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1.はじめに

地上人類が常に求めてきた、二つの大きなテーマがあります。一つは「死について」、もう一つは「神について」です。死は人間にとって、どうしても避けられない宿命であり、最大の恐怖と言えます。人類はその“死”についての問題解決を宗教に求めてきました。そしてそれと同時に、人類にとって最大の権威者であり、信仰の対象である“神”についても思いをめぐらしてきました。

これまで地上人類は“神”を、超人的な能力を有し、人間の生活や運命を支配する絶対的な存在と考えてきました。人類にとって、神は支配者であり、崇拝の対象であり、時には罰を下す恐ろしい存在でした。そして人々は、苦境や困難に遭遇したり、危機に陥ると必死に神に助けを求めてきたのです。

「神とは、どのような存在なのか?」――これはスピリチュアリズムにおいても、最も重要な問題です。私達は“霊界通信”を通じて、あの世にいる高級霊が「神への信仰」を当たり前のこととしている事実を知ることができます。私達が深い信頼を寄せているシルバーバーチも、その例外ではありません。

さて『シルバーバーチの霊訓』には、“神観”が誤解されやすいという問題点があります。シルバーバーチはよく――「神は法則です」「あなたは神なのです」という言い方をします。読者は、この言葉を文字どおり受け取り、それがシルバーバーチの神観のすべてであると思いがちです。もし皆さんが、「神とは法則である」とのみ思っているとしたら、明らかに間違っています。シルバーバーチの言葉の一部だけを取り上げて、それが全体であると考えると、大きな勘違いをしてしまうことになります。

シルバーバーチの祈りを見れば、シルバーバーチが、神(大霊)を単なる法則としてだけとらえていたのでないことは明白です。なぜならシルバーバーチは、まるで人間に話しかけるように神に話しかけているからです。神が単なる法則ならば、そうした語りかけは必要ないはずです。

今回は、神について取り上げます。従来の神観の問題点について、またスピリチュアリズムの神観とはどのようなものかについて学んでいくことにします。

2.スピリチュアリズムとは、「神への敬虔な信仰」――正しい神の姿を知ることの重要性

スピリチュアリズムの本質は、神に対する敬虔な信仰

スピリチュアリズムは、神を唯一の信仰対象とし、神に絶対帰依した生き方を求めるものです。神への信仰・崇拝ということにおいて、スピリチュアリズムは、従来のキリスト教やイスラム教に勝るとも劣らない強烈な宗教と言えるのです。スピリチュアリズムは、霊的真理や心霊現象に対する単なる研究・学問ではありません。その本質はどこまでも、「深くて敬虔な信仰」ということなのです。信仰にまで行き着かないスピリチュアリズムは、本物のスピリチュアリズムとは言えません。

皆さんは今、心から神を信じ崇拝し、毎日祈りを捧げ、神との触れ合いを求めているでしょうか。シルバーバーチの交霊会は、常に神への祈りで始まり、祈りで終わっています。交霊会のすべての時間は、神の手に委ねられたところで進められています。ここにシルバーバーチの、神への篤い信仰姿勢を見ることができます。常に神とともにあることを望む、シルバーバーチの信仰心が示されています。

私達スピリチュアリストは、そうした高級霊の信仰姿勢を見本とすべきです。毎日の生活を神への祈りによって始め、必要に応じて一日に何度も祈り、そして祈りによって一日を終えるようでなければなりません。もし皆さんが「霊的真理」は学んだものの、いまだに「祈り」が日常生活の中で重要な位置を占めていないとするなら、まだまだ頭だけのスピリチュアリストであるということになります。

「もっと神を知りたい!」という霊的本能

スピリチュアリズムは、神を正しく知り、より神へ近づこうとする霊的歩みであると言えます。私達スピリチュアリストにとって、神は生命そのものなのです。

そうしたスピリチュアリストが、「神の姿を正しく知りたい」と思うのは当然のことです。自分の愛する人については、誰もが「もっともっと知りたい!」と思うものなのです。それと同じでスピリチュアリストが、最も尊敬し崇拝する「神の真実の姿」を知りたいと願うのは、当たり前のことであり、抑えることのできない魂の欲求・霊的本能と言えます。

祈りに際して、どのような神をイメージするのか?

スピリチュアリズムにおいて、祈りは欠くことができない霊的な実践内容です。私達は祈りによって霊的エネルギーを取り入れ、心霊を引き上げ、神に接近することができるようになります。祈りのないスピリチュアリズムは、霊的生命のない単なる学問(知識の収集)であり、物質次元の活動にすぎません。

祈りは、神に向けての語りかけである以上、当然、神に思いをめぐらすことが前提となります。祈りに際しては、その対象である神についての何らかのイメージがあるはずです。

これまで人類は、さまざまな神の姿を想像してきました。怒り狂う恐れの神・罰を与える神・人間のような姿をした神・髭(ひげ)をはやしたイエスのような神など、さまざまな神のイメージを描いてきました。そして、こうした自分達が想像した神に向かって、祈りを捧げてきたのです。

さて、私達スピリチュアリストは、どのような神をイメージしたらよいのでしょうか。霊性が低い地上人は、とても霊界人のような“神の姿”を想像することはできません。しかしスピリチュアリストである以上、たとえ未熟であっても、できるかぎり「正しい神の姿」を知ろうとする姿勢が必要です。

的外れな祈りを捧げたくはないはずです。真実とは懸け離れた神に向かって語りかけるような、愚かなことはしたくないはずです。最低限であっても、正しい神の姿を知りたいと願うのは、スピリチュアリストとして当然のことなのです。

3.霊界人と地上人の“神意識”の差――霊界人の神信仰を手本にして

霊界人は皆、敬虔な神信仰者

私達肉体を持った地上人が、神の存在を身近に感じられるような体験をすることはめったにありません。神と直接触れ合い一つとなるような感動的な体験は、深い祈りの中における、きわめて稀な霊的出来事なのです。

それに対して肉体を持たない霊界人は、神との直接的な交わりの体験を頻繁(ひんぱん)に持つことができます。そのため霊界では、神の存在を疑ったり否定するような者は存在しません。地上人と霊界人では、このように「霊的感性」において大きな隔たりがあります。

肉体を持って霊的感性が鈍くなってしまった地上人の最大のハンディは、神の存在を実感できなくなっているということです。霊界では、いかなるレベルの霊であっても、私達地上人とは比較にならないほど強く神を実感することができるのです。霊界人は皆、敬虔な神への信仰者なのです。インペレーター霊は、霊界人の神への信仰を、次のように述べています。

「神への信頼があまりにも実感あふれるものであるが故に、あえて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが、神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以(ゆえん)であり、神が嘉納(かのう)される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.31

何という純粋で、強烈な信仰心なのでしょうか。霊界では、霊格が向上し高い界層に至れば至るほど、神に対する実感の度合もいっそう深まっていきます。それと同時に、神をより深く理解することができるようになります。したがって高級霊であればあるほど、より密接に神と触れ合い、神の愛を多く受けることになるのです。

高級霊にならって、正しい信仰者を目指す

スピリチュアリズムは、霊界人にならって、あるいは霊界人を手本にして「霊的成長」をなす道とも言えます。霊界人、特に高級霊は、私達地上人にとってはすべての点で良き教師なのです。神への信仰についても、高級霊の姿勢を見習って、正しい信仰を身につけるよう努力しなければなりません。

スピリチュアリズムは、地上世界における初めての正しい信仰

これまでの地上世界には、正しい神観がありませんでした。そのため熱心に信仰すればするほど、真実の神から離れていくといった皮肉な結果を招いてきました。神を真剣に求め、崇拝すればするほど、的外れな方向に走ることになってしまったのです。

信仰では、まず「正しい神の姿を知る」ということが重要なのです。正しい神観に立っていない限り、熱心さは、良い実を結ばないのです。狂信・盲信というマイナスの結果を生み出すことになってしまいます。スピリチュアリズムは、人類の歴史において初めて「正しい信仰」を地上にもたらしたのです。 

4.神を知る二通りの方法――「霊的直感」による神認識と、「理性」による神認識

「霊的直感」による神認識――神を知る最良の方法

すでに述べたように、霊界人は「霊的直感」によって神の存在を強烈に感じとれるようになっています。しかし地上人で、そうした体験を持ち得るのは、ごく一部の人に限られます。もし霊界人のように直接、神の存在を実感できるとするなら、神について理屈っぽく考えるようなことはなくなります。神の存在を霊的直感で知ることのできる人にとって、もはやそれ以上の神についての説明は不要となります。

インペレーター霊が述べているように――「神への信頼があまりにも実感あふれるものであるがゆえに、あえて思案をめぐらす必要を感じない」ということになるのです。「霊的直感」による理屈を超えた神の認識・神の理解――これが最良の神を知る方法なのです。

「理性」による神認識――小をもって大を測ろうとする方法

霊界人と較べたとき、地上人の霊的感覚は、ほとんどゼロに等しいものです。直感的に神を認識することができないため、結局、頭を用いて神を理解しようとするようになります。これが理論的な神認識、「理性」を用いた神認識なのです。その際、自分達の有するごく限られた思考カテゴリー(全知全能・永遠・不変・唯一絶対・至上善など)で、神を論じることになります。

しかし神という無限の存在を、地上人の限られたカテゴリーでカバーできるはずがありません。最高次元の霊的総体(神)を、限られた物質的手段(言葉)で説明することなど不可能なのです。霊的直感に基づかない地上人の神認識の能力は、霊界人と比べたとき、ほとんど赤ちゃんのようなレベルと言えます。それが物質世界に住んでいるためのハンディであり、限界でもあるのです。 

統一されている霊界での「神観」

地上人が頭の中でつくり上げてきた神の姿は、宗教によって、また地域や時代によってさまざまです。地上世界の神観はバラバラなのです。それに対し霊界では、神観は常に一つに統一されています。

霊界では、まず初めに「霊的直感」によって神を共通認識し、その後「理性」によってその内容を言い表すことになります。霊的直感による認識がすべてである霊界人においては、地上人のように理性的認識が先行するようなことはありません。霊的直感による神認識は、各霊共通であるため、霊界での「神観」は一つに統一されることになります。基本的な神観において、食い違うというようなことはありません。もちろん霊の進化のレベルによって神認識の深さに違いはありますが、地上におけるキリスト教と仏教のような、本質的な内容の食い違いは存在しません。

スピリチュアリズムにおける神観とは、霊界人にとっては常識となっている神の知識に他なりません。

5.人類史の中における「神観の進歩」――地上人類の神観は、時代とともに進歩してきた

霊界人と比べたならば、あまりにもお粗末な神認識しかできない地上人類であっても、全体として見れば、時代とともに少しずつ神への理解を深めてきました。

太古においては、環境や自然界についての知識がなかったために、あらゆる自然現象を神の仕業にしてきました。雷が鳴り稲光(いなびかり)がすると神が怒っているのだと思い、その怒りを鎮めるために、いろいろな供え物をするようになりました。神自身についても、人間を大きくしたような存在、物体的な形を持った存在としてしか想像できませんでした。そして自分達の祈りが叶えられれば神を畏敬し、叶えられないときには別の神を求めてきました。

こうしたあまりにも未熟な神についての考えも、時とともに徐々に進歩変化し、少しずつ迷信の壁を破るようになっていきました。やがて宇宙の根源は、どうやら人間の想像を超えたものらしいということに気がつくようになりました。

とは言っても、古い概念がそう簡単に消えたわけではありません。依然、神を人間の延長上にあるような存在と考え、その神が宇宙をこしらえ、人間をはじめ自然界・宇宙のすべてを支配しているというイメージを、何十世紀にもわたって持ち続けてきました。そしてそうした神の概念は、現代においてもいまだに根強く残っています。

人類の霊的進化にともない、少しずつ間違った考えは訂正されてきました。その中で最も大きな変化は、ユダヤ教からキリスト教への流れの中に見ることができます。ユダヤ教における――復讐・怒り・懲(こ)らしめ・嫉妬といった神のイメージは、イエスによって――愛・公平・慈しみの神に変化しました。

そして今また、スピリチュアリズムの到来によって、人類はさらなる高度な神観を持つことができるようになりました。次のシルバーバーチの言葉の中に、現代の地上人類が手にした「最高の神観」の一端を見ることができます。

「神とは、非人間的でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。(中略)神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡知と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性であり女性でもあり、個性というものを超越しながら、同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.108

今後千年間の霊性進化の歩みを通じて、人類は現在より、はるかに進んだ神の概念を持つことになるでしょう。地上人類は「霊的受容性」に応じて、さらに多くの霊的知識と神の姿を知ることになるのです。

6.従来の神観の整理

地上世界にはこれまで、さまざまな神観が存在しました。ここでは、そうした従来の神に関する思想を整理してみます。

さまざまな神観

(1)有神論と無神論

神観は、大きく「有神論」と「無神論」に分類されます。神の存在を認める立場と、神の存在を認めない立場・否定する立場です。大半の宗教は神を認める有神論ですが、道徳や哲学の中には、無神論の立場をとるものがあります。“唯物論”はその典型的なものです。

シャカは、当時のバラモンの教えに対抗するという意味で形而上学的な問題に触れることを意識的に避け、人間の生き方に問題を絞っていました。そのため一見すると、神を否定するような教えを説いています。積極的に神の存在を否定しているわけではありませんが、やはり「無神論」の立場であることは間違いありません。

スピリチュアリズムは言うまでもなく、「有神論」の立場に立っています。

(2)一般的な有神論・理神論・汎神論

神の存在を認める有神論は、さらに三つの立場に分類されます。「一般的な有神論」「理神論」「汎神論」です。

「理神論」とは、神が世界を創造したことは認めるものの、いったん世界を創造してから後は、被造世界神によって造られた世界)と直接的な係わりを持つことはなくなったとする立場です。創造主である神と被造世界の間には、もはや何の関係もなく、世界は人間の理性によって知り得る“自然法則”によって運行されているにすぎないとします。

苦しいときに、どれほど神にすがっても救いの手が一向に差し伸べられない現実の中では、――「なぜ神は、直接自分達を助けてくれないのか?」「神の直接の関与は果たしてあるものなのか?」と疑問を持つようになります。理神論は、そうした疑問に対する解答として考え出されたものです。スピリチュアリズムは理神論を否定しますが、シルバーバーチの「神は法則である」という神観は、理神論と共通する一面を持っています。

「汎神論」とは、世界の一切は神であるとし、神と世界、あるいは神と自然との間に区別を認めない立場です。創造主である神と被造物神によって造られた存在・世界・人間・自然など)を区別せず、同一の存在と考えます。神の創造性を認めません。

この時、神の方に力点を置けば――「宇宙はすべて神である」ということになります。古代インド思想のウパニシャッドの梵我一如(ぼんがいちにょ)の思想やスピノザの哲学は、この種の汎神論です。

一方、神ではなく世界・自然の方に力点を置いて考えると――「世界はすべて物質によって成り立っている」ということになります。物質世界だけが唯一の実在であり、その実在物の総体が神ということになり、神は物質と同じものと見なされることになります。“唯物論”がこの種の汎神論に属することになります。

スピリチュアリズムは明確な「創造神論」の立場であり、神と世界、神と人間との間に明確な一線を画し、汎神論を否定しています。

(3)多神教・一神教

一般的な有神論は、「多神教」と「一神教」に分けられます。多くの神々を崇拝し信仰対象とするのが「多神教」であり、日本の神道・古代ギリシアの宗教・古代エジプトの宗教など、さまざまな宗教がこれに含まれます。アニミズムの流れをくむ信仰は、ほとんどが多神教です。多神教は、霊界に存在する天使や妖精、あるいは肉体を脱ぎ捨てた死後の人霊などの霊的存在を、信仰対象と見立て、崇拝するところに成立します。

「一神教」は、全世界に存在する神はただ一つであると信じる立場です。キリスト教やイスラム教がその代表です。スピリチュアリズムは、キリスト教と同じく「唯一の神(大霊)」を崇拝の対象とします。背後霊や霊界でスピリチュアリズムの総指揮を執っているイエスに対してさえも、これを崇拝の対象としない徹底した唯一神信仰なのです。

この意味で、神道とスピリチュアリズムを安易に折衷しようとすることは、明らかに間違っていると言えます。

【図1】 まとめ(従来の神観の分類)

神の存在証明の試み

キリスト教では、神が実在することを何とか証明しようとする試みがなされてきました。神がいることを理論的に説明し、誰もが神の存在を受け入れるように仕向けようとしたのです。

しかし結論を先に言えば、「理性」という有限な人間の能力を用いて、無限の神の実在を証明することはできないということです。誰もが納得する理論的な神の存在証明は不可能なのです。すでに神の存在を受け入れている人、信じている人にとっては、キリスト教における神の存在証明は合理的で説得性のあるものになりますが、神の存在を否定している人にとっては、説得性を持ち得ません。無神論者にとっては、こうした神の存在証明は、単なる類推を土台とした論理展開にすぎないということになります。結局、キリスト教における「神の存在証明」は、どこまでも信仰者向け・内部向けの理論の域を出ないものなのです。

とは言っても、神の存在を信じる私達スピリチュアリストにとっては、多くの学ぶべき点があります。そこでここでは、代表的な二つの神の存在証明(宇宙論的証明・目的論的証明)を取り上げて見ていくことにします。

「宇宙論的証明」とは――宇宙・自然界の一切の存在物は、因果関係によって成り立っているという事実に基づき、その因果関係の系列を溯(さかのぼ)っていくと、究極において「第一原因」に到達せざるを得ないという論法です。この第一原因を“神”であるとするのです。例えば時間の流れをどんどん溯っていくと、宇宙が存在する以前の世界に到達します。ビッグバーンという宇宙の始まりには、さらなる原因がなければなりません。これを突き詰めていくと、どこかに出発点がなければならないことになります。それこそが究極の原因である“神”だと考えるのです。原因→結果という流れを溯ると、究極の原因にまで至り、それが神であるというこの論法は、神の存在を信じている者には、すっきりと受け入れることができるはずです。

もう一つの代表的な神の存在証明である「目的論的証明」とは――自然界が秩序性・合目的性を持っている事実に注目し、自然界にこうした驚異的な規則性と目的性があるのは、それを設計した「知的存在」がなければならないとする論法です。その知的存在こそが“神”ということになります。例えば目の前に鉄の固まりがあるとします。その鉄の固まりは、そのままでは何千年たっても自動車やコンピューターに変化することはありません。自動車やコンピューターができ上がるためには、緻密な設計と製作のために大変なエネルギーが投入されなければなりません。つまり知的な設計者と制作者がどうしても必要なのです。

自然界の存在物は、コンピューターよりさらに複雑で精密な仕組みから成り立っています。そうした自然界の存在物が実在するについては、明らかにそれを設計し製作した「知的存在(神)」がいると考えるのが当然です。こうした知的存在がいないところで、驚異的な存在物が実在すると考えることこそ不自然だと主張するのです。シルバーバーチは、たびたび自然界に存在する驚異的な規則性を強調し、その背後にある知的存在を“神”であると述べているのは、まさにこの「目的論的証明」と軌を一にしています。

もちろん“無神論者”には、どのような合理的な説明をしても、神の存在を納得させることはできません。信じられない者に無理やり信じ込ませようとしても、それは不可能です。「神を信じる」という心の作用は、理性とは無関係な霊的領域でのことだからです。神を受け入れられるかどうかは、「霊性」によって決められることなのです。

TMの神観について

TMは、古代インドのヒンドゥー教の聖典を、物理学者マハリシ・マヘーシ・ヨーギが現代に合った形に復興したもので、多くの人々の間に流行しています。マハリシは、古代インドの思想を、現代物理学の知識を用いて解説しています。

彼は、従来古代インドにおいて言われてきた「悟りの境地」とは、現代物理学で言うところの「統一場」と同じであると説明しています。統一場とは、物質が生み出される物質界の究極の場ですが、その中には物質は存在していません。

TMでは、瞑想を通じてこの究極点である統一場に到達できると言うのです。そして瞑想によって至る自我を超越した境地を――梵我一如(ぼんがいちにょ)の世界、すなわち神と自分が一つであることを自覚する場、宇宙で唯一の実在であるブラフマン(梵)とアートマン(自己)が合一する場であるとしています。

確かに、時に祈りの中で、神と自分が一つとなったような体験、まるで自分が宇宙の中に溶け込んだような体験をすることがあります。しかし結論を言えば、こうした「至福体験」は神と同一化したために生じたものではありません。それは“霊的窓”が一時的に全開し、霊的エネルギーが急激に流入してきたために生じた主観的反応です。したがってTMによる至福体験は、必ずしも古代インドの汎神論の正当性を証明することにはならないのです。

現代物理学が明らかにした「統一場」とは、神が物質世界を造る際の根源レベルの場ということにすぎません。スピリチュアリズムの立場から言うならば、神が物質世界を造る際の「素材界」ということです。もっと重要なことは、こうした無形の「物質素材界(統一場)」とは別に、「霊界」というまったく別次元の確たる世界が存在するということです。

物質世界と霊的世界という区分された二つの世界が存在しているのに、TMでは梵我一如の「一元論(汎神論)的世界観」に引きずられているため、統一場を神そのものの世界としてのみ発想してしまっているのです。「統一場」とは、神そのものの世界ではなく、どこまでも物質世界の「素材界」にすぎないのです。TMの理論には、「霊界」という厳然として存在する世界がどこにもありません。ここにTMの最大の欠陥があるのです。

7.「霊界通信」を通じて知る神観の意味――霊界から教えられる神観の素晴らしさ

肉体をまとい、霊的感性が鈍くなっている地上人類は、霊的世界のごく一部を知ることしかできません。暗闇に閉じ込められた中で、一点の光だけが射し込む小さな穴から、外の世界を覗き見るようなものです。そうした地上人類が神を知ろうとするのは、いっそう困難なこととなります。人類がこれまで手にした神についての知識は、ほんのわずかなものにすぎません。しかも、そのわずかな知識も肝心な点で間違っているのです。

それに対し、霊界人の知り得る知識の広さ・深さ・正確さは、とても比較になりません。霊界人と私達地上人では、認識能力に天と地ほどの差があるのです。インペレーター霊は、次のように述べています。

「われわれは無数の方法にて、その存在(神の存在)を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.31

もし地上人が、神についてもっと理解を深めたいと考えるなら、こうした霊界人から直接教えてもらう方が、ずっと早道であることになります。しかもその情報には全幅の信頼を置くことができます。地上人類が3千年かけて獲得してきた霊的知識も、霊界人から教えてもらうならば、わずか10分そこそこで得られることになります。

スピリチュアリズムは、霊界人の知識をストレートに受け入れるところから出発します。その結果、従来の地上人には到底知ることのできなかった、「最高の知識(神観)」が与えられるようになったのです。物質レベルに限定されていた地上人の乏しい神観は、今や霊界人の神観を知ることによって、一気に飛躍することになりました。スピリチュアリズムによる神観には、こうした深い意味があるのです。

スピリチュアリズムは地上人類に、かつてなかった「最高の神観」をもたらしました。スピリチュアリズムを通じて地上人類は、初めて「本当の神信仰」がいかなるものであるかを知ることができるようになったのです。

8.誤解されやすいシルバーバーチの神観――「あなたは神」「神は法則」の真意

『シルバーバーチの霊訓』の中で誤解されやすいのが――「あなたは神です」と「神は法則です」という言葉です。多くのシルバーバーチ愛読者の中には、この言葉を文字どおり受け取っている方がみえます。しかし、この二つの言葉をそのまま鵜呑みにすると紛れもなく「汎神論」となり、神と世界、神と人間の区別がないことになってしまいます。シルバーバーチは、神が宇宙や人間を造られた「創造主」であることを述べていますから、内容的には汎神論でないことは明らかです。

ここでは誤解を引き起こしがちな、これら2つのシルバーバーチの言葉の真意を明らかにしていくことにします。

「あなたは神です」の言葉の真意

「あなたは神です」という言葉の真意は、シルバーバーチの他の箇所を見ることによって明白にされます。

「あなた方のお一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に、神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.187

「神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植えつけられているのです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.91

「それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内蔵しております。(中略)内部に神性という完全性の火花が宿されています。(中略)神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.109

「霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。(中略)同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.110

「人間が神に似せて造られていること、言い換えれば、神と本質的に同じものが内在していること……

『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)  p.60

これらの言葉から、シルバーバーチが「あなたは神です」と言った真意が明らかにされます。私達の内部には、「神の分け御霊(みたま)」である「霊」が存在します。その霊は神によって創造され、神と同じ要素を持っているために「ミニチュアの神」と呼ぶことができます。こうした形で、私達人間は神の分霊を内在させていますが、これをシルバーバーチは、「あなたは神です」と言ったのです。

シルバーバーチの「あなたは神です」という言葉は、汎神論的な神観を述べたのではなく、神と同質の分霊の内在、すなわち「神霊の内在論」を言っているのです。人間は神そのものであるという意味ではなく、神と同質の「ミニチュアの神霊(神の分霊)」を内在させているということなのです。

さてシルバーバーチは、その神の分霊こそが私達の「本体我」であり、それゆえに人間は「神の子供」であると述べています。これは人間が神の子供であることを、最も明快な形で言い表したものです。人間は神の子供であるという認識は、キリスト教などにもありますが、それを明確な根拠で示したものなのです。

このことは、イエスと私達地上人が本質的にはまったく同じ霊的存在であり、同じ神の子供であることを証明することにもなっています。イエスと私達の違いは、内在する「霊の成長レベルの差」にあることを明らかにしているのです。

「神は法則」の言葉の真意

もう一つの「神は法則です」という言葉も、多くのシルバーバーチ愛読者に誤解を与えています。シルバーバーチは盛んに「神は法則です」と述べているため、読者はついその言葉を鵜呑みにしてしまうことになります。もしシルバーバーチの言う言葉が、そのまま事実であるとするなら、「創造神」は存在しないことになります。シルバーバーチは「汎神論」を説いていることになります。また、この世にあるのは法則だけということになれば、神はいないということにもなり、「無神論」になってしまいます。

これについても、シルバーバーチの他の言葉を見ることによって、真意を明らかにすることができます。

「神は大自然の法則より、もっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時に、それを作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.107

ここには、「法則」は神によって造られたものであることが述べられています。神がいるということ、その神が法則を造って世界を支配しているということが、はっきりと示されています。法則とは神そのものではなく、神の創造物・属性であるということが明らかにされています。シルバーバーチが、どこまでも「創造神論」に立っていることが明確に述べられているのです。

ではシルバーバーチは、なぜ誤解を受けるほど、繰り返し「神は法則である」と強調してきたのでしょうか。それには従来の地上人類の、神への間違った信仰姿勢を改めさせようとする目的があったからなのです。

地上人類はそれまで、神の意志に反すれば、神によって罰が与えられ、時には苦しみや報復がもたらされると考えてきました。その反対に神の意志に従えば、恩寵が与えられ、神の保護が得られると考えてきました。地上人類が一生懸命に神を信仰し、神を崇拝してきたのは、全知全能の神によって直接、何らかの恩恵・褒賞・保護が与えられることを期待していたということなのです。これが大半の人々の信仰の実態だったのです。キリスト教しかり、イスラム教しかり――そしてややもすれば、スピリチュアリストでさえも、つい神の特別な配慮を願ってしまいがちなのです。

シルバーバーチは、こうした地上人類の信仰の在り方・神への姿勢が、根本的に間違っていることを明確にしようとしたのです。神が人間に直接手を下すようなことはなく、神の造られた法則によって自動的に賞罰が与えられるという事実を知らせようとしたのです。「神は法則です」と繰り返し説くことによって、神に対して“特別な恩寵”を願うという間違った信仰姿勢を改めさせようとしたのです。

どんな人間も、神の造られた「摂理(法則)」の支配を受けています。すべての人間が、寸分の狂いもない公平な扱いを受けています。この事実を明らかにするために、シルバーバーチは「神の法則性」を強調したのです。

9.スピリチュアリズムの基本的神観――信仰対象としての「生きた神の姿」

いよいよここでは、スピリチュアリズムの神観を見ていくことにします。すでに述べたように、スピリチュアリズムの神観とは、霊界においてすべての霊によって認められている神の知識に他なりません。

さて私達スピリチュアリストが最も知りたい「神観」とは――生きた神との関係を築くために役立つ認識(知識)です。哲学的で分析的な神の定義が必要なのではありません。スピリチュアリズムという信仰生活において、神を正しく知り、自分達の心を神に接近させていくのに役立つ神の知識が大切なのです。

すでに述べたように、物質の壁に閉じ込められた地上人が、神の全体像を知ることは到底不可能です。それは霊界の高級霊にさえできないことなのです。物質に縛られた地上人は、どこまでも神の姿のごく一部分を知ることしかできません。

全知全能、唯一絶対、不変、永遠にして無限、至上の善と公正、至高の知性、宇宙の第一原因・始原といった「神の定義」は、これまでたびたび言われてきました。こうした神の定義はどれも正しいのですが、それはあくまで神の一部を表現しているにすぎません。

このような限られた神の定義を知っただけでは、私達は神の姿を生き生きと思い描くことはできません。祈りなどに際して、具体的なイメージを持つことができません。私達は哲学的な神の姿ではなく、どこまでも信仰的な崇拝の対象である「生きた神の姿」を知りたいと思います。

ここではそうした視点から、スピリチュアリズムによって示された神観を総合して、まとめてみることにします。私達の信仰において力となる「神観」を探してみたいと思います。

(1)神は「創造主」として、霊界・宇宙を造られた。私達人間は、神によって造られた。

神と私達人間は、「造ったもの」と「造られたもの」という決定的な違いがあります。神と人間との間には、明確な一線が引かれています。

神と人間は、母親と赤ちゃんの関係にたとえることができます。胎児がお母さんの子宮内にいて、へその緒で結ばれ肉体的に一体となっているときは、胎児はまだお母さんの一部と言えます。お母さんが死ぬようなことになれば、胎児も同時に死ぬことになるからです。しかし誕生によって体外に出た後は、母親と赤ちゃんは完全に別々の存在となります。赤ちゃんはお母さんによって存在のきっかけを与えられ、お母さんから肉体をもらいましたが、いったん生まれてからは、母親と赤ちゃんは異なる存在となるのです。もはやお母さんと赤ちゃんは、同一の存在とは言えません。

これと同じで、私達人間は神によって造られましたが、いったん造られてからは、神とは別個の存在、神から独立した存在となるのです。

(2)神は、人間をご自分に似せて創造された。そのため神と人間・万物は、同じ要素を有している。

お母さんによって肉体を与えられる以上、赤ちゃんは、あらゆる肉体の要素をお母さんから受け継ぎます。赤ちゃんの肉体は、お母さんの肉体と同一の要素からでき上がっています。

神と人間にも、これと同じことが言えます。神によって造られた人間・万物は、神の中にもともと在った要素からでき上がっているということです。

「あなた(神)は人間に、あなたの聖なる属性を数多くお授けになりました。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)  p.222

このことは、私達人間の持っているすべての能力・心の要素(知情意)は、神の中にもともと存在していたということを意味しています。神は、私達人間の持っているすべての心の要素を内在させているということになります。

「人間が神に似せて造られていること、言い換えれば、神と本質的に同じものが内在していること……

『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)  p.60

肉体をまとい、霊性が鈍くなった地上人は、神の存在を実感することができません。しかしそうした地上人であっても、神が造られた宇宙・自然界の中に、神の属性神そのものではなく神の有する性質)を見いだすことができます。これによって地上人は、神の一部に触れ、神の一部を知ることができるようになっています。子供を見れば親が分かるのと同じように、神の内容の一部分を理解することができるのです。

「無限の心・霊的総合体」である神には、創造物に見られるあらゆる要素が含まれています。人間が持つ――善と悪・喜びと悲しみ・優しさと厳しさ・知性・感情・意志……、これらのすべては神に内在していたものであり、創造のプロセスをへて人間に付与されたものなのです。

シルバーバーチは――「愛と憎しみ・喜びと悲しみ・善と悪は同じものの両局面であり、すべて神に由来している」と言っていますが、それはこうしたことを意味しているのです。宇宙・霊界・地上世界・自然界・人間の持つあらゆる要素は、神の中に在ったがゆえに被造世界に現れたものなのです。

(3)神は無形の存在で、あらゆる被造物に遍在(へんざい)している

太古において、人間の霊性がきわめて未熟なレベルにあった頃は、神を人間の姿を持った存在と考えていました。髭を生やした老人のような神を想像したり、キリスト教の聖絵画(ミケランジェロなど)に見られるような屈強な人間をイメージしていました。しかしスピリチュアリズムによって「霊的真理」を学んだ私達においては、神がそうした外形を持った存在でないことは常識となっています。

神は無形ですが、確かに存在しています。神と私達の心は、無形であっても確実に存在しているという点で同じです。つまり神は、私達の心を無限に大きくしたような存在ということです。神とは「宇宙・霊界すべてを包むような広がりを持った大きな心」「宇宙・霊界すべてに遍在している大きな霊・大きな意識体・霊的意識の集合体」と言うことができます。私達は今この時も、神の霊の大海の中に浸っているのです。

「神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.91

「あなた(神)こそ、宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いています。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.184

「あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.120

(4)神は人間にとって「霊的な親」である。

私達人間の一番の本質は、霊的存在であるということです。私達の心の内奥・深部に存在する「霊」は、神という無限の大きな霊から分かれて独立したものです。つまり「神の分霊」が私達の霊であり、私達の“本体我”であるということなのです。私達は神の分霊という「ミニチュアの神」を内在させているのです。

このことは、私達は神によって生み出された「神の霊的子供」であるということを意味しています。そして神という大霊は、私達の「霊的親」であり、全人類は、神を共通の親とする「霊的大家族の一員」ということになります。神と私達人間は、同質の「霊」という共通の要素を持っているために永遠につながり、「神性」を共有することになるのです。

(5)神は私達を愛してくれている。私達人間は神によって愛されている。

シルバーバーチやインペレーターなどの高級霊は、神が愛の存在であることを述べ、常にその愛を賛美しています。また霊界・宇宙には、神の愛が充満していることを述べています。神は絶対的な愛の存在であり、私達人間は、その神によって愛されているのです。

「宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し、全存在を支配しているのも神の愛です。(中略)全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人一人を通して地上に流れ込みます。そしていつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.142

「私達は慈しみと叡智の始源としての大霊の概念を説くことに努め、そしてそれはある程度まで成功しました。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.26

「その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。(中略)過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ちあふれていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。」

『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)  p.31

シルバーバーチは、摂理・法則をたびたび強調します。しかしその法則も、神の愛があればこそ存在すると言うのです。法則よりも“愛”こそが、より根源的なものであると言うのです。愛があればこそ、神の法則が機能するようになるということです。

シルバーバーチは、法則よりも愛こそがより重要であることを述べています――「神とは摂理のことです。究極においては慈悲深い配慮が行きわたっておりますが……「慈悲の要素が摂理の中に配剤されている」(『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.47、p.164)

こうした言葉は、神にあっては、愛が摂理に先行していることを踏まえて語られたものです。それは次の言葉によって、さらに明確になります。

「愛は宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.140

「自分は今、霊の親である神から愛されている」――そう考えるだけで、心は喜びで満たされます。自分は何と幸せなのだろうかと、感動の思いが湧いてくるはずです。ところが残念なことに、私達の心は、神の素晴らしい愛をストレートに実感することはできないのです。それは私達が肉体という物質をまとっているためです。神の愛を実感するには、研ぎ澄まされた「霊性」が必要ですが、肉体に縛られた地上人は、そうした霊的感性を持っていないのです。

しかし、地上では神の愛を実感できない私達も、死んで霊界に行けば、その素晴らしさを知ることができるようになります。私達人間が本当の神の愛を知るのは、不自由な肉体を脱ぎ捨て、純粋な霊の世界へ入ってからなのです。今は神の愛が実感できなくとも、将来、霊界においてそれが叶うことを希望とし、楽しみに待つことにしましょう。

では私達は、地上ではまったく神の愛を体験できないのでしょうか? これまで何度も述べてきたように、私達を背後から導いている“守護霊”は、私利私欲のない「純粋な利他愛」で愛してくれています。実はこの守護霊の愛こそ、まさに神の愛と同質の愛なのです。つまり私達は、守護霊によって間接的に「神の愛」を受けているのです。

その守護霊の愛は、日常生活の中でたびたび感じることができるようになっています。祈りの最中に、あるいは困難な局面で、ふっと心の安らぎ・清々しさ・温かさ・喜びの思いがふくらんでくることがあります。これが守護霊によって与えられる愛の作用です。私達は間接的ではありますが、守護霊を通じて「神の愛」を実感することができるのです。守護霊は、神の代わりに私達を愛してくれているのです。

(6)神は摂理(法則)を通じて世界を支配している。

高級霊が神について論じるとき必ず言及するのが、神の創造された「摂理・法則」についてです。シルバーバーチの場合、この摂理・法則をあまりにも強調しているため、神とは法則そのものであるかのような誤解を生んでいます。しかし、これについてはすでに述べたとおりです。

「宇宙は法則によって支配されており、その法則は規模においても適応性においても無限なのです。それは無限の愛と叡知から生まれたものであり、したがって完璧であり、過ったり失敗したりすることが絶対にないのです。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.143

「宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡知は完全であること……

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.144

宇宙・自然界の一つ一つの存在物は、神の創造された摂理・法則によって規制され、支配されています。宇宙のすべての現象が、神の造られた一連の法則によって支配されています。その法則の働きは完璧です。人間は法則を通じて、神と接点を持つことになります。神は法則を通じて、人間と間接的な交わりを持つことになります。神が直接人間に働きかけるというようなことはあり得ません。それを人間サイドから見れば――「神は常に法則として現れる」ということになります。神と法則は一体(一つ)となったものとして映ることになります。

摂理・法則には、人間サイドの個人的事情は一切介入することはできません。そこでは人間側が摂理に合わせていくしか道はないのです。摂理には一点の妥協もなく、機械的な厳格さだけが存在します。それゆえ完璧な公平が保たれるようになっているのです。私達地上人から見れば、この冷たくて厳格な摂理・法則の後ろに、神が控えているということになります。機械的な摂理・法則の背後に「慈悲の神」がいて、私達のすべてをご覧になっているということなのです。

とかく神を信じる者は、自分の願いが聞き届けられ、特別な配慮がなされることを期待します。神によって奇跡が起こされ、特別な恩恵が与えられることを祈ります。自分の敵を神が懲らしめ、罰してくれることを祈り求めます。地上の信仰者の熱心さには、常にこうした神への期待が潜んでいます。

しかし神が直接、地上人の願いに応じるようなことはありません。また特別な計らいによって、奇跡を起こすようなことも絶対にありません。地上人の身勝手な願いに、神が手を貸すようなことはあり得ないのです。これまで多くの人々は、間違った信仰を熱心にしてきたのです。

地上人類が神に近づくには、神の摂理・法則を正しく理解し、それに従って生活を営むよう努力するしかありません。神に特別な配慮を願うのではなく、自分の方から神の造られた摂理に合わせていくべきなのです。そうした努力こそが、まさに「正しい信仰」なのです。シルバーバーチは、地上人類が陥りがちな間違った信仰姿勢を改めさせるために働きかけてきたのです。

(7)神の完全性は、摂理(法則)の完璧性を通じて知ることができる。

被造世界に見られるすべての要素は、神に由来することはすでに述べました。神によって造られた万物は、その意味で、神を映すミニチュアの分身と言えるかもしれません。

さて、神が宇宙・霊界のすべてを支配し管理するために造られた摂理には、神の偉大さ・完全性がそのまま反映されています。地上人類は神の造られた摂理を通じて、神の偉大さを知ることができるのです。

高級霊は、神の摂理の完璧性・完全性に対して、幾度となく感嘆の思いを述べています。私達も霊界の高級霊にならって、自然界の営みの中に「神の完璧性」を見いだし、神の姿の一端を知った感動に浸りたいものです。

「あなた(神)の聖なる御業であるところの大自然のパノラマの中に、私どもはあなたの神性の顕現を拝しております。(中略)移り変る大自然のあらゆる営みの中に、あなたを見いだすことができます。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)  p.222

「その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそ、あなた(神)の御業の鑑(かがみ)であり……

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.184

「大霊は完全無欠であるが故に、考え得る限りのあらゆる存在の側面に備えた法則を用意しておられます。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.173

「それ(法則)は無限の愛と叡知から生まれたものであり、したがって完璧であり、過ったり失敗したりすることが絶対にないのです。」

『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.143

ある時、ホームサークルの参加者がシルバーバーチに――「神のことを、子供にはどう説いたらよいでしょうか」と質問をしています。それに対してシルバーバーチは、次のように答えています。「神とは何か?」についての、シルバーバーチの端的な答えが述べられています。

「私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性について目を向けさせます。(中略)そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

そしてさらに、人間がこれまでに自然界で発見したものは全て法則の枠内におさまること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に人間の想像を絶した、広大にして複雑な、それでいて調和した一つのパターンがあること、宇宙の隅々に至るまで秩序が行きわたっており、(中略)その秩序によって経綸されている事実を説いて聞かせます。

そう説いてから私は、その背後の力、全てを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している霊妙な力、それを神と呼ぶのだと結びます。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.227〜228

これこそが私達大人にとっても、最も端的で理性的な神の説明であると、シルバーバーチは述べています。実に分かりやすい、適切な神の説明であると思います。

(8)人間は「霊的成長」とともに神に近づいていく。人間は成長することによって神に近づくことができる。

シルバーバーチは――「我欲を捨てて他人のために自分を犠牲にすればするほど、内部の神性がより大きく発揮されるようになる」と言っています。(『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.145)

内部の神性が大きくなるとは、神の分霊であるミニチュアの神、すなわち私達の「霊」が成長するということです。他人に対する利他愛・自己犠牲こそが、「霊的成長」をもたらすということを言っているのです。霊的成長のための実践を掘り下げれば、日常生活における「霊的自己コントロール(霊主肉従)」「祈り」「利他愛の実践」ということになります。なかでも利他愛の実践は、霊的成長のための最も本質的な実践と言えます。

利他愛の実践によって、より多くの愛を他人に与えることにより、「魂の窓」が開かれます。その窓を通じて神の愛と力が流れ込んでくるのです。それによって内部の「神性」が大きくなればなるほど、大霊である神の完全性に似ることになり、神に近づくことになります。内在する「ミニチュアの神(私達の霊)」を、より完全な形で表現することになるのです。私達の霊的成長とは、内部の神性を発揮させることであり、それによって神に近づくことなのです。霊界では霊的レベルの違いが、明白な神との密接度・親近性の違いとなって現れます。シルバーバーチは――「霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります」と述べています。(『シルバーバーチの霊訓(7)』(潮文社)  p.187)

「霊界での向上進化の梯子(はしご)を登って行けば、己のために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界にたどり着きます。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.143

(9)他人を利他愛で愛することは、神を愛すること。神を愛するとは、利他愛で他人を愛すること。

神が私達人間を愛してくれていることは分かりましたが、私達人間は、どのようにしたら神を愛することができるのでしょうか。そもそも人間が、「神を愛する」などということができるのでしょうか。シルバーバーチは、それに対する明快な答えを示しています。

「大霊に奉仕するといっても、それは大霊の子である地上の同胞に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしているとき、神の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれることになります。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.83〜84

「神に仕えることは、神の子のために働くことにほかならず……

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.83

シルバーバーチは――「他人を利他愛で愛すること」「自己を犠牲にして尽くすこと」が、神を愛することになると言っています。神は、私達人間の霊的な親・魂の親です。神が親である以上その願いは、自分の子供同士が仲良くし、尽くし合い、喜びに満ちて生活することです。そして同時に、霊的に成長することです。子供である人間が互いに愛し合い、それによって摂理を成就することが、人間に対する神の願いであり地上に誕生させた意図なのです。

それゆえ他人を愛することは、神の願いに応えることであり、何よりも神を喜ばせることになるのです。他人を利他愛で愛することは、おのずと神を愛することになるのです。あえて力んで「神を愛そう!」と思わなくとも、地上世界での当たり前の愛の行為を通じて、神を愛することができるのです。他人を利他愛で愛しているときには、自動的に神の心を我が心としているということになります。

「神が私達を愛してくださり、私達人間も神を愛そうとする」――そうした愛のつながりは、宇宙における最強の結びつきなのです。多くの人々を「利他愛・真実の愛」で愛する人であればあるほど、より多く神を愛することになり、より強い神との絆を得ることになるのです。

シルバーバーチは――「愛は宇宙における最大の力であり、摂理を成就させるものである」「愛は摂理をも存在させる力である」と言っています。

「あなたが、愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.95

以上、スピリチュアリズムの神観について見てきました。もう一度、ポイントを整理しておきます。

神とは(スピリチュアリズムによる神観)

  1. 神は「創造主」として、霊界・宇宙を造られた。私達人間は、神によって造られた
  2. 神は、人間をご自分に似せて創造された。そのため神と人間・万物は、同じ要素を有している
  3. 神は無形の存在で、あらゆる被造物に遍在している
  4. 神は人間にとって「霊的な親」である
  5. 神は私達を愛してくれている。私達人間は神によって愛されている
  6. 神は摂理(法則)を通じて世界を支配している
  7. 神の完全性は、摂理(法則)の完璧性を通じて知ることができる
  8. 人間は「霊的成長」とともに神に近づいていく。人間は成長することによって神に近づくことができる
  9. 他人を利他愛で愛することは、神を愛すること。神を愛するとは、利他愛で他人を愛すること

10.神への祈り

祈りが、重要なスピリチュアリズムの実践項目の一つであることは、これまで何度も述べてきました。私達スピリチュアリストは、一日一回は、神との静かな交わりの時を持ちたいものです。すべての祈りは常に神へ向けるべきです。私達の祈りは、神に聞き届けられると同時に、霊界にいる守護霊・指導霊達にも届き、彼らからの必要な援助を引き出すことができるようになります。

祈りとは、神への語りかけであり、祈る人の真理の理解度・霊性のレベルによっておのずから内容が変わるものです。しかし、どのようなレベルであっても、祈りの原則だけは守らなければなりません。それは――「祈りは神への願い事ではない」ということです。人間が口にする祈りの多くは、摂理に合っていないものばかりですが、スピリチュアリストは、そうであってはなりません。当人にとって何が必要なのかは、祈る前から、神はご存じなのです。

本当の祈りとは、神と波長を合わせ、自分の意志を神の意志と調和させることです。神とのつながりをより緊密にすることです。神に一歩でも近づくように真剣に語りかけることなのです。

真理が分かれば、おのずと――「ぜひ自分をお役立てください。全人類のためになるように自分を用いてください」と祈るようになります。どのような祈りが正しくて、どのような祈りが間違っているのかは、当サークル出版の『続スピリチュアリズム入門』ニューズレター4号「スピリチュアリズムにおける瞑想・祈り」)で詳しく述べています。)

時々、「祈りに際して、神に対して何と呼びかけたらよいのでしょうか?」との質問が寄せられます。シルバーバーチはご存じのように、大霊と言ったり、あなたと呼びかけたり、時には神と呼んでいます。このように心がこもっているなら、何と呼びかけてもよいのではないでしょうか。

「大霊」「神(様)」「天の親様」――どのような呼び方でも、神に対する正しいイメージを持っているならば、かまわないと思います。神に語りかけ、神と心を通い合わせるのに実感がともない、しっくりするものを選べばよいと思います。

11.日本に、正しい神信仰の確立を!

キリスト教の伝統のない日本のスピリチュアリズムにおける最大の欠点は、「唯一神的神観」の希薄性にあります。正しい神観を知らないために、スピリチュアリズムを謳(うた)いながら、「神を中心とした信仰」や「神への祈り」という一番の基本が、ほとんど自覚されていないのです。安易にスピリチュアリズムと神道的な神観を折衷したり、八百万(やおよろず)の神々に祈念するといった次元で、スピリチュアリズムが成立すると思っています。スピリチュアリズムが信仰の対象としているのは、「唯一の神(大霊)」だけなのです。

また、「神への祈り」のないスピリチュアリズムはあり得ないのですが、この重要な点についても、日本のスピリチュアリズムでは、ほとんど理解されていません。当然のこととして、“生きた神”との触れ合いである「祈り」は実行に移されていません。つまり、スピリチュアリズムの実践の第一歩に踏み込んでいないということです。これが日本のスピリチュアリズムの現実なのです。

スピリチュアリズムは、日本人に「神観」の根本的な修正を迫ります。キリスト教やイスラム教に代表される「唯一神信仰」こそが正しい考え方であることを教えているのです。とは言っても、現在のキリスト教やイスラム教の神観がそのまま正しいということではありません。唯一神を説いてはいても、これらの神観はスピリチュアリズムから見れば、多くの点で本質を取り違えています。

地上人類は、スピリチュアリズムによって初めて「正しい神観」を知り、「正しい信仰」がどのようなものであるかを知ることができるようになったのです。

シルバーバーチは、スピリチュアリズムが「神への信仰」であることを教えてくれています。同時に信仰には欠かせない、「神への祈り」の見本も示してくれています。私達は『シルバーバーチの霊訓』を通じて、高級霊の生きた祈りを知ることができます。数多くの霊界通信の中で、シルバーバーチのみが、正しい祈りの見本を示してくれているのです。この点祈りのモデルを示している)においても、『シルバーバーチの霊訓』は特別なものと言えます。

シルバーバーチの交霊会は、祈りで始まり、祈りで終わっています。ここにシルバーバーチの信仰性を見ることができます。私達スピリチュアリストは、シルバーバーチにならって、たえず祈りをし、神に語りかけていく姿勢を身につけていかなければなりません。