あれほど細かな校則は本当に必要なのか。





 学校に無意味な校則というものはありません。
 すべてのきまりには理由があります。

 アメリカのある州に「消火栓にライオンを繋いで買物をしてはいけない」という法律があると聞いたことがあります。何ともすさまじいものです。
 しかしこの手の呆れた決まりという点では日本の校則にこそ軍配は上がる、そう考えている人も少なくありません。

 月刊宝島編集部が発行している『VOW』というシリーズは読者の投稿を中心とし、世間のおもしろそうなものを参集させたものですが、そこにはこの種の校則が、それこそ山のように積まれています。
   
  1. 右側通行を守り、友達とならんで歩いてはいけません(和歌山・中学)
  2. (朝の集合・体操)レコードの合図ですみやかに(五九秒間)集合する(群馬・中学)
  3. (プールに)女子は生理であってもいちばん多い日をのぞいてなるべく入る(兵庫・中学)
  4. 消しゴムの形状は直方体であること(兵庫・中学)
  5. はだ着の色は、はだ色・白色一色に限る(奈良・中学)
  6. 通学用の運動靴のひもの穴は六個であること(東京・中学)
  7. 天然ウェーブについては、入学あるいは転入時に生徒指導に申告し承認を受ける (静岡・中学)
  8. (男子)髪を分けたり油をつけたりしない。(女子)長くする場合は編むか束ねる(異装届けを出すこと)(茨城・中学)
  9. 異性の先生と話す場合は、二〇a以上感覚をとる(奈良・中学)
  10. トイレットペーパーの使用量は一回につき三〇a以内(奈良・中学)
  11. 学区外への外出の場合は、必ず制服着用(千葉・中学)
  12. 休日や祝日の午前中は外出しない(茨城・中学)
  13. 家族以外が運転する車に同乗した場合は退学処分(静岡・女子高)
  14. 校外で異性と一緒に歩いてはいけない。相手が父親や兄弟であってもいけない(東京・女子高)

 ここで上げられた都道府県が特別というわけではありません。投稿者がたたまた上記の県の学校に通っていただけのことであり、まず間違いなく日本全国どこにでも同様のきまりがあるはずです。
 単純に眺めれば、教師以外のだれが見ても絶句するような内容ですが、しかしある程度経験があり心ある教師ならば、これらの馬鹿げたきまりに一定の同情を示すことができるはずです。

 最初に挙げたライオンの法律が示すように、すべてのきまりには(それが妥当であるかどうか、表現がふさわしいかどうかは別として)それなりの理由があるからです。

 ライオンの例の則して言えば、これはまず間違いなく、アメリカのその州で「誰かがライオンを消火栓に繋いだまま買物に出掛け、そのために消火活動ができなかった」からでしょう。
 さらに穿って推察すれば、この時裁判にかけられたライオンの飼い主は、これを取り締まるための法律がないばかりに無罪になってしまった、そこで泥縄式に例の法律ができた、こう考えるとすべては納得できます。

 無論、表現としては「消火活動を妨げる一切の物を消火栓の付近に置いてはいけない」の方がふさわしいでしょうが、実際には法律で「いけない」と表現することはありません。
 「いけない」と言う代わりに、その行為を行なった場合「以下の刑罰に処する」と表現するだけです、しかしそうなるとさらに重ねて「消火活動を妨げる一切の物」が何であるかの判断が必要になってきます。
 例のライオンの飼い主が常習犯であるなら、むしろ「ライオン」と明記したほうが遥かに効力がある。そして彼の条文はできあがった、おそらくそういうことでしょう。

 もうひとつ、この法律が注目に値する理由は、先のライオンの飼い主が悔悛してペットの扱いに十分な注意をしようと、あるいはライオンまたは飼い主自身が死亡してこの問題が取り敢えず問題にならなくなったとしても、おそらくこの 法律は改正されないだろうということです。

 なぜなら、まず法改正には時間と手間がかかるからです。
 また、この法のために社会生活が滞らないかぎり、わざわざ時間を取って改正する必要はどこにもないし、さらに、何十年後かに同じ事件が起きたとき(それがないとは決して断言できない)改めて同じ条文を作ることを考えれば、何を今、無理して変える必要があるだろうか、そういうことになります。
 法律の条項が多くて困るのは司法試験受験者くらいなもので、むしろ減らすことによって生じる書類の整理などの方がよほどコストがかかります。


 校則の馬鹿らしさは、一部はこのような理由に由来します。
 つまり、少なくともその校則がつくられた段階において、それにはそれなりの理由があったということです。


2.(朝の集合・体操)レコードの合図ですみやかに(五九秒間)集合する(群馬・中学)
  
 これは単に使用していた曲の長さが五九秒だったに過ぎません。こんなことで揶揄されることがわかっていたら、まず文章の形として残さなかったはずです。


3.(プールに)女子は生理であってもいちばん多い日をのぞいてなるべく入る(兵庫・中学)
 水泳は体育の中でもっとも見学者を多く出す種目です。水泳が苦手な子もいれば寒さの苦手な子もいます。肌が露出することが嫌いな子も、体形が露になることを厭う生徒もいます。
 生徒はさまざまな理由をつけて見学で済ませようとしますが、とくに女子の場合、本人に「生理だから」と申告されると教師は認めざるを得なくなる場合が多いものです。
 「私の場合、十日間は続く」と言われればそれも認めるしかなく、その他の日々を風邪や腹痛でしのがれると、実質的な水泳の期間は瞬く間に過ぎてしまいます。ひとりがこの方法に気付けば、あとは堤防に開いた穴に水のなだれ込むがごとく次々と見学者が増えて行きます。これを防ごうとした結果が、おそらくこの「きまり」となのでしょう。


10.トイレットペーパーの使用量は一回につき三〇a以内(奈良・中学)
  
 この信じられないほど些末な校則がいつできたか、私はほとんど正確に特定できます。
 これは間違いなく1973年もしくは74年策定です。オイルショックの狂乱を経験しいる人なら、この文があちこちのトイレに張り出されていたことを覚えているでしょう。
 あの時真っ先に不足し、生活に重大な影響を与えたのがトイレットペーパーだったのです。
 そのため自宅ではトイレ我慢をして、会社や学校で済ませるといった人が驚くほどいた時代です。喫茶店やレストランのトイレットペーパーもしばしば盗まれました。
 しかしそのころの決まりが四半世紀たった今も残っているというのは、やはり奇異かもしれません。
 しかし節約は今でも美徳ですし、別には削るだけの理由もなかったのでしょう。必要がない限り改正されないのは法律の原則ですから。


 
11.異性の先生と話す場合は、二〇a以上感覚をとる(奈良・中学)
12.家族以外が運転する車に同乗した場合は退学処分(静岡・女子高)

13.校外で異性と一緒に歩いてはいけない。相手が父親や兄弟であってもいけない
                                       (東京
・女子高)
 この三つはいかにも馬鹿げているが、それでもそれなりの理由があります。特に後のふたつは女子高のものであり、女子校は時に男女交際に対する厳しさは売り物である場合が少なくないのです。
 1989年を頂点とする生徒数の減少期にあたり、生徒をいかに確保するかは私立高校の死活問題です。そして我が家の娘を女子高へ進学させることについては男女交際で苦労したくないというのも親のひとつの立場ですから、高校としてもそうしたニーズに積極的に応えざるをえないのです。

 ところで問題はなぜ家族以外の運転する車に同乗してはいけないのか、なぜ父親や兄弟とさえ一緒に歩いてはいけないのかということですが、これには単純なわけがありそうです。つまりそれは近ごろの女子高校生の一部は、すぐに恋人を父親や兄や親戚にしてしまうからかもしれません。
 確かにこんなことまで明文化せず、疑いがあればその都度確認の作業を続ければ良さそうなもので、それこそ個に応じた肌理の細かい指導ということにもなりますが、父親はともかく、兄や従兄となると確認は面倒な上、口裏を合わされてしまえばそれでおしまいです。
 また学校における日々の指導項目はそれこそ数十もありますから、いちいちこんなことを確認していたらそれだけで一日が終わってしまいます。ですからそんな面倒を厭うといきおい十把ひとからげに「男は全部ダメ」ということになってしまいます。
 しかし父親と見まごう年齢の男を恋人に持つ女子高校生が存在することを前提としなければ、このような校則は成立しません。つくずく面倒な世の中になったものです(戦前の女子校にもこれに類する校則があったと聞きます。しかしその意味は異なっていたのかもしれません)。
 さて、同じ文脈で異性の先生と話す場合は、二〇a以上間隔をとるについては考えてみましょう。そこにはさまざまな事件が想像できますね。
 以上、すべての決まりには理由がある、少なくともつくられた当初には意味があった、そして「決まり」は特別な理由がない限り、削ることにも意味がない、というお話をしました。

 最後に、
 私には、なぜ校則の多さや内容に問題があるのかさっぱりわからないところがあります。
 実際、校則など何百項目あったってかまわないとさえ思っているのです。

 それが数百か条に及ぼうとも、日々いの学校生活で強調されるのはせいぜいが十数項目です。それ以上になると教師のほうも手が回らず職員間の足並みもそろわなくなってしまうからです。それさえ守っていれば学校生活はかなり気楽に過ごせます。

 「生徒は数十項目にも及ぶ校則の中でがんじがらめになっている」というのは、校則を棒読みする人間の幻想に過ぎません。校則がいくらあろうとも、普通に生活していれば抵触する心配はないからです。
 「校則が多すぎて覚えきれない」といった不満にも、本気で耳を貸す気にはなれません。校則を全文暗記せよと指導する教師などいませんし、覚えなくてもいいからです。


 道路交通法の条項が多すぎて困ると嘆くのは免許取得のための試験勉強をしている人たちだけで、普通のドライバーはほとんど覚えてはいないものです。覚えていなくても不自由はしませんし警察のお世話になることもありません。
 国家には膨大な法体系がありますが、それをすべて覚えている人はほとんどいないでしょう。しかしみんな生活しています。
 校則が厳しくてがんじがらめだと感じるのは、それらに抵触したがる生徒だけです。
 校則とはその程度のものです。