撮影日記 2011年9月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2011.9.30(金) なまんだぶ、なまんだぶ

 時々、炊事場や流しや風呂に、折れたシャープペンシルの芯くらいの大きさの黒い粒が落ちていることがある。
 うっかり持ち込んでしまった砂粒なんかの見間違いのこともあるだろうけど、たぶん、ゴキブリのフンだ。
 一度見かけたら、取っても取っても、毎日のように見つかるようになる。
 付近の隙間に隠れて明るい時間帯をやり過ごし、夜になると出てきて水を飲む。
 
人間にとっては小さな水のしぶきも、ゴキブリにとっては立派な湿地であるに違いない。
 僕は次第に、ゴキブリを、水辺の生き物だと感じるようになってきた。
 

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX

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 それにしても、ゴキブリというやつは、なんでこんなに怖いんだ?
 いつでも逃げられるようにへっぴり腰でカメラを構えるものだから、どうして?と首をかしげたくなるくらいに、ほとんどすべての写真がブレていた。
 カメラメーカーは、そんな撮影のためにも、もっと強力なブレ補正を開発すべきだと思う。

 這いずり回った際に病気を運んでしまう危険性があるなどと言われるが、実際にはおそらくほとんど害はないだろう。同じ嫌われものの生き物の中でも、蚊や蜂とは、根本的に異なる。
 しかし、どんなにそんな風に説明をされても、ゴキブリが駆除の対象であることは、まず変わらないに違いない。
「害がない生き物は殺さないで!」
 と主張する人のその言葉が本物であるかどうかは、ゴキブリに対する接し方を見ればわかるというものだ。ゴキブリのために餌台を設けるくらいなら、見上げたものだと言える。
 僕は、もちろん、
「ごめんなさい。きれいごとを言いました。」
 と心の中で自分勝手さをわびつつ、ゴキブリには、基本的に死んでもらっている。

 カメラという道具は偉大だなぁと思うのは、普段ならそうして一秒でも早く消えてほしいゴキブリが、カメラを手にした途端におもしろい存在になることだ。
 普段自分が嫌いなものを、カメラを手に取材してレポートを作成する授業を、義務教育の現場に導入すべきだと思う。
 おそらく、偏っていたり一方的な物の見方を修正する、非常に意味のある時間になるに違いない。

 さて、数分写真を撮ったところで、ゆっくりとゴキブリが動き始めた。
 さすがに、そのまま家の中のどこかに潜り込まれては困る。僕とゴキブリの不思議で、少しだけ素敵な時間が終わろうとしていた。
 なまんだぶ、なまんだぶ。
 
 
 

2011.9.28〜29(水〜木) 寄り道の寄り道








 本を作る際に、別に1ページ目から順に撮影する必要はないし、むしろすぐに撮れるシーンから撮影していく方が合理的なのに、どうしても順番にこだわりたい時がある。
 
 さて、火山の撮影に出かけたのだが、最初に撮りたい1枚の写真を撮るための条件が、なかなか整わない。
 そんな時は、火山に関する他のシーンを撮影しながらタイミングを待てばいいのだろうが、どうしてもそんな気になれない。
 そこで、いっそうのこと火山の撮影をやめにして、渓谷で滝の写真を撮ることにした。

 ところが今度は、滝の写真を撮るための条件が整わず、数時間待つことになった。
 そして、滝の代わりに小さな生き物たちにカメラを向けた。
 野球で言うなら、代打の代打というやつだろう。
 プロ野球の試合で、攻撃側が代打を送ると、守備側がその代打に合わせて投手を変えることがある。右バッターや左バッターと、右の投手や左の投手との組み合わせの相性があるのだ。
 すると攻撃側が、まだ一度の打席にも立ってない代打を引っ込めて、別の代打を送る場合がある。
 ともあれ、何かの待ち時間に別の被写体にカメラを向けてみる場合は、本気になり過ぎないようにしなければならない。滝の写真を撮れるための条件が整えば、スパッと切り替えて滝に向かうのだし、さらに火山の撮影のための条件が整えば、今度は滝の撮影も取りやめにして火山に向かうのだから、今自分が立っている場所から、労せずして撮れるものにカメラを向ける。

 最初は、セミの写真を撮った。
 レンズを変えて、もっといい撮影ポジションから・・・などという野暮なことは考えないようにして、今立っている場所からバカ正直にシャッターを押してみる。
 頭の方が影になって暗いが、ストロボを光らせたりすることなしに、ありのままに撮る。
 そして今度はクモだ。
 後ろ足の付け根の淡いブルーがやけに美しい。
 風が強くてピントが合わないので随分待たされたが、カリカリしない。暇つぶしなのだから、すぐに撮影が終わってしまっては、むしろ困る。
 手抜きとはちょっと違う。
 売れる写真を撮りたいとか、使える写真を撮りたいなどということを、考えないだけ。
 趣味としてカメラに触れるのだ。
 
 
 

2011.9.26〜27(月〜火) 短気は損気



 写真家と編集者が、とある企画のために、連れ立って撮影に出かけたのだそうだ。
 ところが天候が思うようにならず、編集者は焦りだした。
 すると写真家がいう。
「思い通りにならないのが自然。でも、その自然を丁寧に見つめていると、当初撮りたかった写真は確かに撮れないかもしれないけど、それに匹敵する別の写真が必ず撮れるものですよ。」
 と。
 編集者は、その言葉を人生の節目節目に思い出すのだという。
 今度は僕が、その編集者の言葉を思い出す。
 僕は、自分が自然写真の仕事をしているのだから、写真家の言うことは良くわかる。そもそも僕の場合、一般的に言われるいい条件よりも、悪条件下での撮影の方が燃えるようなところがある。
 でも、それを写真や仕事の局面のみならず、自分の人生全体に広げて考えることができるかな?
  
 さて、夕刻に間に合うように無休で車を走らせ、鹿児島に向かった。
 撮影は夜の間だが、日があるうちにカメラをセットしなければ、構図やその他を整えることができない。
 しかし、出発前に終えなければならない仕事に手間取り、ほんの15分間に合わず、カメラをセットすることができなかった。
「あ〜空しいな。そんなことなら、のんびり車を走らせれば良かった。」
 ところがしばらくすると、雨が降り出した。夕刻に間にあっていたならば、カメラを撤去しなければならないだろう。
「そうかそうか、どうせ撤去することになるのなら、間に合わなかった方が良かったかな。」
 一度構えたカメラを引っ込めるのは、精神的なダメージが大きく、妙に疲れるのだ。
 天気予報を見ると、翌日〜翌々日は晴れ。
 「まあ、明日じっくり構え直そうか!」
 ところが、予報は見事にはずれて、一日雨。しかたがないから滝の撮影に行ってみたら、初対面のカタツムリがいて、楽しかった。
 見た目や雰囲気は、中国山地に多く生息するセトウチマイマイに似た感じがするが、何ていう種類だろうか?
 帰宅をして図鑑を開くのが楽しみだ。
 楽しくなったり、がっかりしたり、まるでオセロゲームのように、コロコロよく変わる。
 何がいいことで、何がよくないことなのか、簡単には論じられないのであり、とにかく短気は損気。
 
 
 

2011.9.25(日) 続・人の意見

「老婆心ながら・・・」
 という言い方がある。
 いろいろな局面で使用されるが、基本的には、先輩がより若い人に対してアドバイスをする際などに、
「決して損はしないはずだから、私の言うことにとにかく従ってみなさい。」
 といったような意味合いで、前置きとして使われる場合が多いように思う。

 僕はこの言葉が、好きではない。
 そもそも、年功序列という発想が大嫌いだということもある。僕の方がより年上だという理由で、年下の人から立ててもらうのも好みではないし、逆に、相手が年上だという理由だけで、立てる気にもなれない。
 年功序列が悪いとは思わないのだが、それが特に正しいとも思えず、それを振り回されると不愉快に思う。
 この人をお手本にしたいなと感じる誰かは、自分の先生は、自分で見つけたい。

 また、少々譲って「老婆心ながら」という言葉を受け入れるとするならば、その言葉は愛情から発せられるべきであり、その人は相手に対して絶対的な愛情を持っている必要があると思う。仮に相手が自分の意見に従わなくても決して揺らがないような愛情を。
 だが実際には、老婆心ながらという言葉は、10中8、9、「俺が正しいんだ。俺の言う通りにしろ!」、という自分の主張を押し付ける際の大義名分として使われる。
 相手の愛情の有無は、そのアドバイスに従わなかった時によく分かるだろう。愛情がない人は、
「せっかく俺が言ってあげているのに・・・・」
 と腹を立てるに違いない。
「老婆心ながら」という言葉に限らず、例えば、「人の意見にまず従ってみることが大切ですよ。」とか、「せっかくアドバイスをしてあげているのに」などと、相手を思いやるふりをして、自分の主張をきかせようとするのは、アドバイスでもなんでもない。
 自分の主張は、アドバイスのふりをして誰かにやらせるのではなく、自分の時間を使って、自分の手足を動かして、自分がリスクを取って、自分で実現するべきだと思う。

 僕は、人の意見に従うことがあるけれども、それは、人の意見には従ってみるべきだから、という理由でそうするわけではない。
 相手の話の中身を検討し、説得力があると思うからやってみるのであり、場合によっては従わない可能性だってある。
 人の意見に従ってみること以上に、自分のことは自分で考え、自分で決め、自分で実行することが大切だと思う。



 先日、師匠の意見に従ってみたら、たくさん魚が釣れたことを書いた。
 しかし僕は、すべて師匠の意見に従っているわけではない。
 師匠は文学や作家的な生き方にも興味をもっておられ、僕が写真家を志す際にも、ずいぶん意見を投げかけてくださったけどれも、僕はそれには1つも従わなかった。
 もしも1つでも従っていたら、おそらく写真では飯が食えてないだろうし、今の自分はないだろう。
 それでも、こうして一緒に釣りに行くことができるし、
「おい、ヤマメ釣りというのはな・・・。」
 と相変わらず話をしてもらって、大きな意味で見守ってもらえる。
 
 
 

2011.9.24(土) 弁当取られた

 釣りの途中で忘れ物に気づいてバンガローに戻ったら、猫が広場で袋の中に顔を突っ込み、中の弁当を食べている真っ最中だった。
 それにしても他に宿泊者もいないのに、弁当をどこで手に入れたんやろう?と一瞬考え、すぐに重大な事態だと気付いた。
 もしかして僕らの弁当?
 ああ、間違いない。途中で立ち寄ったコンビニの袋。
「チクショウ〜コイツめ。」
 でも、いったいどうやって建物の中にある弁当を盗み出したんやぁ?どんな特殊な能力の持ち主なんやぁ。
 それを想像すると、猫が化け猫に見えてくる。
 とにかくバンガローに入ろうとしたら、すぐに訳が分かった。
 入り口が開けっ放しだった。
 確か、最初に弟が釣りに出かけた。
 そのあとで、僕が出た。
 最後に出たのは師匠だから、師匠が入り口を閉めなかったことになる。
 ともあれ、僕にとって問題なのは、その弁当が誰のものかだった。
「あ〜良かった。僕の弁当じゃない。」
 人が悪いが、正直言ってホッとした。
「お〜い、入り口を開けっ放しにしとるもんやから、誰か弁当を猫に取られとるよ。」
 自分の弁当さえ無事なら、気楽なものだ。実に大人げない。
 
 一方で、複数で釣りにいって、誰かがだけが釣れなかったりすると楽しくないものだ。だから、みんな釣ってほしいな、と思う。
 一般的な感覚からいうと、誰かが釣れなくてもそれは仕方がないことであり、僕が気に病むようなことではなく、むしろ誰かの弁当が猫に取られることの方が問題だろうが、夢中になって釣りをするというのは、そういうことなのだ。
 
 
 

2011.9.21〜23(水〜金) 人の意見

 年齢からくる体力の衰えで事実上引退していた渓流釣りの師匠を、僕と弟で誘い、最初にヤマメ釣りに行ったのが、7月半ば。
 師匠は、
「誰かに車を運転してもらってウイスキーを飲みながら、釣り場に行くのがワシの一生の憧れだぁ。」
 とそれを実行し、ある日の昼間出発してから翌日の夕刻帰宅するまで延々とウイスキーを飲み続け、その二日間の記憶がほとんどない。帰宅後に、あまりの酔っ払いぶりに周囲の人からはずいぶん白い目でみられたようだ。
 人にはいろいろな価値観があるので、それもよかろうと思う。ただ、万が一、それが最後の渓流釣りになってしまったらやはり気の毒なので、もう一度釣りに誘ってみたら、師匠も同じことを感じておられたようだ。
「今度はお酒を飲まずに釣りたい。」
 という。
 ところが、台風がやってきた。川は増水し、かなり濁っている。
 お酒は飲まないといっても、ビールはお酒に含まれないのだそうだから、人の話を聞くのはとても難しい。今回は、4リットル強のビールを楽しんでおられた。




 魚は、ほどほどに濁った時に、一番よく釣れる。そうした濁りをささ濁りというが、今回は明らかにそれを超えている。
 餌釣りなら、対応ができる範囲だが、僕らは餌ではなくて、ルアーという疑似餌で釣る。そして、そのルアーでは大変に厳しい状況だと思われた。



 しかし、さすがに師匠は名人だ。
「こんな時にはこんな時の釣り方がある。よう見ちょけ。ワシがそれを伝授しちゃろう。いいか、人の意見はよう聞いて、まずはそれを試してみることが大切や。」
 とやって見せてくださった。



 師匠に教わった通りに釣ってみたら、一見悪条件であったにもかかわらず、次から次へと魚が釣れた。
 朝、一時間強の間に7匹の魚が釣れ、前日の夕刻釣った分と合わせて10匹になったので、僕はそれ以上の釣りをやめることにした。
 どんなに川が荒れていても、魚は絶対にどこかにいるわけで、そんな時だからこそ釣るのも、魚を知ることだといえる
 それをすることなしに、自然を、釣りを語るなかれ。
 不愉快なのは、九州の河川には本来生息しないイワナを放流した馬鹿者がいること。今回の川に限らず、あちこちでちょくちょく釣れるようになった。
 画像の一番右側の魚がイワナだ。

 帰りに、菊池渓谷によってみた。
 僕がいつも写真を撮る範囲は禁漁区になっていて、人をあまり恐れない巨大なヤマメの姿が見られる。今回も、軽く30センチを超えた超大物が白泡の中からさっと現れ、水面に落ちた昆虫か何かをパクッと咥えて立ち去った。
 師匠は、流れを軽く眺める程度で、釣りができない場所にはほとんど興味をしめさない。
 これが釣り師なのだ。
 僕は、魚や川には興味があるけど、釣りにはほどんと興味がない。
 写真にも同じことがいえる。 僕は自然には興味があるけど、カメラや写真には、あまり興味はない。
 プロの写真家が、そんなことがあるのですか?と聞かれることもあるが、むしろ、そちらの方がプロ的な世界なのではないかと思う。プロの写真の世界は、写真=被写体なのだ。
 以前、有名な写真家である立木義浩さんが、何かの本の中で、
「プロの写真家には写真きらいが多いわけ。必要な時にしか写真を撮りたがらない。でも、おれは写真が好きだから、いつも撮っているよ。」
 といったことを、わざわざ書いておられた。
 
 
 

2011.9.20(火) 感じ方

 何の宣伝だっただろうか?柔道の吉田秀彦選手が出てきて、柔道教室の風景の中で、
「子供の時は柔道が強いかどうかよりも、根性とか、・・・とか、・・・を身に付けることの方が大切。」
 といった風に語るテレビのコマーシャルがある。
 根性という言葉は、最近はあまり耳にしなくなっているように思う。だからかな?何だかとても新鮮に聞こえ、妙に耳に残った。
 僕は、根性などと言われるのは大嫌い。
 だけど正直に言えば、やっぱり根性が必要な場合があると思う。いやいや、少なくとも、僕の撮影の仕事は、最後は、何を撮るにしても根性の世界。
 もうちょっとスマートにできたらなぁなどと自分が恥ずかしくなることもある。
 一方で、普段、根性などという発想を否定するような発言をしておられる方の行動が、言葉とは裏腹に、根性に満ち溢れていたりする。そんな時には、大変にホッとさせられる。

 また、楽しむことを重視するような発言をしておられる方の振る舞いを見たら、その人が楽しむというよりは、むちゃくちゃに頑張っておられたりする。
 楽しむというのは、人から見たら苦行にも思えることを楽しくやれることであり、決して楽をすることではない。
 要は、その人の感じ方次第。

 さて、以前、天気予報が「雨」と言えば、カメラを持って出かけ、水辺で写真を撮って回った時期があるが、雨が待ち遠しくて待ち遠しくてたまらなかった。
 ところが雨の写真を撮らなくなったら、今度は雨が鬱陶しく感じられるようになった。時には、片頭痛というやつに悩まされるようにもなった。
 でも今日は、雨の中、カタツムリを探しに出かけたら、雨が実に心地よかった。
 ここに載せることができる写真を撮れば良かったなぁ。いや、カメラがない方が、雨の中のカタツムリの観察は楽しいかな・・・。

 採集したカタツムリは、来年繁殖させる。
 生まれて間もない小さなカタツムリは、ある程度の大きさにまで育てるのが、種類を問わず案外難しくて率が低かったのだが、今年はついに方法を確立することができた。
 
 
 

2011.9.17〜19(土〜月) 一人ではできないこと

 NHKの自然番組などを見ると、組織の強みを思い知らされる。特に張り込みをしなければ撮影できないシーンなどは、
「あぁ、よくこんなしんどい撮影をこなしたなぁ」
 と関心させられるのだが、
「そうかそうか、連中はチームで仕事をするんだ!」
 一人で連続して張り込みを続けることができる時間なんて、たかが知れている。
 食事の時間くらいなら、保存がきくもの齧っておけば、何とかしのげる。トイレも、おまるで我慢して、カメラのシャッターに指をかけてままうんこをすれば、ギリギリなんとかなるだろう。
 が、睡眠に要する時間はどうにもならない。
 以前、韓国の軍隊を特集した番組で、丸3日間眠ることなしにぶっ続けで行う訓練が紹介されたが、死ぬ気でやったって、せいぜいそんなものだろう。
 ところが2人で交互に張り込みをすれば、半永久的にシャッターチャンスを待ち続けることができる。
 とにかく、一人ではできないことが、可能になる。
 一方で、組織には組織の難しさがあるに違いない。

 さて、僕は、どこかの組織の正社員になった経験はないが、「水と地球の研究ノート」(偕成社)をいっしょに作ったボコヤマクリタさんは、組織のこともよく知っておられる。
 そのボコヤマさんが、以前、組織について、
「組織では、分業をした際に、自分のパートのことしか考えなくなってしまう嫌いがある。」
 と話してくださったことを思い出した。
「 1+1 が 2 にならずに、1.5 くらいになってしまうんですよね。」
 と。
 なるほどなぁ。
 僕の場合、撮影した画像をボコヤマさんに渡せば、それが見事にレイアウトされたものが送り返されてくる。そしてそんなことを何度も繰り返すうちに、僕にとってボコヤマさんが一種の打ち出の小槌になり、頼り切ってしまう。
 しかし、自分で詰めることができるギリギリのところまで詰めておくことがやっぱりやっぱり不可欠。頼り切ってしまった結果、1+1 が1.5 にならないように。最低2 になるように!

 ボコヤマさんとは、「水と地球の研究ノート」(偕成社)に限らず、単行本をたくさん作りたい。そして、写真の発表の場はいろいろとあるけどれも、中でも単行本を作ることは、大変に敷居が高い。
 だからいつの間にか、とにかく本がでればいい、となってしまいがちだけど、そうではなくて歴史に残る名作を残すというつもりで本作りに望みたい。
 そのためには、僕がボコヤマさんにどんな写真を渡すかだけでなく、どんな風に渡すかの精度も上げなければならない。1+1 が2 でもなく、二人の間に化学反応が起きて1+1 が3か4くらいになることを目指したい。
 よく言われる言葉で俗っぽいが、やっぱり、「満足したらおしまい。」なんだろうなぁ。 
 
 
 

2011.9.16(金) 原因追求

 調子が上がらないとき、僕はその不調を短期間でやり過ごそうとするよりも、不調にある程度お付き合いし、原因を把握しようと試みる。だいたい、結果オーライという考え方が好きではないのだ。
 ここのところも、大変に調子が悪かった。そこでいろいろなことを試した。
 昨日からは、今年撮影した写真を本の体裁にしてみた。
 すると、随分引きずっていた不調が、さっと引いていく感じがした。
 なるほど!自分がどこに引っかかっていたのかがわかった。
 写真は、撮りっぱなしではダメ。撮影した写真を見て、分析して、まとめて、そこで感じたことを次の撮影の原動力にしなければならない。そのまとめのところが滞り、先へと進まなくなっていたのが、写真を本の体裁にしてみることで解消され、また流れ出したようだ。
 
 では、撮影した写真を放っておいて、本の体裁にしてみなかったのはなぜだろう?
 理由は、持っているパソコンのソフトが使いにくいからだった。ページメーカーもイラストレーターも、どうも好きになれない。
 そこで、マイクロソフトのPublisher98というずっと以前から持っている古いソフトを使ってみたら、作業が進みだした。

 では、Publisher98を最初から使わなかったのはなぜ?
 理由は、ソフトが古くて、新しいパソコンのOS上ではトラブルが生じがちだから。ウインドウズXP上ではちゃんと動くが、今やうちの事務所にはXPのパソコンは一台しかなく、Publisher98に頼るとそのパソコンにトラブルが生じたときに作業が出来なくなるのが引っかかっていた。
 
 それでは、なぜ新しいバージョンのPublisherを買わなかったのか?
 一番大きな理由は、お金をケチったことだ。
 なるほどなぁ。よくよく考えてみれば、これは僕が調子を落とす時の1つのパターンでもあるようだ。
 金をケチるともっと損をする場合もある。だいたいにおいて、パソコンのソフトはケチらない方が、長い目で見ると得をする。
 デザインやレイアウトの素人でウインドウズのパソコンを普段使用している人の場合、簡単な本の見本を作るような作業の際にはプロが好むアドビなどのソフトよりも、ウインドウズ的な操作のPublisherの方が扱いやすいだろう。
 最新のPublisherは、Office Professional 2010 の中に含まれている。マイクロソフトのホームページで Office Professional 2010 のトライアル版をインストールすると試しに使うことができる。
  Office Professional 2010を購入するとお金がかかるので、僕はその中のPublisher2010だけをアマゾンで購入した。
 なんだ、またお金をケチっているじゃないか!と言われてしまいそうだが、本当に必要なものは何かも大切であり、別にお金をばら撒く必要は無い。


 
 
 

2011.9.15(木) 結果を出すとは

 同じ言葉でも、それをお釈迦様が発したのと、狂信的な宗教の教祖が発したのとでは、まったく違った意味になる。
 人の言葉は、その言葉の字面以上に、誰が発し、その人がどんな結果を残してきた人なのかが肝心。その「誰が」がない言葉や意見には、ほとんど何の意味も無い。

 先日から事務所においてある本を整理していることはすでに書いたが、ついでに本のページをめくってみると、写真の仕事もまったく同様であるとしみじみ思う。
 写真の世界で結果を出すというのは、一枚のすごい写真を撮ることではなく、その一枚の写真に、その人の日ごろの振る舞いがどれほどの説得力を持たせられるかだと言える。
 一枚のただのスゴイ写真なら、世の中に幾らでもある。
 もちろん、すでに評価をされている人が別のペンネームを用い、匿名でこっそり、その「誰が」がない作品を発表するようなことだってあり得るだろう。がしかし、それは、その人が自分の名前ですでに評価をされているから意味があり、成り立つのだと言える。

 まだ学生の頃、正直に言えばプロの作品に憧れつつ、一方でプロと言ってもピンからキリまであり、この程度で飯が食えるのなら俺にもできるはず、という気持ちがないわけではなかった。
 しかしそれから20年くらいの年月が流れ、今改めてそれらの写真を見てみると、自分が写真の表面的な絵面しか見ていなかったことに気付かされる。
 結論を言えば、長くこの世界で飯が食えている人には、改めて凄さを感じる。
 僕も、長く通用する写真家になりたいものだと思う。
 昔、プロの写真家を志そうとする僕を、どちらかと言うと批判的な目で見ておられたある方から言われた言葉を思い出す。
「いろいろな価値観があるけど、結局は飯が食えるかどうか。飯が食えるということは、何だかんだ言いながらも社会が必要としているということで、自分だって認めざるを得ない。逆に飯が食えなけば、それは客観的に見れば、それだけのものではないということ。偉そうなことは、飯が食えてから言うべきや」
 と。
 僕は、お金がすべてではないと思うけれども、飯が食えるかどうかが、もっとも客観的な評価の1つではあることを、今改めて思い知らされる感じがする。

 一方で、中には他に職業を持っていて、写真で飯を食う必要が無い方もおられる。
 セミプロなどと呼ばれる。
 セミプロと言う呼び名は、プロのなり損ないみたいで僕は好きではないから、アマチュアと書こうと思う。
 学生の頃は、その人がプロのなのかアマなのか何の区別もなく本を眺めていたが、今改めてページをめくってみると、同じ自然写真でもまた別の世界であり、アマチュアにしか表現できない世界があることを思う。
 アマチュアの場合、撮りたくないものは撮らずに済むのだから、著作にはよりその人の思いが現れやすく、生き物や自然の記録というよりは、その人の青春の1ページという側面が、良くも悪くも面白い。
 
 
 

2011.9.14(水) 非常識



 随分以前に、「巨大なナメクジを捕まえたから」、と子供たちとそのお父さんがヤマナメクジを届けてくれた。
 お礼にどこか生き物がたくさん見つかる場所に招待するつもりだったのだが、今年は人前で話をする機会が多く、それに時間を取られたり、撮影の仕事も、依頼されたものをなかなか撮りこなすことができなくて手間取り、結局どこにも連れて行ってあげてない。
 もしも僕がお父さんならなぁ。数日学校を休ませて、釣りや採集に行くところだが、よその子供では、そんな非常識なことをするわけにもいくまい。

 さて、
「福島は死の町だった。」
 という発言は、そんなに問題がある発言なのかな?僕には、どうしても理解ができない。
 本当のことじゃないのか?そんなことになるから、それを受けて、ちゃんと考える必要があるのではなかろうか?
 そんな風だから、もしも僕が大臣になったなら、あっという間に失言でクビになることだろう。
 僕は非常識な、世間の常識からずれた人間だから、それを思うと、あの程度の発言で人を批判する気にはなれないし、そんな資格はないだろう。

 震災が発生した際に、僕が感じたのは、他人の努力にさりげなく寄生しようとする人の多さだ。
 例えば、誰かが大金を寄付する。
 すると、ネット上で、「すばらしい!」「いいぞいいぞ!」と言った書き込みがなされ、そうした書き込みをしている人たちはまるで、被災地の復興を望み、それにつながる寄付を盛り上げようとする応援団のようだが、ネット上で合いの手を入れることで、何かが変わるのだろうか?
 本当に復興を応援する気持ちがあるのなら、そんなことを書いている暇があるのなら、ネット上で誰かの応援団のふりをする前に、自分が働いて生産したり、起業したり、雇用を生み出しお金を稼いで、お前がお金を寄付をしろよ!と僕は思う。
 もっとも僕の場合は、ここのところ8月下旬からずっと調子が上がらず、ぐうたらな日々を送っており、社会に貢献するどころか、自分ひとり養うのにシクハク。仕事の能力にしてみても実に無能であることをひどく思い知らされているところであり、人様を指導できるような立場にないのだが。
 
 
 

2011.9.11〜13(日〜火) 軽自動車

 僕の大学時代の恩師は、僕が大学院を修了するのと同時に、定年を迎えられた。だから僕の在学中は最後のまとめの期間であり、研究室として何か新しいことをしたり、研究を拡大させる段階ではなかった。
 そんな空気もあったのだろうか?僕が大学〜大学院時代に使用していた実験器具の大半は、自分で手作りをしたものではなく、「これを使っておけよ。」と先輩から譲り受けたものだった。
 だが本来は、すべて自分で一から作ることになっていたはずだ。
 或いは、1つ年上のI先輩が、稀に見る暖かさの、世間のイメージで言うならばお母さんのようなタイプであり、後輩に指導をするというよりも何でも代わりにやってくださったということもあるかもしれない。今でもI先輩の人柄のすばらしさは、ちょくちょく思い出されることがある。
 ただ、実験のための工作やその他は、やはり全部自分で一からやっておくべきだった、と最近しみじみ思う。
 別にI先輩を批判したいわけではない。先輩と言っても、当時20前後。そんな先のことまで何でも考えられるはずがないし、むしろあのお母さん的な優しさから教えられたことは多い。
 一方で、当時岡山大学の博士課程に籍を置きながら山口で研究をしておられたY先輩は、接する機会は少なかったけれども、何度か僕に指摘をしてくださった。そしてその指摘は、今でも大変に役に立っている。
 おそらく、今は名古屋港水族館に勤めておられるはずだ。
 Yさんは、研究者として科学の目を持っていると同時に大のアウトドア好きであり、ロマンチストで大らかでもあって、僕はY先輩の話を聞くのだが好きだった。
 IさんもYさんも愛媛の出身。そのせいか、僕の愛媛出身の男性に対するイメージは、どこかほんのりしていて、とても良い。

 そのYさんが、ある日スズキのジムニーを買った日の喜びぶりは、今でも忘れることができない。
 エンジンを痛めたくないから、と必ず数分の暖機運転をしてからドライブに出かけた。
 そして、
「車でスピードを出すやつなんて、バカなやつだと思うんだ。ほんの数分、目的地に早く着いたところでいったい何になるんだ?」
 などと、Yさんの話には、常にYさんらしさがあった。
 軽自動車を大変に気に入っておられた。スズキのジムニーには、車体を若干大きくして普通車の規格に入るサイズにし、1300くらいのエンジンを積んだタイプが存在したのだが、
「あんなのは邪道中の邪道。軽だからいいのに、わざわざ無理をして普通車にするなんて・・・。」
 と。
 スバルにも、ドミンゴという車があった。軽のワゴン車のバンパーを大きくすることで普通車の規格に入るサイズにして、やはり1000CC〜1300くらいのエンジンを積んでいたように記憶しているが、
「なんでそんなバカなことをするんだ。軽自動車にすれば、最高の車なのに・・・」
 というのがY先輩の評価だった。
 僕は当時ドミンゴに憧れていたので、Yさんの主張がイマイチ理解できなかった。
 20年くらい前の話である。
 
 さて、僕は最近、長期の取材以外は軽のワゴン車を使用しているのだが、これが非常に扱いやすくて、今更ながら、Yさんの主張に激しく同意。
 無駄に大きくない。無駄に大きなエンジンを載せない。
 無駄に大きな車に乗った人が、そのサイズの車を乗りこなすことができず、狭い道路で離合ができないなどという状況に、ちょくちょく出くわす。
 大きな乗用自動車には、目玉が飛び出るくらいの税金を課してはどうかと思う。
 
 
 

2011.9.10(土) The Creation



 プロを志す人がこれを見たことがないのなら恥ずかしい、と言えるような名作が、自然写真の世界にも存在する。
 エルンスト・ハースの The Creation。
 1977年の作品であり、1968年生まれの僕にとっては古い本ではあるけど、1993年に新装版の第2刷が発売されていることを思うと、見ておなかければならない作品に含まれるだろう。
 好みかどうかという見方をするなら、正直に言えば、エルンスト・ハースの作風は好みではない。聖書の影響を受けたこの作品が、僕には馴染み難い感じがして、自分が日本人であることを改めて思う。
 僕には、あまりよく分からない世界だと言える。
 やはり世界的な自然写真家である ジム・ブランデンバーグの写真にも、僕はそれに似た馴染み難さを感じる(ジム・ブランデンバーグが実際にどんな宗教の影響を受けているのかは、まったく知らないのだが)。
 絵柄はとても綺麗だと思うが、入り込むことができない。
 それでも The Creation は、年々、ジワリジワリとその値打ちを感じるようになってきた。簡単に分からないからこそ、面白いのかもしれない。

 あとがきに、「技術のことを学びたいのなら、もっと適切な本がある」、としながらも、「写真家は最低限の器材で仕事をするべきであり、器材が少なければ、被写体や構図について考える時間が増える」、と言ったことが書かれている。
 もしも、今エルンスト・ハースが生きていたら、どんなレンズを用い、どんな写真を撮るのだろう?
 僕の感でしかないけれども、おそらく早い段階でデジタルカメラを導入し、案外、短焦点レンズではなくて、高倍率のズームレンズを使用するような気がする。
 
 
 僕が持っているものは、1993年に刷られた新装版の第2刷で、定価が4500円。それが現在は、プレミア付きのものしか売られていないということは、絶版になったのだろう。


 
こちらは、多分同じ内容のものだと思うが、洋書で、ソフトカバーのものではなかろうか?


 
 
 

2011.9.9(金) 本


 訳あって、事務所に置いてある本を整理することになった。2つ並べて置いてある本棚を1つにし、溢れ出したものを自宅に持って帰ることにした。
 自宅には大きな本棚がある。また、自宅の床は丈夫に出来ているので、その本棚に本を満載にしても、床が抜けるようなことはあるまい。
 現在、自宅の僕の部屋はほとんど物置のようになっているが、大切な本を置くとなると、きれいに整理をしようかな、いや、整理したいなという気持ちにもなる。

 人の写真は、見ないという選択肢もあるだろうと思うが、僕の場合は、感性で何かを成し遂げられるような才能溢れるタイプではないから、勉強をして地道に積み上げていくことを重視するし、人の写真はたくさん見てきた。
 雑誌は別にして、日本の自然写真家で、僕よりも日本で取り扱われている自然写真の本、特に写真集をたくさん見ている人は、いないのではないかなと思う。人と話をする際に、人が知っていて、僕が知らない写真集は、滅多にない。
 唯一、昆虫写真家の海野先生と話をする時だけは、僕が知らない本や写真家が出てくることがあり、
「彼を知らないのはダメだよ。」
 などと言われることもあるが。

 本を整理する際にいつも感じるのは、本は時に邪魔になり、扱いにくいということ。音楽CDのようにもうちょっと版型を統一し、収納しやすいようになければ、日本の住宅事情を考えると、ますます一気に、デジタル化が進んでしまうような気がする。
 僕が予測する写真集の将来だが、おそらく、本当に好きな作品の場合は本を買い、そこまでいかないものはデジタル書籍を買うというような状況になるのではなかろうか。
 ただし、本を買ってもらうためには、本にもデジタルデータ付属し、デジタルの端末でも見られるようにして、本がデジタルを完全に含んでいる状態にする必要があるだろう。
 
 
 

2011.9.8(木) 一線を越える

 カメラがフィルムからデジタルへと変わり、現像所にフィルムを送ることなしに、カメラのモニター上に撮影した画像を映し出せるようになり、写真はより簡単になった。
 しかしプロの場合、限られた発表の場をみなで取り合うのだから、みんなが同じように簡単になったのなら結局誰も有利にはならないし、何も変わらないことになる。
 ところがやっぱり、デジタルが合う人と合わない人とがいるだろうし、デジタルカメラの登場で相対的に有利になった写真家と不利になった写真家とが存在するだろう。
 僕の場合は、おそらくずっと有利になっているだろうと思う。
 僕は、失敗をしながらデータを積み上げていくことで何かをやり遂げるタイプであり、何をするにしても一発で出来るタイプではないが、逆に1つの失敗を分析し、自分を修正していくことに関しては、それなりに自信がある。
 そんな試行錯誤型の場合、撮影の現場で必要な修正を加えることが出来るデジタルカメラは、とてもありがたい道具だ。
 一方で、一発必写で直感と感性で被写体を写し撮ってしまうタイプの人は、損をしているのかもしれない。

 さて、10月にまた講演がある。
 次回も、それなりに重たい講演であり、確か300人くらいの先生方の前に立ち、2時間近く話をするのだったと思う。
 人前に出るのは嫌いなので、ツライなと思う。
 しかし、そうした場を体験すると、自分の意見がまとまってくる。
 一回限りの経験では、あまり意味がないと思う。そこで感じたことは、大半が身に付くことなしにやがて自分の中から抜けていってしまう。
 だが今回のように、同じような場を2回、3回と続けて経験し、そのたびに何がしかの修正を加えて積み上げていくと、その結果、何か確かなものが残る感じがする。学習やスポーツの際に、反復練習が必要などと言われるが、まったくその通り。
 次回の講演に関しては、ちょうど今準備をしている最中だが、ああ、そうか!と自分なりに確かに掴めたものがあり、先生方から何かを教えてもらった感じがする。
  世の中には、やらないよりは、やった方がまし、という考え方があるが、僕は基本的には、その考えを取らない。
 やるのなら、最低ここまでやらないと意味がない、という一線があるように思うのだ。
 
 
 

2011.9.6〜7(火〜水) 更新

8月分の今月の水辺を更新しました。
 
 
 

2011.9.4〜5(日〜月) レンズの性能とは


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

「このレンズはいい。」
 とか
「このレンズはイマイチ」
 など、と巷にはレンズに関する評価が溢れているが、レンズを評価することは実は大変に難しいことであり、もしもそれを本当に評価できるのなら、その人は写真で飯が食えるくらいの力量があるのではないかと思う。
 世に溢れている大半の評価は、ある人がある条件で使用した際の結果に過ぎない。
 例えば、ある条件下ではAのレンズの発色が良かったのに、条件が変わるとBの方が発色がいいなどということは、別に珍しいことではない。
 だから、比較テストをした際にAの方が発色が良かったとしても、それで即Aが優れているとは言いがたい。または、同一のレンズでも、被写体との距離によって、性能がまったく違ってくるなどということがおきる。遠くはよく写るものの近くはまったくダメ、あるいはその逆の傾向のレンズもある。
 それらを評価するには、いろいろな条件を理解でき、どうしたらどうなるのかをその人が知っている必要がある。
 逆に、レンズを評価できるくらいにいろいろな条件について考えが及ぶのなら、その人はかなりのレベルで画面をコントロールできることになるし、それほどの力量であればプロになれるだろうし、ネット上でゴチャゴチャ主張するよりも写真家やテクニカルライターとして勝負したほうがいいと思う。
 現実には、自然写真などの場合、プロだってそんなレベルにはほとんど到達していないと言える。

 ある時ある場所で、僕が使用していたレンズについて質問をされたことがある。唐突に、
「色はどうですか?」
 と聞かれたのだが、すぐには意味が分からなかった。
 色?レンズの部分は透明で、筒の部分は黒く塗装されているけど、何を答えたらいいのだろう?と迷っていたら、
「いやいや、発色はどうかなと思って。」
 と問い直された。
「さあ、僕には分かりません。」
 分かるわけがない。
 レンズの評価の中でも、特に発色などというのは評価しずらく、そこでスラスラと答えられる人は、妄想癖のある人か、何でも答えなければ気がすまない見栄っ張りな人だと思っておいて、99%以上間違いない。
 だが、そんなことを真顔で聞いたり、気にしておられる人が、結構おられる。

 ああ、やっぱりプロはプロだなと思うのは、同じような話になった時に、僕の身の回りのプロは、
「そこまでは分からん。」
 と答えることだ。
 或いは、
「こんな条件のときに、こんな特徴がある。」
 と答えること。
 レンズを使いこなすとは、あるレンズのいいところが発揮され、弱点が出にくい条件下で、そのレンズを使ってやることだと言える。
 一般に、ある人は晴れた日の強い光を好み、またある人は曇り日の柔らかい光を好み、さらにある人は逆光の光を好むなど、人によって好みがあるのだから、自分の好みの条件下でいい結果を出すレンズを選ぶのが、レンズ選びのコツだと言える。
 
 
 

2011.9.1〜3(木〜土) 帰宅



 夕刻、水辺での撮影を終え、谷から遊歩道へと上がってみたら空がまだほんのりと明るかったのでカメラを取り出してみたのだが、レンズが結露をして、拭いても拭いてもどうにもならない。
 今回の撮影は、別に仕事として商品としての写真を撮っている訳でもないし、そのままでいいや、と曇ったままのレンズで滲んだ写真を撮った。
 僕は、レンズにワックスを塗ったり、ストッキングをかぶせたりして意図的にそのような効果を作り出す気にはなれないのだが、それが自然現象なら、それでもいいと思う。
 その日長時間撮影をしていた渓谷の水面すれすれは、それよりも1〜2メートル高い場所よりもかなり温度が低く、水際で長い時間写真を撮るとレンズが冷えてしまう。そして今度は、水際を離れ、温度が高い場所でカメラを取り出すと、温度差でレンズが結露してしまうのだ。
 水辺での撮影は、早朝と夕刻。
 風呂は昼間に終わらせるので、夕刻撮影終了後はいったん町へと出て夕食を食べ、また山へ戻り、涼しい場所に車を止めて眠る。8月の九州でも、場所を選べば20度前後の、実に快適に眠ることが出来る場所が見つかる。車に取り付けることができる、外気温を測定できる温度計は必需品だ。

 さて、何を食べようかと町をうろうろしていたら、「カレー○○」という看板が目に飛び込んできたので入ってみることにした。
 店内には永ちゃんの音楽が流れ、店主は一見堅気の人とは違う?と見えてしまうような大迫力で、これはやばい店に入ってしまった?と焦りつつも、注文をする。
 店の柱には、
「注文の内容により、お届けの順序が前後する場合がありますが、ご容赦ください。」
 と言ったような断りが書かれているが、このおっちゃんに文句をつける人など、いるはずもなかろう。
 ともあれ、カレーを一口食べてみたら美味かった。
 金属のスプーンではなくて木のスプーンが添えられていたのだが、木の方が食べ物がおいしく感じられた。他にも、おっちゃんは風貌に似合わず、細かい心配りが行き渡っていた。
 翌日もまた食べたくなった。
 前日は、メニューの写真を見て、食べにくいかもしれないと見送った骨付きのチキン入りが、あの心配りならきっと食べやすく調理されているはず、と食べてみたくなって夕刻に行ってみた。
 会計の時に、
「この間もきんしゃったですよね?」
 と声をかけられた。
 おっちゃんは、少し恥ずかしそうだった。
 さらに翌日もまた食べたくなった。ボルケーノと名づけられた、サラサラしてないカレーも食べてみたくなった。
 しかし、3日も続けて店に入るのがどうしても恥ずかしくて、結局別の何かを食べた。実は、つい先日のことなのに、代わりに何を食べたのかを思い出すことができない。
 帰宅後に、店名をインターネットで検索してみたら、やはりファンがおられることがわかった。
 中には、「ドアを開けた瞬間に・・・ビビってはいけない!」と書かれているものもあった。
 秋にまた、その渓谷に、数日出かける予定がある。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2011年9月分


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