失うもの≪後編≫
 暗くて、鳥目のあたしには入江くんの表情は見えない。それでも、入江くんがどんなカオをしてるのか、分かる気がした。

 
 入江くんは、ゆっくりと近づいて来たけれど、あたしはこわくては顔も上げられない。

(きっと…呆れてるんだ。離婚されちゃうかもしれない…)

 入江くんの足が、目の前でぴたりと止まった。



「琴子…」

 名前を呼ばれただけ。それだけなのに、胸がふるえた。

 
 涙が、次から次へとこぼれてくる。あふれた気持ちと一緒に、素直な言葉も。

「ごめっ…なさい。あたし、あたしが悪いのにっ…、っひっく」



 耳に心地よい低い声も、
 
 あたしの頭よりも上にある広い肩も、
 
 抱きしめられたときに背を撫でる優しい手も、

        入江くんのkissも…

何もかもが大好きなの。


「失いたく…ない、のっ」


 失うものを数えたあたしは、手の届かないものをねだって駄々をこねる子どもみたいに、泣きじゃくった。



「ったく…。もう、数えなくていいよ」

 あたしの耳元に、穏やかな吐息がのせられて。

 そうして、ちょっとだけ乱暴に抱きしめらた。


「お前の考えてることぐらい、すぐに分かんだよ。“数える必要のないもの”なんか、数えんじゃねえ」

 苛立ってはいるけれど優しい声は、ゆっくりと胸に染みこむ。


「入江くん、怒ってないの?」

「怒ってるね。呆れてもいるけど」


(やっぱり…)


「『おれなんかいなくてもいい』、だっけ?」

硬質な声は、“怒ってる”のサイン。


怒らせちゃったことに、胸がちりちりと痛んだ。

(あんなこと言うつもりじゃなかったのにな…)


 目を見て、ちゃんと謝ろうとした。けれど途端に、躰を強く抱え込まれる。

「いりっ…」


 深く、激しい、噛みつくようなkiss。

息つく合間すら、ゆるしてくれなくて、あたしは入江くんの服を握り締めて喘いだ。

「息っ、できな…ぃよ」

「じゃあ、しなくていい」

 
 唇から思考回路が奪われていくような、甘い甘い感覚。

 意地悪に、あたしを翻弄するの。

 熱すぎる吐息は、絡みあって溶けあって――。


 やがて全部のちからをなくしたあたしは、荒い息をついて、入江くんに身体を預けきっていた。

 そんなあたしを抱きしめながら、入江くんは真面目な顔で尋ねる。

「これでも離れられる?」

 あたしは黙って何度も首を横に振った。


(絶対にむり…。どうしても失えないよ)


 “失いたくない”んじゃなくて“失えないもの”。
なくしたりしちゃったら、水のない魚みたいに、きっとあたしは死んでしまう。

 

 あたしはギュッと、入江くんにしがみついた。


 そしたら耳に、満足げな低い囁きが落とされた。



「ザマーミロ」


 意地悪を囁いた口許は、驚いたあたしの瞼に添えられた。


そうっと、涙をさらうために。

 


 
朝露
2008年07月18日(金) 23時27分28秒 公開
■この作品の著作権は朝露さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
二人の仲直りの場面が大好きでした。

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「これでも離れられる?」怒った入江君も好きですね〜。 しげたん ■2008-07-19 11:06:20 203.168.76.66
強引な入江君も大好きです。 kani ■2008-07-19 07:13:18 220.29.138.50
おおっ!入江君、激しいっ!!相当頭に来たんでしょうねぇ、琴子の失言(?)に(笑) アリエル ■2008-07-19 01:00:40 124.83.159.195
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