すのものの「『南総里見八犬伝』を読む --- 筋書き(第十分冊)」

第 179 回中

(122 ページの挿し絵で、義成の顔の左にある手は親兵衛の右手であろうか。 指が六本あるように見える。第十分冊の箱の表の絵はこの部分の拡大である。)

第 180 勝回下編大団円

八犬士の子のリスト。 名前に「仁義礼智忠信孝悌」の文字を含む者がいないことに注意。

 配偶者
犬江親兵衛仁 犬江真平如心(いぬえしんへいゆきむね)のちに親兵衛と改名悌順の娘
犬江大八(いぬえだいはち)犬江依介の養嗣悌順の娘
女子犬塚信乃戍子
犬山道節忠与 犬山道一郎中心(いぬやまみちいちらうなかむね)のちに道節と改名
落鮎余之八有与(おちあゆよのはちありとも) 落鮎余之七有種の養嗣、穂北の郷士
道空(どうくう)念戌の徒弟、延命寺の住持
女子十条力二郎
女子十条尺八郎
犬飼現八兵衛信道 犬飼玄吉言人(いぬかひげんきちのりと)のちに現八と改名礼儀の娘
犬飼見兵衛道宣(いぬかひけんべゑみちのぶ) 許我で政氏に仕える
甘糟糠介(あまかすぬかすけ)上総国望陀郡の郷士
女子犬村角太郎
犬田豊後悌順 犬田小文吾理順(いぬたこぶんごまさより)のちに豊後と改名戍孝の娘
那古小七郎順明(なこのこしちらうよりあき) 下総行徳の郷士
女子犬江真平
女子犬江大八
犬塚信濃戍孝 犬塚信乃戍子(いぬつかしのもりたね)のちに信濃と改名仁の娘
大塚番匠戍郷(おほつかばんせうもりさと)武蔵大塚の郷士義任の娘
女子犬川額蔵
女子犬田小文吾
犬阪下野胤智 犬阪毛野胤才(いぬさかけのたねかど)のちに下野と改名
粟飯原首胤栄(あひはらおほとたねよし)下総千葉の郷士
犬川長狭荘介義任 犬川額蔵則任(いぬかはがくざうのりたう)のちに荘介と改名戍孝の娘
女子大塚番匠
女子蜑崎照文の孫
犬村大学礼儀 犬村角太郎儀正(いぬむらかくたらうのりまさ)のちに大学と改名信道の娘
赤岩正学儀武(あかいはしょうがくのりたけ)下野赤岩の郷士
女子犬飼玄吉
女子那古小七郎

八犬士の孫たちがいるので、 犬山道一郎中心と犬阪毛野胤才にも配偶者があったと思われるが、 (いまのところ)不明である。

八犬士の子どもたちの母方の祖父は義成であるから、 彼らの結婚はすべていとこ婚である。

気のついたことなど

284ページ。 うっかり読むと妙真が没してから静峯姫が没したように思うが、 そうではない。 もしそうなら、 静峯姫が没した親兵衛30歳のとき、妙真は(生きていれば)77〜8歳以上となる。 すると妙真と親兵衛の年歳差は47〜8歳以上。 親兵衛は初登場の際4歳なのでそのとき妙真は51〜52歳以上となるが、 実際には40歳すぎと書かれている。 (ということは、妙真は房八・沼藺の子供夫婦、 および孫親兵衛の妻 静峯に先立たれたことになる。)

289 ページ後半からは、 八犬士が富山に隠棲してから約二十年後、内乱の起る前、とされている。 300 ページ 3 行目によればこの内乱は天文 2 年(1533 年)以前のことである。 よって隠棲は 1513 年以前となるが、 この年には道節らが 55 歳、親兵衛はまだ 39 歳であり、 288 ページ 3 行目の「年既に六十にあまりて」はあてはまらない。 また、 妙真は親兵衛と 36 〜 40 歳ぐらい歳が離れていると思われるので、 八犬士の隠棲は妙真の死後まもなくであったことになる。


すのもの Sunomono