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地球人類の悲劇・不幸を、自分の問題として考えましょう――

「霊的無知」から発生した2つのガンと6つの悲劇

6.悲劇 <3>――間違った宗教による霊的弊害

本来の使命を果せなかった地上の宗教

地球上を支配する3番目の悲劇は、間違った宗教による霊的弊害です。宗教は本来、人類に霊的真理を示して霊的人生を歩ませ、霊的成長をもたらすことを目的としています。宗教の役割は、「霊的恩恵を地上人にもたらす」ということに言い尽されます。こうした宗教本来の目的からすると、これまで地球上に存在してきたほとんどの宗教は“失格”ということになります。人類の霊的成長に全く役に立っていないどころか、反対に霊的成長の道を妨げてきました。

「地上にはこれまであまりに永い間、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教が最も大事にしてきたものは、実質的には何の価値もありません。過去において流血・虐待・手足の切断・火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を1インチたりとも増しておりません。逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、はては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかり行ってきました。神の子等を一つに結びつけることに失敗しております。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)  p.216〜217

いずれの教理宗教も、霊界から送られてくる“インスピレーション”から始まっています。インスピレーションを通じて示された教えの中には、霊的真理の一部分が含まれていました。しかし手にした霊的真理は人類を正しく導くにはあまりにも部分的にすぎ、またそうしたわずかな真理さえも地上人のエゴや無知によって歪(ゆが)められ、インスピレーションとしての純粋さが失われてしまいました。やがてそれは宗教組織に都合のいいものへと手が加えられ、人間の霊的成長とは全く無関係な人工の教義につくり替えられていくことになりました。

霊界から見ると地球上のすべての宗教は、その目的を果していないどころか人々に憎しみや迷信を植えつけ、霊的成長とは反対方向に導き、ひいては戦争という人殺しを引き起こす張本人となっています。

「一つは伝統的宗教です。宗教的な有り難い教えを継承しているつもりでしょうけれど、肝心な宗教としての機能を果しておりません。本当の宗教とは大霊との絆を結んでくれるものでなければなりません。なのに、この国の宗教はもはやその役目を果しておりません。かつては基盤となっていたインスピレーションはとっくの昔に教会から追い出され、代わって教義と信条とドグマと儀式のみが残っております。

こうしたものは宗教とは何の関わりもないものばかりです。大霊に近づけるという宗教の本来の目的には何の役にも立たないからです。」

『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版)  p.144

「間違った教義」がもたらす霊的弊害

現在の地球上の大半の宗教は、人類に霊的幸福をもたらすのではなく、悲劇と不幸をもたらす加害者となっています。その悲劇は、人工の間違った教義によって引き起こされています。まさに宗教は、人類の魂にとって害毒・ガンと言ってもいいような存在です。間違った教義によってもたらされる「宗教の霊的弊害」を整理すると、次のようになります。

  1. 人工的教義が、人々を霊的真理とは無関係な方向に導き、霊的成長の道を閉ざし、霊的牢獄の中に閉じ込めている。(霊的牢獄)
  2. 人々の心に、人工的教義によって独善性・偏狭性・憎しみ・排他性を植えつけ、利他愛とは逆の利己愛を増幅させ、霊的成長を阻害している。(霊的成長の阻害)
  3. 間違った教義が、異なる宗教との間に対立を発生させ、戦争を引き起こしている。(争い・戦争の原因)
  4. 人工的教義に基づく狂信が死後も持ち越され、人間を地縛霊に陥らせて、暗黒の地獄のような状況をつくり出している。そして霊界の人々に、地縛霊のケアのために多大な負担と苦労をかけている。(霊界での地獄状態の形成)

「教義による束縛は地上世界の苦痛のタネの一つです。伝染病や不健康より厄介です。病気による身体上の苦痛よりはるかにタチが悪いものです。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠しをしてしまうのです。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.135

「教義というものは例外なく魂にとって足枷(あしかせ)となるのです。(中略)教義の名のもとに同胞を殺し、教義の名のもとに同胞を焼き殺した歴史があります。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、その自由な発想を妨げるものはすべて一掃しなくてはいけません。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.148

「盲目性」という信仰の本質的要素

宗教や信仰の本質は“信じる”ということです。理性・知性の次元を超えて、教えと信仰対象を、無条件に全面的にすべて受け入れるのが信仰であり宗教なのです。この点で思想や哲学・学問とは根本的に異なります。こうした「全面的受容性・盲目性」がなければ信仰とは言えません。“神仏への帰依”という言葉は、信仰の本質をよく言い表しています。信仰とは、教義と信仰対象を心の底から信じ、すべてを丸ごと受け入れ、自分自身を信仰の対象に捧げ、それに近づくための実践に専念することに他なりません。信仰にはこうした真剣さがともなう分だけ、自分の宗教とは無関係な人間に対して排他性が生じやすくなり、妥協性や寛容性が欠如する傾向が強くなります。

熱心な信仰者にとっては自分が崇拝している信仰対象が一番であって、自分のしていることは世の中で最も価値あることであるとの確信を持っています。もしそうした信念がなければ、人生を懸けた純粋な信仰は成立しません。「自分は正しい、自分は一番である」という信念こそが、信仰を支える本質なのです。

信仰にはこうした盲目的と言ってもいいようなエネルギー集中がともなうために、普通ではできないことができるようになったり、自己の殻を破って飛躍することが可能となるのです。大きな魂の飛躍をもたらすことができるようになるのです。しかし同時に、それは一歩方向を間違えると凶器となって、本人ばかりか周りの人々をも傷つけ滅ぼすような恐ろしい結果を生むことになります。

信仰の純粋性と、教条主義・原理主義

信仰における「盲目性」は、信仰者にとっては純粋性・熱意・真剣さに他なりません。しかし、それは信仰をしていない外部の人間には“狂信”として映ることになります。自分の信仰に真剣であればあるほど教えに忠実でありたいと思い、教えを厳格に守ろうとします。それを部外者から見ると“教条主義・原理主義”ということになるのですが、信仰をしている当事者にとっては教条主義とか原理主義といったものは存在しません。あるのは、ただ「熱心さ・真剣さ・忠実さ」という信仰的徳だけなのです。教条主義・原理主義という言葉は、外部の人間がある人間を非難するために用いる常套句(じょうとうく)です。自分とは無関係な宗教者に対するラベル貼り・レッテル貼りなのです。

信仰の部外者からすれば、熱心な信仰者は皆、教条主義者・原理主義者ということになってしまいます。しかし熱心な信仰者からすれば、周りの者達や非難する者達は、ただの不信仰者ということになります。熱心なクリスチャンやイスラム教徒からすれば、大半の先進国の人々や日本人は、不信仰者以外の何ものでもありません。

宗教による人間の心の支配と「霊的牢獄」

信仰にはエネルギー集中という「盲目性」が不可欠であることを述べましたが、それは見方によっては、目指す方向が正しければ飛躍的な発展(霊的成長)という霊的恩恵がもたらされることを意味します。しかし方向を間違うと、限りなく霊的成長から外れていくことになります。このように信仰は“両刃(もろは)の剣(つるぎ)”といった性格を持っています。問題は「方向性が正しいかどうか?」という一点にかかってきます。

信仰の方向性を決定するのは、その宗教の教義の内容であり、指導者や組織の掲げる目標です。結論を言えば、これまで地球上のすべての宗教は「霊的真理」に対する“無知”から、正しい方向性を示すことができませんでした。間違った方向に人々を導いてきました。信仰の「盲目性」という特徴を、霊的成長に結びつけることができなかったのです。それどころか霊的成長とは全く逆のマイナスの方向、霊的成長を妨げる方向に人々を向かわせてきました。

信仰は人々の心を強く支配します。そのためいったん間違った宗教を信じ込むようになると、その間違いに気がつくことができなくなります。信仰熱心な人であればあるほど、真剣な人であればあるほど、自らを「霊的暗闇・霊的牢獄」の中に閉じ込めることになってしまいます。そして一人の力では、そこから容易に抜け出すことができなくなります。「霊的真理」が絶対的な基準となっている霊界から見ると、キリスト教・イスラム教・ヒンズー教、その他ありとあらゆる地上の宗教は方向性が間違っています。そして人々は、その間違いに気づくことなく霊的牢獄の中にとどまり続けています。間違った宗教の教えに従い、大切な地上人生を無駄に過ごすことになっています。霊界に行って初めて、地上での信仰の間違いを悟り、後悔するといった人々があまりにも多いのです。

また、稀(まれ)に自分の信仰の間違いに気がつく人もいますが、長い間信じてきた信仰や宗教組織から離れることには恐怖がともないます。その宗教に背くと地獄に堕ちるといった教義に引きずられ、これまで通り霊的暗闇の中で一生を終えることになります。

「私たちは物質の子等がいかにして魂の自由を獲得し、いかにして霊的真理の光に浴し、いかにして教義の足枷を解きほどくかをお教えしたいと思っているのです。もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教の虚飾に目を奪われたら最後、霊的真理の光がその厚い迷信の壁を突き通すまでには大変な時間を要するものだからです。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.123

「大霊の息のかかった叡智が無限にあるというのに、人間の浅知恵がこしらえた教義にしがみつこうとする人がいます。牢の中にいた方がラクだと思う人がいるものなのです。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.135

宗教につきまとう“エゴ性”

戦争とは、一言で言えば互いの正義の主張による衝突です。それぞれが自分の正義を主張して譲らないとき、最終的に戦争に至ります。これは別の言い方をすれば、「エゴとエゴのぶつかり合い」ということです。自分だけが正しくて相手は間違っているという姿勢は、民族のエゴであり、国家のエゴであり、一人の独裁者のエゴです。

そして宗教同士の戦争も、自分達が正義で相手は間違っているという“宗教エゴ”から発生します。ただし宗教エゴは、民族エゴや国家エゴとは違った一面を持っています。それは宗教的感情・信仰的盲信という宗教に不可欠な強烈な要素によってつくられているという点です。

信仰における「盲目性」という本質をしっかり押さえておかないかぎり、宗教について正しく論じることはできません。宗教に盲目性がともなうということは、自己の信仰に反対する者、また批判する者は、自動的にその宗教にとっての敵となるということを意味します。信仰に基づく盲信性は、自分達だけが正しいとする正義心をつくり出し、自分達以外の者を“敵”あるいは“不信仰者”と見なすようになります。信仰や宗教には、このような偏狭性、ある種のエゴ性が初めから付きまとっているのです。

こうした宗教の盲目性を利用すれば、宗教指導者は、いとも簡単に信者を操ることができるようになります。“組織”を絶対善とし、それに忠実に従うことが正しい信仰であるかのように洗脳することもできます。また他の宗教と戦うことが正義であるかのように信じ込ませることもできます。イスラム教における自爆テロは、まさにこうした間違った教義と組織のエゴによって起こされているものなのです。宗教のエゴ性は、組織を通じていっそう増幅されることになります。

宗教は、戦争を引き起こす“元凶”

宗教や信仰の本質について知らない人々は、なぜ宗教が暴力的になり戦争を引き起こすのか、疑問に思います。寛容・博愛・平等を唱える宗教こそ、人類を永遠の平和に導くものではないかと考えるのです。

しかし現実を見れば分かるように、地球上の紛争・戦争の多くに宗教が絡んでいます。歴史を振り返ると、宗教同士の戦争のあまりの多さに驚かされるはずです。宗教に不可欠な盲目性という特性を考えると、宗教だからこそ、いとも簡単に戦争を引き起こしてきたのだと理解することができます。

歴史的には数え切れないほどの宗教間の戦争が存在しています。代表的なものでは、キリスト教徒とイスラム教徒の十字軍戦争1096〜1270年のキリスト教軍の遠征)を挙げることができます。また17世紀のキリスト教の旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の戦い(三十年戦争)も、その残虐性で筆頭に挙げられます。このキリスト教内部の新旧の戦いによって、当時のヨーロッパの人口の30%が失われたと言われます。現在の北アイルランド紛争は、この新旧のキリスト教の対立が現在まで持ち越されたものです。

21世紀の地球上でも、実に多くの宗教による紛争・戦争が存在します。パレスチナにおけるユダヤ教とイスラム教の戦い、カシミール地方(インドとパキスタン国境)のヒンズー教とイスラム教の対立、イスラム教内部のスンニ派とシーア派の対立抗争、スーダンのキリスト教とイスラム教の対立抗争、インド国内のヒンズー教とイスラム教の対立などで、毎日殺し合いが行われています。

間違った宗教が引き起こす霊界下層での地獄化

地上の間違った宗教は、さらなる厄介な問題を霊界にもたらすことになります。地上時代に間違った宗教に洗脳され、一歩もそこを抜け出ることができなかった人は、死後も間違った信仰をそのまま持ち続けています。死後も“生きている”と思い込んで、地上時代の信仰を一生懸命続けることになるのです。こうした“地縛霊”が霊界下層に集まって、地上世界の宗教を再現しています。そして地上の同じ信仰者に向けて、有害な影響力を及ぼしています。

また地上時代に間違った宗教を固く信じてきた人は、偏見を持ったまま霊界入りします。すると間違った知識が、霊界という新しい環境に自らをなじませることを妨げるようになります。地上で学んでおくべきであった基本的な霊的知識を全く知らない人間は、霊界に入ってゼロから学び直さなければならなくなります。このため霊界の人々に多大な苦労をかけることになるのです。

スピリチュアリズムによる「霊的真理の普及」は、間違った宗教を地上から一掃する

現在の地球上の宗教は「霊的無知」であるため、人類に幸福をもたらすどころか、反対に悲劇・不幸に追いやってきました。大半の宗教は、人類にとって有害なものなのです。地球上から宗教が消滅すれば、人類はもっと幸福になることができるはずです。戦争が起きると、その原因が政治の分野に求められますが、本当のところは政治よりも宗教に原因があることが多いのです。

スピリチュアリズムは、人類に霊的真理と霊的事実を示すことによって、信仰的情熱をより広い霊的同胞世界に向けさせます。「霊的真理」によって地上の全人類が強い「霊的同胞意識」を持つようになれば、これまで地球人類を悩ませてきた民族エゴ(民族主義)や国家エゴ(国家主義)・宗教エゴの壁を見事にクリアすることができるようになります。宗教が民族エゴや国家エゴに利用されてきた歴史に終止符を打つことができるようになります。これまでの間違った宗教が地球上から一掃されれば、多くの戦争はその原因を絶たれることになるのです。

スピリチュアリズムによる「霊的真理の普及計画」は、地上から間違った宗教を消滅させ、人類を霊的弊害から解放し、宗教による戦争を根絶することになります。

「その仕事の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。誤った教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.40

7.悲劇 <4>――精神の堕落・心の危機

伝統的宗教の衰退と、霊的奴隷状態からの解放

長い間、キリスト教に代表される伝統的宗教は、人々を霊的牢獄の中に閉じ込め、霊的奴隷状態に陥れてきました。しかし18世紀の英国に端を発した産業革命は、技術革新と経済発展をもたらし、それまでの宗教の独裁状況を根底から揺さぶることになりました。特に19世紀以降の科学技術の進歩は、宗教の支配力を大きく後退させることになりました。

これまでヨーロッパを支配してきたキリスト教の権威は地に墜ち、多くの人々は教会から遠ざかるようになっています。アメリカのキリスト教はヨーロッパに比べ、現在も依然勢力を保っていますが、それも次の世代にはヨーロッパと同じような衰退状況を迎えることになるでしょう。こうしたキリスト教に対し、最後まで大きな宗教的権威を保ち続けることになるのがイスラム教です。しかし、それも今後の経済発展と科学技術の浸透とともに徐々に揺らぎ、やがてはキリスト教と同じ運命をたどることになります。

伝統宗教の崩壊によって、これまで人々に多大な悪影響を及ぼしてきた数々の霊的弊害は取り払われることになります。その意味で地上の宗教伝統宗教に限らず新興宗教も含め)が崩壊することは、人類にとって大きな朗報と言えます。宗教的束縛から解放されることによって人間は、「霊的成長」という最も重要な道を自由に歩めるようになるからです。霊的な束縛が断ち切れることは、人類にとって歓迎すべきことです。

宗教的重石(おもし)がなくなったために「肉主霊従化」が加速

間違った教義による束縛から解放されたのはよかったのですが、その一方で宗教の重石が取り外されたために、人間は一気に「肉主霊従」の方向に走るようになってしまいました。これまで宗教によってある程度まで抑制されていた“物質主義・本能的快楽主義”が、大手を振るうようになりました。そして人間は急速に“利己主義”を加速させ、野獣化するようになってしまいました。

物質主義の支配が拡大するにともない、人間の心は危機的状況を迎えるようになります。宗教の権威がなくなった現在、信仰の支配が当たり前であった時代と比べ、人々の心は荒廃し、心の拠りどころを失って不安・絶望の中に立たされるようになっています。伝統的宗教の衰退による霊的奴隷状態からの解放は、「精神的堕落・心の危機・心の地獄」という新たな問題を生み出しています。

日本人の場合は、敗戦によってそれ以前の道徳心や道徳的規律が失われて、急速に「肉主霊従化」が進みました。そして時間の経過とともに、本能だけに支配された日本人が社会にあふれるようになりました。

現代人の心の危機

「肉主霊従」に陥った現代人の心(精神)の危機とは、具体的には――「本能に翻弄(ほんろう)された人生しか送れないようになる」「利己愛しか持てず、本当の人間関係を結べなくなる」ということです。こうした精神の荒廃は、心に痛み(不安・恐れ・絶望・悲しみ・虚しさ)をもたらすようになります。人間は自分自身が招いた心の不調和によって、自らの人生を“地獄状態”に追い込んでいくようになるのです。

そうした人々は、霊的成長のために与えられた地上人生を何一つ生かすことなく無駄に過ごすようになります。そして死後、霊界に行ってからも、霊界への適応性の欠如や利己的行為に対する後悔という形で、さらなる苦しみを持つことになります。地上人生での「心の危機」は、こうして霊界での悲劇をも増大させることになっています。

本能に翻弄される人間

肉主霊従の状態に陥った人間の特徴は、「肉体本能に支配されるようになる」ということです。本能的衝動に駆られて行動するようになり、感情も行動も自分の理性でコントロールできなくなります。衝動がむき出しとなり、まさに動物に等しい存在に成り下がってしまいます。

また常に本能の満足を求め、自分の物質的利益の獲得を優先するようになります。そのため自分に協力的な人間だけは大切にし、そうでない人間に対しては冷たく無視するといった態度をとるようになります。自分に快楽や利益をもたらすかどうかだけで周りの人間の良し悪しを判断し、自分の欲望達成を妨げる者に対しては、敵愾心(てきがいしん)を持って攻撃的に出るようになります。そして自分の悪いこともすべて他人の責任にし、決して自分が悪いとは認めようとしません。周りの迷惑もかまわず、「自分だけがよければそれでいい」といった極端に身勝手な言動をするようになるのです。

本能に翻弄された人間は、“利己愛”に支配されるようになります。利己愛に支配された人には、次のような共通性が見られます。

利己愛者の特徴1――極端な見栄・自己顕示欲・自信過剰・誇大妄想

肉主霊従の状態に陥るということは、愛の点から言うならば「利己愛に支配されるようになる」ということです。“利己愛”とは、自分が一番かわいい・自分だけが大切という思いのことです。周りの人々から、ひたすら愛されたい・ほめられたい・持ち上げられたいと切望することです。それはときに、多くの人々を自分の思うように操りたいという支配願望を生み出すことになります。

そのような者が結ぶ人間関係は、すべてが自分中心となります。自分に愛を与えてくれる人間だけを求めるようになります。相手の人間は、自分に仕え讃辞を贈ってくれるときにのみ重要性を持ちますが、そうでないときは全く価値がないことになります。

こうした“自己中心愛・利己愛”に支配された心は、常に自分は他人より偉大な人間であらねばならないとの「見栄」や「自己顕示欲」「過剰な自信(自信過剰)」「誇大妄想」を生み出すことになります。そして絶えず自画自讃を繰り返し、他人に自分の自慢話を聞かせるようになります。決して人の意見など聞こうとはせず、ひたすら周りからの称讃を求め続けます。自分のプライドを傷つけたり、自分を無視するような人間には、なりふりかまわず非難・攻撃に出るようになります。

利己愛者の特徴2――強いコンプレックスとプライド・過剰反応・傷つきやすさ

利己愛に支配された人間は、心の内に全く正反対の思いを同居させるようになります。外面上は強気で自信ありげに振舞い、決して他人に従おうとしない強情さ・傲慢さを示します。しかし内面では、自分の能力のなさと弱さを嫌というほど自覚しています。自分の思うようにならない現実を前にして、プライドは傷つけられ、人によっては強いコンプレックスを内在させるようになります。とは言っても「何とか自分を人によく見せたい」との極端な見栄と自己顕示欲が、うわべは強気で自信ありげな態度をとり続けさせることになります。

一方、現実の力関係で自信が崩れるようになると、外面上の強気は一転して強い自己否定やひがみ・逃避指向・閉じこもりといった方向に走るようになります。周りの人々とは会わないようにして、自分ひとりだけの心の砦(とりで)をつくり、そこに閉じこもって自分のプライドを保とうとします。自分よりも能力のある人とはできるだけ会わないようにします。心はほんの些細(ささい)なことでも傷つきやすくガラスのように脆(もろ)くなり、コンプレックスで自分自身の首を絞めるようになります。ちょっとした言葉を自分への攻撃と勘違いして過剰反応し、被害妄想に陥りやすくなります。

自信過剰と傲慢さ、そしてコンプレックスによる引きこもり・傷つきやすさという両極の性向が“利己愛”に支配された人間の特徴です。現実には何も行動できない若者が、ネットの掲示板で必死に自己主張している様子は、まさに利己愛に支配された心の荒廃状況を示しています。そうしたことでしか自分自身の存在を実感できないのです。

利己愛者の特徴3――虚しさを忘れるための行動に走る

利己愛に支配された人間は“霊的エネルギー”を枯渇させるようになり、心は常に虚しくなります。そしてその苦しみから逃れ、自分自身の生きがいを実感したいという欲求が強くなっていきます。多くの現代人は虚しさを忘れるために、いつも楽しみや感動体験を追求しています。楽しいこと・感動的な出来事を通して、心の虚しさを忘れようとしているのです。

現代人は常ににぎやかな所を好み、お祭り騒ぎを好み、ギャンブルや酒やドラッグに走り、スポーツ観戦に熱中します。ゲームの中でバーチャル世界にのめり込んだり、次々と刹那的(せつなてき)な刺激を追い求めています。人々はこうしたものによって虚しさを忘れ、あるいは虚しさを自覚することがないようにしています。

また孤独感を癒すために、絶えず人との接触を求めます。現在、多くの日本人は肌身離さず携帯電話を持ち、四六時中、誰かとメールのやり取りをしています。その様子は、まさにドラッグの中毒患者と同じで、一人にされる孤独感・寂しさ・虚しさから必死に逃れようともがいている姿に映ります。また誰とも深い愛情関係を持てない人間は、自分の思い通りになるペットに異常に執着するようになります。現在の“ペットブーム”の底辺には、人々の心の虚しさがあることは言うまでもありません。

多くの現代人は、自分が独りぼっちであること、友達から切り離されて自分ひとりだけが取り残されることに耐えられません。そして周りの人との間に愛の関係をつくりたいと願っているのですが、常に愛されることを優先しているために心と心のつながりが持てません。自分自身が愛を遠ざけているのに、それに気がつかないのです。心では必死に愛を求め切望しているのですが、すぐに破綻してしまいます。そうした人間は、やがて愛することも、人を信じることもできなくなり、それがいっそう心を孤独にし、自分を虚しさと絶望の淵(ふち)に追い込むことになります。

利己愛者の特徴4――いつまで経っても成長できず、子供のままにとどまる

利己愛は、人間の心にこうしたさまざまなマイナス傾向を発生させます。そのような人は、いつまでも霊的に成長することができません。現在では利己性の殻を抜け出せないまま一生を終える人間が増えています。

利己性とは本来、子供時代の心に特徴的なものです。親のもとで一方的に愛を受けて成長するために、一つの過程として許された在り方なのです。しかし、その“利己性”は成長とともに“利他性”へと脱皮していかなければなりません。利己愛から利他愛への移行が、取りも直さず「霊的成長」ということなのです。いつまでも利己愛の殻を破ることができない人間は、子供の精神状態にとどまることになります。

精神の荒廃した現代では、大人になり切れない成人、子供のままの未成熟な成人が増加しています。子供と同じような趣味に走ったり、つまらない冒険心にとらわれたり、霊的成長から見ると何の意味もないことに意識とエネルギーを向け続けています。そして現代社会では、それをさも素晴らしいことであるかのように見なす風潮があります。

最低のマナーさえ守れない人々

他人に迷惑をかけない、他人が不愉快なことはしないようにする――これは“利他愛”の最低条件であり、人間としての最低限のマナーです。かつて日本人は、このマナーのよさで世界的に有名でした。しかし最近では、その評判も急速に失われつつあります。人に迷惑をかけようが自分さえよければいい、といった日本人があふれ返っています。

“利他愛”とは、自分を犠牲にして公(おおやけ)への奉仕を優先することです。当然その前には、他人に対する思いやりや気遣いがあります。昔の日本人は、公の世話になることを極力避けようとし、それを申し訳ないことであると考えていました。他人に迷惑をかけない、公の世話になって迷惑をかけない、こうした考え方が広く行きわたっていました。露骨な利己的行為を恥ずかしく思っていたのです。公のために自己犠牲を払う人間を尊敬していたのです。まさにそれこそが日本人の宝でした。

社会のために尽くすというような利他愛のレベルにまでは至らなくとも、他人に迷惑をかけないことは人間として当たり前のマナーです。最低のマナーを守ることができない人間は、動物と等しい存在に堕ち、魂の成長どころではなくなってしまいます。残念ながら今の多くの日本人若者ばかりでなく年齢を重ねた成人も)は、他人に迷惑をかけること、他人に不快を与えることが平気になっています。日本人としての精神レベルは明らかに低下しています。モラル意識は大きく後退し、さまざまな社会問題を発生させることになっています。

こうした自分勝手を当たり前とする精神の荒廃状況は、世界的に見ればごく普通のことと言えます。アメリカ・南米・中国・アジア・アフリカ・中東のいずれの国においても、人々のエゴ性は極端に強いのです。日本人の常識では考えられないようなあまりの身勝手さに遭遇すると、日本人は本当にモラル意識が高い国民だと実感し誇らしくなります。世界の大都市の中で夜間、自動販売機を戸外に置きっ放しにしておける所は、日本以外にはほとんどないのが実情です。

“モラル”という点から考えると、日本はむしろこれまで特別に優れていたと言えます。宗教的な重石(おもし)のなくなった先進国、その中で最も物質的に豊かなアメリカでのモラルの低下は、社会問題の増加の中にはっきりとした形で現れるようになっています。あるいは経済原理一色に染まった中国でのモラルの低さは、これまた世界の中で突出しています。

“利己愛”がもたらす社会問題の増加――精神の危機の表面化

利己愛しか持てない人間が集まる社会では、さまざまな社会問題や事件が発生するようになります。21世紀の先進国に住む人々は、科学技術と経済発展の恩恵に浴し、かつての王侯貴族よりもはるかに物質的に恵まれた豊かな暮しをしています。しかし、そうした恵まれたはずの人間は物質的な豊かさとは裏腹に、さまざまな心の痛み(絶望・不安・恐怖・悲しみ・怒り)を抱え、心の虚しさに喘(あえ)いでいます。

現代人の精神の荒廃は、日々テレビや新聞をにぎわせている事件や社会現象に端的に表れています。親が子供を殺し子供が親を殺すといった事件、恋人や配偶者に対する暴力、大学教授や教師のセクハラ事件、若い母親の幼児虐待、若者の非行や暴力事件、ニートと呼ばれる無気力な若者達の増加、遊ぶ金を稼ごうとして出会系サイトを通じて犯罪に巻き込まれる少女達、ネットで知り合った者同士が簡単に集団自殺する事件など――現在では特別に珍しい出来事ではなくなってしまいました。

こうしたことは、つい30年前までには見られなかった社会現象です。誰もが現代社会の異常さと急激な悪化を感じるようになっています。今や本能だけに翻弄された野獣のような人間、欲望の奴隷と化した人間、自己愛だけでそれ以外はないといった人間が社会にあふれています。日本人全体の精神が、中心部から腐りかけているかのように感じさせられます。

家庭崩壊

社会全体の精神レベルが下がると“家庭崩壊”が急激に進行し、離婚率が上昇するようになります。その結果、片親家庭が増加し、子供達の養育環境が悪化します。15年前の調査によれば、全米の子供で両親と暮らしているのは51%、片親と暮らしているのは18%、親がいない子供は31%でした両親と暮らしている場合では、半数は親の再婚相手となっています)。30%以上もの子供が親から見捨てられているという状況は悲惨です。こうした中で子供への虐待が増加し、親から性的虐待を受けるといった悲劇が生じるようになっています。

別の調査では、父親のいない家庭環境で育った子供は、将来刑務所に入るリスク(可能性)が20倍に、殺人を犯すリスクが8倍になることが報告されています。殺人事件の加害者の6割近くが、父親のいない家庭で育っています。また毎年120万人以上の子供が未婚の母から生まれており、それは3人に1人の割合にあたります。こうした不遇な家庭環境で育った子供は当然、深刻な精神問題を抱えることになります。そして、それが確実に犯罪を増加させることになっています。子供達が利己的で未熟な大人の犠牲になり、次にはその子供達が新たに未熟な大人となって、さらなる犠牲を増やしていくことになっているのです。

犯罪の増加

国民のモラルは、その国家の“犯罪率”によって示されると言われます。“利己主義”がエスカレートしてモラルの低下が著しい時期には、たしかに犯罪が多発し治安が悪くなります。アメリカの人口当りの凶悪犯罪の発生件数は、他の先進諸国と比べて群を抜いています。日本の7倍にも上っています少し前までは約10倍)。それにはアメリカが銃社会であるという理由も挙げられますが、銃とは無関係な犯罪が多いことを考えると、精神の荒廃こそが一番の問題であることは明らかです。

都市が拡大して人口が増加するにともない、それに比例して殺人事件の発生率が増加するようになります。それが世界に共通の傾向となっています。ところが長い間、日本の大都市では例外的に犯罪が増加しませんでした。これが世界の注目を集め、日本は世界一治安のよい国であるとの讃辞が贈られてきました。

現在のアメリカは、文明と野蛮が同居している国家です。開拓時代のアメリカには殺人などの凶悪犯罪は少なく、1970年以降にうなぎ上りに増加するようになり現在に至っています。そしてこのアメリカの犯罪率に匹敵するのが、あるいはそれを上回るのが中国です。

自殺者の増加――精神荒廃の指標

利己愛が支配する社会に生きる人間は、孤独・絶望・虚しさ・生きがい喪失といった精神の危機状態に陥ることになります。こうした中で自殺に走る人間が増加するようになります。「少しばかり長く生きていても、苦しみと虚しさが続くだけの人生に意味はない。いずれ死ぬ以上、少々早く死んでも同じだ」と思うようになるのです。

自殺は“利己愛”の究極の姿です。生命は神から与えられたものであって自分のものではありません。自殺は、そうした神によって与えられた権利を自らの手で捨て去ることです。「与えられた生命(いのち)を精いっぱい生き、その間に自らの魂を成長させる」――これが地上に生まれた人間としての責任であり義務なのです。自分の肉体は“霊の道具”として大切にすべきものなのです。

「神や守護霊との間に本当の愛のつながりがある」「霊界という永遠の世界がある」「地上は霊界での生活のための一時的な訓練期間・準備期間である」――こうした事実を知ってこそ、人間は地上人生の荒波に耐えていけるようになります。その意味で霊的真理を知らない人々は、本当に気の毒と言わなければなりません。

自殺は「霊的無知」が招く最大の悲劇の一つです。それはある意味では、戦争で他人によって生命を奪われることよりも悲惨な出来事です。しかし神の存在を信じられない無宗教の人間、冷たい個人主義の人間が増えた現代社会では、自殺をそれほど悪いこととは考えない人が多くなってきました。そして、それが若者の自殺を加速させることになっています。

現在の先進国では、若者の自殺が増加して、死因の上位にランクされるようになっています。個人主義の傾向が強く、無宗教で経済原理一色の中国では、今や自殺が若者の死因の一位となっています。神や守護霊との愛の関係を自覚できない人間は、地上の家族愛に拠りどころを見出そうとします。その家族愛も駄目ということになると、次はアルコールやドラッグなどの憂さ晴らしに走るようになります。それも駄目だということになると、最後は自殺に走るようになるのです。

宗教の信頼性が失われ、精神が荒廃の極限にまで至ると、自殺を認めるような風潮が生まれます。現在“安楽死”という自殺を合法的に容認しようという動きが一部の先進国の間で進んでいます。そしてオランダのように、すでに安楽死が合法化された国もあります。しかし、これは「神の摂理」から見たとき明らかに間違っています。

物質文明のピークと精神の危機状況

こうした精神の退廃・危機状況は、人類史という長いスパンで見ると、物質文明がピークに達すると必ず出現していることが分かります。精神の荒廃によって国家は内部から崩壊を始め、やがて地上から姿を消し、他の社会に取って代わられます。

そうした観点からすると、物質文明の発展にともなう欧米や日本での「心の危機」は、いずれは国家や社会を崩壊させていくことになるでしょう。

精神の荒廃が招く「霊的成長の阻害」

霊的観点から見ると、精神の荒廃の何が問題であるのかが明瞭になります。「霊的成長という人間としての最も大切な宝を犠牲にすることになる」――それが一番の問題なのです。単に世の中の平和と秩序が失われるという以上に、「人間の永遠の魂に大きなマイナスが及ぶ」ということが問題なのです。地上に生まれた目的そのものを失わせることになるからです。

人間が地上に生まれたのは、物質世界での生活を通じて霊的成長をなし、永遠の霊界での生活に備えるためでした。「精神の荒廃」は、その肝心な目的を達成できないようにするどころかマイナスの要因(カルマ)をつくり出して、霊的成長を妨げ遅らせるようになります。このことが地上人類にとって“最大の悲劇”であり不幸なのです。

8.悲劇 <5>――動物虐待・環境破壊

人間と動植物の共生関係――摂理に合った在り方

人間と動物・植物が“利他愛”の関係において結ばれる――これが摂理に一致した在り方です。地球は人間のためだけにあるのではなく、多種類の動植物がともに“共生関係”を結んで生きていく場所として造られました。人間の生存や心の安らぎ、身体の健康のためには動物・植物という他の生命体が必要です。同時に動物・植物にとっても、人間の愛情という“神の霊”が必要なのです。お互いが助け合う関係の中で生存していくように造られ、その中で人間は、地上人生の最大の目的である「霊的成長」を達成することができるようになっています。

人間は地球上の生命体の中で、進化の頂点に立っています。人間のみに永遠の個別性が与えられ、死後も永遠の個体として生き続けます。人間にとって地球という環境は、霊的成長における長い道のりの一時(いっとき)の逗留先にすぎません。動物・植物はその短い期間に、人間に励ましと安らぎと喜びを与えてくれる友なのです。

人間は本来、動物と愛において結ばれる関係にあります。人間には神の「代理者」として、動物を愛しかわいがる役目が与えられています。動物に愛を与え、動物の類魂の進化に貢献することが人間の使命なのです。

現在では、地球は閉ざされた閉鎖系の惑星であることが明らかにされています。その中では、どのような生物も自分ひとりだけで独立して存在・発展することはできないようになっています。仮に一つの種動物であれ植物であれ)が一時的に爆発的に栄えるようなことがあっても、やがて他の種によって制約を受けるようになり、いつまでも独走することはできません。一つの種だけが繁栄して他を支配するようにはなっていないのです。地球には、あらゆる生命にわたって“共生関係”が保たれるシステムが備わっていて、これによって全体のバランスが保たれるようになっています。

こうした神の与えた巧妙な“相互依存・共生関係”のシステムの中で、人間も存在するようになっています。人間のみがいつまでも独り勝ちするようにはなっていないのです。

動物を虐待する人間の罪

しかし、これまで地球人類は他の生物社会との共生関係を捨て、非道な支配者の道をひた走りに走ってきました。他の生命体を人間の利益のためだけに利用して、人間中心の世界をつくり上げようとしてきました。人間は、「動物・植物を愛し共生関係をつくる」という崇高な使命とは全く逆に、動物を自分達の食料として残虐に殺してきました。そしてそうした摂理に反した在り方が、地球人類に飢餓や病気をもたらすことになっているのです。

動物の生命は、神によって与えられたものであり、人間が勝手に奪うことは許されません。しかし物質文明の発展、経済・技術の発展にともない、人類は動物に対する虐待をますますエスカレートさせてきました。現在、家畜は工業化されたシステムの中で飼育され、食料にするためだけに生かされています。人間は愛すべき動物達に、最も非道で冷酷な仕打ちをしています。人間は自分達の金儲けのためだけに、動物達を残虐に飼育し、大量に殺害し続けています。今や先進国における家畜の飼育は、動物という生き物を工業製品のようにつくり出すことと同義となっています。

人間の傲慢さ・自己中心性は、極限にまで至っています。人間が今、動物に対して行っていることは大きく間違っています。摂理に反しています。身動きもままならない、太陽さえ浴びることができない地獄のような狭い場所に閉じ込められ、工業製品として工業的飼料によって生かされている哀れな動物の立場に立って考えてみるならば、人間の残虐性・利己性に鳥肌が立つような思いに駆られるはずです。

戦争体験の悲惨さを熱く語る人々は多くいますが、動物の置かれている悲惨さは、それらとは比較になりません。「動物虐待」の現実の前では、“戦争反対”の主張も大義も色あせて見えます。人間が動物の肉を食べなければ生きていけないというならばいざ知らず、人間は大地からの産物で十分に食料の調達ができるのです。現在の先進国における“肉食”は、自分達の楽しみのためだけに愛すべき動物の生命を奪う非道な行為なのです。宗教者は、隣人に対して利他愛を強調するように、動物達に対しても利他愛を主張しなければなりません。

「肉食は間違いである」と言うと、必ず世界中の人々から非難されることになります。それほど地球人類は、肉食を当たり前と考えているのです。現在の地球人類にとって“肉食は常識となっている”ということです。しかし霊的に見ると、それこそが地球人類の霊性の低さを物語っています。地球は、まさに下から2番目の惑星なのです。

人間同士の利他愛の重要性について、多くの人々は気がついています。しかし人間と同様に神によって造られた動物に対する愛の重要性には、考えが及んでいません。生命あるものを物質と同一視することの愚かしさに、地球人類はそろそろ気がつかなければなりません。

地球規模の自然破壊・環境破壊の進行

人間のとどまるところを知らない欲望追求は、人間が住んでいる“地球”という環境自体を崩壊させる寸前にまで至らせています。文明の歴史とは、人類が森林を一方的に破壊してきた歩みであると言われます。歴史上の大文明は、いずれも広範囲の原始林を徹底して収奪・破壊し、消滅させてきました。「文明の前に森林があり、文明の後に荒廃がある」と言われるように、これまで地球人類は「森林破壊→家畜の過放牧→土地の荒廃・荒地化→文明消滅」というプロセスを踏んできました。ギリシア・ローマ・古代中国は、いずれも大森林を消滅させて、同時に自らも滅んでいきました。岩の上に建てられたパルテノン神殿も、かつては豊かな森林の中に聳(そび)え立っていたのです。

最近になってやっと地球人類は、「自然破壊」の愚行に気がつき始めるようになりました。そして欧米では“自然保護”の活動が起こされるようになりました。こうした「森林破壊」という点では、植林の伝統があり、かつ自然条件が幸いして緑豊かな日本は特別に恵まれていると言えます。)

1950年を境に急激に進行している「地球規模の自然破壊」

しかし21世紀の現在では、そうした自然保護の動きと逆行するように、地球全体の規模で森林破壊・自然破壊がすさまじい勢いで拡がっています。森林伐採に代表される環境破壊は、20世紀半ば(1950年)以降の、先進国の急激な経済発展によって急速に進むようになっています。大昔から手つかずであったアジアや南米・シベリアの森林は次々に伐採され、地球規模での自然破壊が進行しています。

1950年以降、石油系の化石燃料の大量消費によって、先進国の経済は大きく発展しました。石油は燃料としての効率が高く、運搬に便利な燃料として、世界規模で大量消費されるようになりました。その20〜30年の短い間に、過去2000年以上かけて人間が少しずつ変化させてきた地球の様子を一変させることになってしまいました。

石油は人類に、かつてない物質的な繁栄をもたらしましたが、同時に地球全体に深刻な打撃を与えることになりました。今、人類は“地球温暖化”という新たな問題に直面し、右往左往しています。森林破壊が大文明消滅という悲劇をもたらしたように、地球規模の森林破壊・自然破壊は、地球の人類文明の破滅を意味しているのです。人間は、全世界の無数の生命体一説によると、全世界には3千万種以上の生命体が存在すると言われています)の一員でしかないという立場を忘れ、自分だけが支配者であるかのような傲慢なふるまいをしています。毎日のように多くの生物を絶滅させ、森林や自然環境を崩壊させ、地球全体の生態系を狂わせ続けています。

そうした愚行をやめないかぎり、そのツケが人類全体に大きな痛みとなって降りかかることは避けられません。

人間のエゴから発生する利己的経済活動

人類の物質的豊かさへの強い欲望は、目先の経済的利益を優先させ、自然保護・環境保護への配慮を全く無視してきました。21世紀の先進国では、無駄にエネルギーを使って贅沢をすることが当たり前になっています。石油をふんだんに用いて快適な生活を送り、さらなる便利な生活追求に明け暮れています。

人間の利己的な物欲追及は、できるだけ大きな利益を得ることだけに関心を向かわせ、その目的達成のためには何をしても構わないという利己的経済活動を生み出しています。人間の利益と快楽だけを重視する利己性は、地球の環境そのものをも狂わせ、破壊させようとしています。無言・無抵抗の大自然を、人類の欲望の都合で勝手に破壊し続けるならば、摂理に反したツケを“苦しみ”という形で払わなければならなくなるのです。

閉鎖循環系としての地球

最近になって環境問題に注目が集まるようになり、「環境に優しく」とか「持続可能な経済繁栄」などと言われるようになってきましたが、それはあまりにも人間中心の虫のいい話です。

地球は閉鎖循環系となっていて、地球外から物質を地球に運び込むことも、不用な廃棄物を地球外に持ち出すこともできません。その中で地球は、一つの有機体のような存在として多様な生命体を生かしているのです。実に精妙でデリケートなシステムを満載した惑星なのです。しかし人間は今、この素晴らしい奇跡とも言うべき“閉鎖循環システム”を、過度の生産と消費活動によって狂わせ妨げようとしています。

これ以上のエネルギーと資源の浪費を前提とする経済発展を続ければ、地球が自らを正常化するキャパシティーを超えてしまうことになるかもしれません。このままいけば人間にとってだけでなく、地球全体にとっても破綻状況が確実にやってくることになるでしょう。そのときになって人類は、「地球はたいへんなことになった。人類は生き延びられるのだろうか?」と絶望のどん底に突き落とされることになるでしょう。今は至るところで、黄色信号が点滅しているのです。

地球の破綻が、いつどのような形で到来するのかは誰にも分かりません。気象学者・生物学者・経済学者、その他さまざまな研究者によって見解がばらばらです。悲観論と楽観論が対立しています。地球温暖化やオゾンホールの影響をめぐってさえも、賛否両論入り乱れています。しかし「神の摂理」に反した利己的行為は、必ず何らかのツケとなって返ってくるようになります。

とは言っても一部の環境論者が言うような、すべての地球人類が滅んでしまうといった決定的な破滅状況に至ることはありません。そうならないようなシステムが、地球それ自体に組み込まれているからです。人類全体に何らかの苦しみや困難が降りかかってくるという形でツケが回ってくるのです。

これ以上の経済発展は必要か?

そうした事態に至るのを防ぐためには、先進国に見られるような大量消費を善(ぜん)とする在り方、贅沢を美徳と考える生き方を改めなければなりません。さもないと人類は、自分自身で自分の首を絞めることになってしまいます。

もっと低い経済レベル・消費水準でも、人間は幸福に生きられます。日本や欧米の先進国の経済レベルを引き下げ、その分のエネルギーや資源を貧しい発展途上国家に回すべきです。地球全体の経済活動を一定限度に抑えても、人間は不幸になることはありません。むしろ霊的には、ずっと恵まれることになるはずです。地球人類は、これまでの生産と消費の全領域で、とっくに地球の生態系の安定した自己回復能力を超えてしまっています。それを取り戻すためには、これから長い間、経済成長を伸ばすことなく、逆に徐々に低下させていかなければなりません。人間の幸福が、果てしない経済発展・経済成長の方向にしかないという、これまでの常識を捨て去らなければならないのです。

問題は、一度物質の快楽の味を知った者は、決してそれを手放そうとはしないということです。自分の幸福は、何としても維持したいと固執します。「地球を救うためには経済レベルを下げるべきである」との意見に賛成する人であっても、自分のことより他人の幸福を優先できる人間はほとんどいません。すでに手に入れている物質的豊かさと快楽は、何が何でも守りたいと思うのです。一人の人間が、ひとたび自分のものとした快楽を手放すのが至難の業であるのと同様に、無駄な贅沢・過度の消費に慣れた先進国の社会を質素に仕向けようとするならば、必ず想像を絶する民衆の抵抗を受けることになるでしょう。

したがって今の物質至上主義的・利己的な経済活動が「摂理違反の限界」に達するまで、人間は自らの手で方向性を正すことはできないように思われます。結果的には、摂理による痛み世界レベルでの経済破綻・エネルギー枯渇)という形でしか、間違った経済活動を修正することはできないような気がします。

世界レベルでの経済後退や破綻は、地球人類のために必要

飽食を続けるならば、身体は悲鳴を上げるようになります。それを無視してさらに飽食を続ければ、やがて病気という破綻状態に至ることになります。この一連の流れは、すべて「神の摂理」に従って発生しています。悲鳴という“警告”、病気という“破綻”――これらは摂理によって引き起こされる現象です。病気は誰にとっても嫌なものですが、考え方によっては、痛みも病気もありがたいものなのです。健康回復のためのやり直しのチャンスとなるからです。

利己的な経済活動についても、飽食と同じようなことが言えます。 日本のバブル経済とその破綻は、よい見本です。1980年代の後半、日本はいわゆる“バブル景気”という史上最高の繁栄期を迎えました。銀行の後押しで地上げという悪徳業者が闊歩(かっぽ)し、全国の地価が暴騰しました。一般庶民も株の投資に走り、さらに本来地道なはずの製造業までもが、本業をないがしろにしてマネーゲームに走りました。また全国各地に観光レジャー施設やゴルフ場がつくられ、自然を破壊していきました。この結果、日本中が、金、金、金の狂った時代となったのです。人々は日常的にグルメを求め、身につけるものは一流のブランド品、あまったお金はゴルフやテニス・スポーツ観戦・海外旅行に向けられました。こうして古代ローマ時代の“パンとサーカス”の愚民政治の現代版が日本に出現したのです。

敗戦からの復興のために必死になって働き、高度経済成長の時代を経て、やがて欲望を極限まで求めるバブル景気に至りました。こうした過程の中で、大半の日本人が金と物だけしか頭にないようになり、経済と技術の論理が、すべてを支配するというような風潮を生み出しました。そしてその当然のツケを払う形で、バブルがはじけました。株は暴落し、莫大な金があっという間に消え去り、本能的快楽に酔いしれていた人々を奈落の底に突き落としました。日本はその後、長い未曾有(みぞう)の経済低迷の時期を迎えることになりました。

今にして思えばこのバブル景気とバブルの崩壊は、私達に多くの教訓を与えてくれました。もしバブルがはじけなかったならば、日本人はさらに金の亡者(もうじゃ)となり、物欲と本能的快楽だけに振り回され、いっそうの精神的堕落を招くことになったはずです。衝撃的な痛みが与えられた結果、初めて日本人はそれまでの方向を改めることができるようになりました。霊的に見ると、バブルがはじけたことは日本人にとってよかったのです。金や物より大切なものを取り戻すチャンスが与えられたからです。重病になって初めて、健康を取り戻すための努力を始めるきっかけが与えられました。

こうした日本のバブル景気の崩壊と同じような事態が現在、世界規模で進行中です。今、世界の至るところでバブル崩壊の兆しが現れ始めています。これはありがたい天の警告であり、「一刻も早く利己的在り方を転換せよ」との天の声なのです。

“スピリチュアリズム”による精神革命

物欲と利己主義の上に立った市場原理や経済活動に任せているかぎり、地球全体が崩壊直前にまで至ることは避けられません。地球という環境が極度に悪化するにともない、住人である人類の心(魂)は常に“虚しさ”にとらわれるようになります。そしてそれを忘れるために、さらなる物欲追求に走り、ますます霊的な幸福・真の満足から遠く離れていくことになります。

人間の欲望はとどまるところを知りません。「肉主霊従」は、どんどんエスカレートしていきます。古来より宗教では、人間が過度の欲望に走らないように“禁欲”を重要視してきました。「霊主肉従」を目的とする節度のある禁欲は、摂理に合ったものです。肉体を維持するための最低限の物質で満足し贅沢をしないことは、摂理にかなった生き方です。

先進国では20世紀になってそれまでの伝統的宗教が後退し、健全な禁欲というブレーキが失われてしまいました。それに代わって経済原理だけが支配的になり、「儲かるか儲からないか」という経済活動だけが地球上を支配するようになりました。そして人間の欲望追求を解放してしまった結果、これまで述べてきたように人類の住処(すみか)である地球そのものを破壊寸前にまで追いやることになってしまいました。

先進諸国の経済レベルを下げ、少ないエネルギーでの経済活動にしなければ、地球上の全人類が幸せになる道はありません。そのためには人類の人生観・価値観の革命が必要です。「物質的幸せではなく、霊的幸せこそが大切」という共通の人生観が必要となるのです。環境問題に関する事件が起きるたびに、多くの学者が「このままでは大変なことになる。人間は贅沢をやめ、この美しい地球を子孫に遺さなければならない」と言います。

しかし、そうした素晴らしい意見には「一人一人の欲望に歯止めをかけないかぎり実現しない」という観点が欠けています。地球人類、一人一人の自覚を喚起し、それぞれの生活を改めるところから始めなければならないという主張が欠けています。環境破壊を止めるには、学者や政治家による努力だけでは限界があるのです。一人一人の「心の改革・意識改革・価値観の改革」なくして環境問題の解決はできません。

人々の心を変えるには、人間の幸福は物質の多さではなく「霊的成長」によるものであることを納得させる思想が必要となります。環境問題を解決するためには、地球人類それぞれの無制限の物欲追求に歯止めをかける思想・哲学が不可欠です。そしてそれこそが、まさにスピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理」なのです。

9.悲劇 <6>――霊的未熟者による霊界の悲劇

霊的無知から発した“物質主義”と“利己主義”は、地球人類にさまざまな悲劇をもたらしました。「戦争」「貧困・飢餓」「宗教による霊的弊害」「精神の荒廃」「動物虐待・環境破壊」といった不幸を引き起こしてきました。こうした地上の問題は、霊界にそのまま反映され、霊界にも悲劇を引き起こすことになっています。これが第6の悲劇です。

不幸な人間が霊界で受ける看護

戦争や貧困・飢餓によって生命の危機状態に立たされた人間は、霊的成長に意識とエネルギーを向ける余裕はなくなります。その日、その日の食の糧を手に入れることだけで精いっぱいの人に、霊的成長という地上人生の本来の目的を期待することは不可能です。そうした状況に立たされた人間は、まことに不幸と言わなければなりません。

霊的成長がままならない中でこの世を去ることになった人々は、霊界に行ってから専門の霊による看護を受け、魂の傷を癒し、霊的成長の道を再出発することになります。

未熟者の地縛霊化

地上時代を本能的快楽に翻弄されて生きてきた者や、あまりにも利己的で身勝手な生き方をしてきた者は、未熟なままで霊界入りすることになります。そして地上時代の利己的な生き方に見合った苦しみを償いとして受けるようになります。償いのための苦しみの多くは、地上人生に対する激しい後悔という形でもたらされます。強い後悔の念は、肉体の苦痛よりもさらに激しい痛みを未熟な人間に与えることになります。

しかし中には、依然として地上世界に住み続けていると思い込み、地上人生の反省にまで心が向かない者もいます。そうした“死の自覚”を持てない未熟者は“地縛霊”となって地上近くをうろつき、地上の快楽を求め続けたり悪行を重ねることになります。このような人間を更正させるために霊界では必死の働きかけがなされていますが、心の底にまで染み込んだ肉体的快楽への嗜好は、なかなか拭い去ることはできません。そのため霊界の人々に多大な面倒と苦労をかけることになります。

間違った宗教による“地縛霊”

地上時代を間違った宗教によって束縛され、魂の深みにまで洗脳が及んだ人間は、霊界に行ってもすぐに新しい環境に馴染むことができません。なかには間違った宗教の教義の影響で、死を自覚できないままの者もいます。そのような場合は“地縛霊”として地上近くに居座り続け、幽界の下層で地上時代と同じ信仰を続けることになります。そして地上の似たような信者に働きかけたり、霊界からの救済活動を妨害したりします。

宗教がつくり上げる“地縛霊”の存在は、霊界の高級霊にとってはとても厄介です。単なる未熟霊よりも更正するまでに時間と手間ひまがかかります。地縛霊の中には、高級霊界からの働きかけに一切耳を傾けず、何百・何千年もの間、自らの信仰がつくり出す暗闇を抜け出せない者もいます。

高級霊の嘆き

霊界での悲劇は、人間が地上生活の間に最低限の霊的知識を身につけなかったために発生します。あまりにも霊的なことに無知なままで霊界入りするために、新しい世界に適応できなくなってしまうのです。そして“地縛霊化”という悲劇を生み出すことになります。

こうした悲劇は、霊界で未熟な新参者の面倒を見たり看護をしなければならない霊達にとって、大きな悲しみとなっています。「地上時代に、せめて最低限の霊的知識を身につけていたなら、こんな哀れなことにはならなかったのに……」と嘆かせることになっています。

「なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせずに地上を素通りしております。ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えもできていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)  p.162

「こうしている間でも地上から何百万、何千万という人間がこちらへ送られてきますが、そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、混乱し、茫然自失の状態です。それでわれわれが、いろいろと手を焼くことになります。本当はそちらで霊的教育を始める方が遥かに面倒が少なくて済むのです。」

『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版)  p.79

「地上を去って霊界へ来る人のほとんどが、自分がこれからどうなるのか、自分というのは一体どのように出来あがっているのか、霊的な実在とはどんなものかについて、恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人が、それはそれは多いのです。(中略)

そのため、そういう人たちをこちらで面倒を見たり、監視したり、手当をしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんなが、ちゃんとした知識をもって来てくれれば、私のように地上の人間の面倒をみている者は、とても手間が省けて助かるのですけどね。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.76〜77

霊界の高級霊が救済に乗り出す

霊界の悲劇とは――「未熟な他界者があまりにも多い」ということです。そして「その未熟者が、いつまでも霊的成長の道を歩み出すことができない」ということです。

霊界で引き起こされるこうした悲劇をストップさせるために、霊界の高級霊達が救済活動に乗り出すことになりました。先に地球人生を歩んだ先輩霊として、地球人類の運命を引き受け、ともに努力することになったのです。

「あなたも、私と同じ立場に立って、発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者が、毎日のようにぞくぞくと霊界へ送り込まれてくるのをご覧になれば多分、私と同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければ、という気持になられるはずです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.67

10.スピリチュアリズムによる地球人類救済活動の開始

地球人類の力だけでは無理

地球は霊界から見ると、霊的無知と物質主義・利己主義に覆われた霊的光の届かない暗黒の世界です。そして地球人類は、自らつくり出した悲劇の中で苦しんでいます。長い人類の歴史においては、霊界から救いの光が注ぎ込まれたこともありました。しかし残念なことに、そうした霊界からの救いの手も悲劇を解消するまでには至らず、やがて光を失っていきました。

霊界の上層の高級霊は――「もはや地球人だけに任せていても悲劇をなくすことはできない」「地球人は自らの力で自分達を救うことはできない」との判断を下しました。そして霊界主導による地球人類救済プロジェクトを計画し、実行に移すことになりました。それが今、私達が係わっている“スピリチュアリズム”です。

「霊的真理」によってのみ“悲劇”は解決する

地球上の悲劇の原因をたどっていくと、最終的には地球人類の「霊的無知」という問題に至ります。霊的無知こそが地球上の悲劇の大もとなのです。人類はこれまで、霊的真理・霊的事実について正確に知ることができませんでした。そのため人間は肉体だけの存在であると錯覚するようになりました。地球人類は、自らを物質的な存在であると考え“物質主義”と“利己主義”の虜(とりこ)になってしまいました。すべての悲劇は、そこから発生するようになったのです。

したがって地球上の悲劇を根本から解決するためには、人類に「霊的真理」をもたらし、霊的無知の状態から解放することが最も重要なことになります。地球人類の救済は、霊的真理を地上にもたらすところから出発しなければなりません。地球上に霊的真理が示されれば、自動的に悲劇の元が断たれることになります。

「大切なのは、地上界のように錯覚によって惑わされることのない、霊の世界からの真理です。なぜかと言えば、あまりに多くの落伍者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方で、一見立派そうな人間が、霊的事実についての誤った概念と偏見のために、死後に直面する生活に何一つ備えができていないというケースがあまりに多すぎる現実を見て、私たちは、いずれ誰もが訪れる永続的な実在の世界、すなわち死後の生活に備えるために、単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私たちの手間も大いに省けるだろうと考えたのです。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)  p.133〜134

二度と閉じられることのない扉が開かれた

高級霊界において、イエスを中心として地上に「霊的真理」をもたらす綿密な計画が立てられました。これまで単発的に霊界からインスピレーションが地上界に届けられたことはありましたが、長続きしませんでした。

しかし今度の“スピリチュアリズム”の大プロジェクトは、霊界と地上界のコミュニケーションの扉を、永久に開き続けることを目的として計画されました。二度と霊界と地上世界の通路が閉じられることのないように、周到な準備が進められました。そして19世紀の半ばに至って、いよいよ地上においてその計画が具体的に実行に移されることになりました。

「地上とのコミュニケーションの橋をかける仕事がかつてなく組織的となり、二度と地上世界がチャンネル(霊媒・霊能者)の不足から霊界と絶縁状態とならないよう、入念な計画が練られ、そして実行に移されているということです。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.101

「(これまで)一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一部として行われており、その計画の推進は、皆さんの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります。そうした計画のもとに霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は二度と閉じられることはありません。 」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.103

すでに根付いている新しい世界

地球上におけるスピリチュアリズムの展開は19世紀の半ばから始まり、すでに150年が経ちました。その間、スピリチュアリズムは綿密な計画のもとに進められ、徐々にその影響力を拡大してきました。さなざまな心霊現象を演出して人間の意識を耕し、それと同時に霊界通信の準備を進めてきました。そして高級霊界からのメッセージが、優れた霊界通信によって伝えられるようになりました。『霊の書』『霊訓』『シルバーバーチの霊訓』の三大霊訓をはじめ他の良質な霊界通信を通じて、地球人類は貴重な「霊的真理」を知ることができるようになりました。霊界からの懸命な働きかけによって、地球には「霊的真理」という本物の霊的光が徐々に射し込むようになったのです。

シルバーバーチは――「すでにスピリチュアリズムによる霊的真理の普及は、地上に完全に根付いた」との勝利宣言を発しています。後は時間が経てばどんどん広まり、地球上に行きわたると断言しています。霊界からの必死の働きかけによって、すでに霊的真理は地球に根を下ろしたのです。そしていかなる反対勢力も、これを取り除くことはできないことが明らかにされました。この“勝利宣言”は、地球人類にとって最高の希望の到来を意味します。

「基盤はすでに出来あがっているのです。何年も前から、その基盤づくりはこちらの世界で終わっているのです。(中略) 新しい世界は必ず実現します。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)  p.127

「間違いなく言えることは、その新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.66

スピリチュアリストの使命

いまだに地球人類の多くは物質の檻(おり)の中に閉じ込められています。また死後の世界のあることを知ってはいても、霊界の大計画について知る人はほとんどいません。地球上の大多数の人々は、まさか自分達の目に見えない背後の世界で、史上最大の「地球人類救済プロジェクト」が進行していることなど想像さえできません。その事実を知る者は、ほんの一握りのスピリチュアリスト以外にはないのです。

シルバーバーチは――「後は時間の問題である。地上人がどれだけ責任を果たすかで、地上天国の実現が早くなるか遅くなるかが決定される」と言っています。スピリチュアリズムによってもたらされた霊的真理が広まることによって、地球上には歴史上、一度も存在しなかった世界がつくられていくことになります。

今、私達スピリチュアリストは、霊界人と一緒になって真理普及を進める責任を担っています。その役割を通じて私達は、地球上の人々に対して最高の奉仕と利他愛の実践ができるようになっています。地球人類として、これほど価値ある奉仕の道はありません。皆さんとともに、今後の人生をスピリチュアリズムの兵士として捧げ、「霊的真理普及」のためにすべての時間とエネルギーを注いでいきたいと思います。

「私たちは皆さんに奉仕への参加を呼びかけます。自分の利得損失を忘れ、霊的なものをこの世的な打算に優先させ、お一人お一人が生命の大霊の使者となっていただきたいのです。」

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.119