何のために校則はあるのか。
「本来は丁寧できめの細かい指導を必要とするのに、学校の教師は次々と『決まり』をつくり、決まりに頼って指導しようとする」
よく聞かれる言葉です。
大抵の教師は「冗談じゃない」思うでしょう。
校則があるがために教師は苦労させられています。なぜなら校則がある以上、守らせなければならないからです。
例えば服装の決まりひとつなくなっただけでも、教師の仕事はずいぶん楽になるでしょう。登校時間の定めがなく、いつ来ていつ帰ってもいいということになれば、怒る必要もない、家庭連絡の労もない、生徒に恨まれることもない・・・・・・。
しかしその上で、高い学力を、正しいマナーを、道徳心を、と求められても困ります。
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一般に校則と呼ばれるものには四つの意味があると考えられます。
まず第一は集団の秩序を守るためのものです。
「遅刻をしてはいけません」とか、「授業中は静かにしましょう」といった類のものがそれにあたります。ただしそれは違反があったとき、校則を盾に「ここに書いてあるからダメだ」といった言い方で指導するためのものではありません。そこに示されているのは行為の基準だからです。
第二に危険回避のためのものがあります。「ベランダに寄り掛かるな」「右側通行をしなさい」「廊下は走らない」などがこれです。これについては説明の必要はないでしょう。
しかしそれにもかかわらず、「そんな常識的なことまで校則にする必要があるのだろうか」という疑問は存在するかもしれません。それに対する答えはこうです。
「人は常識を覚えて生まれてくるわけではなく、学齢期になるまで、あるいは中学校入学までに、必ずしも全員が、常識を完成して入るわけではないから」
学校から校則を劇的に減らす方法はあります。
『常識にしたがって行動せよ』
この一文だけでもかまいません。
しかしそれは子どもたちが共通の『常識』を有している場合だけに言えることです。
もし彼らが健全な常識を持っているとしたら、小中学校に道徳教育はいりませんし、生徒指導などもなくなってしまうはずです。
三番目に平等を守るためということがあげられます。
中学校の場合、義務教育であるから原則的にすべての子どもが来なければなりません。そうである以上、学校はすべての子が来られるだけの条件整備をしておかなければならないのです。
学校給食はそのような理念のもとに始められたし、制服が長く存在価値を持っていることにはこのような意味もあります。弁当の中身によって生徒が無用な劣等感を持つことがないように、有名ブランドや高価なコートが買えなくても安心して学校に来られるように、そういった配慮が校則に盛り込まれているのです。
第四は、服装の乱れなどによって生徒個々の心の揺れを発見できるということがあげられます。誤解のないよう言っておきますが、だから校則をつくるというのではありません。付随的にそのような効能を持つという意味です。
「服装の乱れは心の乱れ」という言葉は教師によって好んで使われ、それだけに批判の多いものです。もちろん服装が乱れれば心が乱れてくるというものではありませんし、どんな服装をしていてもしっかりしている人はいます。
時には、すべてに完璧なまでにことを行い、さらに学校批判の立場から服装にまで自己の主張を込めて私服登校するというような、すさまじいエネルギーと能力を持った生徒もありますが、それは極めて特別な例です。
一般的には、学業や部活動に熱中している生徒は服装のことなどにあまり気をつかいません。
また、普通の生徒は校則に多少の不便や不合理を感じても、教師や親の指導と対決し、同級生や世間の冷たい視線に耐えてまでそれを行なうことはしません。子どもだって時間にもエネルギーにも限界があり、「服装の決まり」に挑戦することは、けっこう面倒なことだからです。
しかしそれにもかかわらずあえて校則に挑戦するような生徒とはどのようなものなのでしょう。
服装に異状が生じたり髪が赤くなってきたりしたとき、教師はとりあえずその生徒の心を怪しんでみます。この子は髪を染めることで何を表現しているのだろう、と。
もしかしたら「勉強が分からなくなってきたよ」「勉強に身が入らないよ」と叫んでいるのかもしれません。あるいは「学校内で『その他大勢』になるのはイヤなんだ」「目立っていたいよ」「非行に走っちゃうよ」と言っているのかもしれない。あるいは「ボクを見ていて、じっと見ていて、ボクだけを大事にしていて」と叫んでいるのかもしれません。
経験を積んだ熱心な教師なら、必ずそこになんらかの問題を発見し、それに対処し援助しなければならないと考えるでしょう。
子どものサインを見落とすなという言い方がありますが、服装の乱れはまさにこの「サイン」なのです。同時に40人近い児童生徒を前にして、その気持ちの揺れを発見しようとすれば、サインの発信装置は多ければ多いほどよい。服装や 髪型などに関する規定は、その中でももっとも有効な装置なのだ、と私たちは考えてきました。
さてそれらの基準は学校ごと統一され明文化されなければなりません。
個々の担任が自らの判断によって「級則」とも言うべきクラスの決まりをつくりはじめると、そこに不公平が生じるからです。またよほど担任が豪腕でない限り「自分のクラスの厳しい基準」より「隣のクラスのゆるい基準」の方が優先されますから、成文化されないと、結局学校全体のレベルは著しく低下してしまうという事情もあります。
その結果がああした大量の「校則」ということになります。
繰り返し申し上げます。
校則は結局ひとことでも良いのです。
「常識にしたがって行動せよ」