英雄
スシュール・キンダーガートゥンの死


 スシュール・キンダーガートゥン(School-Kindergarten)はパワー・クラッツの英雄だった。少なくとも18歳から27歳までの10年間、わが国で彼をしのぐプレーヤーは一人もいなかった。わが国でトップということは、世界でトップということでもある。

 しかし20代後半になると試合にかける時間が少しずつ延びてきて、28歳のとき、ついに初めてポーランド選手に負けたのである。そしてこのことは、我が国国民を震撼させた。

 メディアは連日激しく書きたて、クラッツ・ファンの首相は閣議でこのことを問題にした。だれに責任があるのか、いかにスシュールを再生させるか、それが国民の朝夕の話題だった。挨拶をするたびに話し合ったということである。

 じつのところ、スシュールが簡単に勝てなくなった理由はパワー・クラッツというスポーツそのものが国際化したためであった。それはかつて柔道が日本から、テコンドーが韓国から離れ、国際スポーツとなって本国が勝てなくなったのと同じである。スシュール自体の気力・運動能力はむしろ進化していたにもかかわらず、世界の強豪がこの新奇のスポーツに駆け込んできたために相対的に力が落ちてきたにすぎない。

 しかし国家のだれもそれを認めなかった。政府中枢の幾人かは気づいていたが、いまさら国民の怒りを止めることもできず、自分たちの発言も撤回できないと考えた。「英雄再生」は政府の既定方針であり、対立する政党のすべてが掲げるスローガンの一つになってしまっていたのだ。

 28歳から29歳になるまでの1年間、まずスシュールは薬漬けにされた。栄養剤・強壮剤・ビタミン剤、造血剤やら筋肉増強剤やらかなり怪しい薬が強制的に身体に注入された。スシュールはたびたび嘔吐や下痢に苦しめられたが、胃腸を壊すたびに新たな薬が与えられるだけで、そもそもの薬を止めるという発想はないようだった。

 翌年、スシュールの胃にかすかな潰瘍が認められた。政府はすぐさま手術することを決め、抵抗する彼を抑えつけて麻酔を嗅がせた。
 健康な体にメスが入れられたのである。
 念のためにという政府の要請に従って、医師は患部の周辺を大きく切除した。その大きさは胃全体の3分の2にも及んだ。

 手術後、食欲が極端に落ちた(それは当然である)。しかし急にやせ始めたスシュールの様子に驚いた政府は、また彼を薬漬けにした。

 2年後、今度は肝臓を病んだ。そしてまた手術。

「英雄再生」計画が進むたびに彼は弱っていく。しかし弱れば弱るほど更に負担の大きい治療が施され、33歳のとき、彼はついに立って歩くこともできなくなった。
 そして社会は、彼に対する興味を失ったのだ。

 スシュール・キンダーガートゥン(School-Kindergarten)の葬儀に集まった人は少なかった。
 ひどい雨の降る中で、彼の棺は静かに土の中に置かれた。

 哲学者ニーチェはその著作「ツァラトストラはかく語りき」の中で、人々に「神は死んだ」と叫ばせた。このセリフはその後ひとり歩きを始めたが、「神は死んだ」に続く言葉は広がらなかった。
 それは次のようなものである。

 人々は叫んだ。
「神は死んだ。神は死んだ。私たちが殺してしまったのだ」