罪と罰 6 |
〜This is The Moment〜<higaki side> 欲望のままにその身体を奪うことと、内なる心に手をかけること、より罪深いのはどちらだろうか。 どっちも凌辱以外のなにものでもない行為であるわけだから、秤になどかけられるものではないのに。 ひとり苦笑する。 それでも、往生際悪く自己を正当化するのだ。 俺はただ、彼女自身が強く望んだ瞬間に手を加えるだけなのだから、と。 自分の中にこれほどまでの狡さが潜んでいるとは思ってもみなかった。 それでも、どんなに卑劣な手段とわかっていても、そうまでしても手に入れたいと初めて欲したもの、 それは彼女の心。 そして、それを手に入れるために、今俺が犯そうとしているのは、彼女の心を占めている“彼だけを深く愛する心”。 それが、彼女を司るすべてと知っていながらも。 「檜垣先生、本当にどうもありがとうございました。」 そう言って頭を下げたのは、去年俺のクラスにいた3年の女生徒だ。 「先生に紹介してもらった催眠療法のセラピー、正直最初は半信半疑だったんだけど、でも、何とか乗り越えられそうです。」 「そうか。それなら良かったよ。」 目の前の彼女は、多くの学生と同様、就職活動の真っ只中にあるのだが、ひとつ大きな悩みを抱えていた。 それは過度の緊張症。 人前での発表の場に出ると、頭が真っ白になり、言葉を紡ぐこともままならない。 それが災いして、就職活動においても、筆記で通っても、ディスカッションや面接の段でことごとく振り落とされ、八方塞の状態で、俺のもとへ相談に来たのだ。 相談者は彼女に限らず、別に珍しいことではない。 今大学で受け持っているのは臨床心理学の講義であるが、実際のところ俺がより専門としているのは、臨床催眠療法なのだから。 催眠と言うと、何やら人を操る魔術のようにように思われがちだが、実際はむしろ科学的と言っていい。心理学を応用したひとつの技術と言える。 一言でいえば、人間が誰しも持つ潜在意識に直接働きかける技術だ。 彼女のような極度のあがり症などは、他愛のないことがきっかけで潜在意識下においてマイナスの暗示が刻み込まれている状態にあることはままある。そういう場合には、潜在意識下に眠るもともとの良い状態を引き出すことで、問題解決に導く手助けともなり得る。もちろん、魔法ではないから、絶対ではないが。 「でも、先生が診てくれるのかと思ってたのに…」 彼女が少しイタズラっぽく言った。 「下手に個人的に面識があるよりは、まったく無関係の方が割り切れるし、その方が逆にリラックスできて、いい作用をもたらすもんだよ。…それに俺は、生徒はクライアントにしない主義でね。」 彼女はもう一度頭を下げると、そのまま研究室を後にした。 そう、俺は教師である以上、生徒にその技術を伝承することはあっても、生徒にその技術を行使することはしないと、自らに科していた。 …が、今その禁を犯そうとしている。 それも、治療のためではなく、自らの欲望のために。 といっても、別に彼女を操ろうなどと思っているわけではない。 そもそも、催眠に操る力などない。 催眠中に与えられる暗示に従う、従わないの選択権は常にクライアントの方にある。 だから、意に反した暗示に従ったり、コントロールされたりすることなどあり得ない。 つまりは、ただただ盲目的に入江直樹を愛している入江琴子に対して、入江直樹を忘れて俺を愛するように暗示をかけたところで、何ら作用があるわけがなく、時間の無駄だ。 だが、一方で俺は彼女の潜在意識に潜むひとつの大きな不安を見逃しはしなかった。 それは、入江直樹に愛されているかどうかの不安。不信。 彼女は、いまだ心の奥底で信じきれていないのだ。自分が愛されていると。 そんな中で、お誂え向きのように彼女と夫との間がギクシャクしだした。 夫からの冷たい態度に、彼女の中の不安、不信がより強固になって、それが顕在意識にもやがて現れ始める。 入江直樹の存在がすべてである彼女にとって、一番目の当たりにしたくないその感情が発露したとき、彼女の心はどう動くだろうか。 俺は、その瞬間こそが唯一のときだと狙いをつけた。 だから、彼女にひとつだけ暗示をかけた。 彼女の心がどうしようもなく張り裂けたときに、俺のもとへ来るように、と。 そしてとうとうそのときが来た。 泣きはらした顔で研究室にやってきた彼女が、その胸の内の毒を吐き出していくかのようにポツリポツリと語る言葉に耳を傾ける。 そして、徐々に彼女は黒い感情の波に流されようとしていた。 「なんで、あたしばっかりがこんなに苦しいの…?」 とうとう潜在意識下に埋もれていた感情を爆発させる。 「あたしばっかりが好きで好きで苦しくて!!!入江くんは、あたしが何しようと全然気にもしてないのに!!!入江くんは全然あたしのことなんか好きじゃないのに!!!それなのに、あたしひとり好きで好きでどうしようもなくて…もう終わっちゃったのに!!あたしが終わらせちゃったのに!!それでもあたしだけが好きで苦しいなんて…ズルイ!!!」 泣きながら叫ぶ彼女の感情の行きつく先を黙って見つめる。 そして、待ち望んだ言葉が彼女の口から漏れた。 「こんなに苦しいなら…いっそ入江くんを嫌いになれたらいいのに…」 「そしたら楽になれるのかな…・」 今だ。 「…本当に?」 俺の言葉に、彼女が俯いていた顔を上げる。 その涙に濡れた瞳をしっかり捕らえる。 「君がそう願うのなら…そうしてしまうよ?」 このときを待っていた。 ほんの一瞬でいいから、彼女自身がそう願う瞬間を。 もちろん、それはほんの一瞬の黒い感情のほとばしりであり、時間と共に落ちつきを取り戻し、理性を取り戻せばすぐに消えるものだ。本来ならば。 だからこそ、その瞬間に賭けていたのだ。 瞬間的に彼女自身が入江直樹への思いを封じ込めたいと願ったそのときに、潜在意識に働きかけることができたならば、彼女の心を占める入江直樹への愛情を司る引出しの鍵をかけられるだろう、と。 (…君が望むのなら……望み通りに………) (本当にそう願っているなら…封じ込めてあげるよ………) (…その苦しみを手放して……大丈夫…きっと楽に………) 彼女はその暗示に抵抗しなかった。 静寂を打ち破るかのようにドアをノックする音が響いたのは、時間にすればおそらくほんのわずかのこと。 「檜垣センセ、失礼しま〜す。」 その言葉と共に入ってきたのは、彼女の友人でもある人物だった。 「リラクゼーションスペースの概要がまとまったんで、見ていただきたかったんですけど…って、琴子?アンタ、こんな時間に何してるわけ??」 「モトちゃん…」 すでに催眠状態から脱している彼女は普段と変わらぬ様子で友人に応える。 「モトちゃんこそ、どうしたの?」 「アタシは、学祭の準備に決まってるでしょ。実行委員だもの。もう毎日学校に缶詰よ〜って、アンタその顔…」 先ほどまで泣き喚いていた顔は厚ぼったく、目元は赤く腫れている。 「ちょうど良かった、桔梗くん、どうせ今日も実行委員みんな泊まりだろ?悪いが入江も入れてやってくれるか?旦那と喧嘩して飛び出してきたんだが、もう家に帰れないってごねられてて困ってたんだ。」 「アンタまた入江さん怒らせたの〜?」 桔梗の訝しげな視線に、彼女は悲しげに顔をそむけた。 「一晩頭を冷やせば落ちつくだろ。ただし、家にはちゃんと連絡を入れろよ。心配してるだろうから。」 「はい…」 「じゃあ、桔梗くん悪いけど…」 「先生がそういうんなら…ホラ琴子行くわよ。」 友人に手を引かれ、研究室を後にする後姿を見送りひとつ大きくため息をついた。 これから先、罪深い俺を待ち受けるのは、果たして希望か、それともさらなる絶望か。 神のみぞ知る。 |
Lee
2008年12月07日(日) 20時57分52秒 公開 ■この作品の著作権はLeeさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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YBaILo Click!! | JimmiXS | ■2016-08-12 09:45:46 | 188.143.232.41 | |
yE1WnC Click!! | Bradley | ■2015-08-11 02:56:47 | 188.143.232.26 | |
ごめんなさい2回押してしまいました。たまに遣ってしまいます。 | H | ■2008-12-09 01:57:24 | 125.192.36.83 | |
もしかして、もう少しで琴子があの言葉を「私がもう入江くんのこと好きじゃないの」て言うのかなぁ??ドキドキ |
H | ■2008-12-09 01:53:43 | 125.192.36.83 | |
もしかして、もう少しで琴子があの言葉を「私がもう入江くんのこと好きじゃないの」て言うのかなぁ??ドキドキ | H | ■2008-12-09 01:50:15 | 125.192.36.83 | |
暗示をかけられた琴子に好きじゃないって言われる直樹の今後の気持ちや行動が気になります。暗示を解くことが果たして直樹にはできるのか?そこにはハッピーエンドが待っていることを期待したいです。次のお話、早めのUPお願いします。 | いりことよーこ | ■2008-12-08 07:27:44 | 222.15.68.211 | |
はじめまして!いつも続き楽しみにしています! Leeさんの文章はとても情景が伝わってきて、説得力があって、とっても好きです。 タイトルの罪と罰は、檜垣先生のためのタイトルだったのですね!いや、他にも当てはまる人物が多々出てくるのでしょうか? 暗示をかけられた琴子がどう動くか、楽しみにしてます。 |
ざき | ■2008-12-08 01:52:29 | 133.95.156.96 |