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江原啓之氏の、おかしなおかしな“昌清霊言”

“昌清霊言”の検証から見えてくるもの

多くの方からの質問

ここ数年、多くの方々から江原氏についての質問が寄せられています。その中で特に目立つのが――「シルバーバーチの教えと似ているようなところと、異なるところがありますが、江原さんの言っていることは正しいのでしょうか?」「江原氏は今、若い女性にたいへん人気がありますが、彼は本物のスピリチュアリストと言えるのでしょうか?」といったものです。

また最近では、江原氏が霊媒として伝える“昌清霊言”(『スピリチュアルメッセージ』飛鳥新社)や、テレビでの「天国からの手紙(亡き家族からのメッセージ)」についての質問が増えています。その内容の大半は――「どうも嘘臭(うそくさ)いけれど、本物なのでしょうか?」というものです。そして「江原氏について、ぜひニューズレターで取り上げてください」との希望も数多く寄せられています。

こうした質問に対して、私達はその都度――「シルバーバーチという本物の霊界通信と照らしてください。本物と照らせば、ニセモノかどうかは直感的に判断できるものです」とお答えして、私達の見解を直接述べることは控えてきました。「私達の見解を示すべき時期がきたときにはニューズレターで取り上げますが、今しばらくはそのつもりはありません」と返事を差し上げてまいりました。

今回のニューズレターでは、江原氏について取り上げます。特に“昌清霊言”を中心として、スピリチュアリズムの観点から江原氏の内容を見ていくことにします。

“昌清霊言”とは?

飛鳥新社から、『スピリチュアルメッセージ』3巻シリーズが出版されています。この中には、江原氏が“霊媒”として受け取ったあの世の昌清霊からの通信が掲載されています。江原氏によれば、通信霊である“昌清霊”とは、戦国時代応仁の乱~信長で、今から約500年前)に京都御所護衛に当たっていた武士で、後に出家し修験者(しゅげんじゃ)となった人間だそうです。その霊が、江原氏を霊媒とする交霊会でメッセージを送ってきます。それをそのまま本にしたのが『スピリチュアルメッセージ』だということです。

この霊界通信の特徴は、古代霊である昌清霊が、入神(トランス)状態に入った江原氏の口を通じて、古代語(昔風の当時の言葉)で現代人に語りかけます。その中には今では使われなくなった用語があって理解しにくいため、その一部を現代語に置き換えて表記したと江原氏は言っています。以上が昌清霊言(『スピリチュアルメッセージ』)の概要です。

江原氏を通じて「古代語」を語る不思議?

霊界通信に対する知識のない方は、昌清霊という古代霊が「古代語(昔風の言葉)」で通信を送ってくることに疑問を持つことはありません。通信霊が古代人であるなら、その通信は当然古代語であると考え、通信が古代語であることが本物の証(あかし)であるかのように思ってしまいます。おそらく江原氏自身も、この霊言を出版したときには、そのように考えていたのでしょう。

しかしスピリチュアリズムが明らかにした見解は、これとは全く違っています。「霊的真理」を深く理解し、霊界通信についての正しい知識を持っている人には、昌清霊言は初めから“ニセモノ”と判断がつくものなのです。入神(トランス)霊媒による霊界からの通信は、その思想内容は“通信霊”のものであるけれども、通信の表現・単語・文章は、すべて地上の“霊媒”のものが用いられます。つまり霊界通信は――「地上の霊媒の日常言語によって表現される」ということなのです。

例えば、かつて英国人であった通信霊からのメッセージを日本人霊媒が受け取るとき、そのメッセージは英語ではなく日本語になります。シルバーバーチは3千年前に地上に住んでいた古代霊です。そのシルバーバーチからのメッセージは、バーバネルという英国人霊媒によって伝えられたため、通信内容は古代語ではなく英語で表されることになりました。これと同じことが、日本人同士の通信霊と霊媒の間にもそのまま当てはまります。通信霊が昔日本に住んでいた古代霊で、そのメッセージを現代の日本人霊媒が受け取るとき、通信は現代日本語で表現されることになります。決して当時の言葉で伝えられることはありません。こうした入神霊媒現象のメカニズムが、スピリチュアリズムによって明らかにされています。

この「霊的真理」に照らしたとき、昌清霊という昔の霊からのメッセージが、江原氏を通じて古代語で伝えられることはあり得ません。“昌清霊言”はこの点で、霊的真理と大きく矛盾しています。

“昌清霊”は地上時代に、本当にあのような言葉を使っていたのか?

江原氏の昌清霊言には、さらに次のような疑問が湧いてきます。もし仮に昌清霊の通信が古代語で送られてくると仮定した場合実際にはそうしたことは絶対にありませんが)、昌清が語っている「古代語」が本当に当時のものであったのかどうかということです。言い換えれば――「昌清霊が地上にいたとき、本当にあのような日本語を使っていたのか?」ということです。言うまでもないことですが、昌清霊言に出てくる言葉と、地上時代(戦国時代)に昌清が使っていた日本語は同じでなければなりません。しかし、この点についても疑問が持たれます。

現在私達が使っている日本語は、明治時代に、日本語を統一して標準化しようとの政策によって決定されたものです。それ以前の日本語はどうであったのかと言うならば、各地方ごとに方言が用いられ、一定の地域内では一つの方言が支配的でした。隣接している地方と地方でさえも、互いに理解しにくい、聞き取りにくいというのが当たり前のことだったのです。現在のような交通手段も情報技術もなく、交流も極端に制限されていた時代には、同じ日本人であってもバラバラの日本語を用いていたのです。明治以前には、異なる地方の人間が一堂に会(かい)せば、意思の疎通に不自由することもたびたびだったのです。

こうした状況を考えると、昌清が地上時代に用いていた言葉は、現代の日本語からは大きく懸け離れていたと思われます。おそらく彼が今の日本人と話をしたなら、およそスムーズな会話は成立しなかったことでしょう。しかし文中で昌清が述べている日本語は、それほど違和感もなく理解できます。昔風の単語はあっても、現代語とそれほど違ってはいません。現代語の語尾を昔風にしたものが昌清の言葉となっているようです。当時、京都・関西地方にいた人間がどのような日本語を使っていたのかは専門家でないと分かりませんが、昌清のような言葉でなかったことだけは確かでしょう。

霊界では地上の言葉は不要となる

そうしたこととは別に、もっと大きな疑問があります。霊は、霊界で一定の期間を経ると、地上で用いていた言葉は不要となります。一部の地上臭を拭い去れない“地縛霊”以外は、霊界ではもはや地上時代の言葉を使うようなことはありません。時間とともに地上時代の言葉は記憶の隅に追いやられ、忘れ去られたような状態になるのです。

こうした点を考えると、昌清霊が死後500年も経ちながら、いまだに当時の言葉を使っているということは矛盾しています。昌清霊が“地縛霊”であったならば、まだ霊界で当時の言葉を用いている可能性はあります。しかしこうした場合でも、現代の霊媒を通じて(入神霊媒で)通信を送ってくるときには、やはり現代日本語になるのです。

一体どのような交霊会だったのか?

昌清霊言を読むと真っ先に疑問に思うことは、この昌清霊言は、一体どのような交霊会によって伝えられたものなのかということです。“交霊会”をしたことは文中にはっきりと記されていますから、おそらく何人かの人間が集まって行われたということでしょう。

その際、一体誰が昌清霊に質問したのでしょうか。質問した参加者は、江原氏が古代語を語ることについて、何の疑問も持たなかったのでしょうか。「霊媒が現代人なら現代語で語る」という霊界通信の常識・基本的鉄則に照らして、誰もおかしいとは思わなかったのでしょうか。スピリチュアリズム研究所を名乗りながら、どうしてこうした当たり前のことがチェックされなかったのでしょうか。通信霊がどの程度の霊であるのか、あるいは昌清霊の身元は本当なのかを、どの程度までチェックしたのでしょうか。こうしたことは、交霊会参加者の最低限の義務なのです。交霊会の参加者に、ぜひ真相を聞いてみたいところです。

江原氏は『スピリチュアルメッセージⅢ』の“あとがき”で、次のように述べています――「昌清霊が私の身体を支配し、私の口を使って言葉を現す現象です。私自身はその間、深いトランス(入神状態)に入ります。と言いましても、私の意識はすべて失われているわけではなく、たとえるならば、うつらうつらと眠っているような感覚です。そして遠くで誰かが話しているのを聞くように、みずからの口から出る昌清霊の言葉を聞いている状態なのです。」

ここで江原氏が言っていることは、いかにも正しいようですが、実は間違っています。深いトランス状態に入った者が、自分の声を聞くようなことはありません。浅いトランス状態のときに自分の声を聞くことはあっても、深いトランス下では自分自身の意識は完全に失われてしまうのです。これが江原氏の霊媒の実情であるとするなら、交霊会そのものに対して大いに疑問が持たれます。江原氏が「本当に霊媒の役目を果たしていたのか?」「本当に昌清霊なる存在が通信を送ってきたのか?」ということです。間違いなくトランス状態で通信を受け取っていたのかどうか、疑問が湧いてきます。江原氏が、単に霊媒の振り(マネ)をしていたということも考えられます。それを交霊会の参加者が、本物の霊媒現象であると鵜呑(うの)みにしていたのかもしれません。

昌清霊自身が、昌清霊言の“嘘(うそ)”を暴露

昌清霊は次のように言っています――「肉体については長年使っていないがゆえ、扱い方は、まことに忘れた。口を利くということすら、声を発するということすら、とうに忘れたものを一から覚えるゆえ、大変な作業なのじゃ。ゆえ、古い時代の霊がぬしらの身体にいきなり降りてきて、しゃべるということはない。あったとしたならば、それは騙(だま)し。古い霊に見せかけた、悪いそのへんの霊のイタズラじゃ。ぬしらに憑依(ひょうい)して語ることができるは、まだ現世の記憶が鮮明なたましいじゃ。それ以外のたましいは、肉体は使えぬ。なぜならば、使い方を忘れたからじゃ。『スピリチュアルメッセージⅡ』(飛鳥新社)  p.47~48)また次のようにも言っています――わしが使う言葉の一つ一つ、そのほとんどは忘れた。覚えておる言葉もあれば、覚えていない言葉もある。覚えている言葉はそのまま使えるが、そうでないものは、この霊媒(江原)の知識から拾い出し、語るわけじゃ。『スピリチュアルメッセージⅡ』(飛鳥新社)  p.49)

ここには、霊界通信をする際の霊界側の苦労が語られています。高級霊が地上人にメッセージを送るにはたいへんな苦労がともないますが、昌清霊もシルバーバーチと同じように苦労をしてきたと言っているのです。高級霊が通信を送るときは、まさにその通りです。シルバーバーチはたびたび、地上の霊媒バーバネルを自分の手足のように使用するまでには、長期にわたる準備期間が必要であったと述べています。ここでは、昌清霊とシルバーバーチが、まさに同じレベルでの苦労をしてきたかのような内容が語られています。

しかしこの箇所には、霊媒現象のメカニズムに対する大きな間違いと矛盾が明確に示されています。先程も言いましたが“入神霊言”は、通信霊たとえそれが低級霊であっても)が自分のメッセージを「地上の霊媒の文章・単語を用いて表現し伝える」ということが大原則です。そのために通信霊は、苦労して霊媒の潜在意識と自分のオーラを融合させ、霊媒の潜在意識を支配し、霊媒の文章や単語そして発声機能を用いることができるように仕向けていくのです。霊界サイドの苦労は、このために払われるのです。

ところが昌清霊自身が語っている内容は、どうもその苦労の中身が違っています。霊媒現象の大原則とは矛盾しています。「地上を去ってから長い年月が経っているために発声を忘れてしまったので、それを一から覚え直すのがたいへん」と言っています。さらに昌清霊は、「覚えている言葉はそのまま使えるが、忘れた言葉は霊媒から借りて使う」と言っています。

昌清霊の言っていることは、通信を送るについては「文章も単語もそのまま自分のものを用いる」「ストレートに自分が語り、自分の単語を使ってメッセージを伝える」ということです。これは明らかに「霊的真理」と矛盾しています。本物の霊媒現象ならば、すべて霊媒の言葉・文章・単語を用いるものなのです。通信霊自身が自分の言葉で語り、自分が忘れた一部の言葉だけを霊媒から借りるというような形で進められるものではないのです。これはどのように考えても、「通信は昌清霊からのものではない」ということを証明しています。昌清の語った言葉が、昌清霊言そのものの“嘘”(うそ)を暴露しています。昌清霊自身が、「自分の霊界通信は嘘である」と言っているのと同じことなのです。

昌清霊の語っている内容には、さらに次のような矛盾もあります。昌清霊は、「自分が地上時代に使っていた言葉の一つ一つ、そのほとんどは忘れた」と言っています。霊界では死後、時間が経つと地上時代の記憶は、必要がないかぎり意識の隅にしまわれていきます。それは見方によっては、地上時代の記憶が失われたようになっていくということです。しかし実際は、地上時代の記憶が消滅するというわけではありません。意識の隅にしまい込まれるということであって、必要性があればいつでも生き生きと思い出すことができるのです。“霊”はいったん記憶したことは、決して忘れることはありません。

「覚えている言葉もあれば、覚えていない言葉もある」という昌清の言葉は“嘘”なのです。いったん身につけた地上の言語は、その気になればいつでも記憶庫の中から引っ張り出すことができるのです。意を決して地上に重要なメッセージを送ろうというときに、どうして自らの記憶庫の中から引っ張り出そうとしなかったのでしょうか。もっともそれを引き出したところで、やはり通信は現代語になってしまうのですが……

昌清霊(江原氏)はご苦労にも――「古い霊がぬしらの身体に降りてしゃべることはない。もしあったとしたらそれは騙(だま)し」とまで言っています。「古い霊に見せかけた、悪いそのへんの霊のイタズラじゃ」と言っていますが、古い霊に見せかけている昌清霊のケースは、イタズラ霊の仕業ではなく、どう考えても地上人の意図的な仕業のように思われます。どうも江原氏は、昌清霊という「古代霊」が通信を送ってくる場合、そのメッセージの内容は「古代語」になると勘違いしていたようです。

古代語によるあの世の霊からのメッセージの可能性はないのか?

では現在、「古代語」によるメッセージが送られてくる可能性は全くないのでしょうか。特殊なケースは考えられないのでしょうか。きわめて可能性は低いのですが、全くないわけではありません。その一つのケースとして、非常に悪質で狡猾(こうかつ)・知的な“低級霊”が、意図的に古代語を演出して伝えてくる可能性があります。霊媒が古代語を喋(しゃべ)ると、交霊会の参加者が古代霊からの通信と錯覚することを見越して、手の込んだ古代語通信を演出するのです。その目的は、地上人を徹底してからかい、イタズラをすることです。

その際、低級霊は霊媒の中にある古代語の知識を使って上手に文章を組み立て、言語中枢を強く支配し、強引に古代語を喋らせるかもしれません。ただしよほど上手に細工をしないかぎり、霊媒の口から出てくる言葉は現代語になってしまうので、低級霊にとっては、きわめてたいへんな作業になります。何もこんな面倒なことをしなくても、無知な地上人を騙す方法はいくらでもある以上、いくら低級霊といっても馬鹿馬鹿しくなり、嫌になってやめてしまうでしょう。これが、現代人の霊媒を通じて古代語メッセージが送られてくる一つの可能性です。

ところで江原氏の昌清霊言は、こうしたケースに当てはまるのでしょうか。江原氏がまんまと“低級霊”に利用されて、馬鹿げた霊界通信を送ることになったのでしょうか。しかし他のさまざまな要素を考慮すると、このケースは当てはまりません。

もう一つの古代語メッセージの可能性は、通信霊が何百年も地上臭を拭い去れず“地縛霊”として留まり、幽界の下層でいまだに古代語を使い続けているときに生じます。こうした地縛霊が、入神霊媒ではなく、エクトプラズムでつくった“メガホン”などを用いて「直接談話方式」で通信を送ってくる場合、古代語の通信が送られてくる可能性が考えられます。言うまでもないことですが、地縛霊が「入神霊媒」という方法で通信を送るならば、その通信は霊媒の日常語で表現されることになります。)江原氏のケースは「入神霊媒」である以上、このケースも該当しません。

これ以外の可能性としては、現代人の霊媒が意図的に古代語を用いた嘘の話をつくり、それをさも霊界通信のように演出するということです。すなわち“自作自演”の霊界通信をつくり上げるということです。この際、霊媒が一見入神しているようであっても、すべてが意図的に進められています。時には“嘘”の内容が霊媒の人格の一部になり、自ら作り話をしながら本当の話と思い込むような異常な状況になることもあります嘘を繰り返していると、自分でも本当の話のように思い込むようになること)

江原氏の“昌清霊言”をさまざまな角度から検討した結果、最後に残る可能性は、江原氏の作り話・自作自演ということです。それ以外の結論は出てきません。どのように考えてみても低級霊からの通信の可能性はない以上、「昌清霊言は本物の霊界通信ではない」ということになります。

手の込んだ悪質な偽装工作

昌清霊言は、江原氏による作り話・自作自演の霊界通信である可能性が濃厚である、いや疑いの余地はないと言ってもいいでしょう。あらゆる角度から検証してみても、昌清霊言が本物であることを証明する根拠は、一つとして見出せません。読めば読むほど疑問ばかりが湧いてきます。もし、私達がこのニューズレターで指摘した数々の疑問点に対して、江原氏がスピリチュアリズム的に納得のいく根拠を示し、正当な反論をもってそれらを覆(くつがえ)すことができるのならば、私達は江原氏の名誉回復のために、このニューズレターでその反論を掲載いたします。

江原氏が本当に、シルバーバーチなどの霊的真理を利用して“ニセ霊言”を創作し、さも古代霊からのメッセージであるかのような嘘をついたとしたなら、それはスピリチュアリストとして最も恥ずべき行為をしたことになります。スピリチュアリスト以前の問題、真理を何も知らない一般の人間としても、許されないことなのです。

実は江原氏の昌清霊言は、彼が単に作り話をこしらえて人々を騙そうとしたというだけにとどまりません。昌清霊言には、きわめて悪質で手の込んだ偽装工作やカムフラージュが至るところに施されています。詐欺と言ってもいいような、驚くべきことをしているのです。

シルバーバーチの霊訓をしっかり読んで「霊的真理」を正しく理解している人には、昌清霊言の内容の多くがシルバーバーチに載っているものであることは一目瞭然です。そのことから、これは“ニセモノ”の霊界通信であると簡単に判断がつきます。霊的真理を深く理解している者にとっては、昌清霊言の内容がどこから仕入れたものであるのかは明白です。

例えば、スピリチュアルメッセージの最初に出てくる「類魂」がその代表です。この「類魂」という高度な霊的真理は、スピリチュアリズムによって初めて人類に明らかにされたものです。江原氏が昌清霊に語らせている類魂の内容は、ことごとくシルバーバーチによってもたらされたものですこれについては後で詳しく述べます)。それを昌清という古代霊が明らかにしているかのように語らせています。地上時代の言葉を何百年も使い続けているような“地縛霊”が、どうしてそんな高度な内容を喋ることができるのでしょうか。昌清霊の言葉として語られているものは、すべて江原氏自身が語っていることなのです。昌清霊言の内容の多くは、スピリチュアリズムやシルバーバーチの中から引用したものです。それを昌清霊から送られてきたメッセージであるとした作り話・ニセ霊言なのです。

江原氏はニセ霊言を自作自演するだけにとどまらず、自分でつくり上げたニセモノに、自ら脚注をつけています。昌清霊の通信を、現代語で分かりやすく説明するというポーズをとっているのです。一ページごとに施された現代語の脚注は、何も分からない人にとっては、江原氏が親切に昌清霊の言葉を解説してくれているように映ります。昌清霊と江原氏が同一人物であるなどとは想像もつきません。全く別の存在であると思ってしまいます。江原氏はこうした工作によって、昌清霊が自分とは別人であることを印象づけ、昌清霊言が高級霊からの通信であると思い込ませようとしたのでしょう。自ら演出しながら、それを別人として解説する、まことに狡猾なニセモノに対するカムフラージュです。ニセモノを本物らしく見せるための偽装工作です。しかし実情の分かる者には、冗談・滑稽(こっけい)としか言いようがありません。まさに“頭隠して尻隠さず”というのが昌清霊言なのです。

江原氏は、こうした幼稚な偽装工作を至るところで行っています。そしてさらに駄目押しでもするかのように、巻末でも長々と昌清霊言についての解説をしています。美しい言葉で、真実を語っています語る内容は「霊的真理」からの借り物ですから、正しいのは当然です)。しかし、それは言葉としては正しくても、江原氏の行為として見ればすべて“嘘”ということになるのです。

自ら昌清霊となって古代語でスピリチュアリズムの真理を語り、そして今度は江原氏本人になって解説する、こうしたカムフラージュが、この本のあちこちに見られます。それを一つ一つ指摘していたら紙面が足りなくなってしまうほどです。

ニセモノ・作り話を、さも本物らしく人々に示す、これが“昌清霊言”を通じて浮き彫りにされた江原氏の実態です。自らつくり出したニセモノを用意周到にカムフラージュし、徹底して本物のように見せようとしています。しかし、しょせん本物でないものは、どこかでボロを出すものです。嘘をつけばつくほど、自らそれを暴露することになり、自分の首を絞めるような状況がやってくるのです。

初めから人を騙(だま)すことを目的とした“ニセ霊言”

江原氏は、何のためにこんな馬鹿げたことをしたのでしょうか。その目的は一体何だったのでしょうか。昌清霊言は、霊的真理を知らない人々を騙すには、十分すぎるほど内容が充実しています。スピリチュアリズムとシルバーバーチの霊訓を材料としているからです。そしてカムフラージュも万全です。実に手の込んだ偽装工作を施しています。

江原氏がもし本当に、人々に霊的真理を教え、正しい生き方を伝えたいと思うのなら、こんな卑劣なことは決してしなかったはずです。本当に人々に幸せになって欲しいと願うのなら、これほどの不正を平気で行うようなことはできないはずです。

自作自演のニセ霊言を演出し、それを別の人間として親切そうに解説する、ニセモノを本物らしく見せるための徹底した工作をする、こうした事実は“昌清霊言”が、初めから人々を騙す目的でつくられたものであることを示しています。実際にはどの程度、人を騙そうという意思があったのかは分かりません。最初は軽い気持ちで、人々を騙して自分の名声が上がればいいぐらいに考えていたのかもしれません。それがだんだん煩悩が膨らんでエスカレートし、次々と不正を行うようになっていったのかもしれません。しかし、いずれにしてもでき上がった昌清霊言は、結果的に人々を騙す目的だけの“ニセ霊言”以外の何物でもありません。

霊的真理の理解が浅い人々が、こうした巧妙に仕組まれた罠(わな)(ニセモノ)にひっかかり、昌清霊言は素晴らしいと思い込んだとしても仕方がありません。人を騙すことを目的として用意周到につくられたニセ霊言に騙される人々を、責めることはできません。なぜなら嘘を見抜くのは、騙そうとする者以上の知識がなければできないことだからです。自分より知識のある者が狡猾な工作をしたときには、赤子の手をねじるように人々は騙されてしまいます。そうしたことを知りつくしたうえで意図的に不正を行うことは、霊的に最大の罪を犯すことなのです。

江原氏は、こんな嘘が、霊界の人々の前で通用するとでも思っているのでしょうか。何も知らない人々の目をごまかすことはできても、霊界の人々の目をごまかすことはできません。人々には“霊”だとか“守護霊”だとか言いながら、その実、江原氏自身は何もそれらを実感していないのです。だからこうしたことが平気でできるのです。実感も実践もともなわない、ただ言葉だけの知識を振りかざしているだけなのです。

幸福の科学のニセ霊言にも劣る“昌清霊言”

こうした昌清霊言の実情が分かってみると、これはまさに“インチキ霊言”としか言いようがありません。ニューズレターでは幸福の科学のニセ霊言を批判してきましたが、“昌清霊言”は、それに匹敵する低俗で悪質な霊界通信ということになります。両者の共通点は、作り話のニセ霊界通信ということです。

しかし昌清霊言は、見方によっては幸福の科学のニセ霊言よりも、もっと程度が悪いと言えます。それはスピリチュアリズムやシルバーバーチの教えが最高のものであることを知ったうえで、意図的にそれらを自分のニセ霊言の材料にしているからです。幸福の科学のニセ霊言は、誰が見ても初めからニセモノと分かるほど単純で幼稚です。それだけ同じ嘘でも根が浅いということです。昌清霊言の場合は、そうではありません。スピリチュアリズムやシルバーバーチが最高に霊的に高いものであることを知って、それを自分のニセ霊言の材料にしたのです。こうすればニセ霊言も、その内容だけは立派になります。そして多くの人々を、楽々と騙せるようになります。最高の材料を用いたことで人々は、“ニセモノ”を本物の霊言・高級霊の霊言と勘違いしてしまうのです。

スピリチュアリズムの「霊的真理」という最も神聖にして敬意を払わなければならない対象を、自分の私利私欲のため、自分の名声や人気取りのために悪用したことは、本当に大きな罪です。これは並(なみ)の嘘つきとは次元が違います。世間一般の低俗なニセ霊能者とも次元が違います。霊的真理を知ったことで、スピリチュアリストには大きな責任が生じています。一般の人以上に、厳しさが要求されるようになります。そのスピリチュアリストがこともあろうに真理を悪用し、最大の不正を犯したのです。一番大切にしなければならないものを平気で汚したのです。江原氏は“スピリチュアリズム”という最高に神聖な世界を踏みにじり、大きな裏切り行為を犯してしまったのです。

“嘘”を本物のように見せるタレント的才能――江原氏の行動の本質はタレント業

昌清霊言には、江原氏の著書やテレビでの言動に見られる特性が端的に示されています。人を騙して自分を売り込もうとする、他の一般の霊能者とは違うということを売り物にして人気と名声を得ようとする、そうした姿勢が現れています。他の霊能者とは違うということを人々にアピールするために、スピリチュアリズムの霊的真理を利用して人々が喜びそうな奇麗事(きれいごと)を並べ立て、平気で嘘を言うのです。江原氏はたびたび、真理の普及と人々の幸せを願っているかのような言い方をしていますが、内面の動機の不純さは、どのようにしても隠し切れるものではありません。

昌清霊言は、江原氏の本質を外部に暴露することになってしまいました。スピリチュアリズムの霊的真理をよく知らない大半の人々は、江原氏の隠れた部分には全く気がつきません。それどころか表面上の美辞麗句(びじれいく)だけに騙され、素晴らしい霊能者・人格者のように思ってしまいます。実際の江原氏を一言で言うならば――「神の目・霊界の目に忠実に生きようとするスピリチュアリストではなく、この世の人間の目とその人気を拠りどころに生きようとする単なるタレントである」ということです。常に人の目と大衆の人気を気にかけ、それを純粋なスピリチュアリズムの実践や内面的な成長よりも重視しているのです。

本物のスピリチュアリストならば、たとえ人々から拒否され嫌われても、また誰からも受け入れられなくても「霊的真理」の存在を訴え続けようとするでしょう。霊界の人々は、地上人に全く受け入れられない中でも懸命に働きかけを続けてきました。その結果、今やっと地上に霊的真理が伝えられるようになったのです。スピリチュアリズムの霊的真理の伝道は、世の人々の受け入れ状態によって左右されるものであってはなりません。誰からも受け入れられなくても、たとえ嫌われても、高級霊界の道具である以上、信念を持って耐え続けなければならないのです。それを、「人々から必要とされなくなったら自ら身を引きます」とかっこうをつけた言い方をするのは、彼がやってきたことの本質がタレント業・人気取り業だったからなのです。

“嘘”は隠し切れるものではない

江原氏の中に、純粋に内面的で謙虚に真理に従う姿勢は全く見られません。人々に真理を語るのは、すべて自分自身のためなのです。“昌清霊言”で見せた平気で嘘をつくこと、それを実に巧妙にカムフラージュする態度、嘘をどこまでも本物に見せかけようとする姿勢、巧みな話術でさも本物のように話すこと――これらは江原氏がタレントとしての才能に恵まれていることを示しています。

江原氏の最近の著書『スピリチュアルな人生に目覚めるために』(新潮文庫)には、自己正当化と自己弁護が美しい言葉・真実めいた言葉で延々と述べられています。それを見ると、本物のスピリチュアリズムの歩みから外れた結果、自ら招いた破綻とそれにともなう路線変更を、どこまでも正当化しようとあがいているように映ります。「霊的視点」から見れば、江原氏は霊能者という立場に固執し、自己顕示欲に駆られて、初めからボタンを掛け違えていたのです。真理と一致しない部分が、時間とともに表面化するようになったということです。もし江原氏が、初めから霊界の道具に徹し、シルバーバーチのPRに専念していたならば、現在とは全く別の道をすっきりと歩めたはずなのです。

江原氏がこれまでの歩みをどれだけ自己正当化しようとしても、スピリチュアリズムを自己の名声・人気取りのために利用した事実は隠し切れるものではありません。

江原氏の主張する実践とは何? 真理を伝えたいとの真意は何?

江原氏は最近、「実践が大切」と声高(こわだか)に叫んでいます。しかし江原氏自身の実践とは、一体何だったのでしょうか。昌清霊言の中に見られるような、嘘で人を騙し、その嘘を巧妙に隠し通すことだったのでしょうか。

江原氏はまた、「真理を伝えることが自分の使命だ」と盛んに言っています。しかし嘘を隠蔽(いんぺい)してまで本物らしく見せようとする態度のどこに、真理を本当に伝えようとする誠意や真実があるのでしょうか。心の底から人々に真理を伝えたいと思うのなら、“シルバーバーチ”という本物を人々の前にストレートに紹介すればいいだけなのです。自分流のアレンジそれを江原氏は「米ではなくおかゆにする」と言っています)が、より広く真理が受け入れられる良い方法だなどと考えることは、霊的真理に対する傲慢さ以外の何物でもありません。

江原氏は、『スピリチュアルメッセージⅠ』の“あとがき”で次のように述べています――「過去においても、霊訓と呼べるさまざまなメッセージが、その時代、時代に合わせてこの世にもたらされてきました。それらのメッセージは主に西洋からのものでした。その先人達の素晴らしい言葉の数々を広めることも大切ですが、今この時代を考えるとき、昌清霊たちの語りかけてくる声は、私たちの心により深く響いてくると感じられます。きっとそれは昌清霊たちのメッセージが、まさにこの時に、この日本へ伝えられてきたものだからでしょう。」

シルバーバーチから盗み取ってつくり上げた自作自演のニセ霊言が“昌清霊言”でした。それを考えると、ここで述べている江原氏の言葉は、彼の偽善性をズバリ示しています。ニセモノを本物に見せかけようとするカムフラージュの最たるものが、ここに現れています。江原氏が、人々の関心をシルバーバーチから逸(そ)らせ、昌清霊言に向けさせようとしている意図がはっきり見て取れます。

人を騙せるのは今しばらくのうちだけ

江原氏はテレビで、多くの心霊知識を語り、親切そうに弁舌さわやかに愛を語り、にこやかに人格者・善人を装い、素晴らしい霊能者を演出します。しかし江原氏は、人々をあまりにも舐(な)め切ってきたようです。簡単に騙せると高(たか)をくくってきたのでしょうが、嘘はいずればれてしまうものなのです。テレビでの透視・霊視といったパフォーマンスは、昌清霊言と同様、目のある人からすれば嘘であることは一目瞭然です。天国からのメッセージも、部分的な霊的情報だけを手がかりとした作り話であることは見え見えです。

彼の本に目を通すたびに、テレビでの様子を見るたびに、スピリチュアリズムを知った者がよくもこれほど平気で嘘をつき、不正を行えるものだと感心してしまいます。江原氏の周りにいる霊達は当然、江原氏の不純な動機と心のうちのすべてを見通しています。そしてスピリチュアリズムの真理を知っている地上の人々も、最初からその不正を見抜いています。

言うまでもないことですが、霊界では心の動機が残らず明らかにされ言い逃れできなくなります。人々を騙したこと、しかも“スピリチュアリズム”という最も貴重な人類の宝を使って騙し、この世の名声獲得のために悪用した罪は決して見逃されることはありません。江原氏が本当に「霊的真理」を実感していたなら、これほど愚かなことはしなかったはずです。

いずれにしても江原氏が騙すことができるのは、霊的真理を知らない人間だけです。しかしそうした人々も、シルバーバーチなどの本物の真理を正しく理解するようになると同時に、簡単にその嘘を見抜くようになります。現にこうした人々が、私達のところに次々と質問を寄せてきているのです。

昌清霊言の中で行われた嘘と手の込んだカムフラージュ・偽装工作は、スピリチュアリズムを口にし、スピリチュアリズム研究所を主宰する人間がすることではありません。日本に『シルバーバーチの霊訓』を広め、本物のスピリチュアリズムを知って欲しいと願ってきた私達にとっては、江原氏のしたことは本当に恥ずかしく残念に思います。時間が経つにつれ、いずれニセモノは消滅し、本物だけが広がっていくようになります。“スピリチュアリズム”は、すべて霊界からの働きかけによって進められている大プロジェクトだからです。

どうして霊界の人々の悲しみが分からないのか

江原氏のこうした実態を見るたびに、シルバーバーチの次のような言葉が思い出されます――「せっかく目星をつけた霊能者がどこまでこちらの期待に応えてくれるかは、前もって判断できるとは限らないからです。最後の段階で堕落して使いものにならず、何十年にもわたる努力が水の泡となることがあります。」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.418)

「上層界の高級霊が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を、時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間界の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚めてくれる日が来ることを祈りつつ、眺めているのです。」『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)  p.95)

江原氏は、こうした霊界の人々の悲しみを、少しでも理解できているのでしょうか。自分のしていることが、霊界の人々の誠意を裏切り、踏みにじっていることが分かっているのでしょうか。自分の守護霊が、どれほど悲しんでいるのか分かっているのでしょうか。スピリチュアリズムを進めている霊界の人々の真剣さ・誠実さ・自己犠牲の実際を知っていたなら、こうした馬鹿げたことは絶対にできなかったはずです。この世の人間でさえしないことを、スピリチュアリズムに出会いながらも平気でする、これによって江原氏は、霊界について、愛について語る資格を自ら放棄しているのです。

江原氏にもあった一時(いっとき)の純粋さ

どうして江原氏は、これほどまでにスピリチュアリズムから外れてしまったのでしょうか。江原氏は、初めからこうした人間だったのでしょうか。私達と同じスピリチュアリストが、初めからここまで利己的な人間であったとは思いたくありません。

江原氏の初期の著書『人はなぜ生まれ、いかに生きるのか(自分のための「霊学」のすすめを改題)』(ハート出版)は、数ある江原氏の本の中で、唯一まともさが残っているものです。もちろんその本に書かれている内容のすべてが正しいわけではなく、多くの間違いも見られます。しかし、その本が唯一まともであると言えるのは、その中に、江原氏がシルバーバーチの霊訓と出会った感動が率直に述べられ、シルバーバーチから初めて納得のいく真理を教えられたことを明らかにし、それによって霊界の道具として生きようとした決意が述べられているからです。もっとも今となっては、それを書いたことを後悔しているかもしれませんが……

江原氏はその本の中で――「シルバーバーチの霊訓には、人はどう生きるべきかという教えが書いてあり、それを読んで感動した」と述べています。さらに――「シルバーバーチの霊訓を読んでいくうちに、今までの人生に起こったことの意義が理解できるようになり、すべての出来事には目的があり、自分はその目的を達成すべく生まれてきたことを初めて悟った」と述べています。また「再生のこと、因果律のことが初めて理解でき、涙をこらえることができませんでした」とも言っています。(47~48頁)

江原氏はシルバーバーチと出会うことで、初めて心の底から納得のいく霊的真理を学ぶことができたのです。昌清霊言の中で取り上げられている霊的真理の内容は、江原氏がシルバーバーチと出会うことによって学んだものなのです。

江原氏は『人はなぜ生まれ、いかに生きるのか』の中で、昌清霊が初めて現れたときのことを述べています。心霊現象に悩まされていた江原氏に、昌清霊は――「霊能開発のためにまず身体を整えよ。そして力を養い、知能も人格も霊能者たる高尚なる発達に向かうべし」と告げたそうです。

それでも江原氏は霊能者として生きる決心はつかず、自分の生い立ちや人生のさまざまな出来事に疑問を感じながら毎日を過ごしていたとき、『シルバーバーチの霊訓』と出会ったと言っています。そして先に述べたように、心から納得できる真理を手にすることができたのです。江原氏は――「シルバーバーチという一冊の本が、私にすべての答えをくれた」と書いています。(46~49頁)

つまり江原氏にとって、昌清霊との出会いはシルバーバーチを知る以前からあったのですが、昌清霊は江原氏に真理を教えたことは一切ないのです。江原氏は、シルバーバーチによって感動し、得心し、生きる道を定めたということです。江原氏は、自分がここまではっきり書いていることを忘れてしまったのでしょうか。

江原氏は――「私の人生のすべての指針は、霊能力そのものではなく、霊能力を使って得た人生哲学、すなわち霊的真理なのです」『スピリチュアルな人生に目覚めるために』(新潮文庫)  p.23)と言っていますが、これは全くの欺瞞(ぎまん)です。

『人はなぜ生まれ、いかに生きるのか』の内容でもう一つの評価できるところは、江原氏が「霊界の道具として生きよう」と決心を固めた点です――「私はもう、霊界の道具にすぎないのです。道具に我はありません。これからの人生、霊界に望まれたことは素直に受け入れて生きようと思ったのです。」(64頁)「共に世のため人のためにと、神の道具として真理を人々に伝えられる日の来ることを(中略)心から願っているのです。私は、スピリチュアリズムを通して霊的真理を普及いたします。」(68頁)また「謙虚に霊界の道具である身を自覚し、真理を学ぶ者として人々にそれを伝えるしもべでなくてはなりません。」(143頁)江原氏はこのように、純粋に霊界の道具として生きる決心をしたのです。

この本の中で江原氏が述べたシルバーバーチとの出会いの感動、初めて納得できる真理が与えられた喜び、霊界の道具としての決意――これらはどれも、当時の江原氏の“真実の声”であったと思います。しかし、そうした謙虚さと純粋な決意はその後、時間の経過とともに失われていきます。そして、とうとう“昌清霊言”というニセモノをつくって人々を騙すといったところにまで堕ちてしまいました。江原氏は、シルバーバーチから学んだ知識を昌清霊に語らせ、その事実を隠し、日本には“昌清霊”という高級霊が現れたのだと嘘を重ねてきました。

もし江原氏が、シルバーバーチに出会ったときに決意した純粋な道具意識に徹し切っていたなら、こうした醜い行為に走ることはなかったでしょう。彼はいつの間にか、霊界中心ではなく自分中心へと変わってしまい、それにともなってどす黒い煩悩(ぼんのう)に巻き込まれてしまったのです。

「何を語るか、何を書くかではない」――言葉より実際の行為がすべて

スピリチュアリズムが明らかにした霊的生き方の核心は、「実践こそすべて」ということです。「何を語るか、何を書くか」ということではなく、「実際の行為こそが、その人間の真価である」ということです。江原氏は美しい言葉で霊的真理について述べ、滑(なめ)らかな口調で愛の重要性について語ります。しかし江原氏は、その一方で嘘をつき、その嘘を本当らしく見せることによって人々を騙してきました。これが江原氏の現実の行為であり、真実の姿なのです。

江原氏の著書やテレビでの発言の間違い・問題点を数え上げたらきりがありません。今回のニューズレターでは、その中から“昌清霊言”に絞って取り上げました。

江原氏には「最初の純粋な道具意識を維持してもらいたかった」――これが私達が江原氏の姿を見るたびに思うことなのです。現実の江原氏の行為は、道具意識や愛や謙虚さからは、最も懸け離れています。何も真理を知らないこの世の人々にも劣ります。それでいながら人々の人生相談に乗り、霊的真理を語って導こうとしているのです。“泥棒”をしている父親が、自分の子供に「正しく生きよ」と言っているのと同じことです。何を言うかではなく、どのような行動をするかなのです。重要なのは言葉ではなく、実際の行為なのです。

最後に

私達は、自ら多くの貢献・利他愛実践のチャンスを捨て去った江原氏に、心の底から同情しています。本当に気の毒な人だと思っています。私達はこれまで、江原氏が一刻も早くスピリチュアリストとしての純粋さを取り戻して欲しいと祈り続けてまいりました。今回のニューズレターで江原氏の問題を厳しく取り上げたのは、江原氏にはそれだけ大きな責任があったからなのです。それだけ霊界の道具として期待されていたからなのです。それなのに江原氏は、人に道を説き、人生を導こうとする人間としてあってはならない方向にはまり込んでしまいました。

本来ならば私達と江原氏は、スピリチュアリストの同志として「霊的真理普及」のために協力し合う関係にあったはずです。それが霊界の願いであったと思います。残念ながら今の江原氏は、自分の著書で盛んに批判している外部のニセ霊能者・低俗霊能者とまるで同じことをしています。

江原氏にはもう一度、ゼロからやり直していただきたいのです。そのためには“スピリチュアリズム”を利用して得たこの世の富や名声を、自らの手で捨て去らなければなりません。それが“罪の償い”というものなのです。江原氏の猛省と再出発を心から願っています。

視聴率の奴隷(どれい)と化した民放テレビ局――公器としての最低の義務と責任を果たすべき

心霊に関する世界では、常に詐欺やペテンといった不正が付きまといます。ニセ霊能者が不正を行うことで、良識ある人々に“スピリチュアリズムはインチキだ”との疑いを引き起こしてきました。霊界あげての最も純粋な人類救済活動が、一部の悪質な人間によって汚されてきたのです。

そのためこれまでスピリチュアリズムでは、ニセ霊能者を自らの手で摘発しようとしてきました。シルバーバーチの霊媒であったバーバネルもその一人でした。スピリチュアリズムの歴史は、ある意味でニセ霊能者との闘いでもあったのです。私達は、日本のスピリチュアリズムにおいては、決してそういうことはあって欲しくないと願ってきました。

しかし、江原氏をはじめとするテレビでの心霊番組を見るたびに、“視聴率の奴隷”となっている民放テレビ局の浅ましさ・醜さ・無責任さを痛感します。視聴率を上げるためなら何でもありの姿勢を見ると、まさに大衆に迎合したエゴ意識しかないことが分かります。そうしたテレビ局には、公器としての責任意識のひとかけらも見出せません。もはやテレビ局には、政治家の不正をあれこれ非難する資格などないと言えます。

テレビ局に対しては、心霊番組を放送する際には、必ずその信憑性をチェックして欲しいと思います。そうでないならテレビ局自体が、詐欺の片棒を担ぐことになってしまいます。信憑性をチェックすることは、公器としての最低限の責任なのです。

最近の心霊関係の番組7月28日放映“アンビリーバボー”)で、ロシアの透視少女ナターシャ・デムキナが取り上げられました。その際に彼女は、3人の懐疑派の人間から厳しいチェックを受けました。せめて各放送局は、江原氏をはじめ自称霊能者を番組で取り上げるときには、この程度のチェックをすべきなのです。もし、こうした最低限のチェックをしていたなら、江原氏の信憑性についても簡単に結論を出せたはずです。テレビ局は、自らにそうした義務を課してこそ、公器としての責任を果たすことができるのです。

視聴率稼ぎだけにとらわれ、“真実かどうかはどちらでもいい”というようなあまりにも低俗な番組は、一刻も早くやめてもらいたいものです。