花さか     

昔、昔、ある所に、あじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に出かけました。おばあさんが洗濯をしていたら、 川に大きな桃が流れていましたので家に持って帰りました。

こう言うと、もうキミたちは『桃太郎』の話だと思うよね。
ところがどっこいこの話の続きはこうなんだ。

腹減ったおじいさんが帰ってきて「何か食べるものはないのか?」と言いますと、おばあさんは「川で拾った桃が臼の中にあるからそれを食べてね」と答えました。おじいさんが行ってみると、それは白い子犬だったのです。そうして二人にかわいがられて大きくなっていきました。

ホラ、ここまでくるとこれがあの有名な『花さか爺さん』の話だと分かるわけさ。
面白いだろ?
あとの部分は、たいていは同じなんだけどね。


ところでキミ、なぜ正直じいさんが灰を撒いたら枯れ木に見事な花が咲いたのに、隣の意地悪じいさんが撒いたら灰のままだったのか、分かるかい?

え? 意地悪じいさんだったから?
そりゃ科学的じゃないな。
同じ灰を撒いたのなら結果だって同じになるはずだろう? それが科学ってものさ。
それはね、つまり撒いた灰の問題ではなく、撒かれた枯れ木の問題だということだ。

正直じいさんが灰を撒いた枯れ木は、それは見事な枝振りのすばらしい枯れ木だった。だから満開のすばらしい花が咲く。
それに引き換え意地悪じいさんの方はそこそこの枝しかない貧相な枯れ木に向かって灰を撒いてしまった。だから大半の灰は枯れ木にかからず、そのまま空中に舞って殿様たちの目に入ってしまったというわけさ。


さて、私たちの周りにも似たようなことはあるよね。
ン? 分からない?

つまり、私たち教師が同じ授業を同じようにして、まったく同じ教室で同じく聞いているキミたちがいるのに、すばらしく見事な花を咲かせる子とそうでない子がいるようね。
それはなぜだろう?

枯れ木が違う。
その通り。
枯れ木が違うんだ。

それはキミたちの中に頭の良い子と悪い子がいるという意味ではない。
キミたちの持っている教養が、私たちの教えることをうまく捕らえるかどうかということだ。

たとえば、キミたちの中に歴史マニアがいるとしよう。織田信長や豊臣秀吉なんかにとんでもなく詳しいヤツね。
そういう子に向かって戦国時代の話をするのと、「信長、Who?」なんて言ってる子に戦国時代の話をするのと、どっちが楽だと思う?

信長の妹のお市の方が浅井長政に嫁いでそこで生んだ三人の娘たち、その三人がやがて敵味方に分かれてそれぞれが数奇な運命を辿っていくなんていう厄介な話、「信長、Who?」には定着しようがない。

同じように、しょっちゅう夜空を眺めていて、満天には無数の星があり、色や大きさや、星星のつくる形が異なることをなんとなく知っている子、

実際には読んだことがなくても、明治時代に夏目漱石だの森鴎外などといった作家たちがいて何か大変な小説を書いたらしいと知っている子、

やたら語彙が豊富でイノベーションだのノーマライゼーションだのグローバルだのといった言葉の大体の意味を知っている子、

こういう子たちが歴史や天文や英語を学ぶのと、そうでない子たちが学ぶのとでは、話はまったく違ってくる。


「子どものうちはたくさん遊んでおくのがいい」なんていうけど、実はこういう枯れ木を育てておけという意味であって、ただ漫然とくだらないテレビ番組を見たりTVゲームをやっていたりしてもダメなんだ。

大切なことは「枯れ木」だということ。一見役に立たないものだということ。それでも人によってものすごく差があるということ。

キミたちはもう間に合わないよね。それはしかたのないことだ。だからせめて、キミたちが親になったときには、自分たちの子にはそういうことをしておあげなさい。
いくら勉強しても身についていかない――枯れ木のない子は本当にかわいそうなんだから。


*注
 こうした枯れ木のことを、学習心理学では「先行オーガナイザー」と呼んでいる。