すのものの「いろいろ」(その5)

“神の存在証明”にならって「最低のものは存在しない」ことを“証明”する

「神は全能である。存在することのできないものは全能ではない。 よって神は存在する」 という神の存在証明を聞いたことがある。 同じ論法を使うと 「存在できるものは最低ではない、 ほかの全ての性質は同じで存在できないもののほうがより低いから。 よって最低のものは存在しない」 となりはしないか?

1999-07-21 (3) 18:41:55 +0900

割と最近までデカルトの「省察」を「しょうさつ」だと思っていた

それだけの話。 恥ずかしい。 正しくは「せいさつ」。岩波文庫に三木清の訳ではいっている。 原題の meditationes de prima philosophia のほうがわかりやすいな。

1999-07-17 (6) 19:31:48 +0900

無期懲役 vs 終身刑

6月21日付朝日新聞大阪本社版社会面に 「45年以上服役 無期刑で4人」という記事が出ている。 平均約二十年で仮釈放になるそうだ。 「事実上、終身刑に近い状態になっている」との指摘もあるそうだが、 無期懲役イコール終身刑だと思っていたのでちょっと不思議。 広辞苑第四版を見たけどまだ違いがわからない。 終身刑には無期禁錮もある、ということはわかったけど。

(「事実上、〜に近い状態」というのは言葉がダブっている、 「事実上、〜」または「〜に近い状態」でよいではないか? という指摘もあろうが、これはほかのかたにおまかせしたい。)

1999-07-16 (6) 01:15:29 +0900

「C&G」に「シー&ジィ」とふりがなが

6月21日付朝日新聞大阪本社版の中のほうに 「市民とつくる学会誌/廃棄物学会「C&G」が人気」 という記事があるが、本文では 「C&G」のあとに「(シー&ジィ)」と添えてある。 写真は小さくてはっきりとは見えないが、 表紙に「ジイ」あるいは「ジィ」と書いてあるように見えるから、 記者が勝手に振ったものではなさそうだ。 「ジー」とどう違うのだろう?

1999-07-16 (5) 01:08:53 +0900

うちのこわれたコンロと独歩頂膝

最近、ガスコンロの点火がうまくゆかなくなった。 家族の話だと、うまくつかないのは右側の一番大きなコンロで、 左側のやや小ぶりのはつくという。 その左側のレバーを点火位置まで動かすと右側のにも火花が飛ぶので、 両方を同時に点火位置まで回わして左だけ消火位置にもどせば右側のに火がつく。 まるで独歩頂膝である。

(「独歩頂膝」はセガの格闘ゲーム 「バーチャファイター」に出てくるアキラの技。 K ボタンと G ボタンを同時押しして G ボタンのみ離す、 という特殊な入力が必要。)

1999-07-14 (3) 00:45:10 +0900

「モンゴメリィ」という表記について

3日付朝日新聞大阪本社版の《揺れる「赤毛のアン」の島》 というタイトルの野澤あおい氏の文章には「モンゴメリィ」 という表記が何度も出てくるが、普通の表記は「モンゴメリー」であろう。 氏が「モンゴメリィ・ランド・トラスト日本窓口」 を引き受けていることと関係あるだろうか? 日本語の固有名詞として決まっているなら改めがたいだろうから。

ほかに、 「フレンチ・リヴァ」という表記も見えるのに 「モンゴメリィ・フェスティバル」の「バ」は 「ヴァ」としていない点も興味深い。

1999-07-14 (3) 00:33:10 +0900

朝日新聞コラム「キュー」の誤植/「レッツゴー三匹」

去年の 11 月 27 日の朝日新聞大阪本社版ラジオ面のコラム「キュー」 の誤植は「タ刊トップ」「スケべ」という、 このコラムの愛読者にとってはありふれたもの。

あと、「レッツゴー三匹」はこの表記でよかったか? という疑問があるが、まだ調べていない。 「レツゴー三匹」が正しかったような気もするし、 「レッゴー三匹」というポスターを見たようなかすかな記憶もある。

1999-07-14 (3) 00:28:20 +0900

「テープ交換の手間を半分にします」

去年 11 月 27 日の朝日新聞大阪本社版経済面に出ていたソニーの 「2倍録テレコ」の広告には 「通常のテープで2倍の録音が可能」 「テープ交換の手間を半分にします」 とあるが、もしも往復90分のテープで360分録音するとしたら、 普通のオートリバーステレコだと4本だから交換3回、 このテレコだと往復180分に相当するので交換1回となる。 半分じゃないじゃない。 というツッコミがあったからかどうかは知らないが、 最近の同じような機種の広告にはこの文句は見られないようだ。

1999-07-14 (3) 00:15:48 +0900

「国技」は法制化されているのか?

国歌・国旗の法制化が問題になっているが、 「国技」はどうなのだろう? 広辞苑第四版よれば「国技館」 は日本相撲協会の設立・経営だそうだ。 相撲が日本の国技ということはどこかで公式に決まっているのだろうか?

1999-07-14 (3) 00:07:40 +0900

明治「大銀座カリー大盛」の旧かなの文章は「大盛」に「おおもり」とルビが

明治製菓株式会社のレトルトカレー「大銀座カリー大盛」 の外箱には歴史的かなづかいで書こうとしたと思われる100字程度の日本語の文章が書かれているが、 なぜか「大盛」「大辛」のふりがなだけは「おほもり」「おほから」でなく 「おおもり」「おおから」となっている。 内袋に印刷された食べ方に関する文章も同様。

1999-07-11 (0) 12:01:00 +0900

大学入試の前に全員に資格試験を課したらどうか?

大検受験の資格として義務教育修了が必要とされなくなる、 という記事がきのうの新聞に出ていた。 毎日新聞大阪本社版総合面の解説によれば、

文部省が大検にこだわったのは、 外国の制度にならったことが大きい。 同省が世界23カ国・地域を対象に行った調査は「 外国人学校の卒業のみにより、 所在国の大学入学資格を認めている国はないに等しい。 全国的な統一試験の成績で、入学資格を取得できる国・州が多い」 (国際企画課) と指摘している。 だが、多くの場合は自国の生徒も同じ扱いを受け、 外国人学校の卒業生にのみ負担を課すことは少ないのが現実だ。
とある。

(この解説は末尾に「宮澤勲」と署名がある。 また、引用部冒頭の「こだわる」は、前後関係からするといまはやりの意味ではなく、 昔風のネガティブな意味での使い方だと思われる。)

朝日や毎日の主張は今回の改正をさらに進めて、 外国人学校の卒業だけで大学を受験できるようにせよ、 ということのようだ。

しかし、上の引用部分を読んで考えたのだが、 逆に、 文部省の管轄下にある高等学校を出た者もそれ以外の者も、 何らかの統一試験を受けた結果で大学に出願する資格を得る、 とするほうがよいかも知れない。 そうすれば、入試になかったからとある科目を勉強せずに大学に入学し、 入学後に補習をする、といったおかしなことは起こらなくなる。 また、予備校の摸擬試験を採点した経験などによれば、 とても高校を修了したとは思えない学力で大学にはいろうとしている者が多くいる。 それらの者が出願できなくなれば、 結果として入試の競争倍率は低くなる。志願者全員合格、ということも起こると思う。

その資格試験は高校修了の学力があるかどうかを見る資格試験であるから、 受験生の負担は増えないはずだ。 高校の課程をきちんと修了することが負担だと思う人は、 大学で学ぼうと思わないほうがいいだろう、と私は思う。

1999-07-10 (6) 16:07:20 +0900

じっと待っていては新しい国歌の候補は生まれてこない

「君が代に代わる国歌は考えられない」という人がいるが、 「今自分が知っている歌の中では」 という条件をつければほとんどの人にとってその通りだろう。 多くの人が口ずさむようになった歌は国歌たるには通俗的すぎるし、 国歌たるにふさわしい性格をもった曲はなかなかポピュラーにならないからだ。 大学の応援歌やオリンピックの音楽などに両者を兼ね備える曲がないわけではないと思うが、 それらは特定の団体・行事に結びついているので国歌に採用するわけにはゆかないだろう。

何もしないでじっと待っているだけでは、新しい国歌の候補は生まれてこないと思う。 例えば、国の機関が 「日本国の賛歌を作ってほしい」と何人かの作詞家・作曲家に依頼し、 一般からも募集する。 それらの中である水準を満たしていると思われるものを、 国の行事で使ってみる。 それを国民がテレビ・ラジオで見聞きして、 よいというものがあればそれを国歌として採用する。 こんなふうにするしかないのではないか。

1999-07-10 (6) 03:09:12 +0900

ジョン・ケージの「4分33秒」を国歌にしたらどうか

アメリカの作曲家ジョン・ケージ(1912-1992)に「4分33秒」 という曲がある。 全く音を出さない“音楽”として有名な作品だ。 三省堂の「クラシック音楽作品名辞典(改訂版)」(1996)によれば 「日本音楽などにおける音の休止〈間〉、すなわち無音の緊張感」 などを取り上げた音楽らしい。 これを日本の国歌に採用したらどうだろう?

1999-07-10 (6) 02:52:45 +0900

日本の現代音楽は国歌の候補としてすべてチェックされているのか?

「国歌には君が代以外考えられない」 といっている人は、 日本のいわゆる現代音楽をすべてチェックしているのだろうか? それらの中には日本の昔の旋法を用いた曲もあったように思う。 国歌たりうるものがないとは限らない。

1999-07-10 (6) 02:44:50 +0900

ジンベイザメ vs ジンベエザメ、コオロギ vs コウロギ

ちょっと前の朝日新聞にジンベイザメのことがでていたが、 「ジンベイ」の部分が「甚兵衛」 を思わせるので広辞苑第四版で調べたところ、 思った通り「甚兵衛」(現代かなづかいでは「じんべえ」) の項目に追い込みとなっている。 「ジンベエザメ科の」と説明があり、最後に「ジンベイザメ」と一言添えてある。 こうも書く、という意味だろう。

そういえば、去年の9月下旬、 職場の生物学科関連と思われる講演会の題目に「コウロギ」という表記があって、 「コオロギとは違うのかなあ」と思ったことがあった。 その道にはその道の書き方があるのかもしれない。 (あるいは私の知らない「コウロギ」なるものがあるのかもしれない。)

gooなどの検索エンジンでこれらのヒット数をしらべてみるのも面白い。

1999-07-10 (6) 00:58:13 +0900

「かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」

……は旧約聖書「列王紀下」(口語訳)第4章第40節にある言葉だが、 これだとおたまがかまの中にはいっているのかも知れない。 岩波版では「鍋に毒が!」となっており、 「毒」は直訳すれば「死」だそうだ。

1999-07-09 (5) 18:38:14 +0900

WWW サーバの引っ越し

いま使っている WWW サーバを今年中には廃止しようと考えているので、 6日、仕事用のページを職場の別のマシンに移動した。

まず、各ページの下に書いていたトップページへのリンク先を、 相対的な表示に変えた。 例えば http://***/~sunomono/sub/a.html に書かれているものだったら <A HREF="../index.html"> のように。 こうすれば全体を別のマシンに移動しても問題が起こらない。 (ただし、 この方法では最初に http://***/~sunomono/ で私のページにきた人がこのリンクをたどると今度は http://***/~sunomono/index.html を取得しようとするので同じページを二度転送してしまう、 という欠陥があることが奥村晴彦氏によって指摘された。 じゃあ http://***/~sunomono/index.html できた人は? と思ったのだが、 その名前は自分では使わないようにすればほかの人もその名前を使わないだろうから問題ない、 ということも教わった。 よってあとで直す予定である。)

それから全ページを tar でまとめ、ftp で新しいマシンに送ってほどく。

ほとんど全ての旧ページの内容は「ここに移動しました」に変えたが、 「ここ」 はクリックすると対応する新ページに飛ぶので書かれているアドレスはそれぞれ違う。 この作業には、まず index.html の分を正しく作り、 それをコピーして簡単な名前のファイルを作る。例えばその名前を「a」としよう。 lynx でファイル一覧を表示させ、 一つずつエディタに読み込んで内容を全て消去、 代わりに a の内容を読み込んでリンク先の部分にサブディレクトリ名やファイル名を書き足す。 (ファイル名を忘れたら、 たいていのエディタについている現在エディット中のファイル名を表示する機能を使えばよい。) 私はこの作業を vi で行なった。

1999-07-07 (3) 23:54:00 +0900

半年前の朝日新聞コラム「キュー」の誤字

最近は誤字がめっきり減った朝日新聞のコラム「キュー」であるが、 昨年 12 月 25 日付のを忘れていた。 タイトルは「お遊びの対象に努力する父親像」。 冒頭の「最近のスポーツ漫画は、誌面の大半が試合風景に割かれている」 の「誌面」は「紙面」であろう。

1999-06-16 (3) 22:42:00 +0900

セイコーの腕時計の文字盤の分表示の上下

セイコーの腕時計には 05, 10, 15, ..., 55, 60 と分が文字盤に刻んであるものがあるが、 いままでのは9時位置から3時位置までが文字盤の中心を下にして書かれ、 4時位置から8時位置までは文字盤の中心を上にして書かれていることが多かった。 これは分表示だけでなく24時針用の表示も同じである。

15日付朝日新聞大阪本社版のセイコーの広告によると、 新製品キネティック オートリレーの文字盤は全ての分表示が中心を下にして書かれている。 このほうが好きだな。

1999-06-16 (3) 01:45:00 +0900

【「いろいろ(成人向け)」に移動しました】

本文ナシ

1999-06-11 (5) 18:20:22 +0900

この項目は「いろいろ(成人向け)」に移動しました。 上のタイムスタンプはもともとのものです。

2004-04-27 (2) 20:55:32 +0900

【「いろいろ(成人向け)」に移動しました】

本文ナシ

1999-06-11 (5) 18:10:53 +0900

この項目は「いろいろ(成人向け)」に移動しました。 上のタイムスタンプはもともとのものです。

2004-04-27 (2) 20:52:12 +0900

不正な Shift JIS コードをエディタがどう処理するかの実験

十六進で 82, 28, C2 と続く三バイトからなるファイルを作る。 82 は Shift JIS の一バイト目だが 28 は Shift JIS の二バイト目ではない。 単独なら半角の「(」である。C2 は半角カタカナの「ツ」。

まず、このファイルを Shift JIS 対応のエディタに読み込み、 表示がどうなるか見る。 82, 28 が正しい Shift JIS コードではないのでそれなりの表示をするか、 そのまま画面に描いてしまうか。 手元の VZ Editor Version 1.53 は前者だ。 「82(ツ」(「8」はシアン(水色)、「ツ」は半角)のように表示される。 そこで「(」を DEL で削除すると 82 と C2 が一つになって全角の「つ」が表示されるが、 BS で削除すると半角の「ツ」だけが残る。 ちょっと中途半端な感じだ。

1999-06-10 (4) 18:11:35 +0900

郵政省メールのカーボンコピーは実際には発信されない

割とよくはがきをくれる卒業生がいるのだが、 彼女が最近使っているインクと絵はがきの組は配達の途中ですれてしまうようだ。 読めなくはないけど、本人は気づいているのかな。 自分にもカーボンコピーを送ってれば気づくのに。 と思ってから、 郵政省メールのカーボンコピーは単に机の中にしまっておくだけだからダメだ、 と気がついた。 電子メールの、 「*文字目で自動改行」 とかになっていておかしくなるミスは自分にカーボンコピーを送ればすぐ気がつくのだが。

1999-06-10 (4) 18:10:00 +0900

鉛筆を買おうとするとレジで待たされることが多いようだ

鉛筆を買おうとするとレジで待たされることが多いような気がする。 鉛筆には値段が書いてない、買う人が少ない、などのせいか、 レジ打ちの店員が値段がわからずに商品の陳列してあるところまで見にいくのだ。 ずいぶん前に日本橋の丸善でファーバーカステル9000番を買おうとしたときと、 こないだ金沢のデパートでハイユニを買おうとしたとき。

1999-06-09 (3) 00:24:00 +0900

「このイラストマップはイメージにつき、実際とは異なる場合が」

「このイラストマップはイメージにつき、実際とは異なる場合があります」 という断わり書きはときどき見るが、 29日付朝日新聞大阪本社版に出ていた、 朝日新聞社広告局企画・制作の「ニッポン '99 観光編 体感・発見 香川 小豆島」 の地図は海岸線と鉄道と道路(および駅、インターチェンジ) しか描かれていないにもかかわらずこの断わり書きがある。 そりゃ、道幅は実際にはこんなにはないけど。 ほかに「香住」「みなみ兵庫」のとかも。

1999-06-02 (3) 18:58:00 +0900

「シィヨンメイ」さんの「シィ」とはどんな音

22日付朝日新聞大阪本社版総合面「ひと」に、 中国からトキのフ化の指導に来ていた「席咏梅」さんが紹介されているが、 そのふりがなは「シィヨンメイ」となっている。 「シィ」という文字の組み合わせはどういう日本語の音を表わすつもりだろう? 北京音では xi だ。

1999-06-02 (3) 18:57:00 +0900

訂正・ミーメのパートの最低音

先日、楽劇「ジークフリート」におけるミーメのパートの最低音が Fafner, der wilde Wurm のCだろうと書いたらその直後にBが出ている。 さらに、第2場冒頭の、というか第1場最後の ganz はもっと下のAであった。 もっと下がないかどうかはわからない。

よく調べずに書くものじゃないな、と反省しております。すみません。

1999-06-01 (2) 01:04:00 +0900

南総里見八犬伝の登場人物「麻墓愚助」について

登場してわずか一ページほどで殺されてしまう、 馬琴もまじめに名前をつけるのを拒否したかのようなこの若党、 それでいてみじめに殺されたさまを挿絵に描かれているあたり、 私は好きで好きでたまらないのだ。 「麻墓愚助」を goo で検索しても一件もみつからないなんてかわいそう。

1999-05-30 (0) 23:33:00 +0900

「魔弾の射手」キリアンのアリアにはガイドメロディーがある

ウェーバー「魔弾の射手」のキリアンのアリアは音域が狭い、 という話は先日書いたが、 スコアをよく見るとガイドメロディーがあるではないか。 ごく一部をのぞいてファゴットがユニゾンで吹き続けるのだ。 ファゴットがメロディーを吹かないところでは第一バイオリンが一オクターブ上で代わりをつとめる。 このオペラでは楽器と声が同音で動くところがかなりあるが、 アリア全体がそうだというのはここだけだろう。 彼の出番はここしかないし、 いったいどういうつもりで書かれているのだろうか、 この役は。

1999-05-29 (6) 01:48:00 +0900

文字だけで時計の文字盤を描く

HTML の <PRE> ... </PRE> の中などに文字だけで時計の文字盤を描く場合、 一つの角が 30 度の直角三角形を 「直角を挟む二辺が座標軸に平行」 「三頂点の座標が全て整数」 という条件下で近似的に作ることになる。 つまり「ルート3」:1 をなるべく小さい整数の比で近似することになるわけだが、 7:4 はかなりよい近似になっている。 二乗すると 49:16 で、もしこれが 48:16 なら 3:1 だからだ。

長さが 7, 4 で直交する二つの線分を書いてみると次のようになる。 左端の丸と上端の丸を頭の中で結んで直角三角形を作ったとして、 直角以外の角の大きさが 30 度、60 度に思えるだろうか?

                ●
                ・
                ・
                ・
         ●・・・・・・●
この直角三角形の斜辺の長さは 49+16 = 65 の平方根だが、これを 64 の平方根、すなわち 8 とみなす。 そう思って、つまり円の半径は 8 だとして書いた文字盤が下の図である。
         ●
     ●       ●


  ●             ●



 ●       ・       ●



  ●             ●


     ●       ●
         ●
12時と1時の間の距離は「ルート17」、 1時と2時の間は「ルート18」になっている。 よく見れば違いがわかるけど、まずまず。

1999-05-29 (6) 01:18:00 +0900

黒鍵を主音とする調の呼び名

黒鍵を主音にする調の名前を、 調号が6つ以下になるように定めると次の表のようになる。

長調 変ニ長調変ホ長調嬰ヘ長調 変イ長調変ロ長調
変ト長調
短調 嬰ハ短調嬰ニ短調嬰ヘ短調 嬰ト短調変ロ短調
変ホ短調

「嬰」と「変」の数が長調で1対5、 短調で4対2、 合わせても5対7とアンバランスなのはなぜだろう?

(実際にはこのほかに変イ短調も比較的よく使われるので、 それも加えると5対8とますますアンバランスになる。 変イ短調が嬰ト短調より好まれるのは 「短調の第6音・第7音は半音上げられることがあり、 その際ダブルシャープよりもナチュラルのほうがわかりやすい」 という理由であろう。 これは短音階の都合と考えられるので除外し、 上では調号の数を6以下に限った。)

……と悩んでいたが、 「長調・短調だけでなく、教会旋法すべてを考えれば同じ数になる」 という結論に達した。 ピアノの白鍵だけで弾ける旋法の名称は次の通り。 (「シャープの数」の欄はすぐに説明する。)

基音名称シャープの数
長調から短調から
イオニア(長調)±0(+3)
ドリア(−2)+1
フリギア(−4)−1
リディア+1(+4)
ミクソリディア−1(+2)
エオリア(短調)(−3)±0
ロクリア(−5)−2

二三年まえの冬、 こたつにはいりながらこれらの名前を丸暗記したが、 そんな話はさておいて。

上のドリア旋法は調号にシャープもフラットもつかないでニが主音だ。 ニを主音とする長調、すなわちニ長調の調号はシャープが二つ。 よって 「ドリア旋法の調号は同じ音を主音とする長調の調号からシャープを−2だけ増やしたもの」 となる。

(「シャープが−3個」とは「フラットが3個」のこととする。 また 「シャープを増やすこと=フラットを減らすこと」 「シャープを減らすこと=フラットを増やすこと」 「シャープ6つ=フラット6つ」に注意。)

短調から計算するほうが簡単なものもあるからそれも添えておいた。 カッコにはいっているのはもう一つのほうから計算したほうが楽なものである。

すべての音を主音とする旋法の調号におけるシャープの数を表にしてみよう。

嬰ハ
変ニ
嬰ニ
変ホ
嬰ヘ
変ト
嬰ト
変イ
嬰イ
変ロ
     
イオニア(長調)±0−5+2−3+4−1±6+1−4+3−2+5
ドリア−2+5±0−5+2−3+4−1±6+1−4+3
フリギア−4+3−2+5±0−5+2−3+4−1±6+1
リディア+1−4+3−2+5±0−5+2−3+4−1±6
ミクソリディア−1±6+1−4+3−2+5±0−5+2−3+4
エオリア(短調)−3+4−1±6+1−4+3−2+5±0−5+2
ロクリア−5+2−3+4−1±6+1−4+3−2+5±0

黒鍵を主音とした旋法の呼び名であるが、 例えば嬰イ・変ロを主音とするロクリア旋法は上の表からシャープ5つとわかる。 フラットで表わせば7つだからシャープ5つのほうが適当だろう。 ということは「変ロを主音とするロクリア旋法」よりも 「嬰イを主音とするロクリア旋法」と呼ぶのが妥当である、 と結論づけられる。 この音を主音とする長調短調は普通「変ロ長調」「変ロ短調」と呼ばれるので、 「嬰イを主音とする……」というのは珍しい感じである。

最初の疑問に答えるには、 上の表の黒鍵にあたるところの「+」「−」「±6」の数を数えればよい。 「±0」は現われていないことに注意。 すると「+」が15個、「−」が15個、「±6」が5個となり、 「+」と「−」は同数であることがわかる。

 ※ 「±6」で白鍵が主音の旋法は二つあるが、 「ヘを主音とするロクリア旋法」の調号はフラットで、 「ロを主音とするリディア旋法」の調号はシャープで書く。 そうでないと 「嬰ホを主音とするロクリア旋法」 「変ハを主音とするリディア旋法」 と呼ばねばならなくなるだろう。

(付)上では実際に手計算を行なって結論を出したが、 次のように考えることもできる。 “時計の文字盤”の12時の位置に「ハ」と書く。 1時には完全五度上の「ト」を、 2時にはさらに完全五度上の「ニ」を、と書いてゆく。 6時は「嬰ヘ」だが、ここには「変ト」とも書いておく。 7時には「変ト」の完全五度上の「変ニ」を、 と書いてゆくと11時の位置に「ヘ」を書いて終わる。

         ハ
     ヘ       ト


  変ロ             ニ



 変ホ       ・       イ



  変イ             ホ


     変ニ       ロ
         嬰ヘ
         変ト
黒鍵は6時から10時の位置にあり、 “平均”すると8時であることに注意しよう。

それぞれの音を主音とする長調を考えると、 調号は図の右半分でシャープ、左半分でフラットとなる。 短調の調号は、 この図を「イ」 が真上にくるよう反時計回わりに3時間だけ回わした上で右半分がシャープ、 左半分がフラットになる。 長調短調以外の旋法は、 上の第二の表の「長調から」 の欄の数にあたる時間だけ時計回わりにこの図を回わせばよいことがわかる。 その欄を平均すると−2となるから、さっきの平均の8時に加えて6時。 ということはシャープ系もフラット系も同数現われる、 ということになる。

もっと簡単にすっきりと結論を得る方法はないだろうか? 上の第三の表で「+」「−」が同数現われていることは明らかだが、 白鍵黒鍵それぞれで同数現われていることは明らかだろうか?

……というところで一晩眠ったら、 次のように考えればいいことがわかった。 調号をひとつ固定すると旋法が7つできる。 シャープまたはフラットの数が1から5までの調号の旋法では、 そのシャープ・フラットの数だけの黒鍵を使う。 それらの黒鍵を主音とする旋法がいま問題になっている旋法であり、 調号がシャープだったら主音は「嬰〜」と、 フラットだったら「変〜」と呼ばれる。 よってそれらは1+2+3+4+5=15通りずつ存在することがわかる。

(注)上の議論では「嬰ハ」と「変ニ」はまったく同じ音として扱った。 教会旋法が使われていた時代は平均律以前だろうから両者は別物だったろう。 上の議論はアナクロニズムかもしれない。

1999-05-29 (6) 01:16:00 +0900

当時は TABLE の </TD>, </TR> などのタグは省略していたが、 補った。ブラウザによっては正しく表示されないと聞いたので。 また、border= の次にくる数を二重引用符で囲んだ。

2004-04-27 (2) 20:47:02 +0900

“国旗”の大きさ・“国歌”の音高

「国歌・国旗法案」では日章旗を国旗とし、 その寸法を定めているらしいが、 実際に書いてあるのは縦横および日章の大きさの比にすぎない。 だから、 手先の器用な人に極く小さな日の丸を作ってもらい、 見えないけれどそれを揚げて揚げたことにする、 なんてことが起こるかもしれない。

国歌とされる「君が代」については新聞では法案の楽譜が省略となっていたようだが、 A 音を振動数いくつに調律するかまで規定されるのだろうか? されないとすると A = 440000Hz とかの超音波で“演奏” して済ませたことにする、なんてことが起こるかもしれない。 一方、振動数を法律できちんと固定すると、 多くの人には絶対音感がないから、 いまのは君が代だったけどキーがわからないから国歌かどうかはわからない、 なんてことも。 「ドップラー効果」の影響も考えねば。

1999-05-29 (6) 01:11:00 +0900

続・「国歌・国旗法案」における日章旗の寸法

ちょっと前に、 「国歌・国旗法案」における日章旗の寸法が広辞苑のそれと違う、 という話を書いた。 広辞苑は縦が横の 70/100, 法案は 2/3 なのだ。 これらの比をとると 1.05 となるが、 これを強引に音程に当てはめると等分平均律における半音 1.059463094359... に近くなる。 長調の曲を短調で歌うようなものだ。 こんなに違っていいんだろうか?

次の図は上が 30×21 すなわち 100:70, 下が 30×20 すなわち 3:2 である。

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1999-05-27 (4) 23:17:00 +0900

黒鍵は5つなのにどうして調号は6つまでつくのか?

「変ホ長調の調号はフラットがいくつで、どこにつくか?」 というようなことは一応すべてわかっているつもりだが、 「黒鍵は5つしかないのにどうしてシャープ・フラットが6つつく調 (嬰ヘ長調・変ト長調)があるのですか?」 と聞かれるとどう答えてよいかわからない。

1999-05-26 (3) 02:57:00 +0900

「嬰ヘ長調」が「嬰へ長調」となっていたのを訂正した。 「へ」がひらがなだった。

2002-05-24 (5) 00:14:32 +0900

楽譜の読み方とヘブル語文法

実家に帰ったら“楽譜の読み方”というようなタイトルの本があった。 見てみると、“楽譜の読み方”のはずなのに 「ある曲を完全五度下げて楽譜に書くには」のようなことまで載っている。 ヘブル語の入門書の最初の部分の、 発音を説明しているところに文法的事項が出てくるのも似たような現象かもしれない。

1999-05-26 (3) 02:23:00 +0900

パウル・キューンがキリアンを歌うヨッフム盤「魔弾の射手」

ちょっと前、 ヨッフム指揮のウェーバー「魔弾の射手」の CD を手にとってみてびっくり。 キリアンを歌っているのが「パウル・キューン(バス)」となっていたからだ。 パウル・キューン(Paul Kuen) は昔のミーメ歌いで、 1956 年のバイロイトライブの「指環」(指揮はクナッパーツブッシュ)の CD で聞いたことがある。 その解説書には 「1966 年 5 月 20 日にニューヨークで亡くなった」 と紹介されているのに 1993 年 3 月付のあいさつが同じ解説書に載っていたので強く記憶に残っているのだ。 おそらく経歴のほうが調査の誤りだと思われる。

ミーメ歌いなら当然テノールだが、 ミーメは「ジークフリート」冒頭のモノローグの Fafner, der wilde Wurm のところで中央のCから1オクターブ下がったCをくり返す。 スコアを全部めくって調べたわけではないが、 多分これがミーメのパートの最低音だろう。 「魔弾」のスコアで確かめるとキリアンのパートの最低音はその二度上のD、 最高音は中央のCの三度上のEだ。 スコアの指示は Bariton となっているが。 この声域の狭さならカラオケがあったら私にも歌えるかも知れないな、 キーを下げれば。

1999-05-26 (3) 02:00:00 +0900

ギリシア語・ラテン語の小型新約聖書について

Deutsche Bibelgesellschaft Stuttgart から出ている Nestle-Aland の Novum Testamentum Graece と Novum Testamentum Latine は日本の文庫本よりほんの少しだけ大きなサイズの版でもっているが、 最近はもう一回わり大きなサイズのものしか見かけない。 買ったときはそうでもなかったけど、 だんだん大切に思えてきた。

このラテン語訳は Vulgata ではないので注意。 実は買ってから、昔ラテン語の教科書で見た Noli me tangere (J 20,17) が出てないので気がついた。 この訳では Iam noli me tenere となっている。 奥付のようなところには Nova Vulgata とあるので 「新ウルガタ」ということなのだろうか。 序文も小見出しもラテン語なのでよくわからない。 だったら買うなという声が聞こえてきそうだが、 Pater meus agricola est (J 15,1) のような超やさしい文が出てくるとうれしかったりする。

1999-05-23 (0) 01:57:11 +0900

「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」の動詞の時制

家族の一人が図書館で借りてきた加藤隆 「新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか」(大修館書店 1999) に目を通した。

「主の祈り」はマタイとルカにあるが、 「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」(文語訳)の 「あたへ給へ」にマタイはアオリスト命令法を、 ルカは現在命令法を使っているのだそうだ。 その結果、前者では一度だけ与えることを望んでいることに、 後者ではくり返し与えることを望んでいることになるとのことだ。

(上の引用に文語訳を用いたのは私がこちらで記憶していたからであって、 著者の意向ではない。)

共同訳のフランス語版にあたる Traduction Oecuménique de la Bible は注が豊富で便利なのだが、 この部分を見ようとしたら本文が1ページに3行ずつで --- 二段組みだから“6行ずつで”というのが正確かも知れない --- あとは全部注釈なので読むのが大変。 動詞はどちらも Donne-nous と訳されているだけで、 注をざっと見たかぎりではこの点にはふれられていない。

岩波全書の「ギリシア語入門 改訂版」ではこの二つの命令法について 「その差違は極めて微妙なものであり」(§539) と書かれている。

1999-05-23 (0) 01:23:33 +0900

なぜ悪魔はマラキ書を引用して再反論をしなかったのか?

マタイ伝第 4 章第 5-7 節に 《次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、 神殿の屋根の端に立たせて、言った。 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、 「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」 と言われた》(新共同訳) とある。 イエスが受けた誘惑の二つめであるが、 マラキ書第 3 章第 10 節には 《これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる》(新共同訳) とある。 なぜ悪魔はこれを引用して再反論をしなかったのだろうか?

1999-05-23 (0) 00:30:10 +0900

切り落とされた大祭司の僕の右耳

《そして彼らの中の一人の者が、大祭司の僕を打ち、 その右耳を切り落とした。するとイエスは答えて言った、 「止めよ、そこまでだ」。 そして、〔その僕の〕耳に触れて、彼を癒した (ルカ 22:50-51)》 (「新約聖書 福音書」岩波書店)とは、 具体的にはどのような光景だったのであろうか?

一読するとその僕の頭の右側の、耳があったところに「触れて」と思えるが、 右耳を「切り落とした」というのだから、そこにはもはや耳はない。 ないものに触れることは不可能だ。

第一の解釈は、地面に落ちている耳に触れたら僕が癒された、と考える。 若干不思議な光景である。 落ちていた耳が宙を飛んで僕にくっついたのか、 触れたとたん僕に新たな耳が生えてきたのか、 あるいは耳に僕が生えてきたのか。 新たな疑問が生ずる。

第二の解釈は、 残っている左の耳に触れたら反対側から右の耳が生えてきて僕は癒された、と考える。 しかし原文では「耳」に定冠詞がついているようなのでこの解釈はむずかしかろう。

1999-05-23 (0) 00:07:49 +0900

岩波版旧約聖書の分け方は Biblia Hebraica のそれと同じ

銀座教文館の洋書売場で、 聖書の棚に例の Biblia Hebraica の分冊が並んでいるのを見た。 今までは「あ、あるな」ぐらいしか見ていなかったが、 今回は「どう分冊に分けているか」を注意してみたら、 現在刊行中の岩波版旧約聖書と同じらしいと気がついた。 ということは、岩波版が Biblia Hebraica にならっている、 ということだろう。

1999-05-22 (6) 02:19:00 +0900

十二小預言書の名前

十二小預言書の名前は大学三年ぐらいのときに一気に言えるようにして覚えたはずだが、 久しぶりに言ってみようとしたら 「ホセアヨエルアモスオバデヤヨナミカ」 でつかえてしまい、あとは最後の 「ゼカリヤマラキ」しか出てこなかった。 正解は 「ホセアヨエルアモスオバデヤヨナミカナホムハバククゼパニヤハガイゼカリヤマラキ」。

私もパワーが落ちたものだ。

1999-05-22 (6) 02:08:00 +0900

「God's Filofax」のマウスパッド

銀座の伊東屋で 「God's Filofax」と書かれたマウスパッドを買った。 例のシステム手帳でダイアリーのページを開いたところの絵なのだが、 旧約聖書創世記冒頭の、 天地創造のプランだか記録だかが一日ずつ書かれている。 私は面白いと思って即座に買ったが、結構売れ残っている感じ。 日本では面白さが理解されにくいかも知れない。

1999-05-22 (6) 01:59:00 +0900

レシートを見るとお店の商品分類はいい加減

先日東京へ行っていろいろ買い物をしてきたが、 あとでレシートを見ると商品の分類がいい加減だ。

日本橋の丸善で買ったヘブル語旧約聖書とギリシア語新約聖書の合本は 「Bks.on Japan」だから Books on Japan か。 そういえば哲学・思想・宗教などとは別の、 エスカレータをおりてすぐのところにあったっけ。 あのあたりは日本に関する洋書のコーナーだったような気がする。 同じく丸善で買った A4 ノート用の革製ブックカバーは 「ギフトヨウヒン」。 自分用に買うやつはいないという意味か。 そういえば結構高かった。

銀座の教文館の建物にある Ein Karem(エイン カレム) という名前のお店で買った、 小さな十字架がチェーンでぶらさがっている革しおりは 「ギフト」という分類。 そういえばあまり実用的ではないかも。

銀座の伊東屋で買った 「God's Filofax」と書かれたマウスパッド。 これがレシートでは「バイブルシステムリフィ」。 最後は「リフィル」の「ル」が字数の関係で落ちたものだろう。 確かに Filofax はシステム手帳で、 そのマウスパッドのイラストはいわゆるバイブルサイズの Filofax のようだけど。

中野の明屋(はるや)書店で買った広辞苑第五版は「ゴガク」。 日本語を母語としない者に対する配慮は必ずしも十分でないと言われる広辞苑がここに分類されるのは皮肉と言うべきか? あるいは「語学」は「言語学」 も意味するそうだそうだから言語学を専攻された編者の新村出先生への敬意のあらわれか!?

1999-05-22 (6) 01:50:00 +0900

「国歌・国旗法案」における日章旗の寸法

18日付朝日新聞大阪本社版総合面に「国歌・国旗法案」の概要が紹介されているが、 国旗は日章旗で、 寸法は「縦 横の三分の二」 「日章 直径は縦の五分の三、中心は旗の中心」、 彩色は「地は白、日章は紅」 となっている。 (実際には18日付では「縦 横の三分の一」となっており、 おかしいなと思っていたら19日付で訂正された。)

一方、広辞苑第五版で「日章旗」をひくと 「布地は白色の長方形で、 縦横の比率は横を100とすれば縦は70。 日章は赤で、その直径は縦の5分の3。 日章の上下のあきを等しくし、 日章の中心は旗面の中心より横の100分の1だけ旗竿の側に近寄る」 としてなっている。 1870年(明治3)の太政官布告によるらしい。

ということはこの法案は色も形も伝統的な日章旗とは別のものを国旗と定める法案なのだろうか?

祝日に日の丸を揚げているうちを回わっては 「おたくの日の丸は使えなくなりますよ」 と言って旗を売りつける業者が現われたりして。

1999-05-20 (4) 01:28:00 +0900

ワイシャツの胸ポケットに入れて使うペン差し(丸善製)

二三年前に東京日本橋の丸善で買ったペン差しが気に入っているので紹介したい。

革製で、ワイシャツの胸ポケットのような形をしており、 実際にワイシャツの胸ポケットに入れ、 舌のような部分を外に出してセットする。 そのうえでいつものようにペンをワイシャツの胸ポケットに差すと、 ペンとワイシャツは全く接触しなくなる。 つまり、ペン本体はこのペン差しの中に収まるし、 ペンをワイシャツに止める金具は直接ワイシャツの布地をはさむのではなく、 舌のような部分の上から布地をはさむようになるのである。 よって、ペンからインクがもれてワイシャツをよごしたり、 ひんぱんなペンの抜き差しでポケットの布地がいたんだりするのを防ぐことができる。

ポケットからはずして普通のペン差しとして使うこともできる。 家やホテルに戻ってワイシャツを脱ぐとき、 差していたペンの置き場に迷うことがあるが、 このペン差しを使ってひとまとめにしておけば、 次に出かけるとき一部のペンだけを忘れることがなくなる。 (ペン差しごと忘れる事故は防ぎようがないが。) 裏側には別のポケットが付いており、メモ用紙や切符などがいれられるのも便利だ。

丸善が作らせているらしく、 裏に「MARUZEN / TOKYO」の押し型つき。 東京日本橋の丸善の、 地階へ降りるエスカレータをおりてすぐ右手で、 普通の形のペン差しなどと並んで売られている。 ここ以外では売っているのを見たことがない。 2,200 円。黒と茶の二色がある。 ちなみに私のは茶だ。

前々から紹介しようと思っていたのだが、 今回上京した際に値段や売り場を調べてきたので。

1999-05-19 (3) 01:51:00 +0900

「先頭打者満塁ホームラン」

……、世の中に存在しないもののひとつ。

1999-05-16 (0) 23:02:00 +0900

εγω ειμιは日本人の名前のような響きだ

うちにおいていたほうの岩波全書「ギリシア語入門 改訂版」が見当たらないと思っていたら、 本ではなく京大カードをいれている棚に乗っていた。 それはともかく、昔半年間の講義で半分ぐらいは習ったはずなのに εγω ειμι(「私は〜である」)も忘れていたとはなさけない。 εγω ειμι、εγω ειμιとくり返しているうち、 なんだか日本人の名前のような気がしてきた。 江郷詠美、と勝手に漢字を当ててみた。

1999-05-07 (5) 17:25:00 +0900

同伴者数自由で300名にあたる抽選

2月にコダック社の同時プリントを利用したら 「300名様にご案内」とかいう北海道旅行の応募券がはいっていた。 1名では応募できず、同伴者数を書くようになっているのだが、 はたして抽選はどうやって行なうのだろう? 同伴者が何人であっても同等の確率で当たるのか? 一枚ずつひいてゆき、 同伴者数+1(1は本人の分) を足していって300に達したところで打ち切るのか? 298の次に何度ひいても同伴者数が2以上の応募券が出てきたらどうするのか? 299になったらどうするのか? などと謎はつきないが、 価格 29,800 円は参加者負担、よく見ると小さな字で 「おひとり様/4名様以上一室・月〜水出発の場合」 と書いてある。

もしかして全員にあたるんだったりして。

1999-05-05 (3) 13:51:51 +0900

傘は先を下に向けたまま巻けるはずだ

なんだか最近バスの中や人混みで気になるのだが、 傘の先を上に向けて巻こうとする若い人が目立つ。 他人の目を突いたりしないよう、 狭いところでは傘はなるべく下を向けたままにしておくべきだ。 柄の部分を右手で持って傘をぶらさげ、止めるための布片を左手でつかみ、 右手首を使って一二回回転させれば先を下に向けたまま巻くのは簡単なはずだ。 (私は部分的に左ききなので、 上に書いた右手左手の使い分けは逆のほうが普通かも知れない。)

1999-05-05 (3) 07:54:46 +0900

「連休中ですが、もっと大勢の人に来てもらいたかった」

4日付朝日新聞大阪本社版石川面に3日の憲法記念日関連の催しの記事がでている。 その中に、 集会に参加した男性の 「連休中ですが、もっと大勢の人に来てもらいたかった」 という話があった。 憲法について考えるための憲法記念日なのに、 連休で遊びに出かけてしまい集まりが悪いとは皮肉だ。

1999-05-05 (3) 02:11:51 +0900

朝日新聞に「ゲーセン」という語が

4月29日付朝日新聞大阪本社版経済面に 「セガ、連続赤字に」という記事が出ている。 その最後の段落に 「若者がゲーセンよりも携帯電話にお金をかけるようになり」 とある。 「ゲーセン」は「ゲームセンター」の略語だがあまり一般的ではなかろう。 直前に「ゲームセンター」とあるのでわかると思ったのかもしれない。 「朝日新聞が使うようになったころには流行が終わる」 という見本のような例であろう。

「見本のような例」っておかしいかな?

1999-05-05 (3) 02:05:08 +0900

英文内に日本人名を書く際の姓名の順

4月29日付朝日新聞大阪本社版総合面に 「けっこうわからぬ外来語」という記事が出ている。 この見出しは隣の記事との語呂合わせなのでどうでもよいが、 中に 「日本人名を英語で書くときにも日本流に姓―名の順にすべきだという人が、 英語流の名―姓派を初めて上回り」 というくだりが出てくる。 「日本人名を英語『で』書く」という点はさておき、 単にこう聞かれても私だったらすぐには答えられないと思う。

もしも英文の中に Yukawa Hideki とあったとき、 これが姓―名の順であることがわかっているのでない限り、 短く呼ぶときには Yukawa と呼ぶのだ、ということはわからない。 だから、 文書内の約束等でどちらが姓なのかわかるのならば姓―名の順がよいだろうが、 そうでないなら旧式の名―姓がよい、と私は思う。

どちらが姓かわかるようにする工夫のなかでは YUKAWA Hideki のように姓を大文字で書く方法が最も簡単である。 全てを大文字で書くと読みにくいというのなら YUKAWA Hideki のように small capital を使う方法もある。 (ここでは small capital は一回り小さい活字で代用してみた。)

Yukawa, Hideki のようにカンマで区切り、英米人の場合も姓―名の順に書く、 というのは感心しない。 カンマは文章の中では別の --- というよりも本来の --- 意味で使われるし、 英語では It is said that Newton, Isaac is one of ... の語順では言わないからだ。 人名表のようなものの中では有効かもしれないが。

(さらにいえば、 名前のつけかたが複雑で、 短く呼ばれるときに長い正式の名前の一部を用いるのではない民族もいるかもしれない。 その場合には別の工夫が要ろう。)

1999-05-05 (3) 01:58:05 +0900

カントの散歩の時刻

カントの散歩の時刻は正確で、 人々はカントのくるのを見て時計を合わせた、 という話をきいたことがあるが、 当時のドイツではどのような時法を使っていたのだろうか? 毎日5時(だったかな)に起きたというのも、 不定時法と定時法では意味あいがまったく異なってくる。 定時法なら冬期はまっ暗なうちに起きたということになるが、 不定時法だと夜明けの少し前に、というだけのことかも知れない。

1999-05-05 (3) 01:07:00 +0900

最近のオルファ株式会社の新聞広告は好感がもてる

……。 製品の絵を並べて見せているからだ。 これが広告のあるべき姿だと思う。 前に二度ほど“けち”をつけたのでいいと思ったときはほめておこう、っと。

1999-05-04 (2) 02:09:12 +0900

「時差は一時間早い」ってどういう意味?

3日付の朝日新聞大阪本社版スポーツ面に 「柔道決勝などはゴールデンタイムに」 が出ている。 シドニーオリンピックの柔道決勝が 2000 年 9 月 16-21 日午後 8 時半から 10 時と決まったという記事だ。 「時差は通常なら一時間早く、 豪州で夏時間が繰り上げ実施されれば、 二時間早くなり」というのだが、 この「時差は一時間早い」がどういう意味かわかるだろうか? 日本は GMT+09:00, オーストラリアは GMT+10:00 なので 「《時計の上では》一時間早い」の意だろうが、 「同じ時刻(例えば午後 8 時半)がくるのが一時間早い」 と解釈するとまったく逆になってしまう。 よって、この表現は使うべきではないのだ。 新聞記者がこのレベルでは国民の夏時間に関する理解の度合いも知れるというものだ。

1999-05-04 (2) 01:46:12 +0900

女性の皇位継承に憲法改正は不要では?

3日付の朝日新聞大阪本社版総合面に 「国民的論議なし 見直し意見拡散」 という日本国憲法に関する記事があるが、 その中で「憲法調査会」について 「調査会に改憲派から護憲派まで幅広く加わると、 憲法九条だけでなく、 知る権利や環境権から女性の皇位継承まで、 ありとあらゆる問題がテーブルに載る可能性がある。 しかし、実際に憲法を改正するには……」 とあるので女性が皇位を継承できるようにするには現行の日本国憲法を改正しなければならないのかと思ってしまったが、 憲法は第二条で 「皇位は、世襲のものであつて、 国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」 と定めているだけで、 「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」 と決めているのは皇室典範の第一条である。 だから憲法を改正しなくても皇室典範を改正すれば女性の皇位継承は可能だと思う。

C++ で言えば const char*char* const の違いみたいなものかもしれない。

1999-05-04 (2) 01:30:25 +0900

子どもに人気の職業を 720 人を対象に調べるのは少な過ぎないか?

2日付の朝日新聞大阪本社版総合面に 「子どもに人気の職 男子1位は大工さん 第一生命調べ 不況響き堅実型?」 という記事が出ているが、 よく読むと 「全国の保育園・幼稚園児、小学生約七百二十人を対象に」 ということだ。 少な過ぎないだろうか? しかも一面の「紙面から」にまで載せるなんて。

1999-05-04 (2) 01:00:28 +0900

折り紙の折り方が貼り合わさって巨大な一枚のイメージに

幼稚園のころの私は折り紙が大好きで、 何冊かの折り紙の本を買ってもらって毎日のように折っていた。 折り紙の本には 「つる」だの「やっこさん」だの「ほかけぶね」などごとに、 最初のま四角のから折ってゆくさまが図で示されているが、 途中までは同じ折り方で折れるものも多い。 そしてそれらの本に出ていたほとんどの折り方を頭にいれた結果、 頭の中でそれらの図のうちの共通部分が貼り合わさって巨大な一枚のイメージになった。 おそらく、実際に書こうとすると平面の上では実現できないだろう。

それからもう何十年も経っているのでそのイメージは薄れてきたが。

1999-05-04 (2) 00:51:12 +0900

数が並んでイメージされる癖

私には、 100 未満の自然数を聞くと、 数が並んでいるさまが目に浮かび、 その中でその数がどこに位置するかをイメージするくせがある。 その並び方は子供のころから毎回同じようだが、 絵に書けるほどははっきりしない。 が、全体としては左から右へと並んでいる。 1 から 10 までと 20 台は五つずつ二列に並んでいるが、 その間をつなぐ 10 台は一列だ。 30 台あたりからはずっと一列に並んでいる。 50 台は横に、70 台あたりは縦に。 子供のとき見た数の絵本か何かなのか、 風呂屋の傘入れかゲタ箱の番号札のイメージなのか。 あるいはそれらを頭の中で貼り合わせているのかもしれない。

1999-05-04 (2) 00:34:50 +0900

「きょうは飲んでいるからやめておく」の「いる」

「きょうは飲んでいる(=酒を飲んだ結果いま酔っている)からやめておく」 というときの「いる」について、 岩波国語辞典第三版は 「その動作などを経た意を表す」と説明している。 「知る」に対する「知っている」も、これで説明できる。 新明解国語辞典第三版にはこの説明はない。 そのせいか、「知っている」を「知る」の項目内で特別に説明している。

1999-05-04 (2) 00:27:45 +0900

「順序よく」とはどういう意味か?

ちょっと前に、 金沢市内のバス停に 「マナーを守って順序よく」というステッカーが貼られていた。 私は「順序よく」というのは“ある順序を想定したうえでそれに従って” の意味だと思っていたので 「金沢では乗り物を待つ際に列をつくる習慣がまだないのにおかしいなあ」 と思って手元の辞書を引いたところ、 新明解国語辞典第三版だけが「順序よく」を見出しにあげ 「並び方がきちんと整って」と説明していた。 とにかく並ばないと話にならないのだ。

1999-05-03 (1) 22:58:40 +0900

口語訳聖書「ヨハネによる福音書」19.3 の「それから」は修正の跡あり

日本聖書協会の 1954 年訳の新約聖書「ヨハネによる福音書」 第 19 章第 3 節の冒頭の「それから」はほかより活字が大きく、 しかも曲がっているので修正したものと思われる。 1975 年の「100 年記念特装版」もそうなっている。 原語はただの kai のようだ。

1999-05-03 (1) 22:47:35 +0900

「おみせやさん」では「おみせ」は売っていない(ことが多い)

「魚屋さん」では魚を売っているのが普通で 「ケーキ屋さん」ではケーキを売っているのが普通だが、 「おみせやさん」では普通「おみせ」は売っていない。

広辞苑第四版には「みせや」という見出しは立ててある。

1999-05-03 (1) 22:35:48 +0900

「ダイズ」「大豆」を混用している朝日新聞の「料理メモ」

26日付朝日新聞大阪本社版家庭面の「料理メモ」は 「ダイズのサラダ」というタイトルで、 最初は「ゆでダイズ」と書いてあるが終わりには 「大豆」と書いてある。 「最後の『おおまめ』ってなんですか?」 という質問の電話が殺到しているかもしれない。

1999-04-27 (2) 02:44:00 +0900

開票速報特別紙面と書簡体アオリスト

26日付朝日新聞大阪本社版一面に 「開票速報で特別紙面」というおことわりが出ている。 その中に「一部地域の配達時間に影響が出るかもしれませんが」 とあるが、読者がこれを見るときは「影響が出た」あとのはずだ。

最近岩波書店から出た新約聖書の翻訳で、 「書簡体アオリスト」なるものを知った。 たとえば「コロサイ人への手紙」4.8 に 「あなたがたのもとに遣わしたが」とあるが、 これは「受取人が手紙を受け取った時点から見ての話」 と注がついている。

1999-04-27 (2) 02:39:00 +0900

“11 年 11 月 11 日に結婚式を”という広告

……が3月30日付朝日新聞大阪本社版の広告特集に出ていた。 コンパルという会社らしい。 もう一つの「2000 年 1 月 1 日」 と違い、 こちらは必ずしも今年の 11 月 11 日が「11 年 11 月 11 日」 であるとは限らないのでは、と心配したが、 その場合は「1 年 11 月 11 日」ということでゆるしてもらうのだろう。 その際の保証などについては何もふれられていない。

1999-04-26 (1) 22:37:05 +0900

「イタリア時」は日暮時に時計を合わせなおす

以前一度読了した山口隆二「時計」(岩波新書、1956) の第二章「時刻制度の発展」をながめ直してみた。 それによると、 昼夜をそれぞれ等分する「不定時法」から現在の「定時法」 への移行の間に、中間的なものが使われていたらしい。 その中で、イタリアで 14 世紀前半から 19 世紀ごろまで使われていた 「イタリア時」はちょっと前にここに書いた 「一日1〜2分ずつずらす“夏時間”」と非常に似ている。 一日を二十四時間に等分し、 日没後約半時間のころを一日の始まりとする。 そしてそこから一時、二時、……、二十四時と数えるそうだ。 ゲーテの「イタリア紀行」 に出てくるイタリア時はこれがやや変化したものだというが、 未読なのでまたそのうちに。

1999-04-26 (1) 01:47:28 +0900

腕時計は文字盤の文字を大きくしても見やすくならないと思う

熟年向き腕時計に「文字盤の文字を大きくして見やすくした」 という宣伝文句のものがあるが、 効果があるかどうか疑問だと思う。 私の考えでは、 大人は腕時計を見るときに文字盤の文字を読んでいない。 熟年者が腕時計を見にくく感じるのは文字盤の文字が見えないのではなく、 どこが 12 時なのかがわかりにくいからだ。 私自身はまだ若いつもりだが、 夜中に寝ぼけまなこのときや急いで歩きながらのときに、 腕時計によっては 12 時の位置がわからず時刻を読み取るまでに時間がかかることがある。 だから、大切なのは 12 時 (および 3 時 6 時 9 時などのいくつか)のマークがほかとはっきり区別できることだと思う。 ダイバーズウォッチにはそうなっているものが多いようだ。

1999-04-23 (5) 02:54:00 +0900

「橋のない川」vs「川のない橋」

住井すゑ氏に「橋のない川」という小説がある。 私はまだ読んでいないのだが、 このタイトルを見るたびに「川のない橋」とつぶやいてしまう。 歩道橋のことのつもりだが、別に意味はない。

1999-04-23 (5) 01:02:00 +0900

ダビデは二百人のペリシテ人を討って何枚の陽皮を持ち帰ったか

「王は結納金など望んではおられない。 王の望みは王の敵への報復のしるし、 ペリシテ人の陽皮百枚なのだ」 「ダビデはこうして王の婿になることは良いことだと思い、 何日もたたないうちに、 自分の兵を従えて出立し、 二百人のペリシテ人を討ち取り、 その陽皮を持ち帰った」(サムエル記上第 18 章第 25 節、第 26-27 節、新共同訳) の部分を何冊かの注釈つきの本で見たが、 「『陽の皮』は割礼なきペリシテ人たることの証拠」 (関根正雄訳 旧約聖書 サムエル記(岩波文庫)197 ページ) というような説明はあっても 「どうして二百人討ち取ったのか」の説明がない。

どうやら 「二百人のペリシテ人を討ち取ったら陽皮は二百枚取れる、 倍も取ってきたのはダビデに余力があったから」 ということらしいのだが、 ペリシテ人は何らかの理由でふたりにひとりしか陽皮がとれない、 とも考えられなくはない。 例えば、ペリシテ人の男子は二人一組で生活しその一方は陽皮がなくなっているので “分留り”を考えて男子二百人を殺したのだとか、 ペリシテ人は男女の見分けがつかないのでとにかく二百人殺したら半分が男だった、とか。 そんなわけないか。

1999-04-22 (3) 22:18:00 +0900

アハズの日時計と夏時間

『見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、 十度後戻りさせる。」 太陽は影の落ちた日時計の中で十度戻った』 (旧約聖書イザヤ書第38章第8節、新共同訳) を、夏時間を廃止して時計の目盛をずらしたため影が十度戻った、 そして、無理な夏時間をやめたのでヒゼキヤの病気が治った、 と解釈するのはきっと無理だろう。

1999-04-20 (2) 01:56:05 +0900

ローマ人は夜明けのころ起きた

……そうだ。 スエトニウス著 国原吉之助訳「ローマ皇帝伝(上)」(岩波文庫) の附録 339 ページに 「ローマ人は夜明けと同時に、冬には夜明け前から活動を開始し」とある。

1999-04-19 (1) 18:29:15 +0900

一日1〜2分ずつずらす“夏時間”

25年ほど前のわが家にあった時計はゼンマイや振り子式のものばかりで、 二三日で1分程度進んだり遅れたりするのは当たり前だった。 平日の朝は、 出かけるべきメンバーが全員出かけてしまうまでテレビをつけっぱなしにする。 画面の片すみに出ている時計で正確な時刻を知るためである。

もしもそういう時代 --- 家庭の時計は不正確だがテレビは十分に普及している時代 --- であったら、 「毎日少しずつ時刻をずらす夏時間」も可能だったかも知れない。 「理科年表」によると、 東京の日の出の時刻の変化は一日あたり高々2分である。 そこで、例えば 「東京の日の出の時刻が午前6時になるよう毎日午前2時に時計を 0 〜 2 分進めたり遅らせたりしたもの」 を日本の“標準時”とする。 普通の人は毎朝テレビなどでそれを見て腕時計や家庭の時計を合わせる。 仮に一日二日合わせなくても、 「どうせ時計は狂うもの」とはじめからあてにしていないので困らないのだ。

毎日(時計の上で)決まった時刻に起きる人にとって、 この方式は普通の夏時間を比べると 「ある日とつぜん1時間早く起きなければならない」 ということがないのでははるかに自然な生活リズムが保てる。 また、起きる時刻が日の出のころであれば太陽の出ている時間をほとんどムダにせずに済む。

時計をずらす時点でも働いている人たちの例として鉄道関係者を考えてみると、 線路の点検・整備などを行なう終電から始発までの時間は春に短く秋に長くなるが、 差は5分にもならないから影響は少ないだろう。 寝台列車は毎日同じ駅に停車してそこで時間調整をしてしまえそうな気がする。 もちろん、このような業界では家庭よりは精度のよい時計を持ち、 より精度の高い時計をもつ施設から頻繁に正確な時刻を得るようにする……。

ダメかな?

1999-04-18 (0) 02:06:00 +0900

「日本標準時」よりも「中央標準時」のほうが正式らしい

「理科年表」もこちらを採用している。 英語では Japan central standard time.

1999-04-16 (5) 19:00:00 +0900


すのもの Sunomono