すのものの「『南総里見八犬伝』を読む --- 筋書き(第二分冊)」

第21回

額蔵、仮病をつかって蟇六のやしきに戻る。 代わりに背介(せすけ)をつける。 三十五日まであと4日という日、額蔵ふたたび背介と代わる。 番作の三十五日の退夜。夢助(ゆめすけ)、鎌平(かまへい)は人名か? 三十五日の日、信乃の墓参の間に蟇六らは番作の家をかたづけてしまう。 信乃、そのそばに与四郎を埋めた梅の木の幹を削って文字を書く。

「秋の初風たつ比に、信乃は親の忌は果たり」とあるが、 番作の自殺は3月。親の忌は十三カ月ではないのか? --- それは喪か? その前に信乃は亀篠に言われるまま女服を男衣に改める。

翌文明3年(1471 年)、信乃・額蔵、八房の梅の実に仁義八行の文字を見る。

第22回

文明9年(1477 年)。信乃18歳、浜路16歳。 信乃は「身長(みのたけ)五尺八九寸」。

武蔵国豊嶋郡豊嶋の領主 豊嶋勘解由左衛門尉平信盛(としまかげゆさゑもんのぜうたひらののぶもり)。 その弟 煉馬平左衛門倍盛(ねりまのへいざゑもんますもり)は煉馬の館に。 管領山内家の老臣 長尾判官平景春(ながをのはふくゎんたひらのかげはる)。 4月13日、山内・扇谷の両管領、 巨田備中介持資(おほたびっちうのすけもちすけ)、 植杉刑部少輔(うへすぎぎゃうぶのせうゆう)、 千葉介自胤(ちばのすけよりたね)らを大将として豊嶋を討とうと、 池袋(いけふくろ)まで押しよせる。江古田(えこた)。

浜路、十二三のころ養女であることを知る。 実の親は煉馬の家臣であることも。 信乃に相談しようとするところへ亀篠がきて、 信乃に病気の糠助(60歳以上)が会いたがっていると告げる。 (第25回の浜路の言葉で、これが7月ごろのこととわかる。)

第23回

糠助の女房は去年(1476 年)の秋死亡している。 番作が残した10両のうち、葬儀等に3両、三十五日に1両、亀篠に渡した。 糠助の女房の病気見舞いに1両。 糠助の病気は7月ごろから。伝染病。 糠助は自分で61歳と言っている。(ということは 1417 年の生まれ。) 糠助は安房国洲崎(すさき)のほとりの土民。 長禄3年(1459 年)10月下旬、先妻との間に男児玄吉(げんきち)誕生。 (糠助は43歳。) 先妻は翌年(1460 年)死亡。 禁漁区域で魚をとった罪で死罪を宣告されるが五十子伏姫の三回忌で恩赦。 行徳で身投げをしようとして通りがかりの四十歳以上の武家の飛脚に止められる。 (この人は成氏のところから里見に行くつかいであった。何の用事で?) 玄吉はその人の養子となる。 糠助、大塚へ。 (「その冬和君は生れ給へり」は誤り。正しくはその秋七月。) その次の年(1461 年)籾七(もみしち)という者が死亡し、 その未亡人と再婚。(このとき糠助45歳である。) 玄吉は生まれつき右の頬先に牡丹の形の痣がある。 七夜に糠助の釣った鯛に包丁を入れると腹から信の字の玉が出てきた。 誕生は10月20日だからこれは26日のこと。 そのむね母がひらがなで書いてまもりぶくろに入れた。 翌日の暁、糠助死亡。

管領家の浪人 網乾左母二郎(あぼしさもじらう)は 最近まで扇谷修理大夫定正(あふぎがやつしゅりのたいふさだまさ) につかえていたが、追われて大塚にきて、糠助の旧宅にはいる。 25歳。

年末、大石兵衛尉の陣代 簸上蛇太夫(ひかみじゃだいふ)死亡。 翌年(1478 年)5月、その長男 簸上宮六(ひかみきうろく)新陣代に。 手下 軍木五倍二(ぬるでごばいじ)、卒川菴八(いさかはいほはち) らと視察にきて蟇六のやしきに泊まる。 左母二郎・浜路も席に出る。 左母二郎、浜路に懸想する。 亀篠、左母二郎を浜路のむこに、と考える。

第24回

軍木五倍二、宮六になかだちを申し出る。 神宮河原の日から逆算すればこれは6月14日である。

翌日(6月15日)、五倍二は蟇六のやしきへ。結納の品々をわたす。 その夜、蟇六と亀篠は信乃をなきものにする相談をする。 (成氏は宝徳四年(1452 年)鎌倉で管領になるが重臣 扇谷持朝(あふぎがやつもちとも)、 山内顕房(やまのうちあきふさ)と仲がよくない。 享徳4年あるいは康正元年(1455 年)6月13日、成氏 許我へ逃げる。 さらに文明4年、 山内顕定に攻められて千葉の千葉陸奥守康胤(ちばむつのかみやすたね)のもとへ。 ことし許我に帰る。)

翌日(6月16日)「未下刻(ひつじくだるころ)」、 亀篠 左母二郎の宿所へ。 村雨を自分たちが婿引出にやったものだと偽り、すりかえさせようとする。 夜、蟇六と亀篠は信乃を呼び、許我の成氏に村雨を献上することをすすめる。

翌日(6月17日)、亀篠 信乃に滝野川の弁才天参詣をうながす。 申(さる)の刻、信乃 弁天堂へ。 帰り、魚つりに行く蟇六・左母二郎・背介に会い、やむなく同行。 神宮河原(かにはかはら)へ。 かじとり土太郎(どたらう)と船に乗る。 背介は帰らせる。 「十七日の月いまだ升(のぼ)らず」。 蟇六が川に落ち、信乃が助ける。 土太郎は信乃をおぼれさせようとする。 その間に左母二郎は刀のすりかえをはかるが、 信乃の刀の水気で村雨と気づき、 自分の刀を蟇六のさやに、信乃のを自分のに、蟇六のを信乃のに収める。

第25回

帰ると亥の刻すぎ。 蟇六亀篠、信乃額蔵を呼んで酒をのませなどす。 丑三のころおひらきとなる。

浜路 信乃の寝室へ。

翌6月18日、信乃額蔵 許我へ。 額蔵の母の墓に立ちよる。 栗橋(くりはし)に泊まる。 額蔵、亀篠から信乃を殺すよう命じられたことを告げ、 渡された匠作のまもりがたな桐一文字(きりいちもんじ)を見せる。 (感想:亀篠は額蔵が信乃にかえりうちにあう可能性もあると考えているのに、 なぜ桐一文字を渡したのか? あとの話の都合?)

第26回

翌日(6月19日)、 額蔵、信乃に横堀史在村(よこほりふひとありむら)に注意するよう伝え、 二人は別れる。

6月18日、蟇六、五倍二のもとへ。婚礼は翌日亥の刻、と決定。 蟇六、自殺するふりをして浜路に宮六との結婚を承諾させる。 6月19日。

第27回

午のころ、左母二郎 背介から宮六浜路の婚礼を知る。 夜、左母二郎、首つり自殺をはかろうとする浜路をさらう。 蟇六、土太郎らに左母二郎を追わせる。 かごかき加太郎(かたらう)・井太郎(ゐたらう)。

寂寞道人肩柳(じゃくまくどうじんけんりう)、 6月19日の夕、円塚山(まるつかやま)で焼身。 加太郎・板(いた)の井太郎・土田(どた)の土太郎、左母二郎に殺される。

第28回

浜路、左母二郎に切られる。 肩柳、左母二郎をたおし村雨を入手。 肩柳は浜路の異母兄 犬山道松忠与(いぬやまみちまつただとも)。 倍盛の家臣である。 父 犬山貞与入道道策(いぬやまさだともにうどうどうさく)も討たれた。 浜路の幼名は正月(むつき)。その母は黒白(あやめ)。 道松の母は阿是非(おぜひ)。 道松は長禄3年9月戊戌の日の生まれ。左の肩先にコブがある。 浜路は寛正3年正月の生まれ。 寛正4年の春の末、黒白は道策の不在中に医師 今坂錠庵(いまさかじゃうあん) と共謀して阿是非を毒殺、道松をもしめ殺す。 道松は息を吹き返す。コブの上に牡丹の形のあざができる。

(道松は自分が6歳だったと三度言っているが正しくは5歳である。 また、母の七回忌が12歳の春と言っているのも11歳が正しい。 もしもここで道松の誕生を長禄2年にくり上げると伏姫自害の年となることに注意。)

道策を討ったのは竃門三宝平(かまどさぼへい)。享年62歳。 道松、犬山道節忠与(いぬやまどうせつただとも)と名のる。

第29回

浜路死す。道節浜路を火葬。 見ていた額蔵、道節と戦う。 額蔵のまもり袋が道節の大刀の緒にからみつく。 道節は火遁の術で姿を消す。 道節の傷口から出て額蔵の手の中にはいったのは忠の玉だった。

亥の刻、宮六・五倍二、蟇六の家へ。 浜路がいなくなったのを知って激怒。 蟇六は村雨を渡してなだめようとするがそれはにせもの。 宮六・五倍二、蟇六・亀篠に切りかかる。 戻ってきた背介、五倍二に切られ気絶。 宮六・五倍二、蟇六・亀篠にとどめをさす。 戻ってきた額蔵、桐一文字で戦い、宮六をたおし、五倍二の眉間に傷を負わせる。

第30回

6月20日。 簸上宮六の弟 簸上社平(ひかみしゃへい)、 卒川菴八ら、やってくる。 額蔵捕縛。

6月19日。信乃、在村のやしきへ。 20日朝、信乃 村雨がすりかえられていることに気づく。 信乃 やむなく芳流閣へ。 在村、二階松山城介(にかいまつやましろのすけ) の弟子 犬飼見八信道(いぬかひけんはちのぶみち) を信乃と戦わせる。

(すりかえられた村雨の外側は父からゆずりうけたままである。 ということはそれは許我に残り、成氏らはそれを偽物だと思っているので破棄された?)

第31回

なぜか6月21日。 信乃と見八は戦いながら舟の中に落ち、流れ去る。 在村、新織帆太夫敦光(にひおりほたいふあつみつ)を追捕の大将に。

行徳のはたごやのあるじ古那屋文五兵衛 (こなやぶんごひゃうゑ[「ぶんごべゑ」とも])。 妻はおととし死去。 長男 小文吾(こぶんご)は20歳、身長5尺9寸。 長女 沼藺(ぬい)は19歳。 16の春、市川のふなおさ山林房八郎(やまはやしふさはちらう)に嫁し、 その年のおわりに男児 大八(だいはち)を産む。4歳。

信乃意識を回復。 見八は「滸我(こが)の御所なる走卒(はしりづかひ)、 犬飼見兵衛(いぬかひけんべゑ)」の子。 (信乃はここまでのあらすじを語るが、 父が自殺したことは伏せている。 また、第23回で糠助は 「名もしらぬ、橋の欄干に足を踏かけ」と言っているのにここで 「行徳の入江橋」とあるのはややおかしい。 また、206ページ3行目 《箇様々々》の直後でいったん信乃のせりふのカッコを閉じ、 5行目《当時件の武家の飛脚は》からまたカッコを開き直すべきであろう。 そうすれば上の「行徳の入江橋」は地の文となり、 少しはおかしさが緩和されよう。) 玄吉が古那屋にあずけられたのは一カ月ほど。 文明8年の秋、見兵衛 見八を連れて古那屋へ。 見八 小文吾 義兄弟に。 小文吾は長禄三年十一月の生まれ。 その後、小文吾の母死す。 見兵衛は文明9年の夏死す。 見八意識を回復。

第32回

見兵衛の妻は文明9年の春に死んだものと思われる。 見八は、文明10年の春に獄舎長を命ぜられ、 辞表を出したら獄に入れられ、100日ほどたったところであった。 糠助の死は7月22日。61歳。 見兵衛の名のりは隆道(たかみち)。 小文吾の名のりは悌順(やすより)。 小文吾の悌の玉は、お食い初めのとき出てきたもの。 8歳ぐらいのとき、すもうをとって尻をつき痣ができる。 これらのことは見八は知らなかった。

文五兵衛は那古七郎由武(なこのしちらうよしたけ)の弟。 朴平無垢三が誤って光弘を殺したとき18歳。 行徳は母の故郷。 小文吾16歳のとき、もがりの犬太(いぬた)を殺す。 (「もがり」は「木沙」「木羅」をそれぞれ一字に合わせた文字。) 犬田小文吾(いぬたのこぶんご)と呼ばれるようになる。 大先達(だいせんだつ)念玉(ねんぎょく)、 修験道(しゅげんどう)観得(くゎんとく)。 山林房八は22歳。身長5尺8寸。 18日、小文吾房八の相撲。 (文五兵衛は「十四日より雨ふりたれば」と言っているが、 大塚ではふっていない?)

第33回

小文吾、くせものと争い、麻衣を落とすが気づかない。 小文吾は色が白い。 見八、現八郎(げんはちらう)と改める。 子(ね)のなかばのころ、 塩浜(しほはま)の鹹四郎(からしらう)に頼まれ、 小文吾はけんかの仲裁に出かける。

翌22日。 信乃 破傷風に。現八、薬を求めて志婆浦(しばうら)へ。

第34回

「未(ひつじ)の下刻(さがり)」。 荘官のつかいがきて、文五兵衛呼び出される。 小文吾は家に帰ろうとして、栞崎(しをりさき)で房八に会う。観得も。 荘官 千鞆檀内(ちともだんない)、 文五兵衛を捕縛した新織帆太夫敦光(帆大夫とも)、小文吾に信乃 捕縛を命ずる。 (小文吾は「六十(むそぢ)に近き親」と言っているが55歳である。) 小文吾、家に戻って信乃と話をする。

第35回

念玉帰ってくる。 塩浜の鹹四郎、板扱均太(いたごききんた)、牛根孟六(うしがねまうろく)くる。 戸山(とやま)の妙真(みょうしん)、沼藺大八を返しにくる。 妙真は40歳すぎ。 大八は12月生まれ。

第36回

房八くる。 房八、沼藺大八を誤って殺し、小文吾の手にかかる。 (291ページ終わりから5行目の「山林」は「やまばやし」。) 房八の父はおととしの秋死亡。50歳すぎ。杣木朴平の子である。 朴平が光弘を殺したとき14歳。

(286ページ終わりから5行目の開きカギカッコは閉じていない。)

第37回

信乃回復。 丶大、蜑崎十一郎照文(あまさきじういちらうてるふみ)現われる。 念玉は丶大、観得は照文の仮の名だった。 (丶大は出家して22年と言っているが足かけ21年である。)

大八蘇生。左の手をひらくと仁の玉が現われる。 わきばらに痣できる。 大八の本名は真平(しんへい)。 房八の親の名は真兵衛(しんべゑ)。氏は犬江(いぬえ)、家号は犬江屋。 丶大、大八を犬江親兵衛仁(いぬえしんべゑまさし)と名づける。 寛正3年、文五兵衛の網にかかった光るものを沼藺のみこむ。

第38回

房八、小文吾の介錯で死ぬ。 帰ってきた現八、塩浜の鹹四郎、板扱均太、牛根孟六を殺す。 (334ページ終わりから6行目「十郎ぬしの従弟」は「従妹」? 338ページ1行目の開きカギカッコは「堪ぬ歎きに」の前に移動?)

第39回

文明10年戊戌の6月23日朝。 小文吾荘官のもとへ。 妙真、親兵衛、照文、信乃、現八、房八夫婦の死骸、船で市川の犬江屋へ。 (妙真は40すぎのはずだが、「萎(しはみ)たる乳房」とある。) 夕暮、丶大 小文吾 行徳からくる。 (341ページで小文吾は「かかれば瞽者(めしい)に撈(さぐ)らしても」 と言っているが、後に目をわずらうことの暗示か?) 文五兵衛は行徳に残っている。 夜、房八夫婦を土葬。

6月24日、信乃現八小文吾大塚へ。 昼、文五兵衛くる。 丶大、照文、かわるがわる市川と行徳に泊まる。

初七日の日(6月28日)、小文吾はまだ帰らない。

7月2日。丶大 大塚へ。

第40回

二七日の日。暴風の舵九郎(あかしまのかぢくらう)くる。 妙真、親兵衛、照文、文五兵衛、依介(よりすけ)、舵九郎らに襲われる。 依介は負傷。(376ページのさし絵は、 第三分冊の本文を読まないとなぜ依介の頭に三角の布があててあるのかわからないだろう。) 親兵衛は神かくしに。 (最後で、これが7月5日とわかる。よって6月は大の月だったことになる。)

気のついたことなど

糠助の子 現八は生まれつき顔に痣があるが、 糠助は信乃や額蔵の痣を見ていない? 額蔵の痣は生まれつきなので大塚にきた 1465 年から 1477 年の糠助の死までの12年、 信乃の痣は 1470 年にできたので7年、 糠助は痣を見る機会がありえたはず。 もし見ていたら自分の子どもの痣と同じだと気づいただろう。

信乃は成氏に村雨を献上する直前になって久しぶりに抜いてみるぐらいだから、 額蔵は村雨を見ていないと思われる。 栗橋の宿で、 信乃が額蔵に「明日は献上してしまうのだから、一度は君も見ておいたら」 ともちかけていたら、すりかえに気づいたに違いない。 額蔵の側も、そのくらいの好奇心があってもいいと思うのだが。

額蔵が円塚山で村雨のすりかえを知るのが19日の夕である。 信乃が献上するのが21日なら、額蔵は走れば間に合ったかも。


すのもの Sunomono