なぜ学校から体罰がなくならないのか。
なぜ学校から体罰がなくならないのか。
この問いに対する答えは簡単です。
他に罰がないから。
それがすべてです。
窃盗や器物損壊といった、社会でもっとも基本的な犯罪に関しても罰のない世界、それが学校です。
十年ほど前、私の住む県のある小学校長が、児童の意図的に壊した公共物(2000円程度のもの)について弁償を家庭に求めたところ、それが新聞記事になりました。
もちろん賛成反対どちらに組しても批判の来そうな内容なので記事は論評抜きでしたが、新聞記事になるということ自体が、こうした場合の弁済を教育の場になじまぬものとする風潮のあることを示しています。
つい最近(1980年代)前まで日常的に存在した教師による生徒への撲打は、現在ではまったくといっていいほど行われていません。
罰として過剰な宿題を出したり山ほど漢字練習をさせたりすることも、主として人権擁護の立場からまったくといっていいほど見られなくなりました。
不登校の激増とともに、「忘れ物一覧表」や「宿題忘れ表」などが「子どもを継続的に傷つける道具」として認識され、これも使えなくなりました。
大声を張り上げて怒鳴ることも、子どもに無用な恐怖感を与えるということで抑制される方向にあります。
「居残り清掃」などは会議等によってやらせられない場合もあり、懲罰の不公平になりやすいのでなかなか行わせることができません。
かくして、学校から罰自体がなくなってしまいました。
そして教師はわからなくなってしまったのです。
私たちは今でも、「苦労して宿題をやってきた子とそうでない子の間には教師の対応に差がなければならない」と感じています。
不注意や遊び半分からものを壊したり、人を傷つけた生徒には何らかの罰が下されるべきだと考えています。
しかし社会は、そのように考えてはいないみたいなのです。
優しい言葉の指導以外、何のなすすべもない。
しかしその言葉が無力だったら・・・・・・。
忘れ物や宿題忘れは日常になり、いじめも防げない。教室は荒れまくり、授業も体をなさない。
言葉の指導が全く通用しなくなったクラスに対し、教師はあれほど嫌った体罰を持ち込む。
そえが普通の様相なのです。
ところで、誰の目にも異常な教師による生徒への暴行はどのようにして起こるのでしょう?
私たちは時に猛烈な生徒の挑発にさらされることがあります。
生徒たちは知っているのです。自分たちさえ捨て身になれば教師は何もできないということを。
生徒がどんなに悪いことをしても手も足も出せない、挑発されても黙っていなければならない
・・・・・・。
そうした猛烈なストレスに耐えかねた教師の一部が「キレる」とき、信じられないような体罰が起こります。
教師が職と生活をかけて体罰に走るのはそういうときなのです。