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スピリチュアリズムによって初めて明らかにされた“真実のイエス像”

スピリチュアリズムが教えるイエスの真相――

イエスほど地球人類に大きな影響を与えた人物はいません。イエスはキリスト教の創始者ですが、スピリチュアリズムはキリスト教によってつくり上げられたイエス像を事実ではないと主張します。【2】で述べますが、イエスはスピリチュアリズムの主導者として、私たちと密接な関わりを持っています。ここではスピリチュアリズムによって初めて明らかにされた真実のイエスの姿を見ていきます。内容は次のようになっています。

今回の44号では【1】〜【3】までを取り上げ、残りは次回に掲載いたします。

  • 【1】霊的事実から大きく懸け離れたキリスト教のイエス像
    • 1.イエスに関する記録の多くが事実ではない
    • 2.福音書から真実のイエスを知ることはできない
    • 3.イエスの死後につくられていったキリスト教
    • 4.イエスをめぐるスピリチュアリズムとキリスト教の対立
  • 【2】スピリチュアリズムによって初めて明らかにされた真実のイエスの姿
  • 【3】イエスについての真実〈1〉……イエスは神ではなく、私たちと同じ人間である
  • 【4】イエスについての真実〈2〉……イエスは人類史上、最高の霊性の持ち主である
    • 1.イエスは人類史上、最高レベルの霊性の持ち主
    • 2.イエスの受肉に関する重大な霊的背景
    • 3.イエスの地上時代の霊的背後関係と、肉体の非凡さ
  • 【5】イエスについての真実〈3〉……イエスはスピリチュアリズムの中心者で、地球人類救済活動の総責任者である
    • 1.イエスの使命
    • 2.イエスの十字架処刑と、イエスの死後の進化
    • 3.イエスはスピリチュアリズムの主宰者――イエスは霊界からスピリチュアリズム運動を指導
  • 【6】イエスについての真実〈4〉……イエスは人類史上、最高の霊能者である
    • 1.バイブルの中のイエスの奇跡
    • 2.イエスは人類史上、最高の霊能者
    • 3.イエスの奇跡は、すべて神の摂理に基づいての演出
    • 4.イエスによる奇跡演出の目的
  • 【7】イエスについての真実〈5〉……イエスの生前の教えは、スピリチュアリズムと同じ基本的な霊的真理
    • 1.イエスの教えは、キリスト教の教義とは全く別もの
    • 2.イエスの説いたシンプルな教え
  • 【8】イエスについての真実〈6〉……イエスは全人類にとっての生き方の手本(イエスに対する私たちの姿勢)
  • 【9】イエスについての真実〈7〉……イエスに関するさまざまな謎と、仮説・憶測
    • 1.イエスの地上人生における謎と仮説
    • 2.イエスの再臨について
    • 3.後世の人々によってつくられた仮説や憶測

【1】霊的事実から大きく懸け離れたキリスト教のイエス像

1.イエスに関する記録の多くが事実ではない

神話的に描かれたイエス像

一般的にイエスについては、新約聖書を通して知ることができるものと思われています。しかしイエスに関する記録はたいへん乏しく、その乏しい記録にも多くの改竄(かいざん)がなされています。聖書(バイブル)には、実際はありもしなかった内容が書き加えられています。結論を言えば、聖書によって示された“イエス像”は、どこまでも神話的に描かれた人為的なものにすぎません。

現在では、よほど熱心なクリスチャンでないかぎり、バイブルに記されたイエスの言動をそのまま信じている人間はいません。イエスをあくまで信仰の対象として考えるクリスチャンにとっては、バイブルの中に記されたイエスの姿は真実そのものということになりますが、そうでない人間にとっては、バイブルの内容は作り話のようにしか考えられません。

科学の発展は、クリスチャン自身の信仰に少なからず影響を及ぼすようになっています。理性に反するバイブルの内容に、多くの信者が葛藤しながら信仰生活を送ることになっています。聖書の言葉を頭から受け入れて信じるという生き方は、クリスチャンにとっても、かなり難しいことになりつつあります。

バイブル原典の作成の実態

聖書に見られるイエスの言葉には、生前のイエスが語ったものではない内容も含まれています。初期のキリスト教徒は、イエスが遠からず再臨するものと信じていたため、その地上生活について細かく記録することをしませんでした。しかしいつまで経っても再臨しないので、仕方なく諦めて記憶をたどりながら、イエスの言ったことを記録にとどめることになりました。「イエス曰(いわ)く……」とバイブルにあっても、実際にそう言ったかどうかは、書いた本人にも確かではありません。

バイブルのもとになった原典の編集者は、イエスから直接教えを受けた者との接触はなく、当時の風聞をもとに間接的に資料を得たにすぎません。これではあたかも何世紀も後になってから歴史を編纂するのと同じことです。

現在のバイブルは、原典のコピーのコピー

バイブルは西暦90年に完成したとされていますが、バイブルのもとになった文書(原典)は、バチカン宮殿の奥に仕舞い込まれ、一度も外部に持ち出されたことはありません。現在、人々が目にするバイブルは、原典のコピーのコピーのそのまたコピーであり、そうした過程において原典にないものまでいろいろと書き加えられています。

新約聖書はイエスの死後、人間の手によって捏造(ねつぞう)された内容が付け加えられた人工的な書物なのです。

福音書に記されたイエスの記録のすべてが、作り話であるということではありません。その中には部分的ではあっても、事実が存在します。シルバーバーチは、それについて次のように述べています――「福音書の中には真実の記述もあるにはあります。たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒させたことも事実です。心の邪(よこしま)な人間に取り憑いていた憑依霊を追い出した話も本当です。」(『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.102)

2.福音書から真実のイエスを知ることはできない

新約聖書の冒頭にある4つの福音書(マタイの福音書・マルコの福音書・ルカの福音書・ヨハネの福音書)は、キリスト教におけるイエス伝ですが、そこに記されているイエスについての内容には神話的要素が多分に含まれ、とうてい真実のイエス像とは言えません。それはキリスト教にとって都合のいいようにつくり上げられた架空のイエス像であり、歴史上に実在したイエスの姿からは大きく隔たっています。

『福音書』形成の過程

イエスの死後、弟子たちを中心として、イエスの教えや行いが語り伝えられていきました。こうした口伝(くでん)がやがて「原マルコ資料」にまとめられ、これをもとにして今日の『マルコによる福音書』が成立したと考えられています。マルコによる福音書の成立は、紀元65〜68年頃と推定されています。『マタイによる福音書』は、原マルコ資料にQ資料・M資料(注1)といった別の資料を参照しながら、紀元85年頃にまとめられたものと考えられています。『ルカによる福音書』は、原マルコ資料・Q資料以外に、ルカ独自の資料を加えてまとめられたものと考えられ、成立は紀元80〜90年頃と言われています。ルカはパウロの弟子で、医者であった人物と推測されています。この他に『ヨハネによる福音書』がありますが、これはすでに成立していたマルコ・マタイ・ルカの福音書を参照して、ヨハネという人物が身元には諸説があります)彼独自の資料を付け加えてまとめたもので、成立は紀元100年頃と推定されています。

以上の4つの福音書が、一般的にはイエスの生涯と行動と思想を知るうえでの根本資料とされています。このうちマルコ・マタイ・ルカの3つの福音書には共通する部分が多いので、「共観福音書」と呼ばれています。

こうした経緯から、イエスの言行を記したとされる福音書そのものが非常に曖昧(あいまい)で、成立過程において人為的な要素が多く加えられていることが分かります。イエスの誕生というきわめて重要な記録についても、マタイ伝とルカ伝では全く内容が異なっています。あまりにも内容が違っているため、両者を合体させることは不可能です。この事実からも分かるように、福音書はとうてい信頼できる歴史的資料とは言えません。福音書を一字一句その通りに解釈しようとすることは、ほとんど意味のない無駄な作業なのです。

(注1)「Q資料・M資料」について

マタイ・ルカの各福音書には、マルコの福音書にはない記述があります。その多くはイエスの語録に関わるもので、マルコの福音書の他に典拠となった資料があったことが想定されています。そうしたイエスの語録に関する資料がQ資料です。またQ資料以外にもさらに別の資料があるとされ、M資料やL資料と呼ばれています。これらの資料は、すべて現存していない謎の資料です。

近代になって揺らぎ始めた『福音書』への 信頼性

近代以降、多くの歴史学者や聖書学者が、イエスの実像を明らかにしようとさまざまな研究に乗り出しました。当時の社会的・時代的背景や宗教的慣習、また周辺地域の宗教事情などを細かく分析して、福音書の記述内容の信憑性を検証してきました。その結果、福音書の内容の真実性に、次々と疑問が投げかけられるようになりました。

近代における聖書の実証研究の結論は――「真実のイエスの姿については、バイブルからは何も歴史的事実を知ることはできない」「イエスという人物はおそらく実在したであろうが、それ以外の確かなことはほとんど分からない」というものでした。当然のこととして、その結論は多くのキリスト教関係者にショックを与え落胆させることになりました。福音書への信頼性が崩れる中で、イエスの存在自体に対しても疑問が発せられるようになり、研究者の中には「イエスは実在しなかったのだ」と主張する者も現れました。

その一方で、近世以降、新たな古文書(こもんじょ)の発見や遺跡の発掘がなされ、福音書からは知ることのできなかったイエスについての真相の一端が、別の方面から少しずつ明らかにされるようになっていきました。発見された古文書は、福音書の内容を否定すると同時に、新たなイエスの姿を描き始めることになりました。イエスの実像については、今後の文献の発見や発掘を通じて、また歴史学・考古学上の発見を通じて、さらに明瞭にされていくことでしょう。

福音書のイエス像は人工の創作物

聖書は、その当時の宗教と社会と文化の産物です。バイブルには、イエスが生まれる以前より存在した書物からの引用が数多く見られます。バイブルの中には、他の文化圏の神話が多く含まれています。「キリスト教の“イエス伝”である福音書からは、史実としてのイエスの姿を明らかにすることはできない」――これが今日の聖書学者の一貫した見解となっています。イエスを知る唯一の手がかりと思われてきた福音書を通しては、真実のイエスの様子を知ることはできないということなのです。

福音書の中のイエスについての記述は事実ではなく、後世の人々のさまざまな思惑によってつくり上げられた創作と言ってもいいようなものです。それは福音書のイエス伝の中に、異教の神話からの引用が多く見られることによっても明らかにされます。例えばイエスが処女マリアから生まれたというストーリーについては、同様の話が、イランの神話の中に見出されます。その神話の中に登場する神は、未来の救世主とされ、終末時に現れて永遠の生命を与えるとされてきました。この神話がキリスト教に取り入れられて、イエスの架空の人物伝を形成することになったのです。

さらにその神の分身である別神は、誕生日が12月25日とされています。世界各地の神話の中では、しばしば12月25日が神の誕生日とされてきました。それは“太陽信仰”に基づくもので、1年のうちで最も太陽の力が弱くなる(1日の日照時間が最も短くなる)12月25日の冬至の時期に、神々が新たに生まれ変わり再生すると考えられてきたからです。日本の神道も典型的な太陽信仰「天照大神」という名称が端的にそれを示しています)で、やはり冬至の時期に神が生まれ変わり蘇るとされ、それが神道の最大の行事となってきました。

イエスの誕生日が12月25日とされた点に、それ以前から周辺地域で行われてきた“太陽信仰”がキリスト教の中に取り込まれたことが示されています。言うまでもないことですが、イエスが12月25日に生まれたとする根拠は、どこにもありません。

一方、古代エジプトの宗教では、オシリスとイシスとホルスという三位(さんみ)の神を崇拝していました。そこにおける女神イシスとその子ホルスの関係が、キリスト教の中に取り入れられて、マリアとイエスに関する神話をつくり出しました。当時のエジプトの宗教では、イシス神は処女でありながら子供をもうけています。その子供であるホルス神は、蘇りの神であり、しかもホルス神は馬小屋で生まれたことになっています。オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神とされています。この三位の神の構図は、まさにバイブルの中に記されたストーリーと瓜ふたつです。

このように他の宗教の神話を材料として“イエス像”がつくられ、イエスの神格化が進められました。こうした事実を見ると、バイブルは人工的な神話以外の何ものでもないことが、よく分かります。バイブル(聖書)を通して、真実のイエスの姿を知ることはできません。どれほど聖書を研究しても、そこから真実のイエス像が浮かび上がってくることはありません。

3.イエスの死後につくられていったキリスト教

パウロの誤解からつくられた“根幹教義”

一方、キリスト教の信仰の中心的概念(教義)は、イエスの言葉だけでなく、パウロの個人的解釈によって形成されたところが大です。その意味でキリスト教は、実際には“パウロ教”と言うべきものです。

そのパウロの解釈には、霊的事実に照らしたとき多くの点で本質的な間違いが見られます。「イエスを信じることによって救いに与(あずか)ることができる(信仰による義認)」「イエス・キリストによる贖罪(しょくざい)によって人類は罪が許され救われる(贖罪による救済)」など、霊的事実から大きく逸脱したパウロの個人的見解が、やがてキリスト教の根幹教義となっていくことになります。

“ニケーア公会議”での陰謀

イエスについての決定的に間違った考え方が、325年のニケーア公会議によって定着することになりました。イエスを神とする間違ったイエス観が、このニケーア公会議によって公認され、キリスト教の正統教義となってしまいました。

ローマ皇帝コンスタンティヌスが、小アジアのニケーアに、帝国全土の司教を招集して宗教会議を開きました。この会議で、「(イエスは神によって造られたものであり、そうである以上)イエスは神ではない」とするアリウス派と、「(イエスは神によって造られたものではなく創造する側にあり、それゆえ)イエスは神である」とする皇帝派が激しく対立しました。圧倒的多数のアリウス派によっていったんは「イエスは神ではない」との見解が採択されましたが、怒ったコンスタンティヌス帝は武力でアリウス派を国外追放し、残った300名の皇帝派の者たちによって「イエス、イコール神」というイエス観を満場一致で採択してしまいました。ここにイエスを神とする見解がキリスト教の公式教義となり、アリウス派の見解は異端とされることになりました。こうして霊的事実から懸け離れた「イエスは神である」との教義に立ったキリスト教が誕生することになったのです。そのキリスト教はローマの国教となり、イエスを神とする誤った考えがキリスト教の正統教義として、21世紀の現代に至るまで延々と続くことになりました。

次で述べますが、イエスが神であるはずがありません。そうした事実は霊界のどこにも存在しません。しかし人間の「霊的無知」と勝手な都合によってつくり上げられた間違ったイエス像は、その後、長期にわたって人々を洗脳し続けました。そして現在も多くのクリスチャンが、真実とは異なるイエスを信仰の対象として崇拝しているのです。

4.イエスをめぐるスピリチュアリズムとキリスト教の対立

キリスト教は世界三大宗教の一つとして、歴史上、人類に最も大きな影響を及ぼしてきました。キリスト教はイエスを「罪のない唯一の神の子供」として、また人類に救いをもたらす「救世主(メシア)」として考えてきました。イエスをメシアと信じることによって罪が許され、救われると教えてきたのです。またキリスト教では「三位(さんみ)一体論」(注2)に基づいて、イエスを“神”として説いてきました。

スピリチュアリズムは、このような霊的事実に反するキリスト教の“根幹教義”を全面的に否定し、真正面からキリスト教と対立してきました。キリスト教は、そうしたスピリチュアリズムを“サタンの手先”と見なし、徹底して非難・迫害をしてきました。

(注2)

キリスト教神学では、神には「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」という三位があるとします。これら3つの神は独立して別々にあるのではなく、3者が一体となって1つの神を形成しているとします。神は創造以前から完全なものであり、父と子と聖霊も創造以前から一体のものであったとします。これがキリスト教の正統教義として、ニケーア公会議で決定された「三位一体論」です。

この三位一体論によるなら、イエスは被造物ではなく神であり、創造主の側にある絶対者ということになります。イエスは創造主と全く同質の創造主であり、永遠の神ということになります。キリスト教徒(カトリック教徒)が言う“イエス・キリスト”とは、こうした神であるイエスを意味しています。この「三位一体論」を純粋に論じて神学的基礎づけをしたのが、ラテン教父の代表であったアウグスティヌスでした。

イエスこそ、スピリチュアリズムの主導者

スピリチュアリズムは、キリスト教の思い描いてきたイエス像を根本から否定しますが、イエスの存在そのものを否定しているわけではありません。それどころかイエスこそが、霊界を挙げてのスピリチュアリズム運動の主導者であり、一番の中心者・最高責任者であるとします。“スピリチュアリズム”は、まさにイエスによって始められた大プロジェクトなのです。

この意味においてイエスの存在は、キリスト教徒と同様に、スピリチュアリストにとってもきわめて重大な意味を持っています。スピリチュアリズムの精神は、イエスの意志そのものなのです。

【2】スピリチュアリズムによって初めて明らかにされた真実のイエスの姿

スピリチュアリズムによって知ることが可能になった“イエスの実像”

2千年前、イエスに付き従って生活をともにしてきた一部の弟子たちは、キリスト教で説かれてきたのとは全く異なるイエスの姿に触れていたはずです。ところが残念なことに弟子たちは、目の前のイエスの霊的価値と霊的背景を正しく理解することができませんでした。また弟子たちは、イエスの言動を詳細な記録として残すことをしませんでした。これが、その後のキリスト教の間違ったイエス像、人為的に捏造されたイエス像を形成する遠因となってしまいました。

「イエスとは、いったいどのような人物であったのか?」「現在イエスは、どこで何をしているのか?」――こうした質問に対する答えは、どれほど聖書を読んでも得られません。どれほど新たな古文書が発見されても、その全貌が明らかにされることはありません。では私たちは、イエスの実際の姿や様子を知ることは、一切できないのでしょうか。

実はスピリチュアリズムの到来によって、地上人類は“真実のイエスの姿”を知ることができるようになったのです。霊界を挙げてのスピリチュアリズム運動の中で、高級霊界から地上世界に向けて降ろされた霊界通信が、当時のイエスの様子と、霊界における現在のイエスの実像を伝えているのです。

イエスは2千年前に地上世界を去り、その後、今日に至るまでずっと霊界の住人として存在してきました。霊界でイエスと直接交わることのできる高級霊によって、イエスのありのままの様子が地上に伝えられるようになったのです。言うまでもなくそれは、これまで地上人類が全く知ることのなかった、まさに奥義(おうぎ)とも言うべき内容であり、スピリチュアリズムによって初めて実現した快挙です。

イエスと直接触れ合うシルバーバーチ霊

シルバーバーチは、自分がイエスと近しい関係にあることをしばしば述べています。シルバーバーチは、キリスト教の牧師との論争の際――「私はあなたが想像なさる以上に、イエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.366)と述べています。また「今この時点でなさっているイエスの仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでおられないことも知っております」『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.364)とも述べています。さらに「私は何度となくお会いしております。イエスは“父”の右に座っておられるのではありません。(中略)イエスは進化せる高級霊の一人です。地上人類の手の届かないほど誇張され神格化された縁遠い存在ではありません。すぐに手の届くところで、あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられるこの真理普及の指揮をなさっておられるのです。(中略)私たちが実際にお会いし、そして激励の言葉をいただいているのが、実在の高級霊、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれていた方なのです」『シルバーバーチの霊訓 霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)  p.65〜66)と言っています。

この後【5】でも述べますが、シルバーバーチは、年に2回、霊界の最上層で行われるイエス主宰の高級霊の大審議会に参加が許されており、そこでイエスに会って直接指導や指示を受けるという立場に立っています。シルバーバーチは現在も同じように、定期的にイエスに会っているのです。

高級霊によって明らかにされたイエスの実像――“6つのポイント”

シルバーバーチなどの高級霊によって今、イエスの実際の様子とイエスの霊的立場が伝えられるようになりました。イエスに対する「霊的事実」は、これまで地球人類には奥義として隠されていたものです。スピリチュアリズムが地上で展開するようになって、初めて知ることが可能となったのです。

シルバーバーチによって人類史上、初めて明らかにされたイエスの実像は、次の6つのポイントにまとめられます。

  1. イエスは神ではなく、私たちと同じ人間である。
  2. イエスは地球人類史上、最高の霊性レベル(霊的成長度)に至った人間である。そして今現在も地球出身の霊たちの中で、最高の霊格を持った高級霊として霊界の最上層に住んでいる。
  3. イエスはスピリチュアリズムを主宰し、これを通して「全人類救済活動」を推し進めている。イエスはスピリチュアリズムの指揮官であり総責任者である。
  4. 地上時代のイエスは卓越した霊能者であった。これによって数々の目覚しい心霊現象を現出させた。
  5. イエスが地上時代に説いた教えは、愛なる神の存在と、神の愛に倣(なら)ってお互いが利他愛を実践することの重要性を強調するものであった。その教えは実にシンプルなものであり、キリスト教の教義とは似ても似つかぬものであった。
  6. イエスに対して私たちがとるべき姿勢は、イエスを信仰の対象として崇拝することではなく、神の摂理に忠実な生き方をした“人間の手本”として見習うことである。

イエスは、キリスト教で言われてきたような神でもなければ、罪なき唯一の神の子供でもありません。イエスは、私たちと同じ人間であり、死後は霊界で一人の高級霊として生き続けています。ただその霊性レベル(霊的成長度)は、他の霊と比べたときに飛び抜けて優れており、地球人類史上、イエスに匹敵する高い霊性の持ち主は存在しません。イエスは2千年前に、「地球人類の魂を救済する」という使命を持って地上に降臨しました。死後は霊界において、地上で始めた救済活動を継続し、それが現在“スピリチュアリズム”という霊界を挙げてのプロジェクトとして展開することになっています。イエスは今この時も、霊界においてスピリチュアリズムの陣頭指揮を執り、地上世界に働きかけています。

イエスが地上時代に見せた目覚しい奇跡的な心霊現象は、彼が卓越した霊能者であったことを示しています。イエスを“霊能者”という観点から見るならば、イエスは人類史上、最高レベルの霊能力を発揮した人物ということになります。

こうしたイエスに対して、私たちがとるべき態度は、クリスチャンがこれまでしてきたような信仰の対象として崇拝することではありません。同じ人間としての最高の生き方の見本と考えるべきなのです。そしてイエスを見習って、より良き地上人生を歩むように努力するということなのです。

以下では、上述した1〜6の内容を詳しく見ていきます。

【3】イエスについての真実〈1〉……イエスは神ではなく、私たちと同じ人間である

イエスは私たちと同じ人間

キリスト教では、イエスを私たちと同じ人間ではなく、罪のない唯一の神の子供であり、同時に神であるとしていますが、それは「霊的事実」に照らしたとき、すべて間違いです。スピリチュアリズムは霊的事実に基づいて、イエスが私たちと同じ人間であることを明らかにしています。

イエスの出生も死も、私たち人間と同じです。そこには何の奇跡も特殊な状況もありませんでした。処女から奇跡的にイエスが誕生したのではありません。イエスに肉体を提供した父と母がいて、彼らによってイエスは、地上で生活するための肉体を得たのです。そして十字架にかけられて肉体を失った後は、霊として霊界で永遠の人生を過ごすことになりました。イエスは今、霊界にいる他の億万の霊たちとともに生活しています。イエスは霊界で一個の霊として現在まで存在してきましたし、今後も同様に霊界で生きていくことになります。

イエスの誕生や死にまつわる奇跡の記述は、後世の人々がイエスを神格化するために、他の多くの神話から材料を借用して意図的につくり出したものです。

「イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.263

「イエスも大霊が定めた自然法則、すべての人間がこの地上界へ誕生するに際してお世話になる法則の働きで誕生しております。この地上界へ生まれ、生き、そして霊界へと旅立って行くに際しては、いかなる人間も大霊の自然法則の働きに与(あずか)るのです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.159

イエスが神ではないということは、イエス自身が述べた言葉からも明らかです。イエスは「天にまします我らが父に祈れ」と言っています。「自分に祈れ」とは言っていません。父に祈れといったイエス自身が、天にまします我らが父であるはずがありません。私に祈れとは言わずに、父に祈れと言ったのです。このことからイエスが神ではないことは明白です。

先にも述べましたが、イエスを神とするキリスト教の「三位一体論」は間違っています。

「イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出てきたのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。」

『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)  p.42

「神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かもしれませんが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。」

『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)  p.43

イエスだけが唯一の神の子供ではない

キリスト教では、イエスだけを罪のない唯一の神の子供であるとします。しかし神の分霊として、個別霊として誕生した人間は皆、「神の子供」です。イエス一人が神の子供ではなく、分霊を付与された人間は全員、イエスと等しい神の子供なのです。この点で、イエスだけを唯一の神の子供とするのは間違いです。

スピリチュアリズムでは、神の分霊を“ミニチュアの神”と表現することがありますが、それは人間が「神(大霊)」そのものという意味ではなく、神から分離・創造されて独立性を持った「個別霊」ということなのです。神の分霊であるため、人間に内在する霊(ミニチュアの神)は、大霊と同一の霊的要素を持っています。赤ちゃんの肉体が、母親の肉体と同じ要素を持っているのと同様の意味で、人間は神の一部と言っているのです。出生後の赤ちゃんと母親が別々の存在であるように、神から創造された人間は、神と同じ要素を持ちつつも別の存在、独立した存在なのです。

「イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を付与した、宇宙の大霊そのものではありません。」

『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)  p.264

「イエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.337

人間には“原罪”はない。原罪は「霊的無知」から人間が勝手につくり出した概念

キリスト教では、人類の始祖が神の掟(おきて)に背いて堕落したために“原罪”が発生し、それが子孫に遺伝して人類に罪が行きわたったと考えます。人類は皆“罪人”であるとし、人間はこの罪ゆえに肉体の死を迎えるようになったと教えています。そしてこの罪を持っていないのが「唯一の神の子供」であるイエスであり、そのイエスは十字架にかけられた後に復活したと説いています。

霊的事実に照らしてみれば明らかなように、原罪ならびに、すべての人間が罪人であるという事実は存在しません。また人間始祖を誘惑して罪人に陥れたとするサタン(堕天使)も存在しませんし、そうした原罪やサタンの存在を認める霊界人はいないのです。罪によって肉体の死がもたらされるようになったという考え方は、霊的事実に対する「無知」としか言いようがありません。

キリスト教が“原罪・罪”と言ってきたもの、あるいは他の宗教(仏教など)が“煩悩(ぼうのう)”と言ってきたものは、肉体を持っているがゆえに簡単に「肉主霊従」に傾いてしまう地上人の内的傾向を指しているのです。地上の人間は肉体があるために、本能的思いに引きずられ、清らかな霊的意識を持ち続けることができません。努力しても、なかなか純粋な霊的意識を保つことができません。ここに高い霊的境地を求める求道者としての苦しみが発生します。そうした状況を“罪”とか“煩悩”として、悪なる対象と見なしてきたのです。

しかし肉体は、神が人間の「霊的成長」を願うところから与えたものです。肉体は、厳しい物質的環境の中で霊的成長を目指して生きていくための“道具”です。その意味で肉体から生じる苦しみは、神が与えた訓練として受け止めるべきものであり、罪や煩悩として非難し忌み嫌うようなものではありません。地上という物質世界での生活は、せいぜい100年にも満たないものです。死ねば物質の束縛から解放されて、霊界で自由にのびのびと生活することができるようになります。

こうした神の配慮を知らずに、人間サイドの判断で“罪”だとか“煩悩”だとか言うことは「霊的無知」以外の何ものでもありません。イエスをそうした論法の中で語ること自体が、全く意味のないことなのです。原罪も罪も実際には存在しない以上、キリスト教の説く「イエスは罪なき唯一の神の子」「罪なきゆえに神と人間の仲介者として罪人を許し救うことができる」といった教えは、すべて間違っています。

イエスの人間性を示すエピソード

バイブルの中には、イエスの人間性を示す記述が見られます。その一つが、イエスが両替商人を教会堂から追い出した話です。イエスは教会堂という神聖な場所を汚す人間に腹を立て、ムチを持って追い払いました。その怒りは霊的な動機としては正しいとしても、怒りはどこまでも怒りです。“怒る”ということは人間的な感情です。この事件は、イエスがごく普通の人間的感情を持っていたということを示しています。イエスが神ではなく、人間であることを表すエピソードと言えます。

イエスの生前の生活は実に庶民的でした。イエスを取り巻く生活は、和気あいあいとした雰囲気に包まれ、イエスもそれを心から楽しんでいたものと思われます。バイブルには、そうしたイエスと人々との交わりについての記述がほとんど見られません。イエスを神格化しておくために、意図的にイエスの人間性を記さないようにしたものと思われます。

イエスを同じ人間として見る

シルバーバーチは、次のように言っています。

「誰の手も届かない所に祭り上げたらイエスが喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位に留まることは、イエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.352

「イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕(しもべ)であったということです。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)  p.104〜105