没後の門人自称)とされる平田篤胤(あつたね)は、古典の忠実な解釈から離れ、古典を利用した神道的な新興宗教平田神道と言う人もいる)を確立しました。この神道は復古神道として知られています。篤胤は、宣長の現世主義と異なり、徹底した来世主義を唱えました。彼は『幽冥論(ゆうめいろん)』によって明確な死後の世界を描きました。篤胤、宣長の見解はこのように対極と言えるほどに異なっていますが、仏教と儒教の影響を排したところに、日本古来の独自の精神を求めようとした点において同一の立場に立っています。こうした国学の見解特に宣長の見解)は、神道の正当性を擁護する論拠として、たびたび引用されてきました。

しかし、そうした国学者達による日本独自の精神の探求の熱意は理解できるものの、現代においては彼らの主張は根底から崩されています。なぜなら仏教や儒教の伝来以前の日本の宗教とは、アニミズム・シャーマニズムの原始宗教に他ならないこと、彼らの理想とする古道・古神道なるものは単なる国学者の描く理想に過ぎないことが明らかにされているからです。日本独自の精神が古来より存在していたという前提自体が間違いであることは明白なのです。世界の各地に見られた精霊信仰やシャーマニズムが、日本の太古においても等しく見られ、それが古神道と言われるものの実態であるということなのです。

近代における日本人のアイデンティティー研究者と言えば、禅の研究で知られる鈴木大拙を挙げなければなりません。彼は日本人のアイデンティティーを「日本的霊性」と呼び、それを明らかにしようとしました。大拙によれば日本人の霊性の基本となるのは「宗教性」であり、その日本人特有の宗教性は、長い宗教的進化の後、鎌倉時代に至って禅と浄土思想によって確立されたと説きます。そしてその霊的自覚が、現在に及んでいると言うのです。大拙は東西の思想に通じ、さらにスウェーデンヴォルグの翻訳・紹介者としても知られています。こうした幅広い見識と、恵まれた霊的感性を土台とする日本人宗教論は、スピリチュアリズムの観点に照らしたとき、部分的ではあってもスピリチュアリズムと共通する点を持っています。

日本人特有の宗教性とは

先に国民性・民族性とは、先祖代々の人々が、共通の環境的・社会的・宗教的影響を受けたところに形成されてきた一つの精神的型であると言いました。もしそうした精神的型があるとするなら、それは日本人の精神の深層に共通要素として存在することになります。それは霊的とまでは言えないとしても、共通の民族的精神と言えます。人間は元来霊的存在である以上、宗教的影響を強く受け、それが国民性の形成に大きく係わることになります。このような点からすれば、大拙のように宗教に目を向け、そこに日本人独自の共通的な精神性・宗教性を見い出そうとしたことは正しいと言えます。その国の宗教性は国民性と密接な関係を持っています。では日本人に特有な「宗教性」とは何でしょうか。

諸外国、特に欧米諸国と比較したとき、日本人の持つ歴史的な宗教的特徴は、複数の宗教を同時に信仰してきたという点にあります。仏教と神道ばかりでなく、シャーマニズム的なものに対しても、これを抵抗なく受け入れるという“二重信仰”を長い間続けてきました。この時代を越えて引き継がれてきた二重信仰こそが、日本人特有の宗教性であり、民族性を示しています。そして、それは日本人の「宗教的な柔軟性」から生じたものです。日本人は歴史的に、表の宗教(仏教・神社神道など)と裏の宗教(民間信仰・シャーマニズム信仰)を同時に受け入れ信仰してきました。日本人は性質の異なる二種類の宗教を何の抵抗もなく信仰することができたのです。これは西欧の一神教の立場からすれば大変矛盾したことであり、宗教心に一貫性が乏しいということになるのですが、日本人はそれをごく自然のこととして受容してきたのです。

また日本人が現在に至るまでシャーマニズムをすんなりと受け入れてきたという事実は、一神教の立場から見ると、時代遅れの原始宗教をいまだに引きずっているということになります。しかしそうした批判は、どこまでも一神教だけを一方的に進んだ宗教形態と決めつける傲慢さから出たものです。日本人がシャーマニズムという霊的世界に対する関心を持ち続けてきたことは、スピリチュアリズムの観点に立てば、「純粋な霊性」を保ってきたことを意味しています。一神教こそ最も大切な霊的世界との係わりを遮断してきたということなのです。実は、表の教理宗教と裏のシャーマニズムへの二重信仰という在り方は、何も日本に限ったことではなく、世界各地において、特にアジア地域においてはごく普通に見られることです。しかし日本のような世界の中で先進国と言われる国において、シャーマニズムが陰ながら今日まで大きな力を持ってきたということが重要なのです。

以上のような、「宗教における柔軟性」と「シャーマニズム的な心霊的世界への関心と畏怖」が、日本人の宗教心の土台になっていると思われます。これが日本人の精神的な共通の型を形成する際の、一つの要素になったと考えることができます。日本人の中に、宗教に対する柔軟性と霊的な世界に対する畏怖の思いという二つの要素があるということは、スピリチュアリズムから見れば、日本人が稀に見る「豊かな霊的感性」を持ち続けてきたと言えるのです。

日本人の「グループイズム」

日本人のアイデンティティーあるいは国民性については、それを見る角度によってさまざまに論じることができます。ここではスピリチュアリズムの価値観を基準にして、日本人の国民性を、これまでとは別の方向から見ていきたいと思います。スピリチュアリズムの観点に立ったとき、日本人が真に誇りとすべきもの、あるいは日本人が有する霊的価値とは何でしょうか。私達日本人に果たしてそうしたものがあるのでしょうか。外国人と親しくなれば、互いの違いは国民性や環境によるものよりも、個人個人の性格や考え方や霊性の違いによるものの方が大きいことに気がつきます。さらに互いの相違点よりも共通点の方が多いことにも気がつくようになります。まさに日本人も外国人も同じ地球人であることを実感します。しかしその一方で、性格の違いほどではなくとも、明らかな国民性の違いがあることを知るようになります。

日本人は欧米人と比較したとき、個性が乏しく、すぐ集団化すると言われます。確かに海外における日本人の動向はそれを物語っています。外国に何年もいながら現地人と交わることをせず、日本人コミュニティーの中だけで過ごす人々が数多く見られます。また日本人は自己主張しないので、何を考えているのか分からないと非難されます。欧米人は、日本人の特性を「集団主義」(グループイズム)と言います。確かに多くの日本人は集団に属することで安心を得、集団の中に溶け込もうとします。集団から浮き立ってしまうような自己主張は控え、仲間との摩擦を避けることに極端に気をつかい、グループの人からどのように思われるかを絶えず気にします。欧米人の論理からすれば、日本人の集団主義・グループイズムは一刻も早く改めるべきものということになります。

ところがスピリチュアリズムの観点に照らしたとき、この集団主義は決して一方的に排除すべきものではないのです。それどころか、時には優れた“霊的資質”の一つにさえなり得るものなのです。

イエスの教えを自然に実践してきた日本人

日本人はザビエルの時代より、西洋の宣教師によって、「キリスト教徒でないにもかかわらず極めてキリスト教的である」と言われてきました。キリスト教の“隣人愛”をごく自然な形で実生活の中で体現している民族として、西欧の宣教師達を感嘆させてきました。彼らはキリスト教徒でない日本人の中に、ヨーロッパ人よりもキリスト教的なものがあることを発見していたのです。

スピリチュアリズムにおいてもキリスト教においても、最高の徳・最高の宗教的実践とされるものは「利他愛の実践」です。この点については、スピリチュアリズムとキリスト教では完全に一致しています。多くの部分が改竄(かいざん)され霊的真理をわずかしか含まなくなっている聖書の中にあって、この利他愛・無償の愛・自己犠牲の愛・敵をも愛する愛・別け隔てのない平等な愛こそは、まさにイエスの教えを忠実に伝えている箇所と言えます。イエスの教えは、スピリチュアリズムで言う「利他愛」に他なりません。それを隣人愛の徳として説いたのです。しかし、これは現在の地上人にとって最も厭うべきものになっています。クリスチャンでさえ、自己犠牲などというものは時代遅れだと考える人が多いのです。

戦前の日本人にあっては、自分の所属するグループのために自分の事情や利益を後回しにすることは、ごく当然のこととして行われていました。自分の利益を主張するより先に、まず全体の利益を考える、そのために自分を犠牲にしたり助け合いに必ず参加することが当然とされていました。そうした中では、自己主張をするよりもまず自分が周りに合わせる、自分の意見は口にせず引っ込める、自己を無条件に抑えることが当たり前とされていました。全体があってその後に自分と自分の家族があるという順序が、はっきりとしていたのです。国のために自己を犠牲にするだけでなく、家庭をも犠牲にすることを当然としてきました。こうした精神的伝統は、戦後の日本人社会の大変革の時期を迎えても、容易に消え去ることはありませんでした。つい最近まで多くの日本人は、会社のために自分の家庭を犠牲にすることを当たり前としてきました。日本人は、会社のために自分の家庭を犠牲にする唯一の国民と言われてきました。「滅私奉公」とは、まさに日本人のそうした在り方・精神を言い表した言葉です。それが封建時代における「武士道」でもあったのです。

滅私奉公も武士道も、スピリチュアリズムの利他愛・自己犠牲・滅私的愛に通じるものであり、キリスト教で言う他人のために命を捨てる生き方に他なりません。従って、日本人はスピリチュアリズムもキリスト教も知らなかったけれども、結果的に、それに近い生き方・生活をしてきたと言えるのです。スピリチュアリズムでは、「何を信じるかより、何を実行してきたかが重要である」としますが、日本人はスピリチュアリズムもキリスト教も知らないまま、それらの教えを忠実に実行してきたということなのです。キリスト教で説く隣人愛を自然の形で身に付けているのです。西欧からやって来た宣教師達がキリスト教の教えの実践を日本人の中に見たのは、このためだったのです。もし当時、スピリチュアリズムによる「霊的真理」が示され、神と霊界を中心とする正しい信仰観によって縦の霊的関係を確立していたならば、素晴らしい理想的社会、スピリチュアリズム的社会を作り上げていたと思われます。

他の東北アジア人と異なる日本人

戦前までの日本人には、こうした世界に稀な霊的真理に通じる優れた精神的伝統が存在していました。スピリチュアリズムの観点から見れば、日本人は大いなる内面的宝を持っていたと言うことができるのです。同じ東北アジア人でありながら、中国人も韓国人も他の国々の人々も、日本人のようではありません。いずれの国においても一族の利益と血縁関係を重視します。血のつながりのある範囲内での協力や助け合いはしますが、外部の世界に対してはそれは問題外なのです。こうした血縁関係に基づく結束は、動物的本能と同じレベルのものなのです。動物と等しい本能に支配された、きわめて利己的で自己の利益を優先する在り方なのです。そうした彼らが、国のために自分の家族を犠牲にするようなことは決してできません。ましてや会社のために家庭を後回しにするというようなことは、あり得ないことなのです。

アジアにおけるこうした血縁中心の社会システムの背景には、儒教による先祖霊崇拝の習慣があります。儒教の持つ祖霊崇拝は日本の儒教には全くないため、儒教とは先祖の霊を祀る事とは無縁のように思う人々が多いのですが、本来の儒教は、祖霊崇拝が宗教の中心的・核心的部分を占めています。このことは台湾や韓国の儒教の様子を見るとはっきりします。こうしたことについては、いずれニューズレター(21号:「スピリチュアリズムと先祖供養(シリーズ1)」)で取り上げることにします。

日本人の謙虚さ

多くの日本人は、人前での自己主張を避けようとします。そして強い自己主張をする人や攻撃的な人、自己の能力や富をひけらかす人を嫌います。日本人は謙虚さや謙譲の精神を持った人を尊び、謙虚さを人徳の第一に挙げます。これは日本人が全体の和を最も優先するところに由来します。強い自己主張や個人主義は、全体の和を乱すことになるからです。

日本人を外国人、特に欧米人と比較したとき、根本的に違うのはこの点です。欧米人においては、自己主張は不可欠な要素であり、自己主張のできない人間は未熟であるか能力がないと思われます。戦後は欧米の力に押され、日本人の自己主張をしない在り方が批判されてきました。そして最近では、多くの日本人は欧米人に倣って自己主張をするようになってきました。謙虚さは日本人の中にあっても、もはや素晴らしい徳目とは見なされなくなりつつあります。

日本人が持っている謙虚さ・謙譲の精神と欧米人の自己主張は、180度の違いがあります。スピリチュアリズムでは、この問題をどのように考えるのでしょうか。私達はシルバーバーチやインペレーターなどの高級霊の言葉から、その答えを知ることができます。高級霊にあっては、謙虚さと自己主張のどちらが優先されているのでしょうか。言うまでもなく高級霊においては、明らかに「謙虚さ」が重要視されています。高級霊の言葉からは、彼らの謙虚な姿勢や考え方が伝わり、大きな感動を受けます。欧米人が競ってなすような自己主張は、高級霊の中にはひとかけらさえ見ることはありません。欧米人の自己主張の在り方は、高級霊の謙虚さとは対極にあります。一方、日本人の中には、シルバーバーチによって示されるような謙虚さが多く見られるのです。シルバーバーチやインペレーターの謙虚さに触れるたびに、日本人の心に極めて近いものを感じることができるはずです。人間の霊性の高さは、自己主張の中にではなく「謙虚さ」の中に現れるものです。それは自己主張が外面的な要素であるのに対して、謙虚さとは心の深いところにしか存在しないものだからです。

日本人はスポーツなどで勝利者になったとき、必ず、「皆さんのお蔭で勝つことができました」と言います。皆さんのお蔭ですという言葉に、日本人の謙虚な心情が表現されています。自分が全体の一部であるということと、栄光を自分一人のものにしてはならないという思いが示されています。これが欧米人ならば、自分の努力とかコーチや妻のお蔭であるということになるでしょう。「皆さんのお蔭で栄光が与えられました」という考えは、まさにキリスト教の“神の祝福”に対する感謝と一致しているのです。

日本人は自己の権利を主張する前に、与えられた義務と役割を果たそうとします。自分の権利を主張して自分の利益を確保しようとするよりも、全体に貢献することを優先するのです。これまで欧米人から、日本人は自分の意見をはっきり言わないので何を考えているのか分からないといった非難をたびたび受けてきました。しかし最近では、日本人の持つ謙虚さの深い意味が理解され始め、好意的に受け取られるようになりつつあります。自己主張は、霊性の低い世界における処世術に過ぎず、素晴らしいものではありません。未熟な世界における未熟な人間同士において必要とされるものなのです。

人をいつまでも責めない日本人

外国人と一歩踏み込んで付き合うようになると、日本人は何とお人好しで単純な善人なのかと実感させられるようになります。外国人にとって、日本人を騙(だま)すことはいとも簡単なようです。日本人は他人の言葉を疑ってかかることをせず、まともに信じます。そうした日本人に対して多くの外国人は、純朴さと同時に子供っぽさを感じています。日本人は他人を初めから善意で眺め、悪意や疑いを持って見ることができないのです。他人を見たら泥棒と思えという言葉は外国人にとっては当たり前なのですが、日本人にはどうしてもしっくりきません。争いの絶えない利己主義中心の世界にあって、他人の言葉をそのまま信じる無防備さは、世界の人々には常識外れに映ります。

他人を善意でのみ受け入れることと同じように、日本人は、他人をいつまでも憎み続けることができません。人を憎んだり恨みを持ち続けることができません。もしそうした人間がいるなら、それを執念深さとしてとらえ、その人との係わりを避けようとします。日本人は、大半の過去の出来事を時間とともに水に流して忘れようとします。人の過ちを許し責めないということは、キリスト教における大切な教えですが、現実の地上世界では、キリスト教徒であっても相手の失敗を徹底して責め、相手に対する復讐心を忘れようとしません。自分を騙した相手をいつまでも許そうとしません。ここでも日本人はキリスト教徒ではないのに、極めてキリスト教的であると言えます。日本人は自然にキリスト教の教えを実行しているのです。キリスト教徒であっても自分を害する相手を許すことができない現状の中で、日本人はいとも簡単に相手の非を許し忘れてしまうのです。時には自分が騙されたとしても、「自分は騙す立場ではなく、騙された立場であって良かった」「人を騙すような人間は気の毒な人だ」などと、外国人が聞いたら全く理解に苦しむようなことまで言うのです。しかしこれこそ、まさにキリスト教の「敵を許し、愛する」行為そのものなのです。

日本人の精神は実にさっぱりとして、どろどろしたところが余りありません。心に清浄感があるのです。こうした日本人の性向は、スピリチュアリズムに照らしてみると、本当に大きな宝であることが分かります。

日本を取り巻くアジア諸国の人々は、いつまでも日本の植民地時代の行為を恨み憎しみを持ち続けてきました。それどころか、子孫にまで憎しみを忘れないようにと教えてきました。その結果、偏狭な民族意識を作り上げることになっています。人の足りなさを許し愛するという「霊的真理」に照らしたとき、わざわざ自らの心を醜くし、霊的成長に逆行するような愚かなことをしてきたのです。

常に周りへの配慮と思いやりを忘れない日本人

日本企業の海外進出に伴い、日本人駐在員の家庭では現地のメイドや運転手を雇うようなことが多くなります。面白いことに現地の人々は、先を争って日本人の家庭で働きたがるのです。彼らにその理由を聞くと、決まって「日本人は優しいから」という答えが返ってきます。主人である日本人は、自分達だけがおいしい物を食べ、メイドに粗末な別の物や残り物を与えるということができません。主人である日本人の方が、メイドにとても気をつかっています。こうしたことは他国の駐在員家庭においては見られません。

全体の和を優先して求める日本人は、極力仲間とのイザコザや争いを避けようとします。何が相手の感情を害することになるかを常に察知し、感情のレベルにおいての不一致や不調和を避けようとします。相手の感情を損なうことがないように常に配慮し、少しでもショックを与えないようにと努めます。そのため日本人は相手に面と向かって反対したり、一方的に命令したり、強く注意することが苦手なのです。相手と激しい議論をすることは極めて不得意なのです。また自分の立場が上であっても、自分の方からわざわざ下に降りていって相手に配慮します。日本の伝統的な社会は外見的には明確な上下関係から成り立っていますが、実質は、相手への配慮を中心とした平等な人間関係によって出来上がっています。日本人の集まりでは、常にお互いの間で気配りが行き交っています。こうした相手の人間に対する配慮・思いやりは、大半の日本人の心の中に強く根付いています。外国人においては、このような日本人の心の実情をなかなか理解できません。

相手の人間に対する配慮・気配りは、相手への愛の第一歩です。人の感情に鈍感であったり、人の感情を害しても平気な人間は、利他愛を持つことはできません。人の感情の動きを敏感に察知する感性を持ち合わせてこそ、相手の心と深く交わることができるのです。子供の感情の動きに鈍感な母親は、子供の心を理解し深く愛することはできません。日本人は相手がいれば、感情的な部分にまで一致点を求めることを期待するのです。そうしたメンタリティーのために、対人関係は自然と平等になります。主人とメイドの関係であれ、上司と部下の関係であれ、どんな上下関係であっても、愛のあるところには本当の平等が成立しますが、日本人の集まりではそれが当たり前になっているのです。こうした日本人の性向は、スピリチュアリズムに照らしたとき、大きなプラスとなっていることは言うまでもありません。この点においても、日本人は素晴らしい霊的宝を持っていると言えるのです。

高次元のコミュニケーション能力を持つ日本人

日本人は全体の動きに常に気を配り、相手の感情を傷つけることを避けようとします。理屈より感情を重視し、全体の和を優先的に求めます。こうした結果、言葉に対するウエイトが小さくなり、言葉をそれほど重要視しなくなります。言葉よりも、もっとデリケートな感情の世界でのアプローチを心がけます。以心伝心や相手への気配り・配慮といった、より繊細な世界でのコミュニケーションを重視するのです。そうしたことが、心と心の関係を作り上げる上において大きな働きをすることになります。そして、それが言葉によるコミュニケーションを第一とする欧米人と大きく異なる社会を作ることになり、国際交流が日常化した現代において誤解と摩擦を生むことになるのです。特に外交交渉など、低次元レベルのコミュニケーションや駆け引き(ケンカ)の場にあっては、こうした日本人の言葉軽視の傾向は、決定的にマイナス要因となってしまいます。

しかし、このような言葉以上の世界でのコミュニケーションは、霊的観点から見たとき明らかに優れたものと言えます。日本人同士のコミュニケーションには、霊的要素・テレパシー的要素が多いと言えるのです。地上世界という物質的世界にあっては、以心伝心といった高次のコミュニケーションより、言葉という物質的で低次元の手段を用いる方が効率的です。物質性の強い低い世界においては、察し合いや以心伝心といった高次元の手段では立ち回りが難しくなるのです。単純な機械類の中では、精密機械は力を発揮できないのと同じです。こうしたことが影響して、日本人は諸外国から外交下手と言われています。現在の地上世界、特に外交のような世界にあっては、相手を先に思いやるとか、和を求めるといった霊的手段は、残念ながらまだ通用する時代ではありません。政治とか外交といった霊的次元の低い人間の営みの中にあっては、軍事力や経済力とともに、言語という次元の低いコミュニケーション手段が力を発揮するのです。

しかし言葉が決定的な役割を果たす現在の地上世界においては、自己の考えを言葉によって表し、意志を伝える努力をしなければなりません。そうした意識的努力をすることは相手の立場にまで降りていくことであり、“愛の行為”の一つとなるのです。

日本人の「グループイズム」のプラスとマイナス面

これまで述べてきたように、日本人には本来、全体優先・個より公を優先させるという優れた精神的特性があります。しかし、その精神性の中に神や真理といった思想的柱がないため、せっかくの宝は十分な価値を発揮することができません。真理がないゆえに日本人が持つ優れた精神性は、プラスと同時にマイナス面を生じさせることになります。皆で渡れば怖くない式の集団的マイナス行動は、日本人の欠点となります。正義に基づく信念から自らの生き方を選択し、周りの反対と闘っても自分の意志を貫き通すということができません。自分のグループには忠誠を尽くすけれども、他のグループに対しては排他的態度を取るといった傾向が強くなります。外国人はなかなか日本人のグループの中に溶け込むことができませんし、いつまでも外人扱い、よそ者扱いを受けることになります。またグループに対する依存心が強く、他人の顔色を見て自分の行動を決定するというようなことが起こります。人間としての尊厳性を自ら捨て去るようなことにもなっているのです。

こうした日本人の「グループイズム」におけるマイナス面は、日本人が霊的真理という確たる理念を持つことによって全て解消されることになります。真理を自分の生き方・考え方の基本とすることによって、各自が自信を持って自分の意見を述べ、自分の行動を貫くことができるようになります。霊的真理に立脚した「高次元の個人主義」が確立されるようになるのです。

スピリチュアリズムの手本を示すことができる日本人

自己犠牲・滅私奉公・公優先・全体の利益優先・謙虚さ・柔軟な宗教性・相手に対する優しさと配慮・以心伝心という日本人特有の精神性は、スピリチュアリズムの「霊的真理」という霊的中心性が確立することによって、隣人愛・利他的人間関係という理想を地上に展開する強力な手段となります。それによって、日本民族はスピリチュアリズムの生きた見本を、世界に示すことができるようになるのです。スピリチュアリズムを受け入れた日本人ほど、利他愛を容易に実践できる民族はいません。隣人愛の見本を示すことができる可能性を秘めた民族はいません。これほどまでに「利他愛実践」のための恵まれた素質を持った民族は他にはいないのです。これはスピリチュアリズムが世界各国、地球上の隅々にまで行きわたろうとする時代にあって、本当に誇るべき宝を持っているということです。

これまでの地上世界では、物質的な力・知力が威力をふるい、それによって欧米諸国は地上の支配権を握ってきました。欧米人は体も大きく外向的で体力もあり、地上で力を発揮するにふさわしい条件を備えていました。しかしスピリチュアリズムの浸透とともに、内面的な方向へと世界が向かっていくようになります。その時には“愛の力”こそが地上における本当の実力になるのです。力の論理・強者支配の論理から、愛の論理・一体化の論理・助け合いの論理が支配権を持つようになっていきます。もし日本人がスピリチュアリズムを受け入れることができるならば、日本人はその時、民族主義や偏狭な愛国主義を超越して、人類主義における隣人愛の見本を示し、世界の人々に感動を与えることができるのです。無償の生き方の見本、全体優先の見本、滅私奉公・無私の愛の手本を示すことができるのです。

霊界の人々にとって、「滅私奉公」の精神ほど地上の道具としてふさわしい資質はありません。自己の利益を捨て、大義のために人生を捧げる地上人であってこそ、信頼して使える地上の道具となれます。そういう人間であってこそ、霊界人は思う存分働きかけることができるのです。霊界の道具となることほど、地上人にとって最高に価値ある生き方はありません。経済力において世界を支配するより、霊界の道具として地上の“霊的革命”に参加する方が、はるかに素晴らしいことなのです。かつて国のために特攻隊として命を捧げた崇高な精神を、今度は神のため・人類の霊的進化のために捧げることによって、世界に対する最高の貢献をすることができるようになるのです。「スピリチュアリズム」という明確な方向性と、「滅私奉公」の伝統をつなぎ合わせることができるかどうかが、今後の日本の運命を決定することになるのです。

(3)日本国家と日本民族の繁栄の道

危機的な状況にある日本――失われつつある日本人の宝

長い歴史を通して築き上げられてきた日本人の「滅私奉公」という精神的宝は、残念なことに戦後急速に失われつつあります。公的精神は個人主義にとって代わられ、自己を全体のために犠牲にしたり後回しにするといった行動は美徳とされなくなりました。欧米式の自己主張・自立主義が重視され、各自が自分の利益を求めて思い思いの人生を歩むようになりました。グループに従ったり命令されたり支配されることは、現代の若者の最も嫌うものとなりました。放任主義・自由主義が当たり前の風潮になり、社会的な規制から解放された日本人は、結局、本能的欲求だけに翻弄される人生を歩むようになっています。自由放任と欧米式の個人主義が日本にもたらしたものは、本能的快楽主義と精神の頽廃だったのです。

個人主義と自由放任主義によって増幅された「物質中心主義」は、日本人の価値観を根底から変化させました。大半の日本人が、物質的豊かさが幸福の基準であるかのような“錯覚”にとらわれるようになりました。口ではいろいろなことを言っても、本音ではお金と力だけが物を言うのだと思っています。日本人は元来、守銭奴と見られることを最も嫌います。自分一人だけがお金を独り占めすることを恥じらう心を持っています。これは心を物より大切にすることであり、まさに霊的に優れた点と言えます。しかし現在では、物質的・本能的快楽を満たすためのお金を真っ先に求めるのが、大半の日本人の実状となってしまっています。もはや自分のことしか考えない、考えるのは物質的満足と刺激と快楽のみで、獣にも劣る醜態をさらけ出すようになっています。

現在の若者の中に、かつての良き日本の精神性を見い出すのは稀なことになりました。物質主義の横行は、いかなる国家においても最大の危機状態と言えます。物質主義の影響は、従来の伝統的精神と触れることのなかった若者においては、特に顕著な形となって現れています。いつの時代にも物質主義に翻弄された人間はいるものですが、現代はその悪化の程度がさらにエスカレートし、しかも全国民的に蔓延し、日本人を根底から支配しているということなのです。もっともこうした物質主義的・本能的傾向は、日本に限ってのことではなく、いずれの先進諸国にあっても見られる現象です。地球が小さくなるに伴い、経済発展がどこの国においても程度の悪い物質主義・本能主義を引き起こしています。若者の物質主義化・動物化・快楽主義化は、今や世界共通の現象です。若者の堕落傾向・頽廃スタイルは、万国に等しく見られる要素になっています。まさに「物質主義」が地球上を覆い尽くしているのです。

最近では若者の精神的頽廃に対して、日本の将来を憂える声があちこちから聞こえます。長い歴史を通じて形成された日本人の精神的宝も、崩れる時にはあっと言う間です。精神的な宝というものは、それほどまでに脆(もろ)いものなのです。ブラジルから来た日系二世は、顔かたちこそ日本人と似ていたり、日本人の血を引いてはいても、心の中身・精神は私達日本人とは全く異なります。彼らの中には、もはや日本人の精神的アイデンティティーのかけらさえ見い出すことはできません。そしてそれと同様なことが、今、大半の若者の上にも起こっているのです。

残念なことですが、現代の物質主義に冒され、滅私奉公という精神性を失った日本人に対し、霊界の人々は魅力を感じなくなっています。日本人は、霊界の道具としての最高の資質を失おうとしています。

日本の将来を決定する鉄則

自分の国の発展と繁栄を願わない国民はいません。誰もが大なり小なり愛国者としての心を持っています。オリンピックの時期になれば、国民こぞって愛国者となり、自分が民族主義者であったことを実感するものです。日本人であるならば、みな日本が最も偉大な国であって欲しいと思うものです。

スピリチュアリズムの「霊的真理」に照らしたとき、最も偉大な国とは、世界のために最も犠牲になる国、世界のために最も奉仕する国であるということになります。日本がそうした国家になるためには、国民が自己犠牲を喜んで引き受けられる立派な奉仕性・犠牲的精神を持つことが必要となります。また物より心を重視し、自分達は物質的な生活レベルを下げ質素な生活に甘んじても、それによって余ったお金を持たざる国のために捧げることができなければなりません。世界の発展のためには惜しげもなく、自分の富を差し出すことができなければなりません。そしてそれを国民教育の中心的理念とし、青少年に教えていかなければならないのです。

「人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡智と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.162

霊界からの働きかけを受けられるところ、霊界の勢力の注目するところに地上の運勢はもたらされます。今後日本人が、かつての精神的宝をいかに取り戻すかによって、日本の命運は決することになります。スピリチュアリズムの「霊的真理」にそった信仰を確立することができるかどうかが、これからの発展を決定することになります。物質的な繁栄はいつまでも続くものではありません。時間とともに、地上世界における不公平さは是正されていくようになります。そのとき後に残るものは、霊的真理に一致した「利他愛の実践」だけなのです。

21世紀においては、日本は現在のような経済大国の位置に留まり続けることはできなくなるでしょう。物質主義と利己主義の支配する地上世界にあっては、軍事力と経済力こそが物を言います。幸い日本は、軍事的な力はなくとも経済力に恵まれていたために、世界の中で何とか重要な立場に立つことができました。しかし我が国の人口は21世紀末には現在の半分近くにまで減少する可能性もあり、今のような経済力を維持することは難しくなります。そうなれば経済大国から中級国家に転落していくようなことにもなりかねません。

日本が高級霊の期待に応えられる「地上の道具」としての国民・国家である限り、将来における発展は約束されます。日本民族が「世界人類同胞意識」を持ち、人々のために人生を捧げようとする国民が増えるに伴い、日本国家の国策は世界の持たざる国々への奉仕が中心となります。そうなれば日本は、国家レベルにおいて霊界からの全面的な援助を受けられるようになります。日本国家に対して、人知を超えた貢献の場と地位が与えられるようになるのです。21世紀の日本は、ぜひともそうした方向に進んでいってほしいと願います。物質的には中級国家に転落するようなことがあったとしても、霊的には世界のトップを走り、経済より奉仕を優先する国家的な見本を示してほしいと思います。

日本人でありながら、日本人を超えた歩み――「スピリチュアリスト」としてのスタンス

現在スピリチュアリズムに導かれた私達のなすべきことは、「霊界の道具」として精いっぱい貢献していくということです。スピリチュアリズムに携わる私達の立場は、ただ日本人の幸せを目的として働くというものではありません。どこまでも地上人類全体に対しての働きかけを担っているのです。私達が今日本にいるということは、スピリチュアリストとして担当する国が、たまたま日本であったと考えるべきなのです。目の前の人々を日本人としてではなく、「神の子供・霊的兄弟姉妹」として見るべきなのです。

スピリチュアリズムの唱える霊性進化の道は、あくまでも地上人が個人レベルにおいて歩むべき普遍的道であり、最終的な救いは一人一人に帰着します。自分の霊的成長に対しては、自分自身で責任を持つしかありません。その原則の前には、国や民族という枠は無関係なのです。霊界に行くと、自分の霊的に未熟な部分を自覚するようになります。そして再生の決心をし、自らの霊的成長とカルマを清算するにふさわしい民族・国・親を選ぶことになります。次の地上人生では、今とは全く別の国に生まれるかも知れません。一人一人がこうした霊的サイクルをへて、霊界での上昇の道をたどることになります。従って、現在は日本人であるとしても、そのこと以上に、霊的成長を最重視して歩む「地球人」であるとの自覚を強く持っていなければならないのです。

どれほど日本の行く末が案じられるとしても、どれほど日本の前途が絶望的であるとしても、そのことだけに心がとらわれてはなりません。私達がどのように頑張っても、すべての人の心を一度に変えることはできません。それぞれが自分の霊的レベルに見合った歩みをするしかないのです。もしある人が無意味な地上人生を送るとするなら、その人は償いとして、それ相応の苦しみを負うようになります。自分で責任を取るようになるのです。

また各自に守護の霊があり、それぞれにふさわしい導きをしてくれている以上、ことさら他人の足りなさを嘆く必要はありません。今この時も、人類全体に対する霊界の緻密な計画によりスピリチュアリズムが展開されている以上、日本の行く末を自分なりに心配する必要はありません。自分のできる精一杯のことをしていればよいのです。後は霊界が最も良きように計らってくれるのです。

今地球人類は、すべての惑星世界の中で下から2番目という低いレベルから、徐々に向上の道を歩み始めようとしているところです。その霊的進化は、スピリチュアリズムによってなされようとしていることを忘れてはなりません。スピリチュアリズムは地球全体の運命を担って働きかけているのです。日本という国家は、そうした地球のほんのわずかな地域に過ぎないのです。

「人類全体のための予定表というものがあります。私の世界の高級な神霊によって考え出されたものです。その目的は、受け入れる用意のできた地上の人間を、霊的に、精神的に、そして身体的に自由にしてあげることです。国家単位の計画があり、個人単位の計画があります。

『シルバーバーチの霊訓(10)』(潮文社)  p.147

「地上の皆さんは、ひたすらに真理を広め、知識を広め、叡智を広め、光明を広め、一人でも多くの人の心に感動を与えることです。往々にしてその努力の結果はあなた自身には分からないでしょう。が、それはどうでもよろしい。かまわず進んでください。世間の批難、中傷にはかまわず、ひたすらにご自分の心の中の光りに忠実に従うことです。それ以上のことは要求しません。敵対するものがいかに大きかろうと、最後は必ず勝利を収めます。

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.31

世界にスピリチュアリズムが広がり、地球人としての意識が共通のものとなった時には、国家自体の在り方が今日とは随分変わっているはずです。国境は現在の県境ほどのものになっていることでしょう。その時には、民族性・国民性にこだわることは時代遅れであり、「世界同胞意識」が民族意識や愛国心に優(まさ)るようになっているはずです。

ある民族や特定の国が世界の運命を決定していくのではなく、無国籍の「スピリチュアリスト」が世界を変えていくことになるのです。