里見治部大夫義実(さとみぢぶのたいふよしざね) は里見治部少輔源季基(さとみぢぶのせういうみなもとのすゑもと)嫡男。
永享 11 年(1439 年)2 月 10 日、持氏(もちうぢ)・義成(よしなり)父子、 鎌倉 報国寺で自害。
持氏の二男春王(はるわう[第 15 回には しゅんわう])、三男安王(やすわう) を結城氏朝(ゆうきうぢとも)が迎えとり、 結城の城にこもる。 永享 11 年(1439 年)春から嘉吉元年(1441 年)4 月まで。
里見治部大夫義実は当時「又太郎(またたらう)御曹司」と呼ばれた。 19歳。 4月16日の結城落城の際、 杉倉木曾介氏元(すぎくらきそのすけうぢもと)、 堀内蔵人貞行(ほりうちくらんどさだゆき)と共に脱出。 季基は戦死する。
「第三日にして三浦なる、矢取の入江に着給ふ」。4月18日。 義実・氏元、雷雨の中に竜を見る。 貞行の用意した舟で三人は安房へ渡る。
安西三郎大夫景連(あんさいさぶらうたいふかげつら) は安房郡館山(あはのこふりたてやま)城主。
麻呂小五郎兵衛信時(まろのこごらうびゃうゑのぶとき) は朝夷郡平館(あさひなのこふりひらたて)の城主。
神余長狭介光弘(じんよながさのすけみつひろ) は平郡(へぐり)の滝田に在城。
玉梓(たまつさ)は光弘の愛妾。 山下柵左衛門定包(やましたさくざゑもんさだかね)は光弘の家臣。
杣木朴平(そまきのぼくへい)は「滝田の近村、蒼海巷(あをみこ)」の農民。 洲崎無垢三(すさきのむくざう)はその友だち。 定包暗殺を計画。
「夏の初」、定包、光弘に狩を提案。 朴平・無垢三、定包と誤って光弘を殺害する。 天津兵内(あまつのひゃうない)も殺される。 那古七郎(なこのしちらう)、無垢三を殺す。 朴平は捕縛され獄死。
(注) これが嘉吉元年の夏であることは第 5 回の終わりでわかる。 下を参照。
定包、滝田の城を玉下(たました)と改名、城主となる。 玉梓を妻とする。 定包、安西・麻呂によしみを求める。 麻呂、館山城に安西を訪問。 そこへ義実がたずねてくる。
(注)この回の最後に 「里見又太郎義実と名告れる武士」 とあるので、第 1 回に出た義実の幼少時の呼び名は 「又太郎(またたらう)御曹司」 で正しい。 「又 太郎(たらう)御曹司」 ではない。
安西、義実に三日以内に鯉を釣ってくるよう求める。 翌朝、三人は白浜(しらはま)の旅宿から釣りに出かける。
三日目。 光弘の家臣だった金碗八郎孝吉(かなまりはちらうたかよし) が白箸河で話しかけてくる。 彼は5年前(永享 8 年(1436 年)?)に逐電したのだった。 それは朴平・無垢三が誤って光弘を殺す前のこと。 彼らとは父の代から関係あり。
その夜。「廿あまりの月はまだ」。 八郎、誕生寺のそばの竹薮に火をかける。
長狭一郡は萎毛酷六郎元頼(しへたげこくろくらうもとより)があずかり。 東条(とうでふ)に在城。 村長の三平(さんぺい)、四治郎(しじらう)、仁総(にそう)の提案により、 計略でここを取る。
氏元は東条の城に残り、義実、孝吉、貞行は平郡へ。定包、敵が攻めてきたことを知るが、 岩熊鈍平(いはくまどんぺい)、錆塚幾内(さびつかいくない) にまかせる。 錆塚は八郎に討たれ死亡。 岩熊は貞行に討たれ負傷。
妻立戸五郎(つまだてとごらう)(「つまたて」とも)、 定包の使者として館山へ。 城を包囲してから三日目の夕、戻ってくる。
七八日目。 鳩に檄文を結わえ付けて城に送る。 このとき嘉吉元年(1441 年)5月である。
岩熊鈍平はもと光弘の馬飼い。 光弘殺害の日、馬に毒を盛っていた。
鈍平と戸五郎、定包を討つ。 「百日を出ずして、又その家臣に殺されたり」。 ここからすると、第 2 回の定包殺害も嘉吉元年のこと。
鈍平と戸五郎、降伏する。 次の日、鈍平、戸五郎、玉梓処刑。 「その暁がた」、 氏元の使者として蜑崎十郎輝武(あまさきじうらうてるたけ)が、 氏元の討ち取った信時の首をもってくる。
輝武の報告。 別の使者がきて、 氏元が信時を討ったすきに信時攻略をもちかけた景連が平舘の城をとった、 と報告。
「六月の土用なかば」。 景連、蕪戸訥平(かぶととっぺい)を滝田へ使者としてつかわす。 義実は金碗八郎を安房へつかわす。
七月七日。 義実が恩賞を与えようとする席で八郎腹を切る。 上総(かづさ)の百姓一作(いっさく)(68 歳)、 八郎と娘濃萩(こはぎ)の間に永享 9 年(1437 年)に生まれた子を連れて面会。 濃萩は産後まもなく死去、 濃萩の母は永享 12 年(1440 年)の大晦日に死去していた。 その子は加多三(かたみ)と呼ばれていたが、 義実によって金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)と命名される。
ここまで嘉吉元年(1441 年)。
義実、上総国椎津の城主 万里谷入道静蓮(まりやのにうどうじゃうれん) の娘 五十子(いさらこ)を娶る。
嘉吉 2 年(1442 年)夏のすえ、三伏のころに長女 伏姫(ふせひめ)誕生。
嘉吉 3 年(1443 年)のおわりに、長男 次郎太郎(じろたらう)誕生。 のちに安房守 義成(よしなり)。
伏姫 3 歳のとき(文安元年)、 洲崎の役行者(えんのぎょうじゃ)に参詣。 その帰り、役行者かと思われる老人が水晶の数珠を伏姫の首にかける。
伏姫が 11 か 12 のころ。 百姓 技平(わざへい)に犬が生まれるが母犬は狼に食い殺される。 狸がやってきて育む。 貞行、そのことを義実に話す。 義実、その犬を召しよせ、八房(やつふさ)と名づける。
伏姫 16 (長禄元年(1457 年))の秋、 景連の領地が不作。訥平を使者として、義実に米穀の貸与を求める。 このとき景連は 70 歳以上。伏姫を養女に求めるが、それは断わる。 (氏元は老病でひきこもっていた。)
(注)ここから第 14 回の終わりまで、 馬琴の記述よりも一年ずつ昔のこととしなければ第 15 回以下と計算が合わないようだ。 つまり、140 ページの 「伏姫二八になり給へば」 の次の段落に景連の領地の飢饉が述べられているがこれを伏姫 16 歳の年とは関係ないとするか、 あるいは「伏姫三五になり給へば」などと訂正するかする必要がある。。
大輔は 20 歳(21 歳じゃないの? という疑問は、上の注のようにすれば解決)。 一作は 5 年前(享徳元年(1452 年)?)に死去。 (享年 79 歳か? 当時としてはずいぶん長生きでは!?)
翌年(長禄二年(1458 年))、 義実の領地が不作。大輔が使者として景連のもとへ。 蕪戸訥平に用件を告げるが何日も待たされる。 出陣の準備をしていることに気づいて脱出。 訥平が後を追ってくる。
景連は滝田の城を、訥平は貞行のこもる東条の城を攻める。
次郎太郎 16 歳。 (これは第 8 回の注のようにすると 15 歳となってしまう。 「二郎太郎義成は、十六歳になり給ひつ」を「十五歳」と訂正すべきか?)
義実、戯れに八房にもしも景連の首ととってきたら伏姫の婿にする、と言う。
それが 10 日。義実らは死を覚悟するが、 八房が敵将景連の首をくわえてくる。 敵は壊滅。 東条の城を攻めていた訥平は逃亡するが殺される。
義実は治部少輔(ぢぶのせうゆう)に任命される。
伏姫、八房に従うことを決意する。
伏姫、八房と出発。
蜑崎十郎輝武はもと東条の郷士。伏姫八房のあとを追い富山(とやま)へ。 谷川を渡ろうとして転倒、頭を砕かれて死亡。 義実はその子を召出す。
一年後。五十子病気になる。 大輔、八房を殺そうと富山にはいる。
注:序文には 網乾左文二郎(あぼしさもじらう)、 土田土太郎(どたのどたらう)、 交野加太郎(かたのかたらう)、 板野井太郎(いたのゐたらう)とあるが、のちにはこのままの形では出ない。
鎌倉の両管領 山内顕定(やまのうちあきさだ)、 扇谷定正(あふぎがやつさだまさ)。 義実 治部大輔に。
去年から真野(まの)に在城していた安房二郎義成が氏元を残して滝田にくる。 富山にはいろうとするのを義実がとめる。 その夜、義実は谷川を渡す道を教える老人の夢を見る。
去年から貞行は滝田へきていない。 翌日の昼、貞行、前日老人の知らせがあったとて東条の城からやってくる。
翌日、義実は貞行らと富山へ。 夢の通りに二人は谷川を渡る。
翌年(長禄 3 年(1459 年))、城を出たのと同じ月、 黒牛に乗った少年が現われ、伏姫に懐妊を告げる。
伏姫、自殺を覚悟。 大輔の鉄砲が八房と伏姫に当たる。八房絶命。 大輔が自殺をはかるところへ義実・貞行がくる。 珠数をかけると伏姫は意識を回復するが、 懐剣で腹を裂いて自殺。 八つの玉が散る。
義実、大輔のもとどりを切る。 大輔、法名を丶大(ちゅだい)とする。 翌朝未明、 40 歳あまりの柏田(かへた)を乗せた乗り物が谷川を渡ってくる。 次の使いは 20 歳に足らぬ梭織(さをり)。 五十子の死を告げる。
伏姫が富山にはいるのは長禄元年(1457 年)。 (第 8 回の注参照。)
嘉吉元年(1441 年)。 大塚番作一戍(おほつかばんさくかずもり)の父 大塚匠作三戍 (おほつかせうさくみつもり)は足利持氏(あしかがもちうぢ)に仕える。 結城落城は巌木五郎(いはきのごらう)の反忠が原因。 番作16歳。その母と姉亀篠(かめざさ)は大塚にいる。 村雨は春王のまもり刀。匠作これを番作に渡し、番作を落とす。 管領清方(きよかた)側の長尾因幡介(ながをいなばのすけ)、春王安王をとらえる。 5月10日すぎ、長尾と信濃介政康(しなののすけまさやす)、春王安王を京都へ。 5月16日、樽井(たるゐ)の金蓮寺(きんれんじ)で春王安王、 牡蛎崎小二郎(かきさきこじらう)・錦織頓二(にしごりとんじ)の手によって処刑。 匠作、錦織を殺すが牡蛎崎によって殺される。 番作、牡蛎崎を殺す。 5月17日夜、番作、拈華庵(ねんげあん)に春王安王・匠作の首をうめ、 留守番の女にたのみ込んで泊まる。
番作、庵主 蚊牛(ぶんぎゅう)を殺す。 女は井丹三直秀(ゐのたんざふなほひで)の娘 手束(たつか)だった。 手束の母は5月11日に死亡。
亀篠は先妻の子。 弥々山蟇六(やややまひきろく)とくっついている。 7月初め、匠作の死・番作の行方不明が伝わると番作の母親は寝ついてしまい、 晦日、死亡。
嘉吉 3 年(1443 年)のこと。 のがれていた持氏の末子 永寿王(ゑいじゅわう)、 大井扶光(おほゐすけみつ)らによって育てられていたが、 管領憲忠(のりただ)の老臣 長尾判官昌賢(ながをのはんぐゎんまさかた) らが元服させて左兵衛督成氏(さひょうゑのかみなりうぢ)とする。
蟇六、大塚姓を名のる。匠作のむこということで村長となる。 陣代は大石兵衛尉(おほいしひゃうゑのぜう)。
番作・手束は信濃の筑摩で湯治する。 犬塚番作と名のる。 嘉吉 3 年(1443 年)8月、大塚に向かう。10月末、大塚に。 蟇六のやしきのむかいに住む。
享徳 3 年(1454 年)12月、成氏 憲忠を殺す。 康正元年(1455 年)成氏敗れ、 憲忠の弟 房顕(ふさあき)およびその臣 長尾昌賢に鎌倉を追われ下総 許我(こが)へ。 (注:ここに「義実篭城、安西景連滅亡の年なり」とあるのはおかしい。)
長禄元年(1457 年)の秋。 手束は番作と同い年である。(この年 32 歳。) 手束、滝の川なる弁才天へ通う。 長禄3年(1459 年)9月20日すぎ、天女を見、子犬をひろう。 寛正元年(1460 年)7月戊戌の日 犬塚信乃(しの)誕生。
蟇六亀篠、煉馬の家臣の娘(2歳、前年正月はじめの生まれ)を養女に。 浜路(はまぢ)と名づける。 (のちに道節が語るところによれば浜路は寛正3年の生まれであるから、 養女をあっせんした者がウソをついていなければこれは寛正4年のこと。) このとき亀篠は四十を越えている。
応仁 2 年(1468 年)、信乃9歳、与四郎10歳。 秋より手束病む。冬の初め。 番作の裏に住む百姓 糠助(ぬかすけ)、水ごりをしていた信乃を連れてくる。 十月下旬、手束43歳で死す。
文明 2 年(1470 年)、信乃11歳、与四郎12歳。 2月末、亀篠、猫の紀二郎(きじらう)をかう。 与四郎、紀二郎をかみ殺す。 額蔵(がくざう)。 与四郎、蟇六のやしきで大けがを負う。
亀篠、糠助を呼び、 御教書を与四郎が破ったといって番作に村雨を出させようとする。 (糠助は無筆である。) 3月である。 番作、信乃を犬塚信乃戍孝(いぬつかしのもりたか)と名のらせ、自殺。 与四郎を殺して孝の玉を得る。 左の腕に牡丹の形のあざができる。
4月。番作の死から21日はたっているが35日はたっていないとき。 額蔵のあざはちりけのほとりから右のかいぼねの下にかけて。 生まれたときからある。 伊豆北条の荘官 犬川衛二則任(いぬかはゑじのりたう)の子、 幼名 荘之助(さうのすけ)。 誕生のとき、えなを埋めようとしてほり出したもの。 寛正6年(1465 年)9月11日、則任自殺。 母の従弟 蜑崎十郎輝武をたよりに安房へ行く途中、11月29日大塚で母死す。 額蔵は長禄3年(1459 年)12 月 1 日生まれ。 犬川荘助義任(いぬかはさうすけよしたう)と名のる。 (注:蜑崎十郎輝武の溺死を長禄2年としているが、 これは元年としなければおかしい。)
第一分冊 21 ページ -5 行目、「北を撃ては」は「北を撃てば」? と思ったが、 旧岩波文庫版(1937 年)では「撃」に「うつ」とふりがながあった。 「北を撃っては」と読むのである。 ここはふりがなを省略してはいけないところであった。
第一分冊 37 ページ 7 行目、「落羽(おちば)に落馬の音訓(よみこゑ)かよへば」 の「落馬」は、旧岩波文庫版のふりがなによれば「らくば」である。 -5 行目の「落馬」も同様。 地名「落羽(おちば)」に通ずるのだから「落馬」も「おちば」 と読ませるのかな、と考えてしまうかもしれないところ。
第一分冊 46 ページ 3 行目、『「』が不足。
第一分冊 79 ページ、「二総」の名前の初出時は字体が異なる。
第一分冊 115 ページ、「蜑崎十郎」初出時は「十郎」のふりがながない。
第一分冊 285 ページ 3 行目、「大塚番作」は「犬塚番作」?
第一分冊 317 ページ 5 行目、「『已(やむ)ことを得ず云々(しかしか)』」は 「已(やむ)ことを得ず『云々(しかしか)』」では?
額蔵の母は雪の日に大塚で蟇六に泊めてもらえず死ぬが、 もしも額蔵が信乃のうちなどを叩いていたらどうなったであろう? 信乃のうちは蟇六のそれの向かいだし、 番作・手束は子どもらを教えて生活費のたしにしていたのだから、 あたりの家の数がそれほど少なかったとも思えない。 どの家にでもとびこんで泊めてもらったら、 額蔵の母は死なずにすんだかもしれない。 話をすすめる上では額蔵が蟇六の家のこものにならねばならないが、 たとえば額蔵の母は蟇六のいじわるには関係なく病死し、 やむなく額蔵は村長の家のこものになる、 あるいは村長の権威をもってこものにされてしまうとか。