なぜ子どもたちは勉強をしなくなったのか
それではなぜ子どもたちは勉強をしなくなったのでしょう。
それについては
などさまざまな意見があります。
しかしこの20年あまり、継続的に子どもが学習しなくなっている現実を考えると、受験科目の減少や受験圧力の軽減が不勉強の理由とは考えにくい面があります。
私は数年前に「子どもたちは何故勉強しないのか」というテーマで研究論文を書いたことがあります。同じテーマでの研究論文は結構あるのですが、大学の先生たちもかなりマスコミに毒されてるようで、「それは学習方略を知らないからだ(先生が勉強のやり方を教えてくれないからだ)」とか「生徒が学習に対して成績目標的な考えを持っているからだ(学校が成績至上主義で、子どもたちが順位を上げるために学習するという間違った目標を持つようになったからだ)」といった的外れなものばかりです。
現場の教師でそんなことを考える人はそうはいないでしょう。
子どもたちが勉強しないのは、「そんなに勉強して、一体何になるの」という問いに誰も答えてくれないからです。
もっと簡単に言えば「そりゃあ勉強ができた方がいいに決まってるけど勉強って結構大変じゃん。そんなに頑張っていい学校に行ったって、本当にいいことあるの?
ボクの兄貴は頭良くって一流大学まで行っちゃったけどサ、さんざんバカやって高校中退しちゃった隣のアンちゃんの方が、いい車持っていい女連れて、よっぽどいい生活してる。これってどういうこと?」ということです。
「努力しても大した意味はなさそうだから勉強しない」
そこで私は「大した努力もしないで、いっぱいのご褒美がもらえたら、子どもは勉強をするのかもしれない」と、ごく当たり前の仮説を立てて実験をすることにしました。
実験対象は小学生。教材は漢字です。
その漢字テストを行うのに「100問中10問出題する」から始まって「50問中10問出題」「40問中10問出題」へと次第に下げて行くのです。どこまで下げたら子どもは「やる気」を出すのだろうか?
結果は、 驚いたことに「20問中10問出題」というレベルまで下げないと、「やる気」は出て来ないのです。
もう一つ行った実験は「ご褒美」があれば子どもは勉強をするのかというテーマでしたが、こちらの方は呆れるほど簡単でした。ほんとうにあっという間に子どもたちは「やる気」を起こしてしまうのです。
つまり、子どもは「何のために勉強するのか」という目的をしっかり持っていて、なおかつ目的獲得のための努力が少なければ少ないほど、やる気を出す、ということになります。
でも、実はこの実験には「オチ」があって、こうした方策によって「やる気」をもって家に帰ったはずの子どもたちのうち何人かは、それにもかかわらず翌日、テスト勉強を全くしないまま登校してきました。
家に帰って「さあ、やろう」と思ったのだけれど、そこからやる気を失ったと彼らは言います。
でもほんとうにそうでしょうか?
そうではありません。
私の手元にはその子たちに関する別の資料があります。それによると彼らは日頃からほとんど学習する習慣を持っていない子たちだったのです。
最後の実験で「やる気」を持って家に帰り、家でしっかりと学習してきたのは、やはり日頃からガンガン宿題をさせられている子やきちんとした学習習慣のある子たちだけです。
勉強は「やる気」があってもダメなのです。
お蔭で私の研究論文は大学の書庫の奥に、装丁だけやたら立派なまま眠ることになってしまいました。
「やる気」だけではダメ、が実験結果ですが、しかし「やる気」がないとやっぱりどうしようもないので、しかたなくそれ以来、私は「何のために学習をするのか、子どもが納得できるかたちで提示すること」を一つのテーマにしてきました。
なかなか難しいテーマです。
かつてわが国がそうであったように、そして多くの国々が現在もそうであるように、豊かさが学問の目標である社会は今も存在します。
歴史的に見ても江戸中期以降、学問は一貫して豊かさの手段でした。そしてそのもっとも顕著な例を、私たちは高度成長期にみることができます。
「一流の高校から一流の大学、そして一流の企業へ」というコースは、幸せを保証するものではありませんでしたが、豊かさだけは保証しました。
勉強をすれば豊かになれる、しなければ貧しいまま終わるという状況は、今日一生懸命勉強して明日宿題のない安逸を貪るか、それとも今日を怠けて明日、大量の宿題を感受するか、といった二者択一と同じです。
私の研究は、こうした現実的で打算的、しかし同時に切実でもある目標のためには、今も子どもたちが意欲を燃やす可能性を示しました。
しかし「生活の向上のために学ぶ」という時代は、日本の場合すでに終わってしまっています。
現代はもはや「食う」ために学問が必要とは思われない時代なのです。それは脅迫的に学習をさせられた状況から初めて自由になったとも言えますが、だからといってそれで子どもたちの幸せにつながったかどうかは疑わしいところです。なぜなら、学校は相変わらず機能しており、学習をしなければならない状況に変化はないからです。
私たちはしばしば子どもに対し、「勉強をするのは結局自分のためだ」とか「勉強をしないで困るのは結局自分だ」といった言い方をしますが、子どもはその意味を解しません。勉強しないで困るのが自分一人なら、何を苦労して今学ばなければならないのか、子どもはそう考えます。
子どもは結局「どのように学ぶか」ではなく「なぜ学ぶか」に苦しんでいるのであり、「食うために」に代わる価値を見つけない限りこの苦しみは続きます。新たな価値を見つけるまで、子どもたちは必要を感じない学習を行い続けなければならないし、大人もそれを強いなければならないのです。それはもちろん、両者にとって不幸なことでしょう。
何のために学ぶかの答えは、周囲の大人たちが、子どもとともに探してやらなければならないことなのです。