なぜ教師は外見にこだわるのか。
学校が服装や外見にこだわることについては常に不満の声が聞こえます。
「人間は外見ではない」
「外見で人を判断してはいけない」
「外見が不良がかっていたとしても、中身がきちんとした人はいる」
そのあたりが反論として挙げられます。
しかし私たちの多くはそうは考えません。
経験的に言って、外見と中身は重なり合うことの方が多いと感じているからです。
確かに、都会の超一流と言って良い高校の生徒や一流大学の学生にも異形を好むも者もいますが、彼らは例外であり、外見に左右されない強靭な自我の持ち主なのです。どんな服装をしも、どんな化粧をしても、彼らの自我は崩れることはありません。
しかしそれはすべての人間に可能なわけでもないのです。
普通の人間は、化粧や服装によってしばしば気分を変更します。
そして服装や化粧、さらにはそれらを選び購入するための膨大な時間は、その人間の生活サイクルを大きく変えてしまいます。
しかし、だからと言って外見をしっかりしさえすれば中身もそれにともなって変わるというわけには行かないのも事実です。
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私たちが生徒の服装や化粧にこだわる大きな理由は次の二つです。
まず第1は、ある種のファッションは学校への挑戦という意味をもっているからです。
明らかに校則に違反する服装や髪型をしようとするのは、それ自体が学校への挑戦状なのだということです。
その子たちだって、校則破りは十分に承知しているのです。教師と対立し教師の指導を受けることは百も承知の上です。
そうした挑戦に対して教師が対決しないとしたら、それは彼らを見放した、彼らについては諦めたという意志表示に他なりません。
それはしてはならないことです。どんな場合も、子どもは見放されたくないのです。見放された子どもは学校社会の中に行き場を失います。
もうひとつ彼らの挑戦を退けなければならない理由があります。
それは校則破りによって、彼らが校内の負のヒーローとならないためです。
あまりにも目立つ明らかな校則破りは、その瞬間から周囲の生徒によって学校への挑戦者と見做されます。周囲の生徒たちがみんな学校に満足し、制約の多い生活を受け入れているなら別ですが、そうでない場合は(そして大抵はそうでないのですが)、問題です。
学校というものは子どもの前にハードルを置くのが仕事です。そのハードルを次第に高くすることによって技量や器量を高めようとする場と言ってもいい、それが学校です。したがってそこでは当然、さまざまなストレスや不満が蓄積し、圧力を増しながらがら突破口を求めるようになります。
校則への挑戦者には、周囲の生徒たちによって、しばしばそのようなストレスや不満の代弁者としての働きが求められるようになります。
「彼なら公然と教師に反抗してくれるだろう」「彼ならば息苦しいこの生活のどこかに風穴を空けてくれるに違いない」。「彼らなら何かやってくれるの違いない」
・・・・・・・・・。
奇抜なファッションをしながらも、そうした身勝手な期待にこたえないだけの強い自我の持ち主なら良いのですが、弱い人格は期待に積極的に応えて行かざるをえなくなってしまいます。
私たちはこういう時「デビューさせるな」という言い方をします。一旦「不良」というレッテルを背負うと、子どもは身動きがとれなくなるのです。本人が望と望まざるとにかかわらず、彼はそのように動かざるを得なくなるのです。
最後に、さらにもうひとつ教師が校則を守らせようとする情熱の源泉を指摘しておきます。
それは大人が児童生徒に対する指導の最前線をどこに置くかという問題です。
ほとんどの子どもたちの最大の関心事は「自己の差別化」です。簡単に言えば「その他大勢ではいやだ、明らかにすごいぼくを見てほしい」ということです。
なにか優れたスポーツか学習面で活躍できる子たちは自ずと差別化がはかれます。絵が抜群にうまいとか、音楽に特別の才能があるとかいった生徒も心配いりません。
しかし他に圧倒する何物もなく、またそこそこの自分に満足できない子どもたちは、何らかのかたちで「他と違う自分」をアピールしなくてはならなくなります。
奇抜な外見、明らかな校則違反は、そうした彼らの要求に応えるものです。
しかしそうした差別化の表現が一般的になってしまったらどうでしょう。
例えば最近の高校生の間ですでに茶髪は差別化の意味を失ってしまいましたが、ごく普通の生徒まで髪を染めるようになった今日、差別化を主張する者たちはどのように自分を表現したら良いのでしょう?
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幸い(というべきか)中学校では今も茶髪は異形のままです。しかしこれもやがて高校並になるかもしれません。
私は反対ですが、一部の専門家の言うとおり服装に関する規定が無意味であり、子どもたちにもっと自由を与えるべきだということで保護者たちのコンセンサスが得られるなら、私はそれでもいいと思っています。
茶髪や服装やピアスが生徒の個性の問題として許さなければならないとしたら、私たちは次のステージで生徒と勝負するだけです。現在、髪が赤くならないよう、耳朶に穴が空かないようにと払っている努力を、妊娠しないように、ドラッグに手を出さないようというレベルで払えばいいだけです。
しかしもちろん、私は自分の子どもとはそのようなレベルで戦う気はありません。
茶髪だピアスだなどという人生や運命にあまり関わりのない部分で戦っているうちは、もっと重要な問題での戦いは始まらないことを知っているからです。
戦いはいつも勝てるとは限りません。しかし茶髪だ、ピアスだといった問題は、負けたところで子どもの人生を大きく狂わせることにはなりそうにないからでもあります。
親が「最近の中学生(あるいは高校生)だからこれくらいは仕方ない」といって認めてしまうなら、その子は次のレベルで大人たちに挑戦してくるでしょう。そして一部の子たちは、その前線を突破し、今のアメリカのように十代のかなり早い時期に自らが親となり、あるいはドラッグに溺れていくことになるのかもしれません。
ただしその時茶髪もピアスも個性だと言った人々は、そのレベルでも個人の選択だ、個性の問題だとして許容してくれるのでしょうか。