罪と罰 5 |
〜メフィストの誘惑〜<kotoko side> 入江くんは追いかけてはきてくれなかった。 『…入江くんなんか、あたしのこと好きじゃなくなったんでしょ?ううん、最初からあたしのこと好きじゃなかったんでしょ?』 『なんであたしなんかと結婚したの?』 『あたしばっかりすごく好きで、もう、もういやだ!!!!』 もうおしまいだ。 もう本当に終わっちゃった。 とうとう言ってしまった。 自分が一番こわくて聞けなかったことを。 でも、ずっとずっと心のどこかで思っていたことを言ってしまった。 自分でピリオドを打ってしまった。 入江くんは何も言ってくれなかった。 最後はもう怖くて、顔を見ることもできなかった。 顔を上げてまたあの冷たい瞳が見下ろしてたらと思うと…耐えられなかった。 入江くんと顔を合わせるのが怖い。 次に顔を合わせるとき…そのときこそ入江くんの口から別れを告げられるときかもしれない。 『別れよう、琴子。もうお前を愛してない。いや、お前の言う通り、最初から愛してなんかなかった。ただの気の迷いだったんだ』 (嫌っっ、嫌っっっ!!!) 入江くんがあの冷たい眼差しで、何の躊躇もなく別れを告げる、そんなシーンばかりが頭をよぎり、気が狂いそうになりながら、当てもなくさまよっているうちに、気付けば大学の校舎にたどり着いていた。 間近に迫った学祭の準備のためか、校内は思った以上に人で溢れていた。 灯りが付いている教室も多い。 ふと見上げると、檜垣先生の研究室にもまだ灯りが点いていた。 『君はいつだって彼に全力でぶつかってきたんだろう?今がそのときじゃないのか?』 先生、ぶつかってみたけどダメだったよ。 ここからどうすればいい? わらにもすがる思いなのか、それとも何か救いが欲しかったのか、気付けばその明かりが灯る研究室へと吸い寄せられていた。 「入江?どうしたんだ?」 いつも通りパソコンに向かったまま私を迎え入れた先生は、顔を上げてあたしの泣きはらした顔が目に入ると、驚いたように一瞬目を見張った。 「…………」 何も答えられない私にそれ以上問い掛けることなく、いつも通り私に椅子を指し示し、いつも通りコーヒーを注ぐと私に手渡し、手前の椅子に座った。 「旦那と何かあったのか?」 先生の声が不安に押しつぶされそうな胸に心地よく響く。 その子どもをあやすような響きに誘われて、私はぽつりぽつりと今日の出来事、そしてこの胸を巣食う不安を吐き出していった。 「あたし…入江くんを好きになった時、少しでも私を知ってくれたら、少しでもしゃべってくれたら、そんな気持ちがどんどん欲張りになってきて、私さえ入江くんをずっと見つめられたら満足、なんて思ってたのに、私のこと見てくれなきゃいやだとか、すごいこといっちゃった。」 「別にそれくらい当たり前だろ。好きなら独占したくもなるさ。」 先生はこともなげに言う。 「でも、やっぱりあたしはいつまでも片思いのままだったんです…やっぱり、変だったんですよね、こんな夫婦…」 先生は何も言わず私を見つめたまま。 「もうなんか、わかんなくなってきて。入江くんの気持ちも、あたしの気持ちも…」 入江くんは何も言わなかった。 入江くんは追いかけてもこなかった。 それが答えじゃない? そう胸でつぶやく心の中の囁きに、必死で耳をふさぐ。 でも、ふさいでもふさいでもどんどん心の中が黒い渦に飲み込まれていく… 「なんで、あたしばっかりがこんなに苦しいの…?」 思わず口をついたつぶやきがあとからあとから醜い感情を誘発する。 「あたしばっかりが好きで好きで苦しくて!!!入江くんは、あたしが何しようと全然気にもしてないのに!!!入江くんは全然あたしのことなんか好きじゃないのに!!!それなのに、あたしひとり好きで好きでどうしようもなくて…もう終わっちゃったのに!!あたしが終わらせちゃったのに!!それでもあたしだけが好きで苦しいなんて…ズルイ!!!」 泣き喚く私にもなお先生は何も言わず見つめたまま。 みっともない私。でもとまらない。 「こんなに苦しいなら…いっそ入江くんを嫌いになれたらいいのに…」 なのに、その方法すらわからない。 どんなに冷たくされても、あふれ出てくるのは彼を好きだという思いばかり。 こんな気持ち…いっそなくなってしまえばいい… 「そしたら楽になれるのかな…・」 消え入るようにつぶやいたそのとき、 「…本当に?」 ずっと黙っていた檜垣先生のその言葉に思わず俯いていた顔を上げると、いつもと同じ冷たさの中に穏やかさを携えた、でも少しいつもと違う不思議な色を宿す瞳に出会った。 「君がそう願うのなら…そうしてしまうよ?」 その瞳の色に吸い込まれる。ふわふわと夢心地に彷徨い始めた意識に心地よく先生の声が頭に響く。 (…君が望むのなら……望み通りに………) (本当にそう願っているなら…封じ込めてあげるよ………) (…その苦しみを手放して……大丈夫…きっと楽に………) 檜垣先生はきっと悪くない。 だって、あたしはホンの一瞬だけど、本当に思ってしまったの。 入江くんを好きなこの気持ち、全部なくなってしまえばいいのにって。 そうすればこの苦しさから逃れられる、入江くんから別れを告げられても生きていけるって。 そんなあたし自身の気持ちの弱さがすべての原因。 だから、この胸いっぱいに溢れていた入江くんへの“好き”をなくしてしまったのは、 一時の苦しさから逃れたくて、自分の中に渦巻く醜い感情に流されてしまった私の罪。 |
Lee
2008年12月03日(水) 18時47分54秒 公開 ■この作品の著作権はLeeさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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ドストエフスキ−、シェイクスピア、ゲ−テ・・ときましたか。古典文学をモチ−フにするLeeさんのセンスが素敵です。いつもパワ−全開な琴子ちゃんも、絶望の淵では悪魔と契約してしまうのか?琴子に惹かれる檜垣先生の素性、これからの心理戦、直樹の出方がとても気になります。罪と罰シリ−ズ、シリアスでとても好きです。続きを楽しみにしてます。 | ゆりこ | ■2008-12-04 11:05:41 | 210.136.161.150 | |
催眠術???なら、冒頭のシーンも納得できますね。 そうでもなきゃ琴子が入江くんを好きじゃなくなるなんて信じられませんもん! 次回、檜垣先生が何をしたのか、彼の本来の素性が分かるわけですね。楽しみにしてます。 |
かりん | ■2008-12-04 10:28:19 | 222.151.149.65 | |
うわっ!!!すごい内容!!!お話がだんだん冒頭につながってきましたね〜^^!槍垣先生…何をいったら良いんだろう・・・・あもう興奮状態です!! | あゃか | ■2008-12-04 01:10:38 | 118.110.43.204 | |
催眠術で琴子の直樹を好きな気持ちを心の奥底に閉まってしまうの??? それとも他の方法?? 私も悲しいこと、辛い事があった時そこだけを忘れられたら、いいのに、と何度か思った事が有りますが、やはり時間の流れが少しづつ癒してくました。 琴子と直樹どうなるの?? |
H | ■2008-12-03 21:40:06 | 125.192.36.83 |