なぜ、学校の開放は進まないのか


 学校の閉鎖性は次の3点で問題となっています。
  1. 学校には体育館やコンピュータルームなど有用な施設設備があるにもかかわらず、夜間や休日にほとんど休眠状態なのは納税者として納得できない。これらの施設を地域の人々に開放すべきだ。
  2. 学校は敷居高くなかなか入りこむことができない。参観日だけでなく、また保護者だけでなく、地域の人々が自由に出入りでき、授業の様子を見たり聞いたりできるようにすべきだ。
  3. 内申書や指導要録・通知票およびその基礎票について、本人に知らせないのはまったく理解できない。個人の情報である以上、少なくとも本人には全面的に開示すべきだ。
  4. 何か問題があると学校は常に秘密主義の中に隠れてしまう。もっと情報を公開すべきだ。

まず、第1の点(施設の開放)について、間違いなくこれは進んでいます。
残念なことに現在の学校は、100年前と比べると決して先進的な機器に満ち溢れているとは言えません。しかし、それでも体育館はありますしコンピュータも比較的多くそろっています。そこで今日ではそうした施設・機器をつかったスポーツ団体・コンピュータ習得・合唱サークル・地域の料理教室など、多くの公開講座が持たれるようになりました。
これからもこうした意味での学校開放はさらに進むでしょう。
しかし学校の施設機器に関するノウハウは、日常的に使っている教員が最も大量に持っているのは理の当然。そこでこうした公開講座の講師の大半はその学校の教員ということになり、週日の夜間や休みの日を、わずかな日当で駆り出されることになります。
そうした負担増が児童生徒に影響しなければ良いのですが、全体としてはどうでしょう?
しかしその点を除けば、基本的には良い試みと考えます。



第2の、自由な学校参観については、最近新たな問題が生まれています。
その気になれば今でも自由に入りこむことのできる学校という施設に、常時不特定多数の人間が出入りできるようになるとすると、京都の小2殺人事件のようなできごとは防御しにくくなります(*)。
現在は学校納入の業者さんにも職員室以外への立ち入りは遠慮していただいていますが、こうした学校開放が始まればそういうわけにはいかなくなるでしょう。

さらに、報道関係者や特殊な政治団体の構成員、宗教団体、各種民間団体による恒常的な授業の監視が可能になることも問題でしょう。
もちろん「地域の人々のみ」という限定はできますが、制限をするということはそれを守らせる人員が必要ということですから、誰か(教員か事務職員)がこれに当たることになります。しかしそれは日常的な業務に支障をきたし、最終的にそのツケは子どもに回されます。

最近、こうした意味での学校開放の新たな取り組みとして「自由参観」とか「参観週間」とか呼ばれる新たな授業参観の方法を取り入れる学校が増えてきています。

「自由参観」は丸一日いつでも参観OKという参観日。「参観週間」はそれが一週間ぶっ続け、というものです。

これは、保護者にとってはいつでも好きなときに時間調整してくることができるという意味でメリットがあり、教師にとってはかなり日常に近い子どもの姿を見てもらえるという点でメリットがあります。
子どもの緊張感が一週間も続くなって事はありませんし、もしあったらそれはそれで誉めてやるネタが増えるわけですから良いことです。

教師の負担は増えるようですが、一週間となるとさすがにエネルギー配分をしますから、1時間あたりの緊張はそう大したものではありません。そしてそのくらいの緊張はあってしかるべきでしょう。
学校の中に教師以外の大人の目を…と考えるとき、とりあえず実現可能な線かと考えます。



第3の内申書や指導要録の公開ですが、これは今後も進むことと思います。学校側に対処の方法があるからです。
現在もこれらの書類は「悪いことは書かない」という原則で徹底しています。一部の都道府県では、内申書も指導要録も「特記事項なし」が徹底され、中学や高校へ送る書類としての意味を失いつつあると聞いています。

けれどそれでもなお問題は残ります。
なぜならこうした成績書類は「相対評価を加味し絶対評価」という指導のもとに書かれているので、最終的には他の生徒の成績が開示されなければ納得は得られない、といからです。

「相対評価を加味し絶対評価」とはなんともいかめしい表現ですが、簡単に言えば「その子が頑張れば(絶対評価)良い成績をあげてもいい。しかし『みんなが頑張ったのだから全員に「5」をあげる』といったやり方は許容されず、ほかの生徒の成績との比較(相対評価)も加味しなさい」ということです。
そうなるとある生徒が非常に頑張ってテストの点数をあげたのに、それにも関わらず「3」のまま据え置かれたというような場合、他の生徒も同じように努力して成果をあげたという事実を開示しなければならなくなります。つまり最終的な納得は全生徒の成績の公開によてしか得られなくなるのです。

1999年の夏に、マスコミで有名なになったWebサイトによる学校批判(その結果校長は退職を余儀なくされた)では、まさにその点が追求項目の一つだったのです。

そうしたことを社会は望んでいるのでしょうか。そしてプライバシーとの整合は、どのように行われるのでしょうか?


第4の、学校に事件があった際の情報公開はさらに問題です。
もちろんメディアは情報でメシを食っているわけですからどんなものであれ、情報そのものがなければ何も始まりません。
しかし学校がメディアやメディアにあおられた世論に抗しきれず、事件の詳細を語り始めたらどういうことになるか。
加害者や被害者のプライバシーは学校ではなく、彼ら 個人が守らなければならなくなり、壮絶なメディアとの戦いは、その能力に応じて行われなければならなくなります。
加害者の残虐性も被害者の屈辱も、すべて白日のもとに曝され、長く地域の人々に語り継がれることでしょう。
テレビのワイドショーや週刊誌のゴシップ的記事を診たり読んだりする無関係の人々のようには、地域の人々は忘れっぽくないのです。


(*) 私はこの記事を2000年の5月末に書いたが、この恐れは翌年6月、大阪教育大付属池田小学校において不幸な形で実現してしまった。無念である。